廃棄地区へ向かう道は、街の中心部を離れるほど舗装が荒れていた。路肩に積まれた古い配管には赤茶色の錆が浮き、解体を待つ倉庫の屋根では、風に煽られた金属板がときおり乾いた音を立てている。車窓の向こうにはホロウ外縁を示す警戒灯が並び、そのさらに奥で、灰色の空を不自然な色に染める光が揺らいでいた。
「ねえ、ハルマサ。まだ着かないの?」
助手席から蒼角が声をかけてきた。抱えているのは任務用の端末で、画面には目的地までの距離が表示されているのだが、本人はそれを見ている様子がない。むしろ端末の下に敷かれた、昼食用の包みの方を気にしていた。
「もうすぐだよ。あの角を曲がって、あとは一本道かな」
「じゃあ、お仕事もすぐ終わる?」
「そうだといいねえ。何しろ今日は、見るだけって聞いてるから」
「やった! 蒼角、早くごはん食べたい!」
「いや、仕事が終わったら、だからね」
浅羽悠真は苦笑しながらハンドルを切った。自分だって早く帰れるに越したことはないのだが、端末へ送られてきた概要を読む限り、簡単に終わるとは思えない。六課へ回ってきた依頼は、ホロウ外縁の観測値の乱れについての現地確認だった。ところが、その乱れが記録された場所を調べると、廃棄地区の地盤沈下によって、管理図面にない地下構造物が露出していることが判明したという。
地盤沈下だけなら、老朽化した地区では珍しい話ではない。古い倉庫の地下に図面の残っていない設備が埋まっていることも、十分あり得る。しかし、現地の調査員が撮影した写真には、倉庫の基礎とは思えないほど厚い隔壁が写っていた。しかも、その周囲だけエーテル濃度の変化が不規則なのだ。
耳元の通信機が鳴ったのは、車が最後の交差点を曲がったところだった。
『浅羽隊員、蒼角。聞こえますか』
「はーい。こちら悠真、もうすぐ現場ですよ。月城さん、せめて今日くらいは定時で帰りたいんですけど、どうにかなりませんかねえ」
『報告を提出していただければ、無用な残業を命じるつもりはありません。ただし、現場の安全確認を省略することは認められませんよ』
「ですよねえ。ま、期待してなかったですけど」
『それと、地下施設の所有者と用途については、まだ確認が取れていません。立ち入りが必要になっても、現地担当者と範囲を調整してください。施設の捜査は治安局の管轄にも関わります』
「つまり、怪しいからって勝手に家探ししちゃ駄目ってことですね」
『その表現は適切ではありませんが、認識としては間違っていません』
「ナギねえ、蒼角も分かった! 危ないものがあったら、勝手に触らない!」
『ええ。特に、知らないものを見つけても持ち帰らないでくださいね』
「うん! 拾い食いもしない!」
「そこまで言われてないと思うけどねえ」
通信の向こうで柳が小さく息をついた。悠真はそれを聞きながら車を減速させ、廃材置き場の入口に設けられた仮設の検問へ向かった。
*
現場に近づくと、地盤が崩れたというより、地面の下にあった何かが露出したように見えた。
廃材の山に囲まれた敷地の奥で、コンクリートが建物一棟分ほど陥没している。割れた舗装と土砂の間には白っぽい壁が覗き、そこから奥へ続く通路を塞ぐように、折れた鉄骨が積み重なっていた。調査車両の作業灯が照らす壁面には、廃棄地区の設備らしくない平滑な光沢が残っている。
「うわあ……大きな穴!」
「うん。しかも、ただの穴じゃなさそうだ」
悠真は車を降り、黄色い規制線の手前で待っていた担当者へ身分を示した。防護服の袖に乾いた泥を付けた女性が、手元の図面を開きながら説明してくれる。
「最初に沈下を確認したのは、ここの巡回作業員です。奥の構造物は、その後の安全調査で見つかりました。古い倉庫の資料は残っているんですが、地下二階に当たる部分だけ、どの図面にも記載がなくて」
「建物の建て替えで資料がなくなった、という可能性は?」
「もちろん調べています。ただ、以前の所有者まで遡っても、今のところ一致する記録がありません」
端末に表示された断面図では、倉庫の下に直線的な通路が何本も伸び、奥には複数の部屋らしい空間が連なっていた。倉庫の付属設備にしては妙に区画が細かく、しかも入口と考えられる部分には、一般的な防火扉よりはるかに厚い隔壁が使われている。
「ホロウが広がったときの避難設備ってわけでもなさそうですね」
「非常口を示す案内は、確認できた範囲では見つかっていません。地下の一部はエーテル濃度が安定せず、奥までは調査できていない状態です」
「なるほど。じゃあ、まずはその危険がどのくらいか見てみます」
悠真は携帯式の計測器を起動し、崩落口へ向けた。周囲の数値は警戒水準を大きく下回っている。だが、白い壁の内側へ計測方向を合わせると、表示された波形が細かく乱れた。外の空気が流れ込んだために濃度が変わったとしても、変動が起きている場所が狭すぎる。
「……月城さん、聞こえますか。外側は特に問題ないんですけど、地下の一点だけ数値が落ち着かないみたいです」
『記録を送ってください。局所的な漏出の可能性も考えられます。安全を確保できる範囲で確認し、原因を追って深部へ進むことは避けてください』
「了解。無理はしませんよ。残業は嫌いですからね」
「ハルマサ!」
蒼角が呼んだ。彼女は規制線の向こう側へ視線を向け、耳を澄ませている。
「下の方から、変な音がするよ」
「風が入ってるからじゃない?」
「うーん……風の音もするけど、別の音。金属をずるずる引っぱってるみたいな」
悠真も聞いてみたが、耳に入るのは風と、離れた場所で動く発電機の音ばかりだった。蒼角が感じ取ったものをそのまま証拠にすることはできない。それでも、彼女がこの手の現場で何も考えずに騒ぐわけではないことは、よく知っている。
「分かった。中へ入るなら、音のことも確かめてみようか」
「うん! もし誰か困ってたら、助けなきゃ!」
現地の責任者から許可されたのは、崩落口から最初の隔壁を越えた隣接区画までだった。ただし、安全を確認できた範囲に限る。さらに奥へ進むなら、構造を改めて調べる必要がある。悠真は端末へ立ち入り範囲を登録し、蒼角とともに土砂の間へ向かった。
*
地下へ降りるにつれて、空気の質が変わった。
崩れたコンクリートの粉っぽさに混じり、古い消毒液に似た刺激臭が漂っている。靴の裏に触れる床も、途中から粗い建材ではなく滑らかな樹脂へ変わり、壁際には非常灯らしい細い照明が残っていた。点灯しているものは少ないが、その淡い光だけでも、この場所が単なる物置ではなかったことは分かる。
「なんだか、病院みたいな匂いがするね」
「そうだね。お医者さんでもいたのかな」
「それなら、具合が悪い人を助けるお部屋?」
「そうだといいけど。まだ何も分からないからねえ」
悠真は壁に取り付けられた案内表示を撮影した。文字の大半は削れているが、区画番号らしい数字は読み取れる。廊下の両側には、外から鍵を掛けられるように見える扉と、配管の点検口が交互に並んでいた。ただ、いずれも扉の周囲が大きく歪み、実際にどんな施錠方式だったのかまでは判断できない。
「ハルマサ、ここ!」
先へ進みかけた蒼角が、足元を指した。
埃の積もった床に、細い筋が何本も走っている。まっすぐ並んだものもあれば、途中で曲がって壁の隙間へ消えているものもあった。幅はほとんど揃っていないが、全体として何かを引きずった痕のようにも見える。
「足あと……じゃないよね?」
「そうだね。靴の形には見えないな。壊れた配線を引っ張ったのかもしれないし、天井から何かが落ちたのかもしれない」
「じゃあ、踏まない方がいい?」
「そうしてくれると助かるよ。あとで調べる人が困っちゃうから」
蒼角は頷き、筋を避けて通路の端へ移った。悠真は写真と位置情報を保存し、床に落ちた配線の切れ端を目で追った。似た細さではあるものの、筋のすべてを説明するほどの量ではない。もっとも、天井が崩れた際に一部が別の場所へ落ちた可能性もあるため、今は記録しておくしかなかった。
曲がり角を抜けると、正面に大きな隔壁が現れた。
正確には、隔壁だったものが横倒しになっていた。片側の蝶番は引き千切られ、厚い板の中央には、金属を粘土のように引き伸ばした跡が残っている。扉の向こう側から強い力が掛かったように見えたが、すぐ横の壁も崩れているため、落下した建材による変形と区別することは難しい。
「ねえ。これ、中から誰かが開けたの?」
「そう見える?」
「だって、こっちに飛び出してるよ」
「うん。でも、上の天井も落ちてるからね。ここだけ見て、どっちから壊れたかは決められないなあ」
悠真はしゃがんで扉の断面を観察した。破断面に錆の浮いている場所と、比較的新しい金属光沢が残る場所が入り交じっている。何度か別々の力が掛かったのかもしれないが、崩落の前後関係さえ分からない状態では推測の域を出ない。
「月城さん、最初の隔壁まで来ました。だいぶ壊れてますけど、向こう側にも部屋がありそうです。計測値は今のところ許容範囲内。ただし、奥の天井は確認できてません」
『構造を確認できる範囲までにしてください。危険があれば直ちに引き返すように』
「はーい。蒼角ちゃん、足元に気をつけてね」
「ハルマサもね!」
倒れた隔壁を回り込むと、奥には作業台のような設備が三つ並んでいた。いずれも床へ頑丈に固定され、周囲には太い配線と管が幾重にも走っている。操作端末はすべて壊れ、照明も消えていたが、天井から垂れ下がった器具を見る限り、単に物を置くための台ではなかったらしい。
中央の設備には円形の台座があり、その上に載っていたはずのものだけがなくなっていた。
「ここ、何のお部屋?」
「さあ……。機械を組み立てる場所だったのかもしれないね」
「じゃあ、あそこに大きな機械があったの?」
「そうかもしれないし、最初から空いていたのかもしれない。周りの部品がほとんど壊れてるから、よく分からないな」
悠真は台座の側面へ計測器を近づけた。何度か不規則な数値が跳ねたが、危険域には至らない。それよりも気になったのは、台座と配管の接合部だった。灰色の金属が、ところどころ黒い樹脂のようなものと混じり合い、互いの境目を失っている。
「……蒼角ちゃん、そこには触らないで」
設備の脇を覗き込んでいた蒼角が、顔を上げた。
「どうして? これ、何かの糸?」
「糸に見えるけどね。何なのか分からないから、手で確かめるのはやめとこう」
金属板の縁からは、髪より太い黒い筋が何本も伸びていた。先端は壁の配管へ入り込み、樹脂と金属の区別がつかないほど一体化している。焦げや溶融痕はほとんど見当たらず、高熱で貼り付いたにしては妙な状態だった。
「くっついてるの?」
「そうみたいだね。接着剤にしては変わってるけど」
「ナギねえにも見せる?」
「もちろん。こっちの方が、数字だけ送るより分かりやすいかもしれないな」
悠真が写真を撮ると、通信機から柳の声が届いた。
『画像を受信しました。浅羽隊員、その黒い物質には接触していませんね?』
「ええ。近づいたのは計測器だけです。触ったら危なそうですし」
『それで正解です。施設自体の用途も不明ですから、採取は専門の調査班に任せましょう』
「了解。それで、こっちの設備ですけど……」
もう一枚写真を送ろうとしたとき、蒼角が何かを見つけたらしく、床の端へしゃがみ込んだ。
「ハルマサ、ここにも字がある!」
壊れた制御盤の下に、薄い金属板が落ちていた。半分ほど折れ曲がり、片側には黒い汚れがこびりついている。何かの銘板だったのだろう。蒼角は拾わずに指し示してくれたので、悠真はその場で拡大撮影した。
汚れの下から、三文字だけが読めた。
ARG
「……アルグ?」
「アルファベットだね。エー、アール、ジー。その先は、折れて読めなくなってるみたいだ」
「何の名前?」
「何だろう。会社の名前かもしれないし、型番の一部かもしれないね」
「ナギねえなら知ってるかな?」
「どうかな。でも、聞いてみようか」
悠真は銘板の画像と位置情報を送った。返信までの短い間、蒼角は銘板の周囲を覗き込み、ほかに読める文字がないか探していた。さきほどから腹を空かせているはずなのに、目の前の仕事には案外根気よく付き合ってくれる。
『確認しました。現時点では、登録されている施設名や設備の型式と一致するものを特定できません。破損している部分も含め、現地で保存できる状態にしてください。採取は後続の調査班へ依頼します』
「はーい。いっそ全部読めれば、話が早かったんですけどねえ」
『文字が読めても、施設の用途が確定するとは限りませんよ』
「それもそうか。……しかし、ここは本当に何なんでしょうね」
『だから調査しているのです。浅羽隊員、くれぐれも推測だけで報告書を作らないように』
「やだなあ、月城さん。そんな手抜き、するわけないじゃないですか」
柳から返事はなかった。たぶん、これまでの報告書を思い返しているのだろう。悠真はそれ以上の弁解を諦め、端末に撮影記録を整理した。
そのとき、奥の通路から硬い音が響いた。
蒼角が即座に顔を上げ、持っていた武器を構える。悠真も反射的に一歩退き、音がした方向へ計測器を向けた。通路の先では、ひしゃげた天井材から小さな破片が落ち、床の上で跳ねていた。振動は間もなく収まったものの、奥の隔壁を支えている梁がゆっくりと軋んでいる。
「……崩れてる?」
「みたいだね。蒼角ちゃん、ここまでにしよう」
「えっ、でも、まだ奥があるよ?」
「あるね。でも、あれをどかしたら、上まで落ちてきそうだ」
蒼角は隔壁の向こうと、歪んだ梁とを見比べた。彼女の腕力なら障害物を持ち上げること自体は可能だろう。しかし、どれが天井を支えているのか分からない状態で力を掛ければ、埋まっているものを確かめるどころではなくなる。
「……分かった。じゃあ、ほかの人が調べられるようにしておこう!」
「うん。そうしてもらえると助かる」
悠真は柳に撤収を連絡し、帰路を記録してから引き返した。振り返ったとき、壊れた作業台と、その周囲へ伸びる黒い筋が非常灯の弱い光に浮かんでいた。部品の一部なのか、後から付着したものなのか、それとも全く別の何かなのか。写真を残しても、答えが増えるわけではない。
それでも、蒼角が最初に聞いたという音だけは、少し気に掛かった。地下へ入ってからは崩落の音を何度も聞いたが、何かを引きずるような音の正体については、結局確かめられなかったのである。
*
外へ出ると、薄い雲の向こうから夕方の光が差していた。沈下した地面の周囲では、現地の担当者たちが規制範囲を広げる作業を始めている。旧倉庫街の搬入路にも安全確認の対象が及び、いくつかの道では通行を制限することになったらしい。
「ねえ、ハルマサ。ごはん、まだ?」
「……ああ、そうだった。報告を送ったら、帰ろうか」
「やった! 今日は蒼角、ちゃんと我慢できた!」
「うん。現場のものを勝手に食べなかったし、えらかったね」
「そこを褒めるの?」
「いやあ、月城さんに報告できることが増えてよかったよ」
蒼角は一瞬不思議そうな顔をしたあと、何を食べに行くか考え始めた。悠真はその横で端末を開き、現地で撮影した記録を送信する。登録のない地下施設、破損した隔壁、用途の分からない設備、黒い物質と金属の接合、そして『ARG』と読める銘板。見つかったものを並べてみても、肝心の施設名も所有者も分からないままだった。
『報告を確認しました。追加調査については治安局と調整します。浅羽隊員、蒼角。お疲れさまでした』
「お疲れさまです、月城さん。これで無事に上がれそうですね」
『帰庁後の報告書は忘れないでください』
「……ですよねえ」
通信が切れると、蒼角が肩越しに端末を覗き込んできた。
「ハルマサ、まだ帰れないの?」
「帰れるよ。書類は、まあ……ごはんのあとにしようか」
「うん! じゃあ早く行こう!」
悠真は車へ向かいかけ、端末に新しい通知が届いたことに気づいた。現地の担当機関から、旧倉庫街の道路情報が更新されたらしい。画面を開くと、地図の一角が黄色く塗られ、規制線の外側にも小さな注意表示が増えていた。
《旧倉庫街東側 通信状況不安定》
《一部搬入路 安全確認中》
《通行・配送経路の変更に注意》
「……ああ、こっちにも影響が出ちゃったのか」
迂回路を確認すると、普段ならすぐ隣の区画へ抜けられる道が使えず、大きく遠回りする必要がありそうだった。貨物車や配送用ボンプにとっては面倒な話だろう。もっとも、道路を使わせるために安全確認を急がせるわけにもいかない。
悠真は警告が出ている範囲をもう一度見た。表示上は、崩落した施設の真下から伸びる古い搬入路と重なっている。しかし、地上の通信障害と地下の設備に関係があるとは、まだ誰にも言えない。
「ハルマサ? どうしたの?」
「んー、何でもない。道がちょっと混んでるみたいでさ」
「じゃあ、お店が閉まっちゃう前に出発しよう!」
「そうだねえ。……あ、その前に一件だけ」
悠真は地図の更新情報を、地下施設の調査記録へ添付した。受信状況の悪い場所をあらかじめ知らせておけば、後から入る調査班にも役立つはずだ。
報告の末尾には、柳の指示に従って書いた一文が残っていた。
《収容物の有無および所在は未確認。施設外への移動の有無も不明。》
その文面を読み返していると、背後からまた金属の擦れる音が聞こえた。廃材置き場ではありふれた響きだったので、悠真は振り返る代わりに、風向きと崩落口の安全を確かめてから車へ乗り込んだ。