地図の上では、工場はまだそこにあった。
もっとも、建物の輪郭が残っているだけで、現在も工場として使われているわけではない。古い番地を新しい区画へ重ねた画面には、ホロウの境界を示す濃い色が広がっており、その内側を走っていたはずの道路も、今は一本として確かな経路を示していなかった。
「NnnA。(……行ってみれば分かる、とは言えないよな)」
独り言のつもりだったが、隣で端末を操作していたワナビーが顔を上げた。
「ンナ。(行くのは危ない)」
「NnnA。(うん。それに、行けたとしても、目的の建物が残ってるとは限らない)」
昨日の検査で分かったのは、彼女の胸部装置が電力とは別に何らかの交換材を消費していることと、その補充条件を確認できるらしい施設が、現在はホロウに呑まれた工業区画にあることだけだった。交換材の正体も、残量表示の意味も、どのくらいの猶予があるのかも不明である。
幸い、今朝もワナビーは普段どおりだった。循環ポンプにはあの僅かな異音が残っているものの、歩行も充電も問題なく、夜間の記録にも急な悪化はない。だからこそ、まだ動けるうちに調べたいと思う。止まってからでは、手遅れになるかもしれない。
作業台には二組の資料を並べてあった。一方は、グレイとフルカブが持っていた旧倉庫街の図面を整理したもの。もう一方は、ワナビーの許可を得て抜き出した、保守記号と循環補助系統の最低限の記録だ。彼女の身体の写真や毎日の稼働履歴は、別の保護領域へ移してある。
「NnnA。(依頼するとしたら、まず何を探してもらうか決めないと。俺たちが知りたいのは、交換材の仕様と補充の方法、それから同じ装置の保守記録……でいい?)」
「ンナ。(うん。直す方法が分かればいい)」
「NnnA。(装置が作られた理由とか、誰が使ってたかとか、気にならない?)」
「ンナ。(気になる。でも、今は動き続ける方法が先)」
その返事には、こちらを安心させるための取り繕いがなかった。知りたいことを全部まとめて調べられれば便利だが、ホロウへ入る以上、目的を増やすほど危険も費用も大きくなる。俺が頷くと、ワナビーは二組目の資料へ自分で閲覧制限を付け、提供先には内容と期限を記録するよう設定した。
そこまで終わってから、俺は連絡先の一覧を開いた。
つい先日、機関銃の固定具を修理したときに登録してもらった相手の名前がある。赤い上着を着た、やたらと賑やかな機械人――ビリー・キッドさんだ。確か邪兎屋はホロウ絡みの仕事も請け負う何でも屋だったはずで、ビリーさん本人がどこまで詳しいかは分からないが、相談できる人を紹介してもらえるかもしれない。
「NnnA。(……ビリーさんに、相談してみようか)」
「ンナ。(連絡先、ある)」
「NnnA。(あの修理の後払いで登録してもらったやつだね)」
「ンナ。(二百二十ディニー)」
ぴたりと金額が出てくるあたり、さすがである。ただ、未収の修理代を盾にして紹介を頼むのは違うだろう。俺は仕事の相談であることと、別件の支払いは別の話として扱いたいことを短い文章にまとめ、送信した。
返事が来たのは、グレイが午前の受付簿を持ってきた頃だった。
《よっ、ナロー! ちょうどよかった! 例の二百二十ディニー、今日ちゃんと払えるぜ! 相談の方も聞かせてくれ。親分に話してみる!》
思わず二度読んでしまった。借金の返済と仕事の相談が、一つの返信に収まっている。あの人らしいと言えば、あまりにもあの人らしかった。
*
昼前、広場の入口に現れたビリーさんは、以前と変わらない勢いで両腕を広げた。
「よお、ナロー! 見ろよ、約束の金だ! 俺様、こういうことはきっちりする男だからな!」
彼は端末を操作して二百二十ディニーを送金すると、確認画面をこちらへ向けてきた。ワナビーは受領記録を確かめ、アミリオンが払った二百ディニーと合わせて修理代が完済になったことを表示する。
「ンナ。(受領。ありがとう)」
「ははっ、今度は最初から払えるようにしとくぜ。……それで、相談ってのは?」
問いかけたところで、彼の後ろから女性の声が飛んだ。
「ちょっとビリー! 支払いが済んだなら、そろそろ依頼の話も聞きなさいよ!」
現れたのは桃色の髪をした女性と、銀色の短い髪の少女だった。前者は肩に掛けた鞄から端末を取り出し、入口の看板と並んだ工具棚を一通り見回す。後者はその少し後ろで立ち止まり、広場の出口や通路の幅を静かに確かめていた。
「はじめまして。あたしが邪兎屋のニコ・デマラ。こっちはアンビー。ビリーから聞いたけど、ホロウにある古い工場を調べたいんだって?」
「NnnA。(はい。ナローです。来ていただいて、ありがとうございます)」
返事を聞き取ろうとしたニコさんへ、ワナビーが挨拶文を端末に表示した。込み入った話は俺も文字を打ち、ワナビーが会話に合わせて画面を向けることにする。するとニコさんはまず文字を読み、それから俺の灰色の右腕と背中を見比べた。
「ああ、あんたが噂の修理屋なのね。ビリーの装備を直したのも、あんただって?」
「NnnA。(正確には、アミリオンの固定具ですけど)」
画面の文字を読んだビリーさんが、なぜか胸を張った。
「腕は確かだぜ、親分! あの固定具、ちゃんと横揺れまで調べてくれたからな。俺様の整備も見てもらいたいくらいだ!」
「だったらまず、グッズ代を整備費に回しなさいよ」
「ぐっ……それを言われると弱いぜ」
初対面だというのに、何となく普段の関係が見えてきた。ニコさんが帳簿を気にするのも、ビリーさんが金の話から逃げたがるのも、俺たちには他人事ではない。
その横で、アンビーさんがワナビーを見ていた。彼女に視線を向けられると、ワナビーも黄色い耳を僅かに持ち上げる。
「あなたの名前は?」
「ンナ。(ワナビー)」
ワナビーが端末へ名前を表示すると、アンビーさんは少し考えた。
「ワナビー。……アンビーと、後ろの音が似ているわね」
「ンナ。(うん。似てる)」
「覚えやすい名前。よろしく、ワナビー」
「ンナ。(よろしく、アンビー)」
それだけのやり取りだったが、ワナビーは表示の目を柔らかい形にしていた。アンビーさんも真顔のまま、少しだけ口元を緩めたように見える。何かを見抜いたような様子ではなく、ただ偶然似た名前を持つ相手に会ったことが嬉しいらしかった。
「さて、仲良くなるのはいいことだけど、お仕事の話に戻ってもいいかしら?」
ニコさんが作業台の空いた場所へ端末を置く。俺は了承を得て外側の保守記号と旧工場の所在地を見せ、ワナビーが胸部装置に関する説明を付け加えた。循環に何らかの交換材が必要らしいこと、現在は正常に動いているものの消費傾向が見えること、普通の修理屋では仕様を調べられなかったこと。分からない部分は分からないまま伝え、写真や詳細な稼働履歴は勝手に開かない。
説明を読み終えたニコさんは、先ほどまでとは違う目で画面を見つめた。
「つまり、今すぐ助けに入らなきゃいけないって話じゃなくて、動いてるうちに補充方法を調べたいのね」
「ンナ。(そう。止まる前に)」
「分かった。それなら仕事にはできそう。問題は、どこまでやるかよ」
彼女は古い番地へ印を付け、ホロウの境界と照らし合わせた。侵蝕で道路の形が変わっている以上、昔の工場へ真っすぐ行ける保証はない。建物が残っていたとしても、内部に保守記録があるとは限らず、探している交換材がそこで手に入るとはもっと限らない。
「現地へ入るなら戦闘や撤退の準備もいるし、案内役だって必要。見つからなかった場合でも、かかった費用はなくならないわ。そこは最初に言っておくから」
差し出された概算を見て、俺は画面を閉じかけた。広場の二週間の試験利用料をようやく払ったところで、今も正式な電源設備さえない。日々の修理で少しずつ収入はあるが、自由に使える金が山ほどあるわけではなかった。
「NnnA。(……この額を、すぐに用意するのは難しいです)」
「でしょうね。看板の《試験利用中》も見たわ。だから最初から潜るんじゃなくて、資料調査と現地調査を分けるの。まず公開情報や古い記録で場所を絞って、入る必要があるか確かめる。それから正式に現地の見積もりを出すわ」
「NnnA。(それなら、最初の調査だけでも依頼できますか?)」
「もちろん。でも、調査料はかかるし、結果が空振りでもそこは返せない。ボランティアの相談窓口じゃないんだから」
ニコさんはきっぱりと言ったあと、少しだけ声を和らげた。
「ただ、調べる前に目的と予算の上限を決めるなら、無駄な出費は抑えられる。あんたたちも修理屋なんでしょ? 見積もりの大事さくらい分かるわよね」
返す言葉がなかった。つい昨日、分からない装置を勝手に開けないとワナビーと約束したばかりである。ホロウへ入る仕事だって、同じように慎重に進めるべきなのだろう。
ワナビーが俺の横で端末を操作し、《広場の運営費は使用しない》《個人の修理収入から支払える範囲を確認》《追加費用は事前承認》と並べた。資金の出所を勝手に決められないのは分かっていたが、そこまで用意してくれていたことには少し驚いた。
「NnnA。(……自分の身体のことなのに、俺の修理代を使うの、気にならない?)」
「ンナ。(気になるなら、相談して決める)」
言われてみればそうだった。俺だって、ワナビーが俺の右腕のために少しずつ部品を集めてくれていたことを覚えている。お互いのために何かしたいと思うことと、相手の決定権を奪うことは別の話だ。
「ンナ。(私も払う。私の装置だから)」
「NnnA。(うん。じゃあ、使える金額は一緒に決めよう)」
ニコさんはそのやり取りを見て、契約書の依頼人欄へ俺たち二人の名前を並べた。
「よし。じゃあ、まずは机の上でできる調査から。危ない場所へ行くかどうかは、その結果を見て決めましょ」
*
ところが、資料の確認を始めてしばらくすると、ニコさんは眉をひそめた。
「……古い番地だけでホロウに入るのは無理ね。ここの情報、ちょっと厄介だわ」
彼女が指したのは、現在の地図と古い工業区画の位置を重ねた部分だった。俺たちが使っている地域地図は、実際に通った場所や古い設備の記録を整理するには便利だが、ホロウ内部で変わり続ける通路まで案内できるものではない。
「なあ、ナロー。お前も現地へ行くつもりなんだろ?」
ビリーさんに尋ねられ、俺は頷いた。
「NnnA。(修理するための記録だから、見つかったものを自分でも確認したいです。もちろん、戦うことはできませんけど)」
「そこは俺様たちの仕事だな。だけどナロー、お前の腕、付けたばっかりだろ? 無理すんなよ」
ビリーさんの視線は、俺の右肩に留まっていた。エンゾウさんからも同じことを言われている。あのとき直したのは既知の外付け機構だけで、肩の奥にある不明なものは今も手つかずだ。
「NnnA。(分かってます。右腕はまだ慣らし運転中ですし、力仕事を自分から引き受けるつもりはありません)」
「それでいいさ。俺様だって、自分の身体のことは整備のプロに頼るからな!」
「ビリーは、整備に出す前に無茶をする回数を減らした方がいいと思う」
アンビーさんの静かな一言に、彼が両手を上げた。
「おいおい、アンビー! 今はナローを褒めてるところだろ!」
「事実を付け足しただけよ」
ニコさんが小さく笑ったあと、地図の端へ新しい印を付けた。
「ホロウの中の案内なら、あたしに心当たりがあるわ。普通の地図が頼りにならない場所でも、道を探すのが得意な連中よ。ただし、誰にでも紹介する相手じゃないから、依頼の内容と秘密の扱いを先に決めておきたいの」
ワナビーが端末へ《身体の記録は本人の許可した範囲だけ》と入力する。
「そう、それ。相手に必要な情報は渡す。でも、それ以上は渡さない。あたしだって依頼主の秘密を商売の種にはしないわ」
その言葉を信用してよいか、俺にはまだ判断できない。けれど、ニコさんは資料を無理に開かせようとはしなかったし、ビリーさんもこちらの事情を面白がって触手へ手を伸ばしたりはしなかった。アンビーさんに至っては、話を聞きながら何度かワナビーへ視線を向けたものの、それ以上の詮索をする様子はない。
俺たちは連絡先と依頼範囲を確認し、翌日を待たず、六分街で案内役へ会えることになった。
*
「NnnA。(……ここですか?)」
案内された場所を見て、俺は思わず立ち止まった。
目の前には、昨日ワナビーが映画の広告を眺めていたビデオ屋がある。ガラスの向こうには同じポスターが貼られ、扉を開くと、古いケースの樹脂と紙の匂いが空調の風に混ざって流れてきた。店の奥には何本もの棚が並び、カウンターのそばでは一体のボンプが返却品を確認している。
「NnnA。(ここ、エンゾウさんの工房の隣じゃないですか)」
ワナビーがその言葉を端末へ表示すると、ニコさんは当然のように頷いた。
「そうよ。何か問題ある?」
「NnnA。(いえ……俺たち、TURBOには何度も来てるので。まさか隣のお店に紹介されるとは)」
ワナビーも店内を見回し、ショーウィンドーのポスターと同じ作品が並んだ棚に目を留めていた。俺たちは昨日もここで足を止めたのに、中へ入ろうとは考えなかった。今になってみれば、何度もすぐ近くまで来ていた相手と、一度も顔を合わせていなかったことの方が不思議なくらいである。
「いらっしゃい。……あれ、ニコ?」
カウンターから声を掛けてきたのは、落ち着いた雰囲気の青年だった。どうやらニコさんとは顔なじみらしい。その後ろから暗い髪の少女が顔を出し、俺たちを見るなり、黄色いワナビーへ目を留めた。
「ニコ、今日はどうしたの? ……あ、その黄色い子、もしかしてンナンナ広場の?」
「NnnA。(え? うちのこと、知ってるんですか)」
慌てて端末に表示した質問を、少女は楽しそうに読んだ。
「地域掲示板で見たんだよ。灰色のボンプと黄色いボンプが写ってたでしょう? 触手で修理する子は写真にいなかったけど……もしかして、君が?」
俺は返事に詰まった。広場の写真がインターノットで話題になったことは知っていたが、まさかエンゾウさんの工房の隣にいる人たちまで見ていたとは思わなかった。
「NnnA。(……はい。ナローです。あの、エンゾウさんのところには何度も来てるんですけど、今までお会いしませんでしたね)」
「ほんとだね! うちのお店、すぐ隣なのに」
「僕たちも、お店の外へ出る時間はまちまちだからね。はじめまして、僕はアキラ。こちらは妹のリン。二人でRandom Playをやっているんだ」
「私はリン。よろしくね!」
端末で挨拶を返すと、リンさんがカウンターのボンプへ声を掛けた。
「18ちゃん、ちょっと店番をお願いしてもいい?」
返却品を整理していたボンプが頷き、俺たちの方へ近づいてきた。
「ンナナ!(第18号です。いらっしゃいませ!)」
「ンナ。(ワナビー。よろしく)」
二体が並ぶと、ワナビーの方が随分と小さく見える。第18号はワナビーの耳の傷を一度だけ見たが、それについて尋ねることはせず、店で貸し出せる作品の説明を始めた。ワナビーは今度は胸の装置ではなく、映画の好みについて熱心に端末を操作している。
ニコさんは兄妹と短く言葉を交わしたあと、店の入口を振り返った。ほかの客がいないことを確認してから、資料の表示された端末をカウンターの一角へ置く。
「アキラ、リン。この子たちが、さっき話した依頼主よ。ホロウにある旧工場の保守記録を探したいんだって。まずは話を聞いてあげて」
兄妹は顔を見合わせ、それから俺たちを店の奥にある小さな打ち合わせ用の机へ案内してくれた。第18号は入口の受付を引き受け、ワナビーが閲覧を許可した資料だけが、机の上の端末へ移された。
アキラさんは目的を確認すると、最初に一つ質問した。
「部品を探しているのか、それとも、作り方や交換条件を知りたいのか。そこが違うと、調べる場所も変わってくるんだ」
「NnnA。(まずは交換材の仕様と保守記録です。部品が見つかっても、何に使うか分からないまま取り付けるつもりはありません)」
「分かった。じゃあ、工場へ行く前に、公開されていた資料や搬出先を調べる価値があるね」
リンさんも画面を覗き込み、残量表示と保守窓口の記号を見比べた。
「今は普通に動いてるんだよね?」
「ンナ。(うん。充電も歩くのも普通)」
「それなら、慌てて中を開けるより、まず正しい説明書を探したいよね。もし使ってる材料が分からないまま別のものを入れちゃったら、大変そうだし」
ワナビーが強く頷く。俺も少しだけ肩の力が抜けた。兄妹は俺たちの代わりに装置を直せると約束したわけではないが、何を調べるべきかという点では、すでに話が通じていた。
「ただ、現地がホロウの中なら話は別だよ。地上の地図が残っていても、同じ場所へ行けるとは限らない。安全な道を探すには、そのための準備が必要になる」
アキラさんの言葉に、ニコさんが頷いた。
「そこで、この二人ってわけ。見た目は普通のビデオ屋だけど、ホロウの道案内も頼める、腕のいいプロキシなの。……もちろん、その話は外では内緒よ」
「ちょっと、ニコ。そういうことは、こっちに一言確認してから言ってよ」
リンさんが声を落とすと、ニコさんは悪びれずに肩をすくめた。
「依頼の内容は先に説明してあるでしょ。あたしが連れてきたんだから、話くらい聞いてあげなさいよ」
「話を聞くのは構わないよ。ただ、ナローたちにも秘密にしてほしいことがあるだろうし、僕たちにもある。それを確かめてから進めよう」
アキラさんの言葉に、ワナビーが端末の閲覧制限を示した。俺も頷く。彼らがビデオ屋とは別にホロウでの案内を引き受けているのなら、知られたくない事情があるのだろう。こちらもワナビーの身体の情報を預ける以上、お互いに不用意なことはできない。
ただ、何度も訪れた工房の隣で、そんな仕事をしている人たちと会うことになるとは思わなかった。
「NnnA。(……それにしても、ずっとすぐ隣にいらしたんですね)」
「お互い、ちょうどすれ違ってたのかもね」
リンさんは笑い、アキラさんは苦笑した。ニコさんだけが、さっさと契約の話に戻せと言いたげな顔をしている。
*
打ち合わせが一段落したところで、ワナビーが端末を置き直した。
「ンナ。(私は、広場に残る)」
俺は思わず彼女を見た。ホロウの危険性を考えれば、その方がいいとは思っていたが、実際にどうしたいかはまだ尋ねていなかった。
「NnnA。(……もう決めてたの?)」
「ンナ。(私の身体の資料。私が行かなくても探せる)」
ワナビーは端末へ、同行しない理由をもう少し詳しく書いた。現在の活動に大きな支障はないこと、未知の循環装置へホロウの負荷がどう影響するか分からないこと、自分が現地へ行っても装置を開けられるわけではないこと。それから、広場にはグレイとフルカブがいて、保守記録の照合や連絡を続けられること。
「ンナ。(ナローは、機械を見て。私は、こっちで記録を見る)」
「NnnA。(でも、現地で何か見つけたら、ワナビーに確かめてもらいたくなるかもしれない)」
「ンナ。(持ち帰って。一緒に見る)」
答えが早かった。それでも俺は、遠くへ出掛けている間に胸の装置が悪くなったらどうしようかと考えてしまう。そんな顔をしていたのだろうか、アンビーさんが静かに口を挟んだ。
「ホロウでは、依頼人が現場へ来ない仕事もあるわ。持ち帰るものが情報なら、なおさらね」
「そうそう。何かあっても、俺様たちがナローを守るぜ!」
ビリーさんが勢いよく胸を叩くと、ニコさんがすぐさま眉を上げた。
「『絶対に』とは言わないでよ。危ない場所なんだから、引き返すときは引き返す。依頼人が一緒でも、そこは変わらないわ」
「……だな。悪い、つい格好つけちまった」
俺は少し笑い、それからワナビーへ向き直った。
「NnnA。(分かった。じゃあ、現地の判断は専門家に任せる。手に入った資料は、勝手に全部開くんじゃなくて、持ち帰って一緒に確かめよう)」
「ンナ。(うん)」
彼女は当然のことのように頷き、資料の閲覧期限と連絡先を確認した。自分が同行しないからといって、自分の身体のことを誰かに丸投げしたつもりはないらしい。
ニコさんが条件を整理し、手付金と残額の支払方法、調査対象、持ち帰る資料の扱い、撤退する条件をそれぞれ書面にまとめた。現地で危険が増えたり、予定外の区域へ入る必要が出たりした場合は、独断で仕事を広げない。調査が不首尾に終わったときにも、実際に行った作業と発生した費用は精算する。広場の共同運営費は使わず、俺とワナビーが使えると確認した資金の範囲で、まず資料調査と経路確認を依頼することになった。
ホロウへ実際に入る仕事については、兄妹による事前調査と邪兎屋の準備を踏まえ、別の見積もりに双方が同意した場合だけ進める。すぐに出発できる契約ではないが、少なくとも、何から手を付ければよいかは決まった。
「これで一件目の依頼は成立ね。任せなさい。あたしたち、仕事を受けたからにはちゃんと調べるから」
ニコさんが署名を済ませ、ワナビーも俺も、それぞれ自分の名前を入力した。
そのあとアキラさんが外部から確認できる古い地図の索引を照合し始め、リンさんは保守窓口の移転履歴を探してくれた。俺はその間、ワナビーと一緒に待つしかなかったが、待っているだけの時間も以前ほど苦痛ではなかった。自分の知らないことを、別の誰かが調べてくれている。そういう仕事の分け方もあるのだと、ようやく少しずつ分かってきた気がする。
やがて、リンさんが画面の一点を示した。
「ねえ、お兄ちゃん。ここの記録、ちょっと変じゃない?」
アキラさんが隣へ寄り、古い地図と索引を交互に確認する。画面には工業区画に並んでいた施設の一覧が表示されていたが、保守窓口から辿った工場に対応する行だけ、施設名の欄が空白になっていた。
「廃業して消えた、という扱いじゃないね。番号と住所は残ってるのに、名前だけがない」
「ほかの施設は閉鎖日も移転先も書いてあるのに……これ、入力ミスかな?」
「そうかもしれない。ただ、同じ版の別の索引でも空欄になっている。元の台帳がどうなっていたか、確かめる必要があるね」
俺は二人の会話を聞きながら、昨日ワナビーの端末に現れた《原製造施設》という文字を思い出していた。地図から建物の名前が消えていても、配管の中に残った古い記録はそこを照会先として示し続けている。
アキラさんはさらに発行日の項目を開き、眉を寄せた。
「……気になるのは、この索引が作られた時期だ。ここがホロウに呑まれる前の版なんだ」
「じゃあ、ホロウができたせいで記録がなくなったんじゃない、ってこと?」
「そういうことになるね。施設が閉鎖されたのか、管理元が変わったのかも、今ある資料だけじゃ分からないけれど」
ワナビーが俺の左手へ、そっと丸い手を重ねた。映画の広告を見ていたときのような楽しそうな仕草ではなかったが、離そうとはしなかった。
俺もその手を握り返し、名前の抜け落ちた一行を見つめた。
少なくとも、工場の名前が抜け落ちた記録は、ホロウに呑まれる前から存在していた。俺たちが探している装置の製造元は、施設が使われなくなる前に、すでに公の記録から姿を消していたのだろうか。