新しい右腕が付いた日の午後、俺はその手で何かを修理するより先に、行方不明のボンプを捜すことになった。
グレイが受付台へ表示した配送会社からの連絡には、旧倉庫街の地図と、通信の途絶えた時刻が記されている。最後の定時報告は配送先への到着を知らせるもので、そこから帰路に移った記録がないという。周辺では地盤沈下に伴う通行規制が始まっており、ホロウの外縁に近い道路の一部が黄色く塗り潰されていた。
「ンーナ……。(ブルースの仲間がね、会社へ知らせたあと、うちにも連絡をくれたんだ。最近はよくここへ寄ってたからって)」
「NnnA。(……ブルースって、あの青い配送の子の名前?)」
「ンナナ。(そうさ。君が右腕を直した子だよ。覚えてるだろう?)」
覚えているどころではない。俺が充電切れ寸前で動けなくなりかけたとき、故障した右腕を抱えながら工具箱を運んでくれた相手だ。仕事を休みたくないと頑張っていたことも、修理代を払うと言ってなかなか引き下がらなかったことも、よく覚えている。ただ、そのときに名前を聞きそびれたらしい。
「NnnA。(……ちゃんと聞いておけばよかった)」
「ンーナ。(名前なら、今覚えたじゃないかい。それより、こっちを見ておくれ)」
グレイが受信記録を開くと、ブルースから届いた短いメッセージがいくつも並んだ。広場で使う部品の運搬を申し出たものや、修理に使えそうな中古品についての連絡まである。ワナビーが俺の右腕を作るために集めた部品の中にも、彼が運んだものがあったらしい。
「ンナ。(手伝ってくれた)」
「NnnA。(……俺、全然知らなかったな)」
ワナビーは否定も肯定もせず、ブルースの最後の報告地点を地図へ重ねた。端末を傾ける小さな丸い手は落ち着いており、画面の上では通行できる道と規制された道が色分けされていく。俺はさっき右肩の奥で起きた妙な反応を思い出したが、画面に映った場所と関係があるのかどうかは分からなかった。新しい腕の制御は正常で、外付けの灰色の指も、こちらが動かそうとしたときにだけ曲がる。それより内側のことになると、エンゾウさんでも原因を特定できていない。
「NnnA。(会社の方では、もう捜してるんだよね?)」
「ンーナナ。(ああ。最終報告地点と配送先の確認を進めてるって。周辺の担当機関にも連絡済みだそうだよ)」
画面の一番下には、関係者による規制区域への立ち入りを禁じる注意書きがあった。何か役に立てることはないかと思っていたが、肝心の居場所が分からない以上、俺の触手で直せるものもない。だからといって、その辺りの柵を越えて捜しに行くのは、助ける側の仕事を増やすだけだろう。
「ンナナッ。(その道なら、昔の図面があるぞ)」
声をかけてきたのは、広場の通路整備を手伝っている緑色のボンプだった。外装には長年の仕事で付いた細かな擦り傷が残り、片側の耳には補強板が当てられている。彼は端末を受付台へ置くと、今の地図よりずっと細い線の入った古い道路図を表示した。
「ンナッ。(この辺りは昔、貨物の積替場だったんだ。今の道路ができる前は、倉庫の裏にも搬入路があった。使えるかどうかは別だけどな)」
「NnnA。(……詳しいんだね。あの、そういえば名前を聞いてなかった。教えてもらっていい?)」
「ンナ?(俺か? フルカブだ。倉庫じゃ古株だったんでな。いつの間にかそう呼ばれるようになった)」
「NnnA。(フルカブ。ありがとう。今まで聞かなくてごめん)」
「ンナナッ。(謝るほどのこっちゃねえよ。俺の名前より、こっちをちゃんと覚えとけ。昔の道が今も通れると思って突っ込むなよ)」
フルカブは図面の外れにある交差点を丸く囲んだ。そこなら現在の通行情報でも規制の外にあり、旧積替場へ続く道を離れた位置から見られるらしい。俺たちは配送会社へブルースの整備記録を送り、救助時に注意が必要かもしれない彼の右腕の負荷条件も伝えたうえで、そこで得られる情報だけ確かめに行くことにした。
グレイは留守番を引き受けてくれたものの、俺が工具箱を台車へ積もうとすると、灰色の右腕へ目を向けた。
「ンーナ。(ナロー、今朝付けたばかりの腕で重いものを運んじゃいけないよ。エンゾウさんに言われただろう?)」
「NnnA。(分かってる。これは念のための工具で、台車は左で引くよ)」
「ンナ。(私も引く)」
ワナビーが反対側の取っ手を押さえた。グレイはそれを見て、なお念を押した。
「ンーナナ。(それから、危なくなったら帰っておいで。地図はここでも調べられるんだからね)」
俺たちは頷き、午後の光が差す六分街を抜けて旧倉庫街へ向かった。
*
通行規制の始まる交差点には、すでに黄色い回転灯を載せた作業車が停まっていた。
古い倉庫の壁面には雨水の筋が幾重にも残り、路肩の排水溝からは湿った埃と錆の匂いが上がってくる。遠くでは大型車が迂回路へ曲がるたびに警告音を鳴らしていたが、規制線の先は驚くほど静かだった。建物に遮られているだけかもしれない。それでも、普段の街と違う空気の中へ踏み込んだようで、自然と足が遅くなる。
俺たちは係員へ端末を示し、配送会社から連絡を受けたことと、ブルースを以前修理したことを説明した。青いボンプの整備記録は会社経由で現場にも届いていたらしく、若い係員は画面を確認すると頷いてくれた。
「ご協力ありがとうございます。現状、こちらでも周辺の安全確認を進めています。ただ、規制区域の中はまだ入れません。情報を探すなら、この交差点から見える範囲までにしてください」
《分かりました》
《立ち入りません》
「もし何か見つかったら、勝手に近づかずに知らせてください。通信が不安定なので、連絡が取れなくなった場合もすぐ戻ってきてくださいね」
俺は頷き、ワナビーが示した古い道との分岐へ向かった。旧積替場の入口は、シャッターを下ろした倉庫の裏にあった。ひび割れた路面には小さな車輪の痕が残り、その先には屋根付きの古い充電設備が見える。規制線よりこちら側にあるものの、片方の充電口には使用停止の札が掛かっていた。
「NnnA。(ブルースなら、帰り道でここに寄ったかもしれないな)」
「ンナ。(仲間の話)」
ワナビーが画面を向ける。ブルースの同僚から追加の返信があり、仕事帰りにこの辺りで充電したことが何度かあるという。ただし、今日は利用したという記録がなく、足跡を見つけた程度では居場所を絞れない。
俺は充電設備の側面に付いた青い塗料のような傷を見つけたが、ワナビーは写真を撮るだけに留めた。青い機体なら珍しくないし、何より、その傷がいつ付いたのか分からない。俺たちが欲しい答えを先に決めてしまえば、何でも手掛かりに見えてしまうのだろう。
奥へ続く通路には新しい柵が設けられていた。黄色い灯りが黒い格子に反射し、その向こうでは地面の一部が隆起している。俺は柵に近づく手前で立ち止まり、もう一度地図を確かめた。
「NnnA。(……ここまでだな。戻って、見えたことを報告しよう)」
「ンナ。(うん)」
台車の向きを変えかけたとき、右肩の奥が小さく震えた。
新しく付けた腕ではない。金属製の指は静止したままで、制御系にも警告は出ていなかったが、外装のずっと内側から、何かを掴もうとするような感覚が伝わってくる。柵の先には崩れた建材しか見えないのに、そちらへ触手を伸ばしたくなる衝動だけが妙にはっきりしていた。
「NnnA……。(……また、これか)」
「ンーナ?(腕?)」
「NnnA。(内側の方。今は動かしてないし、大丈夫だと思う)」
ワナビーは俺の右肩を一度見上げ、端末へ現在の時刻を記録した。何が原因か分からない以上、次にエンゾウさんへ相談するときのためにも記録はあった方がいい。俺も意識して触手を引き留めようとしたが、そうしているうちに端末の通信表示が一瞬乱れた。
《近距離緊急送信を受信》
《発信元 ブルース》
《信号強度 低》
「NnnA!(ブルース!)」
ワナビーがすぐに受信記録を保存し、返信用の回線を開いた。向こうから届くのは途切れ途切れのボンプ語と、何か硬いものが擦れる音だけである。それでも数回目の呼びかけで、聞き覚えのある声が戻ってきた。
『……ン、ナ……?(……ナロー……?)』
「NnnA!(そうだ! 俺だ! 今どこにいる?)」
『……ンナ……。(……道、塞がって……)』
雑音が長く伸び、続いて低い破裂音が聞こえた。端末からだけではない。足元の舗装にも微かな振動が伝わり、古い充電器の表示灯が一度だけ白く明滅した。
『ンナッ……!(……そこから離れろ!)』
「NnnA……!(……え?)」
『……ンナッ!(離れろ!)』
ワナビーが俺の左腕を掴んだ。
「ンナ!(戻る!)」
彼女の声はいつもより強かった。俺は頷き、返事を待つのをやめて台車を引き始めた。曲がり角に差しかかったところで背後から金属の破裂する音が響き、振り向くと、充電設備の屋根が片側へ傾いていた。隙間から褐色の粉塵が噴き出し、足元の水溜まりには細かな波紋が広がっている。
「NnnA。(……さっきまで、あそこにいたのに)」
「ンナ!(歩く!)」
「NnnA。(……うん。ごめん)」
正しくは歩くより急いでいた。工具が台車の中で跳ね、古い車輪が舗装の継ぎ目を越えるたび嫌な音を立てる。新しい右腕で荷台を掴みたい気持ちはあったが、荷重制限を思い出して左手の位置を直した。ワナビーが反対側を押してくれたおかげで、何とか工具を落とさず交差点へ戻ることができた。
係員が規制線から駆け寄ってきた。
「いま奥で大きな音がしましたよね。怪我はありませんか?」
俺はすぐに首を振り、ワナビーと一緒に受信記録を渡した。青い配送ボンプと会話できたこと、彼が危険を知らせてくれたこと、それから古い充電設備の近くで崩落が起きたことを端末へ表示すると、係員の表情が変わった。
「……この通信、残ってるんですね。すぐ担当者へ回します。あなたたちは、こちらで待っていてください」
連絡を受けた作業車が二台到着し、俺たちが通った道にも新しい規制線が張られた。車両から降りた人たちは計測器を手に現場へ向かい、離れた位置から地面の状態を確かめ始める。ブルースが助けを求めるより先に、こちらを危険から遠ざけようとした理由がようやく分かった気がした。
あいつは、どこかで今の振動を感じていたのだろうか。
それとも、俺たちの近くで何が起こるか、別の方法で知ったのだろうか。答えを考えても仕方がなく、俺は通信履歴に残ったブルースの名前を見つめた。少なくとも、通信ができる状態でいたことだけは確かだった。
*
現場の担当者がやって来たのは、それからしばらくしてのことだった。
反射材の付いた上着を着た女性で、端末には旧倉庫街の地下設備を示す図面が開かれている。彼女は俺たちの記録を確認すると、ブルースからの信号が地上の通信局だけでなく、古い設備の金属配線を経由して届いている可能性があると説明した。
「旧積替場の地下には、保守用の通路がいくつかあるようです。ただ、いま残っている管理図面では、途中から先の構造が分からないんです」
《古い図面を持っている者がいます》
《確認してもらえますか》
ワナビーがフルカブの情報を転送すると、担当者は画面を拡大した。驚いたことに、いま使われている図面では通路が行き止まりになっている場所に、古い貨物用の待避室が描かれていた。そこは以前、作業用ボンプが天候不良や搬入待ちの際に一時休止する区画だったらしい。
「……この部屋、こちらの資料には載っていませんね。どなたから?」
《元倉庫勤務のボンプです》
《今も広場にいます》
「もし可能なら、詳しいことを聞かせてもらえませんか。こちらから連絡を取っても大丈夫でしょうか」
グレイへ確認すると、フルカブはすでに昔の資料を引っ張り出しているという。グレイはライドセルの入力先をフルカブの発声に切り替え、表示された翻訳候補を本人と確認してから、担当者との連絡を引き受けてくれた。いつもの耳慣れたボンプ語ではなく、通訳装置の落ち着いた音声が端末から流れてくる。
『そこの待避室は、昔の貨物積替場のものだ。奥へ行くには地下の防火扉を通る。地上の充電設備と配線で繋がってたはずだが、今も生きてるかは知らねえ』
「非常時の通信設備は?」
『非常信号器があったな。古い設備だから、今の機体と同じ方式で動くかは怪しいが』
担当者は礼を言い、送られてきた情報を救助班へ転送した。その間にワナビーは、俺たちが通信を受けた位置と時刻、信号の強さを整理している。端末上では、実際に歩いた場所と受信地点に印が付き、古い図面へ重ねられていった。これで居場所が分かるわけではないが、確かな情報と推測を分けるだけでも、むやみに捜すより役に立ちそうだった。
仮設アンテナが設置され、救助班が通信を中継し始めると、ようやくブルースの声が聞こえてきた。
『……ンナ……。(……まだ、そこにいるのか)』
「NnnA!(ブルース、聞こえる! 俺たちは安全な場所に戻った!)」
ワナビーが同じ内容を文字で送り、担当者の中継装置からも送信する。どちらが届いたのかは分からなかったが、しばらくして返事があった。
『……ンーナ。(……よかった。あそこ、また揺れる)』
「NnnA。(そっちはどこ? 動ける?)」
『……下。荷物……待つところ。……脚が、挟まった』
ワナビーが古い図面の待避室を示した。担当者はそこに印を付けたものの、まだ確定した位置としては扱わなかった。通信の経路が複雑なら別の地下区画から届いている可能性もあるという。
「NnnA。(……電池は?)」
『……少ない。右腕は……大丈夫。……直してもらった、から』
俺は自分の右手を見た。今朝付けてもらったばかりの灰色の指が、知らないうちに強く曲がっている。あいつが右腕を直してもらったおかげで少しでも動けたのならよかったと思うが、脚を挟まれ、電力まで減っている相手に感謝されても、素直には喜べなかった。
「NnnA。(……無理して動くなよ。今、助ける人たちが場所を調べてるから)」
『ンナ……。(……仕事、終わったのに。……帰れない)』
「NnnA。(……帰れるよ。今、捜してる)」
俺に確約できることではない。それでもほかに返す言葉を探しているうちに通信が細くなり、最後は雑音だけになった。担当者は保存した音声を確かめ、待避室へ通じる点検口の位置を改めて確認していた。
やがて救助班から、古い通路へ小型の調査機を入れるという連絡が入った。人が潜るには地盤が不安定で、まず内部を確かめる必要があるらしい。現場で使われる機材も、古い図面も、俺にはほとんど分からない。けれど、危険だからこそ順番に確認していく彼らの仕事を見ていると、自分ができることと、任せるべきことの区別が少しは分かる気がした。
*
最初の調査は、防火扉の前で止まった。
作業車のモニターには、狭い地下通路を斜めに塞ぐ金属製の扉が映っている。扉の下には小さな隙間があったが、調査機が通れるほどではなく、脇の制御盤は水を被って白い結晶を吹いていた。生きている配線もあるようで、無理に扉をこじ開ければ感電や設備の破損を招く恐れがあるらしい。
「電気を切ってから制御盤を確かめます。ただ、奥から別の回路が回り込んでいないかも調べないといけません」
責任者がそう説明したあと、測定が始まった。待っている間、俺は画面に映った古い端子の形を眺めていた。腐食した部品を交換すれば動くのかもしれないが、地下へ入って直していい状況ではない。今の俺にできるのは、責任者から送られてきた静止画像を拡大し、どの部品が故障していそうか意見を伝えることくらいだった。
結局、電源を遮断してから調査機の細いアームを差し入れ、制御盤の蓋を開くことになった。ところが作業の途中で映像が乱れ、機体の片側の車輪まで動かなくなる。引き戻された調査機は泥と細かな砂を被り、片側の駆動軸から不規則な音を立てていた。
「……参ったな。予備機は別の場所を調べてるんだが」
責任者の呟きを聞いて、俺は端末を取り出した。
《機械の整備なら手伝えるかもしれません》
《ここで、点検してもいいですか》
責任者は俺たちの工具箱を見たあと、少し考えた。
「会社から修理の記録を受け取っています。安全確認の済んだこの場所でなら、お願いできるかもしれませんね。触ってよいのは取り外した駆動部だけです。まずこちらの整備員と一緒に確認してもらえますか」
許可が出たので、俺は台車の上へ工具を並べた。新しい右手は細かな部品を押さえるのに便利そうだったが、まだ力加減に自信がない。そこで左手で筐体を支え、必要な場所だけ触手を一本伸ばすことにした。黒い細いものが背中から出てくると整備員は驚いたものの、用途を端末で説明すると、目の前の機械へ視線を戻してくれた。
「変わった工具ですね。……あ、そこはまだ開けないでください。先に電池を外します」
《分かりました》
指示に従って電源を切り、壊れた部品だけ取り出す。車輪には細かな砂が噛み込んでいただけだったが、駆動部の配線は根元で切れかけていた。触手を接点へ当てると、断線した箇所の形と、金属が疲労している部分が自然に分かった。足りない導線を継ぎ足し、絶縁材の浮いたところを整える。内部の制御系まで感覚を伸ばしたくなったものの、許可された範囲はここまでなので、意識して触手を引き戻した。
「……つながりましたね。じゃあ、こちらで試験します」
整備員が電源を入れると、調査機の車輪が滑らかに回り始めた。責任者は画面を確認し、救助班へ機材を引き渡す。俺が本当にしたのは小さな配線の修理だけだったが、それでも次に進めると分かると、少し肩の力が抜けた。
「助かりました。引き続き、こちらで救助作業を進めます」
「NnnA。(……お願いします)」
俺が短く返事をすると、ワナビーも端末へ《お願いします》と表示した。責任者はそれを確かめ、頷いてモニターへ向き直った。
再び地下へ入った調査機は、修理した車輪で防火扉の前まで進み、開いた制御盤に作業用アームを差し込んだ。隔離が確認された回路を切り離すと扉の固定が緩み、救助班が外から操作したワイヤーによって、機体一台が通れるだけの隙間ができる。細いライトがその奥へ差し込んだ瞬間、ワナビーが俺の左腕を軽く叩いた。
「ンナ。(あそこ)」
画面の奥には小さな待避室があった。壁には古い標識が残り、床には倒れた荷台が横たわっている。その荷台の下から、青い耳が僅かに覗いていた。
「NnnA……。(……ブルース)」
右腕を一つ、持ち上げようとしている。俺が直した方の腕だった。映像が揺れるたびその手が床へ落ち、また動くのを見ているうちに、胸の奥が落ち着かなくなる。電池残量の表示はかなり低いらしく、救助班はすぐに無線を送り、動かずに待つよう指示した。
《確認した》
《今から荷台を持ち上げる》
《無理に脚を引き抜かないこと》
ブルースは短く耳を動かした。言葉に返す余裕も少なくなっているのだろう。調査機が床の状態を測り、救助班は近くの点検口から慎重に支柱を差し入れていく。人の手が届く場所まで荷台を持ち上げるには、まだ少し時間がかかりそうだった。
そのとき、モニターの端に黒い筋が映った。
倒れた荷台の側面から壁へ伸びる、細い糸のようなものだった。汚れか配線だと思っていたが、ライトが横から当たっても輪郭がはっきりせず、金属の表面へ入り込んだような部分がある。映像が拡大されると、筋と荷台との境目はさらに曖昧になった。
右肩の奥が、また震えた。
今度は、単なる振動では済まなかった。あの黒い部分へ触手を伸ばせば、何かが分かる。そう思った覚えがないのに、身体の内側から、そこへ繋がろうとする方向だけが押し寄せてくる。背中の外装が僅かに持ち上がり、触手の先が隙間から覗いた。
「NnnA……ッ。(……やめろ)」
「ンナ!?(ナロー?)」
俺は反射的に右腕の停止操作へ触れた。新しい腕の制御表示は正常なままで、押せば灰色の指が動かなくなるだけだ。それでも何もせずにはいられず、左手で外装を押さえて、背中へ伸びかけた触手を引き戻した。
その間にも、モニターの中では救助作業が進んでいた。誰もこちらを見ていない。ワナビーだけが俺の横へ回り、肩の外装と表示灯を交互に確かめている。
「NnnA。(……大丈夫。新しい腕じゃない。こっちが、勝手に……)」
そこまで言ったところで、視界の端に電力警告が点いた。
わずか数秒の間に、本体の蓄電量が目に見えて減っている。触手を動かしたせいだろうか。けれど、普段の修理で使う量とは比べものにならない。俺が原因を調べようとすると、ワナビーは首を振り、充電残量の記録を保存してから、まず座るように指示した。
「ンナ。(休む)」
「NnnA。(……分かった)」
俺は作業車の脇に置かれた低い台へ腰を下ろした。右腕の外装には傷がない。背中へ引っ込めた触手も、それきり勝手に伸びてはこなかった。ただ、右肩の奥には何かを掴み損ねたような感覚が残り、モニターの中で黒い筋が見えるたび、その感覚が僅かに強くなった。
救助班が荷台を持ち上げたのは、その少しあとだった。
支柱で荷重を受けたまま隙間を広げ、傷んだ脚を保護具で固定する。ブルースの身体を傷つけないよう慎重に運び出す作業は、モニター越しでも息が詰まりそうだったが、やがて青い機体が安全な搬出口へ移される様子が映った。周囲の人たちが連絡を取り合い、回収用の台車が点検口へ寄せられる。
「……救助できました。これから地上へ引き上げます」
責任者が告げた途端、俺の隣でワナビーが耳を立てた。何か返事をしたかったのだろうが、口から出たのは短い電子音だけだった。俺も似たようなもので、画面に映った青い外装を見つめたまま、まともな言葉が浮かばない。
救助班が運んできたブルースは、脚の一部がひどく歪み、外装にも擦り傷が増えていた。胸元の電源表示は危険域に近いが、応急用の電力供給を受けると、顔面の表示にぼんやりと明かりが戻った。会社の担当者が駆け寄り、整備工場への搬送準備を始める。
俺たちは邪魔にならない場所から見ていたのだが、ブルースは台車へ乗せられる直前、こちらに気づいたらしい。動く方の右腕を少しだけ持ち上げた。
「ンーナ……。(……いた。ちゃんと、いた)」
「NnnA。(……いるよ。おかえり、ブルース)」
「ンナ……。(ただいま。……荷物は、届けた)」
「NnnA。(それはもう十分だって。今は修理してもらえよ)」
ブルースは不満そうに耳を揺らしたが、言い返すだけの電力は残っていないらしく、すぐに顔面の明かりを落とした。会社の整備員が状態を確かめ、脚の修理と電源系の点検が済むまでは仕事へ戻せないと説明する。俺はその言葉を聞いて、少し安心した。あいつに任せていたら、帰ってきた翌日にも配送を始めかねない。
搬送車が出ていくまで見送ったあと、現場の責任者が俺たちのところへ来た。
「古い図面、本当に助かりました。あれがなかったら、待避室を見つけるまでずっと時間が掛かったと思います。調査機の修理もありがとうございました」
《こちらこそ、助けていただいてありがとうございました》
《図面を持っていたボンプにも伝えます》
責任者は頷き、周辺の立入規制がしばらく続くことを教えてくれた。地下にある古い設備には不明な部分が多く、崩落の原因も完全には分かっていないという。
俺はもう一度、気になっていた映像のことを尋ねた。
《待避室の荷台に、黒い筋のようなものがありました》
《調査対象になるでしょうか》
「確認はします。救助の際に撮影した映像も残っていますから。ただ、現時点では何なのか分かりません。何か心当たりがありますか?」
その問いに、すぐ答えられなかった。俺自身の身体の中に、似たような黒いものがいくらでもある。だが、あの場所の筋と同じものかどうかは分からないし、今の俺には自分の触手の仕組みすら説明できない。
《映像で見ただけです》
《金属との境目が分からなく見えました》
「分かりました。調査担当にも共有します。今日はもう帰って休んでください」
俺たちは礼をして、台車を押しながら規制線の外へ戻った。
*
六分街へ帰り着いた頃には、店先の明かりが夜道に滲み始めていた。
閉店準備をする店から油と温かい料理の匂いが漂い、舗装の上には行き交う車のライトが細長く伸びている。朝にはただの重い荷物だと思っていた工具箱も、今は何となく置き場所に困るほど大事なものに感じられた。ほんの少しの部品と、古い図面と、何人もの仕事が重なって、ようやく一体のボンプが帰ってこられたのだ。
広場の入口には、グレイとフルカブが待っていた。
「ンーナナ!(お帰り。二人とも、無事だったんだねえ)」
「NnnA。(ただいま。心配かけた)」
「ンナ。(ただいま)」
「ンナッ。(ブルースはどうなった?)」
「NnnA。(救助されたよ。脚の修理が必要だから、しばらく会社で休むことになるって)」
ワナビーが救助完了の通知を見せると、二体は揃って耳を動かした。グレイは安心したように受付台へ戻り、ブルースの名前の横へ帰還を示す印を付ける。フルカブは自分の古い図面を見直してから、俺へ顔を向けた。
「ンナナ。(何十年も前の資料が役に立つとはな。捨てなくてよかったぜ)」
「NnnA。(あれがなかったら、待避室に気づくのはもっと遅かったと思う。ありがとう)」
「ンナッ。(礼を言うなら、図面を見て動いた連中にも言っとけよ。俺は倉庫で覚えたことを教えただけだ)」
「NnnA。(もちろん。でも、その『覚えてた』のが助かったんだよ)」
フルカブは何か言い返しかけたが、やがて照れ隠しのように耳を揺らし、使い終わった古い図面を畳み始めた。ワナビーはそれを受け取ると、端末に保存した画像と並べ、今日確認できた情報だけを別の色で書き込んでいく。実際に歩いた道、規制線の位置、使われていた充電設備、そして地下に存在すると確認された待避室。もともと別々の時期の資料なので、同じ場所でも線が微妙にずれていた。
「NnnA。(それ、どうするの?)」
「ンナ。(残す)」
「NnnA。(資料として?)」
「ンナ。(みんなで使う)」
ワナビーは顔面へもう一つ文字を出した。
《確認した日付と、誰から聞いた情報かを一緒に残す》
《公開してよい場所だけ共有する》
「NnnA。(……なるほど。そうすれば、古い地図でも使いやすいな)」
「ンーナ。(いい考えだねえ。ただし、私的な充電場所や寝床は勝手に載せないようにした方がいいだろうね)」
「ンナッ。(昔の抜け道だって、今は危ないところがある。現地で確認してねえなら、そう書いとけよ)」
フルカブが加えた注意を、ワナビーはすぐに記録した。こうして話していると、地図を作るのは修理とは違う仕事なのだと分かる。触手で精密な部品を繋ぐことはできても、地元の道を知っているのは俺ではないし、どの情報を公開すべきかは、そこを使う者たちで決めた方がいい。
「NnnA。(……じゃあ、ちゃんと作ろうか。広場のみんなで使える地図)」
「ンナ。(作る)」
ワナビーは迷わず頷いた。今日はそれ以上作業を進めず、届いた資料をひとまず保管することにした。俺自身、朝から新しい右腕を使い、夕方には正体の分からない肩の異常まで起きている。さすがに休んだ方がいいだろう。
ところが、ワナビーは俺の充電を準備する前に、右肩の検査を始めた。灰色の腕を外側から確かめ、固定具の緩みと非常停止の動作を調べる。どちらも問題はなかったが、本体の電力記録を開いたところで、彼女の手が止まった。
「ンナ……。(ここ)」
表示されていたのは、今日一日の消費電力だった。新しい腕の慣らし運転で増えた分は予想の範囲内に収まっているのに、夕方のある時刻だけ、本体側の残量が大きく落ち込んでいる。触手で調査機を修理した時間ではなく、救助班のモニターを見ていた頃と重なっていた。
「NnnA。(……あの黒いのを見たときか)」
「ンナ。(記録する)」
ワナビーは時刻と消費量を保存したうえで、追加の検査を翌朝に回した。無理に原因を調べようとしたところで、今の俺たちには比較する資料が足りない。それでも、あの黒い筋を見たときに触手が動きかけた感覚は、まだ肩の奥に残っている。
「NnnA。(……明日は、右腕も休ませた方がいいな)」
「ンナ。(休ませる)」
「NnnA。(俺が言ったんだから、そんなに嬉しそうにしなくても)」
ワナビーは返事の代わりに、輸送箱の蓋を開けてくれた。俺は灰色の右手を慎重に畳み、いつもの位置へ身体を収める。金属の底板には昼間より冷えた空気が残っており、充電端子が接続されると、耳の奥で小さな確認音が鳴った。
蓋を閉める直前、ワナビーが丸い手を差し出してくる。俺は五本の指でそっとその外装に触れ、握り込みすぎないよう力を緩めた。
「ンナ。(おやすみ)」
「NnnA。(おやすみ。……今日はありがとう)」
彼女は頷き、蓋を静かに閉じた。充電中の表示が視界の隅へ浮かび、広場の工具を片付ける音が少しずつ遠ざかっていく。
充電中の表示が薄れ、頭上の錆びた輸送箱の蓋は、いつの間にか細い枠で区切られた白い天井に変わっていた。