天井の継ぎ目を、もう何度数えただろう。
白い板が細い金属の枠にはめ込まれていて、そのうちの一枚だけ、角が少し浮いている。照明は明るすぎるほど明るいのに、壁際の換気口には灰色の埃が溜まっていた。空調が低く唸るたび、消毒液と乾いた紙の匂いを含んだ空気が頬を撫でていく。
椅子に座り直すと、安物の上着が合成皮革に擦れ、耳障りな音を立てた。手元の紙コップはとっくに冷めている。口に運びかけてから、底に残った飲み物の苦さを思い出し、そのまま膝の間へ戻した。
壁の時計は、約束の時刻を少し過ぎていた。
帰ろうと思えば帰れる。受付では、最終的な同意をするまでは辞退できると説明されたし、入口に鍵が掛かっているわけでもない。帰りの交通費くらいは財布に残っているのだから、立ち上がって事情を話し、あとは振り返らなければいい。
そう考えているのに、指先は膝の上に置いた封筒の角を何度も折っていた。
中にあるのは説明資料と、すでに目を通した同意書の控えだ。適性検査への協力、一定期間の施設滞在、機密保持、それから支給される協力金。難しい言葉の意味は職員へ尋ねたつもりだが、答えの半分ほどは、何となく理解した気になっているだけかもしれない。危険性についても説明を受けたものの、専門用語が続くうち、いつの間にか聞き慣れない薬剤や機器の名前ばかり気にしていた。
それでも、協力金の額だけは間違えようがなかった。
今の仕事を続けていたら、しばらくは手に入らない金額である。家賃の支払いを心配せずに済むし、古くなった端末だって買い替えられる。うまくいけば、その後も仕事を紹介できるかもしれないという話まであった。保証された条件ではないと分かっていても、そんな言葉を向けられると、少し期待してしまう。
何より、ここでは自分のことを必要だと言ってもらえた。
面談の担当者によれば、検査結果が要求条件に合っていたらしい。どんな条件なのか尋ねても、細かな評価項目については説明できないと言われた。勉強が得意だったわけでも、立派な資格があるわけでもない自分に、いったい何の適性があるのか分からない。それでも、何度確かめても人違いではなかった。
俺でもいいらしい。
そのことを喜んでいる自分が、少し情けなかった。仕事で代わりの人間が見つかるのは当たり前だし、自分だって誰かの欠勤を埋めてきた。今さら、自分にしかできないことがあってほしいなどと望むのは、随分と子供じみているのだろう。
それでも封筒を握ったまま動けずにいると、廊下の向こうから靴音が近づいてきた。
現れたのは、黒に近い茶色の髪をした女性だった。片側で細く編まれた髪が肩に沿い、手には薄い端末を持っている。こちらに気づくと、緑色の瞳をわずかに細め、待たせたことを詫びるように小さく会釈した。白い壁と明るい照明のせいか、穏やかな表情の中で、目元の動きだけが妙にはっきり見えた。
「お待たせしてしまいましたね。もう少し、お時間をいただいてもよろしいですか」
「あ、はい。大丈夫です」
「ありがとうございます。お飲み物は足りていますか?」
「まだ残ってるので」
紙コップを持ち上げて見せると、女性はその底にある僅かな飲み物を見て、何も言わずに頷いた。それから隣の椅子を指し、座ってもよいかと尋ねてくる。俺が了承すると、彼女は膝の上へ端末を置いたものの、画面を開こうとはしなかった。
「先ほど、担当者から説明を受けられたそうですね」
「ええ。検査のこととか、お金のこととか……いろいろ」
「不明な点は解消されましたか?」
「だいたいは。でも、難しいですね。俺には、結局何を調べるのかも、ちゃんとは分からなくて」
「そうでしょうね。説明が不足していると感じたなら、もう一度担当者を呼びましょうか」
「いえ、そういうことじゃないんです。説明してもらっても、分からないのはたぶん俺の方なんで」
女性は首を傾けた。呆れたようにも同意したようにも見えない反応に、俺は慌てて言葉を足した。
「その……どうして俺なんだろうって、思って。適性があるとか言われても、そんな立派な人間じゃないんですよ。ほかにもっと向いてる人がいそうな気がして」
「人柄や経歴と、今回の検査で必要になる適性は、必ずしも同じ尺度では測れません」
「そう、なんですか」
「ええ。少なくとも、別の方の結果と取り違えたわけではありません。それはご安心ください」
間違いではない。その答えにほっとしたところで、俺は前から気になっていたことを思い出した。
「……こういう検査、ほかにも受けてる人がいるんですよね」
「はい。必要な条件を満たす方は、あなたお一人ではありません」
「ですよね。いや、そうじゃなきゃ困りますよね」
笑って返したつもりだったが、少しだけ喉が詰まった。
別に、唯一の人間として選ばれたなどと思っていたわけではない。適性検査と呼ぶくらいなのだから、何人も調べて、その中から都合のいい人を探すのだろう。むしろ、自分しか条件を満たさないのなら、それこそ恐ろしくて引き受けられない。
分かっていたはずなのに、胸の内にあった期待が、少しだけ形を変えた。
「……変な話なんですけど、俺じゃなきゃ駄目だって言われたこと、あんまりないんですよ」
「そうですか」
「今の仕事も、別に俺じゃなくていいんです。休めば代わりの人が来るし、辞めたら新しい人が入る。それで問題なく回るようになってるんだから、悪いことじゃないんですけど」
そこまで口にしてから、自分が何を訴えたいのか分からなくなった。職場で意地悪をされているわけではないし、社会の仕組みとしてはむしろ正しいことだ。それを見知らぬ人に話すのは、やはり情けない愚痴のように思えた。
「……すみません。関係ない話でした」
「構いませんよ。気になっていることがあれば、聞かせてください」
女性は急かさなかった。手元の端末へ目を落とすこともなく、こちらが続きを話すのを待っている。
「ここなら、俺にも何かできるのかな、って。条件に合ってるって言われたのが、ちょっと嬉しくて。それだけで決めるのは、駄目なんでしょうけど」
そこまで話してから、結局、自分が何を期待してここへ来たのかを、まだ誤魔化しているような気がした。女性が急かさずに待ってくれているのをいいことに、もう少しだけ本音を口にする。
「……特別な何かに、なりたいんです。俺じゃなきゃいけないって、誰かに言ってもらえるような。……何になれるのかも分からないのに、変ですよね」
自嘲するような笑いになった。女性は慰めることもからかうこともせず、ただ俺の話を聞いていた。そして、少し間を置いてから言った。
「必要とされることと、大切にされることは、同じではありません」
静かな声だった。
叱られたわけでもないのに、反射的に背筋を伸ばしてしまう。彼女は何かを付け加えようとしたようだったが、結局そのままこちらの反応を待っていた。
「……それは、分かってます」
口にしてから、違うと思った。
仕事を任されることと、誰かに気にかけてもらうことが別なのは知っている。必要なときだけ呼ばれる相手に、親しさまで期待するのは筋違いだ。けれど、必要だと言われた経験そのものが少ないのだから、その先に何があるのか、実際にはよく分からなかった。
「……いや、分かってないのかもしれません。でも、何もないよりはいいかなって」
女性の手が、膝の上の端末の縁を一度だけなぞった。
「あなたがそう考えるのなら、私に否定する権利はありません。ただ、ここで期待しているものと、実際に得られるものが違う可能性はあります。それは覚えておいてください」
「はい」
「それから、辞退することもできます。少なくとも、今この時点では」
その言い方に、俺は顔を上げた。脅している様子はないし、引き留めるための駆け引きにも聞こえない。むしろ、説明を省略せず繰り返しているだけのようだった。
「……俺がやめたら、困りますか?」
尋ねてから後悔した。困ると言ってほしかったのか、気にしなくていいと言ってほしかったのか、自分でも分からない。何より、こんな質問をしてしまった理由が、いちばん情けなかった。
女性は少し考えたあと、答えた。
「日程の調整は必要になるでしょうね」
「……そうですよね」
「ですが、それを理由にあなたを引き留めることはできません」
やはり帰ってもいいのだ、と俺は思った。
ここを出れば電車に乗って、いつもの部屋へ戻れる。途中で安い夕食を買い、溜まった通知を確認して、読みかけの本を開くことだってできる。机の上には書きかけの文章も残っていた。昨日は少し続きを書けたから、今日だって、気分が向けばその先へ進めるかもしれない。
そんな予定が浮かんでくることに、ほっとした。同時に、それが明日も明後日も何も変わらず続いていく様子を想像すると、胸の奥が重くなる。
帰ったところで、明日からの生活が悪くなるわけではない。ただ、何かが変わるかもしれないという可能性を、自分で手放すことにはなる。
「……受けます」
声が小さすぎた気がして、もう一度言い直した。
「俺、やってみます。何ができるか分からないけど、せっかく条件に合ってたんで」
女性はそこで初めて端末へ目を向けた。何かを確かめるように操作し、すぐに画面を閉じる。
「承知しました。担当者には、そのように伝えておきます」
彼女が立ち上がろうとしたところで、俺は思わず声を掛けた。
「……あの」
「はい?」
ずっと聞きたかったことだった。説明書を読むたび喉元まで出かかり、そのたび何も知らないと思われるのが嫌で呑み込んでいた質問である。
「ちゃんと終わったら、帰れますか」
女性は動きを止めた。
空調の音が、急に大きく聞こえた。紙コップの薄い縁が指に食い込み、そこでようやく、自分が力を入れすぎていることに気づく。
「……ああ、すみません。そんなの、当たり前ですよね」
ごまかそうとした笑いは、うまく声にならなかった。
帰って、読みかけの本を読んで、途中で止まった文章の続きを書く。協力金が入ったら、少しまともな椅子を買いたい。寝る前に考えることなんて、そんな程度でよかったはずなのだ。
女性は俺の手元の封筒へ視線を落とし、それから少し時間をかけて答えた。
「無事に終われば」
口元に、ごく薄い笑みが浮かんだ。緑色の瞳が一瞬だけ照明を映したものの、俺が何かを言う前に、彼女はいつもの穏やかな表情へ戻っていた。
きっと、軽々しく安全を約束できない人なのだろう。俺は少なくとも、嘘をつかれずに済んだのだと思った。大丈夫だと安請け合いされるより、ずっと誠実な返事に聞こえたのである。
廊下の奥で扉が開き、別の職員が顔を出した。
「準備が整いました。こちらへお願いします」
「分かりました。すぐに伺います」
女性は立ち上がり、俺へ軽く会釈した。
「では、こちらでお待ちください。まもなくご案内します」
俺は頷いて、封筒の折れた角を指先で伸ばした。自分で決めたことなのだから、もう迷っていても仕方がない。それより帰りに何を食べようか考えていたかった。
白い天井の浮いた角が、視界の端にあった。
次の瞬間、空調の音が途切れた。
*
目を開けたとき、最初に見えたのは輸送箱の蓋だった。
薄い金属板の裏には以前から気になっていた浅い傷があり、端の留め具には錆が浮いている。横に置いていた右腕を動かすと、昨日取り付けたばかりの灰色の指先が箱の壁へ触れ、乾いた音を立てた。
その音を聞くまで、俺は両手に十本の指があるような気がしていた。
「NnnA……。(……何だったんだ、今の)」
声に出したつもりでも、外へ出るのはいつもの電子音だった。紙コップの苦い味が口の中に残っているような気がして、無意識に舌を動かそうとする。しかし、この身体には舌も喉もない。視界の隅には充電完了の表示が浮かび、冷えた飲み物の味も、椅子の背の硬さも、確かめる方法はなかった。
夢を見た。
そう考えれば簡単なのだが、どうにも落ち着かない。俺には、この姿になる前に人間だったような記憶がある。食事をしたことも、本を読んだことも何となく覚えているが、自分の名前や住んでいた場所を尋ねられると、途端に何も言えなくなる。その曖昧な記憶に比べ、今の夢には余計なほど細かい感触があった。
紙コップに残っていた苦み。誰かの靴が廊下を歩く音。封筒を折り曲げた指の感覚。女性の髪の色と、まっすぐこちらを見ていた緑色の瞳。
しかし、椅子に座っていた男自身の顔は、思い出せなかった。
夢の中では、ごく当たり前に自分を俺だと思っていたはずなのに、今となっては、その男が本当に自分だったのかと問われても答えられない。思い出せない過去を夢で補っているのかもしれないし、どこかで見聞きしたものが混ざっただけという可能性もある。
それに、あの男が受けると言った検査は、結局何を調べるものだったのだろう。
「ンナ?(起きた?)」
考え込んでいると、蓋の向こうから声がした。留め具が外れ、隙間に黄色い耳が現れる。ワナビーがこちらを覗き込み、顔面表示の目を小さく動かしていた。
「NnnA。(おはよう。……今、何時?)」
「ンナ。(いつもより遅い)」
「NnnA。(そっか。充電は終わってるみたいだけど)」
「ンナ。(終わってる。右腕も正常)」
ワナビーは俺が起き上がるのを待っていたらしく、端末には夜間の充電記録と、灰色の右腕の点検結果が用意されていた。昨日の地下で生じた不可解な電力消費は別の項目へ保存されているが、少なくともその後に同じ現象は起きていないらしい。
「NnnA。(ありがと。……ごめん、起きるのが遅くなった)」
「ンナ。(いい。今日は重い仕事なし)」
彼女は当たり前のように返した。右腕の慣らし運転については、エンゾウさんからも同じことを言われている。怪しい夢を見たからといって仕事が増えるわけでもないし、今日は大人しく従うことにしよう。
外へ出ると、朝の空気は少し冷たかった。配送車が通りを走り、六分街の方からシャッターを開ける音が響いてくる。昨日あれだけ騒がしかった旧倉庫街の救助現場も、ここからは何も見えない。広場ではすでにグレイが受付の準備を進めており、風に揺れる看板の下を、仕事へ向かうボンプが何体か通り過ぎていった。
俺が輸送箱の蓋を閉めようとすると、ワナビーがその横へ回った。
「ンーナ?(具合、悪い?)」
「NnnA。(……いや。変な夢を見ただけ)」
「ンナ?(夢?)」
「NnnA。(白い部屋にいて、女の人と話してた。俺、人間の身体だったと思う。でも、あれが本当の記憶なのかは分からない)」
口に出してみると、あれほど生々しかった体験が、ずいぶん短い説明になってしまった。紙コップの苦みも椅子の感触も、ボンプの言葉でどう伝えればいいのか分からない。あの女性の名前さえ思い出せないのだから、聞かされる方も困るだろう。
ところがワナビーは少し考えただけで、端末を差し出してきた。
「ンナ。(記録する?)」
「NnnA。(……夢を?)」
「ンナ。(忘れる)」
確かに、その可能性はある。俺は端末を受け取り、まず日付を入力した。続けて題名を書こうとして迷い、結局《白い天井》とだけ記しておく。そこから椅子と紙コップ、検査の説明、封筒、女性の姿、それから最後に聞いた言葉を、思い出せる順に並べていった。
女性の目の色と片側で編んだ髪を記録したところで、ワナビーが端末を覗き込んだ。
「ンナ?(知ってる人?)」
「NnnA。(分からない。夢の中では初対面みたいだったし、名前も聞かなかった。ただ、顔だけは変に覚えてるんだ)」
「ンナ。(じゃあ、そう書く)」
その返事を聞いて、俺は少し笑ってしまった。分からないことを無理に埋めないのは、いつもワナビーの方が上手い。記録に《本人との関係は不明》と書き足すと、彼女は満足したように耳を動かした。
*
午前中、広場では古い地図の整理が始まっていた。
昨日の救助で役立ったフルカブの図面を、グレイが端末へ取り込んでいる。昔の倉庫街と今の道路を重ねると、現存しない道がいくつもあり、反対に当時はなかった柵や建物も増えていた。図面の隅には油染みと折り目が残っていて、丁寧に保存してきたはずの持ち主が、長い年月の間に何度も持ち歩いたことが分かる。
「ンナッ。(そこ、昔は運搬路だったんだ。今じゃ敷地ごと塞がれてるがな)」
「ンーナ。(じゃあ、当時の記録として残そう。現在も通行可能とは書かない方がいいねえ)」
「NnnA。(おはよう。……もう始めてたの?)」
「ンーナナ。(おはよう、ナロー。急ぎの仕事じゃないからねえ。せっかく資料が揃ってるうちに、出来るところだけでもやっておこうと思ってさ)」
グレイは穏やかに答え、取り込んだ画像の端へ印を付けた。フルカブも古い道路の位置を説明しながら、知らない場所には曖昧な印を残している。二体とも、俺が思っていた以上に資料の扱いに慣れていた。
そもそも倉庫で働いていたボンプたちなのだから、情報を整理する仕事は専門のうちなのだろう。俺は横から何か教えようとするのをやめ、代わりに、実際に昨日通った道の位置を指した。
「NnnA。(ここまでは、俺とワナビーも通った。規制線はこの辺りだったかな)」
「ンーナ。(昨日の時点の情報として載せておくよ。ただ、規制は変わるからねえ)」
「ンナッ。(それと、古い充電設備の場所を何でもかんでも公開するのはやめとけ。今は使っちゃいけねえ場所だってあるし、誰かがこっそり直して使ってる私物もある)」
フルカブの言葉に、ワナビーがすぐ頷いた。資料を端末へ写す手を止め、公開してよい情報と、広場の内部だけで扱う情報を別々に保存していく。
図面には、昨日救助されたブルースの見つかった場所も載っていた。小さな地下待避室の記号を見ていると、錆びた防火扉と、その奥から僅かに見えた青い耳が思い出される。俺は無意識に右手を握り、灰色の指がきちんと止まるのを確かめた。
あのとき、触手が勝手に伸びかけた理由は、まだ分からない。電力だけが急に減ったのも気になるが、ワナビーが記録を残してくれた以上、今ここで同じ反応を起こして確かめる必要はないだろう。
「ンナ?(ナロー)」
考え込んでいた俺の外装を、ワナビーが軽く叩いた。
「NnnA。(……ああ、ごめん。ここ、昨日実際に通ったところだから、確認済みって書いていいと思う)」
「ンナ。(分かった)」
彼女は言われた箇所を記録してから、地図の凡例へ《最終確認日》という項目を追加した。古い地図だから正確ではないのではなく、古い地図には古い地図なりの正しさがある。ただ、それを今の地図と区別しなければ、誰かが道を間違えるかもしれない。
俺たちが作ろうとしているのは、そんな間違いを少しでも減らすためのものだった。
昼前には配送会社から連絡があり、ブルースの脚は部品を交換すれば元に戻せる見込みだと分かった。本人からも短い通信が届き、《復帰したら道の確認を手伝う》と書かれている。
「NnnA。(……まずは治してから働けって言っといて)」
「ンナ。(もう送った)」
ワナビーは画面をこちらへ向けた。送信済みの履歴には、《復帰の判断は整備担当者に従うこと》と、俺が思いつくより厳密な注意書きが残っている。
「NnnA。(……仕事が早いな)」
「ンナ。(ナローも休む)」
「NnnA。(それは今関係なくない?)」
「ンナ。(関係ある)」
俺が新しい右手で無意識に工具を持ち上げようとしていたのを、どうやら見られていたらしい。ワナビーは工具を受け取ると、外装に貼り付けられた慣らし運転の注意書きを示してきた。グレイも一緒になって頷くものだから、これ以上の反論は無駄だろう。
*
午後は、修理依頼の軽い点検だけを引き受けた。
台車の車輪に噛み込んだ金属粉を取り除き、緩んだ外装の固定具を締め直す。どちらも触手を深く接続する必要のない仕事で、右腕も必要なとき以外は動かさないようにした。グレイは受付で依頼内容を整理し、フルカブは古い図面の読み取りを進めている。ワナビーの方は、俺が修理に使った部品を数え、ついでに右腕の稼働時間まで記録していた。
修理に来たボンプが帰ると、作業台の周りにはしばらく暇な時間ができた。ワナビーは最近、こうした時間に端末で小説を読むことが増えている。今も仕事の記録を片付けると読みかけの小説を開き、しばらく画面を眺めてから少し前の頁へ戻っていた。気に入ったところを何度も読み返すのが楽しいらしく、先を急ぐ様子はない。それでも広場から人がいなくなるわけではない。休憩だけに来た者が長椅子へ座り、仕事の相談をし、どこかの充電設備の具合が悪いと教えてくれる。ここに集まる理由が故障だけではなくなりつつあるのは、俺にとって少し不思議なことだった。
夢の中の男は、必要だと言ってもらえたことを随分と喜んでいた。
それに比べると、今の俺は、毎日必要とされているような気がする。修理を頼まれるし、土地の使用料だって、広場の誰かと相談しなければ払えない。だが、自分がいなくてもできる仕事が増えると、以前ほど不安にはならなかった。グレイが帳簿を管理してくれるのも、フルカブが道を教えてくれるのも、ワナビーが俺の右腕を気にしてくれるのも、ありがたいと思える。
だからといって、夢の中の男より俺が立派になったという話ではない。あちらの暮らしがどんなものだったか、俺にはほとんど分からないのだから。
ただ、彼があの女性に尋ねたことだけは、妙にはっきり覚えていた。
ちゃんと終わったら、帰れますか。
もし今の俺が同じ質問をされたら、たぶん帰る場所を答えられる。目の前にある輸送箱と、まだ試験利用しか認められていない小さな広場。立派な住まいではないし、二週間後にはどうなるかも分からない。それでも、誰かに場所を尋ねられれば、まずここへ案内するだろう。
「ンナ?(どうしたの?)」
気づくと、ワナビーが作業台の向こうからこちらを見ていた。俺は開いたままの端末を閉じ、何でもないと答えかけてから考え直した。
「NnnA。(……朝の夢のこと、ちょっと考えてた)」
「ンナ。(何か思い出した?)」
「NnnA。(いや。あの男、帰れるかって聞いてたんだよな。……あの言葉が、どうしても引っかかってて)」
ワナビーはしばらく黙ってから、自分の胸元ではなく、作業台の脇に置いてある俺たちの輸送箱へ目を向けた。
「ンナ。(帰りたい場所、あったんでしょ)」
「NnnA。(……そうかもな)」
それだけの話だった。俺は少し笑って、端末の記録へ戻ろうとしたが、ワナビーに止められた。
「ンナ。(今日は終わり)」
「NnnA。(まだ少し片付けが……)」
「ンナ。(私がやる)」
そう言いながら、彼女は俺が持ち上げかけた工具箱を、作業台の内側へ押し戻した。俺よりずっと小柄なくせに、こういうときは少しも譲らない。
「NnnA。(……分かったよ。明日やる)」
「ンナ。(うん)」
ワナビーは頷き、片付けの続きを始めた。俺は邪魔にならないよう台の脇へ寄り、彼女が部品を棚へ戻すのを眺めていた。
すると、金属の触れ合う音に混じって、規則的な小さな駆動音が聞こえてきた。
ワナビーの胸の奥にある循環ポンプだった。最初に彼女を修理したときから、外装の隙間を通して低い音が聞こえることはあった。透明な管と小さな容器へ繋がる、用途のよく分からない機構である。あのときは駆動部の摩耗を直し、電力の供給を整えたところで無理に深く触らず、以来、大きな不具合は起きていなかった。
ところが今は、その音がいつもと少し違っている。
「NnnA。(……ワナビー、ちょっといい? 胸のポンプ、調子はどう?)」
彼女は手を止めて、自分の胸元へ丸い手を当てた。
「ンナ、ナ。(……言われてみると、さっきから少し気になるかも)」
「NnnA。(さっきから? 動かしづらいとか、電池の減りが早いとかは?)」
「ンナ。(それはない。数字も普通)」
端末を開いて確かめてみると、今日の充電量も消費電力も、前の記録から大きく外れてはいない。外から見える管に漏れた跡もなく、顔面の表示や歩き方にも異常はなかった。ただ、ポンプの駆動音だけが、一度回るごとに僅かに引っ掛かるような響きを含んでいた。
「NnnA。(……今、点検してもいい? まず外側だけ。中まで調べるなら、何をするか先に説明する)」
「ンナ。(いいよ)」
俺は新しい右手で検査器具を取ろうとして、昨日の使用制限を思い出し、左手へ持ち替えた。ワナビーは作業台の低い椅子へ自分で上がり、胸部の点検口が見える位置へ座り直す。
外装の温度と振動を測り、配管の接続を確かめる。機械的な異音なら、この程度でも何か分かるかもしれないと思ったが、結果はどれも正常範囲内だった。強いて言えば、ポンプが負荷を受けるタイミングに、これまで見なかった小さな揺れがあるくらいだ。
「NnnA。(……今日の記録は残しておこう。明日、電源を切れる部分から順番に調べたい。無理に全部止めるのは怖いから)」
「ンナ。(うん。一緒に調べる)」
「NnnA。(もちろん。……ただ、今までと同じ音じゃないのは、ちょっと気になるな)」
ワナビーは表示の目を俺へ向けた。何かを思い出そうとしたのか、あるいは単に自分の身体の音へ耳を澄ませているのか、しばらく動かなかった。
やがて彼女が俺の右手へ丸い手を重ねると、指の付け根を通して小さな振動が伝わってきた。
俺は改めて検査記録を開き、ポンプの回転波形を拡大した。規則的に並んだ山のうち、三つ目の波形だけ、頂点が僅かに欠けていた。