出発の朝、ワナビーは俺の荷物を三度数えた。
充電用の予備セル、修理器具を収めた小さなケース、調査対象の保守記号を保存した端末。それから、灰色の右腕の使用時間を記録するための検査器具まで揃っている。どれも昨日のうちに二人で確かめたはずだが、彼女は端末の一覧を上からもう一度なぞり、俺の右肩に取り付けられた固定具の緩みを確認した。
「NnnA。(……そんなに心配?)」
「ンナ。(心配。ナロー、工具を増やそうとしてた)」
「NnnA。(あれは、何かあったときに使えるかと思って)」
「ンナ。(使う予定のないものは重い)」
ごもっともである。俺は増やしかけた工具を棚へ戻し、端末に表示された携行品の一覧を承認した。右手の慣らし運転が終わっていない以上、荷物が増えた分を背中の触手で補うのも、あまり褒められた使い方ではない。
昨夜、ニコさんたちから事前調査の結果が届いていた。旧工場へ通じていた搬入路はホロウ化以前に一度付け替えられており、現在の地図には残っていない。ただ、周辺の施設を結んでいた高架下の通路が、ホロウ外縁の比較的安定した区域へ繋がっている可能性があるらしい。目的地そのものが残っているかは不明だが、まず旧工業区画へ近づき、そこから状況を判断するという提案だった。
見積もりも届いていた。最初の契約で支払った資料調査費とは別に、現地調査の準備と護衛、案内の費用が並んでいる。俺とワナビーが自由に使える蓄えから手付金を出し、残額も支払える範囲には収まったものの、余裕のある出費とは言えない。広場の共同運営費には手を付けていないので、今後の修理代や部品の仕入れを少しずつ積み立て直す必要があった。
それでも、何もしないまま交換材が減っていくのを眺めているよりはいいと思う。
「ンナ。(こっちの記録も持った?)」
「NnnA。(うん。型式と交換材の欄だけ。胸の写真や普段の稼働履歴は入れてない)」
「ンナ。(見つけたら、持って帰る)」
「NnnA。(分かってる。勝手に取り付けたり、何か流し込んだりもしない)」
ワナビーは満足そうに頷いたが、次に端末へ表示したのは、俺が少し返答に困る一文だった。
《連絡が途切れたら、約束した時間まで広場で待つ》
昨日、二人で決めたことだ。ホロウ内では通常の通信が使えなくなることがあると説明されている。こちらから連絡がないからといってワナビーが現場へ向かったり、広場の誰かを巻き込んで探しに来たりしないように、帰還の見込みを過ぎた場合の連絡先と確認手順も残してある。
「NnnA。(……悪い。待たせる方が、ずっと嫌だろうな)」
「ンナ。(そう。でも、探しに行って迷子が二人になる方が困る)」
「NnnA。(身も蓋もないな)」
「ンナ。(だから、帰ってくる)」
冗談めいた調子のまま、彼女は俺の左手を握った。丸い手から伝わる小さな振動は、昨夜の点検では普段の範囲に収まっていた。循環ポンプの方にはまだ例の引っ掛かりが残っているが、急な変化は見られない。それが分かっていても、手を離すまでには少し時間がかかった。
*
集合場所は、六分街から離れた旧工業区画の外縁にある荷捌き場だった。
倉庫として使われていた建物は半分ほど閉鎖され、錆びたフェンスの向こうには、使われなくなった車両とコンテナが幾重にも積まれている。舗装の割れ目には砂が溜まり、風が吹くたびに細かな埃が舞った。街の中ほどではまだ聞こえていた広告放送もここまでは届かず、代わりに発電機の低い唸りと、遠くの工事車両が立てる金属音が響いていた。
広場ではグレイとフルカブに受付と修理依頼を任せてきた。俺が集合場所へ着いたときには、すでにビリーさんがコンテナの脇で両腕を振っていた。赤い上着は遠くからでもよく目立ち、その後ろにはニコさんとアンビーさんがいる。
「よう、ナロー! 準備万端か? 今日は俺様たちから離れるんじゃねえぞ!」
「NnnA。(はい。よろしくお願いします)」
挨拶の意味を端末へ表示すると、ニコさんはまず俺の荷物を見て、それから右腕の付け根へ目を向けた。
「ずいぶん身軽ね。荷物が多けりゃいいってもんじゃないけど、ちゃんと予備の電源はあるの?」
「NnnA。(あります。右腕も使用制限を設定してきました)」
「なら結構。今日は調査が目的だから、戦うのはあたしたちに任せて。あんたが前へ出て、調査料より修理代が高くつくようなことになったら困るわよ」
「俺様の後ろは安全だからな! 安心して任せてくれ!」
「ビリー。安全かどうかは、敵が来てから判断して」
アンビーさんの言葉にビリーさんが大げさに肩を落とした。彼女はすでに周囲の地形を確認していたらしく、フェンスの切れ目と退避に使えそうな建物の位置を、ニコさんの端末へ順番に記録している。
少し遅れて、荷捌き場の向こうから一体のボンプが歩いてきた。
俺より小柄で、黒っぽい外装に明るい色の装備を付けた機体だった。軽い足音を立ててこちらへ近づくと、顔面表示を明るくして耳を動かす。見覚えのある型式に思えたが、俺たちの広場にいる誰とも違う。
「ンナ!(こんにちは!)」
「NnnA。(……こんにちは。君も一緒に行くの?)」
ボンプは元気よく頷いた。その直後、ニコさんの携帯端末から、聞き覚えのある落ち着いた声がした。
『ナロー、聞こえるかな。アキラです。昨日はありがとう。こちらの音声は、この端末とイアスを通して届けるよ』
「NnnA。(あ、アキラさん。聞こえてます)」
俺は自分の端末に返答を打ち込んだ。文字を見たニコさんが読み上げるより先に、イアスと呼ばれたボンプが顔面表示を変え、手元の端末にも短い受信確認が出る。ホロウの中では通常の通信を当てにできないので、向こうからの案内はイアスの装備にある小型スピーカーを通して聞くことになるそうだ。
『確認できたよ。今日は僕が案内を担当する。リンも店で資料と記録を確認しているから、何か分かったら知らせるね』
昨日はビデオ屋のカウンターで普通に会話していた人が、今日は遠くからボンプを通して話しかけてくる。機械の修理をしている身としては仕組みを尋ねたくなるが、二人が特別な方法でホロウの案内をしていることだけでも、十分に珍しい仕事なのだろう。俺はひとまずイアスへ向き直り、よろしくと端末に表示した。
「ンナナ!(よろしく!)」
イアスが俺の隣へ並ぶと、ビリーさんが面白そうにこちらを見比べた。
「おっ、ボンプ二体で探検隊って感じだな! どっちもちゃんと俺様についてこいよ!」
「ビリー、隊列は私が決めるわ」
アンビーさんは淡々と言って、先頭を自分、そのすぐ後ろをイアス、中央に俺、最後尾をビリーさんと決めた。ニコさんは状況に応じて前後を行き来するという。戦う役ではない俺が真ん中なのは理解できるが、並んでみると、護衛されていることがやけにはっきりして気恥ずかしかった。
出発前、ニコさんは最後に契約内容を確認した。目的は旧工業区画の保守施設へ近づき、交換材の資料が残っているか確かめること。回収するのは原則として情報の複製で、現物に手を出す必要が生じたら別途判断する。入れない場所へ無理に踏み込んだり、危険が増えたのに依頼だけを理由に進んだりはしない。
それから彼女は、声を少し落とした。
「ひとつだけ、念を押しとくわ。ここから先の調査は、公的な回収作業として許可されたものじゃない。危険なのはエーテリアスだけじゃないし、見つかったら説明を求められる可能性もある。それでも現地へ行く?」
昨夜の契約書にも書かれていたことだった。分からない機械を直すためとはいえ、誰かの土地に入り、ホロウの中の施設を探すのだから、通常の修理依頼と同じでは済まない。違法なことをすれば必ず見逃してもらえる、などという保証はどこにもない。
「NnnA。(……はい。今日決めた範囲だけ、お願いします)」
端末の文字を確かめたニコさんは頷き、改めて出発の合図を出した。
*
ホロウの境界は、遠くから眺めるよりもずっと分かりにくかった。
工業区画の外れでは、道路の先に並んでいた建物が薄い靄の向こうへ重なり、正面から見れば繋がっているはずの通路が、少し横へ動いただけで別の角度へ折れて見える。空気の色もいつの間にか変わっており、灰色の雲の下を透けるような紫の光が、濡れていない舗装を鈍く照らしていた。
俺たちはフェンス沿いの道を進み、旧搬入路があったという地点へ向かった。そこにはまだ白い線の消えかけた道路が続いていたが、先頭のアンビーさんは手前で足を止めた。
「この先、見た目どおりには続いていないみたい」
道はまっすぐ伸びている。少なくとも俺の視覚にはそう映っていたので、何が問題なのか分からなかった。
『そのまま進まないで。路面の観測結果が、旧区画の図面と一致していないんだ。イアスの位置を基準に確認するよ』
アキラさんの声が端末を通して届く。イアスは道の端まで走っていき、そこで耳を動かして周囲を確かめたあと、引き返してきた。
直後、俺の持っていた通常の地図端末から、位置情報を再取得する通知が出た。画面に表示されていた自分の現在地が、さっき通り過ぎたはずの倉庫の裏側へ飛び、やがて確定できないという警告に変わる。
「NnnA。(……故障した?)」
『端末が壊れたわけじゃないよ。ここでは普通の位置合わせが当てにならないんだ。イアスが調べた経路を使おう』
俺は言われるまま地図を閉じ、イアスの後ろへ付いた。広場で作り始めた共有地図なら、誰かが実際に通った道と日付を残しておけば役に立つ。だが、今見ている道路は、記録を書き込むそばから正しい位置が分からなくなる。自分たちの地図で何でも案内できるようになった気でいたわけではないが、改めてその違いを見せつけられた思いだった。
イアスが選んだのは、正面の道路ではなく、荷下ろし用の古い屋根が連なった狭い通路だった。錆びた金具が壁から突き出し、足元には割れた照明カバーが散らばっている。建物と建物の隙間を抜ける間、頭上から聞こえる風の音が不意に途切れ、代わりに低い振動が床から伝わってきた。
そこを出たところで、俺は思わず振り返った。
先ほどまでいた道路が、見えなくなっていた。代わりにあるのは、窓のない建物の壁と、錆びた非常階段だけである。屋根の下を数十歩進んだ程度なのに、元の場所まで同じように戻れるとは思えなかった。
「NnnA。(……これ、帰るときはどうするんですか)」
俺が端末を示すと、イアスがぴたりと止まった。
『帰る経路も、その都度確認する。だから僕から離れないでほしい。古い図面を使うのは、建物や設備の手掛かりを探すときだけだよ』
落ち着いた声だった。分からないことを大丈夫だと言い切らず、その代わり何をすればよいかを教えてくれるところが、少しエンゾウさんに似ている。
俺が了解と打ち込むと、アンビーさんが前を向いたまま言った。
「それと、足元も見て。ホロウの道は、曲がり角だけが危険なわけじゃないから」
言い終わるより早く、彼女の靴先が床に転がっていた細い管を脇へ退けた。俺なら気づかず踏んでいたかもしれない。作業台では何度も触手を伸ばして部品を拾ってきたが、ここで同じことを繰り返すのは避けた方がよさそうだった。
*
古い仕分け施設へ着いた頃には、俺の電力表示が普段より少し早く減っていた。
歩行そのものに大きな負担はないはずだが、顔面表示の隅に出る周辺環境の警告を処理しているせいか、内部の冷却ファンが何度か回転を上げている。エーテル濃度の値も、見慣れない範囲で上下していた。故障なのか、ここではそれが普通なのかを俺には判断できないので、端末へ数値を保存し、予定より負荷が増えていると報告しておく。
ニコさんは記録を確認すると、あっさり休憩を指示した。
「無理して進むほど奥へ来てないわ。今のうちに電源と装備を見ておいて」
俺が壁際で端末を開く間、ビリーさんは通路の奥を見張り、アンビーさんは折れた手すりの向こうに視線を走らせていた。二人とも会話には加わらず、耳を澄ませている。何かが現れたわけではない。それでも、それまでのお気楽な調子が少し薄れたことで、俺まで音を立てないよう気を遣ってしまった。
イアスは休憩場所の端を調べ、古い案内板の前で立ち止まった。表面は傷だらけだったが、かろうじて《搬出管理》の文字が読める。アキラさんへ位置を送ると、ほどなく返事があった。
『その施設なら、旧工業区画の外側の図面にも載っていたよ。ここで積荷をまとめてから、工場のある側へ運んでいたらしい。搬出先の控えが残っていれば、もう少し場所を絞れるかもしれない』
俺は思わず顔を上げた。工場が残っている保証はないが、こうした設備に記録があれば、取り壊された後の搬出先まで分かる可能性がある。現地まで来なければ確かめられない情報というのは、まさにこういうものだろう。
もっとも、案内板の先は金属製の防火扉で塞がれていた。扉の下半分が床の歪みに食い込み、脇の操作盤も暗いままである。
「こりゃ駄目か? 俺様が開けてもいいけどよ、壊したら中の書類も巻き込むかもしれねえな」
ビリーさんが扉を軽く叩くと、内側から鈍い音が返った。力ずくならどうにかなりそうだが、向こう側の状態を確かめずに動かすのは危ない。
「NnnA。(……俺、少しだけ見てもいいですか。扉の外側の機構だけ)」
端末を差し出すと、ニコさんはすぐには頷かなかった。
「右腕の制限は? それに、この扉が何を支えてるか分かる?」
「NnnA。(右腕は使いません。蝶番と非常開放用の軸を外から見るだけです。押して動かす前に、皆さんに確認します)」
アンビーさんが上の枠と壁の継ぎ目を見てから、短く答えた。
「扉の上は大きく変形していない。でも、下は引っ掛かってる。急に開けば危ないかもしれないわ」
「なら、扉の前から離れて作業すること。それが条件よ」
ニコさんの許可を得て、俺は左手で検査灯を持ち、扉の脇へしゃがみ込んだ。古い非常開放用のカバーは半分外れており、内部の軸と、床側の固定具が錆びて固着している。扉の重量が掛かっているのは下端だけで、上の蝶番はまだ動かせそうだった。触手を伸ばせば奥まで調べられるかもしれないが、そこで何かを掴んでしまっても、俺一人では扉の動きを支えられない。
俺は端末へ簡単な図を描き、力を掛ける位置を説明した。ビリーさんが扉を押さえ、アンビーさんが周囲の安全を確認する。その間に俺が外側の非常開放軸を少しずつ回して、床に食い込んだ固定部を緩めるという手順だ。
「おっ、分かりやすいじゃねえか。そういうのは俺様に任せろ!」
「押すだけよ、ビリー。引っ張らないで」
「分かってるって!」
作業は思ったより地味だった。固まった軸を一気に回すと余計に噛み込むため、左手で支えた工具の柄へ細い触手を絡め、錆を落としながら少しずつ位置を戻していく。触手は扉の内側へ入れず、あくまで工具を回すためだけに使った。灰色の右手はほとんど動かさず、足りない力は短い工具で補った。やがて固定具が外れると、ビリーさんが力を緩め、扉の隙間を慎重に広げてくれた。
湿った紙と古い油の臭いが、その隙間から流れ出してきた。
「開いたわね。でも、中に入る前に調べる」
アンビーさんはそう告げて先に様子を確かめ、足元に崩れた棚がないことを確認してから、俺たちへ合図した。扉の向こうは狭い事務室で、机の引き出しは半分抜かれ、床には空のファイル箱が転がっていた。古い蛍光灯の管は割れているのに、天井には細い紫色の反射が走っている。窓のない部屋であることを考えると、あまり長居したい光景ではなかった。
イアスが棚の前へ進み、残った箱の番号を確かめた。俺も端末へ記録を写し、ワナビーの装置にあった保守記号と照合してみる。すぐに一致するものは見つからなかったが、いくつかの箱には《搬出完了》の印字があり、その下に搬出先ではなく、管理元の番号らしい数字が残っていた。
「NnnA。(……持ち出した後の記録はないのかな)」
『確認してみる。古い書式だけど、管理番号から別の台帳へ辿れる可能性はあるよ』
返事を待つ間、俺は空になった棚の並びを眺めた。紙の帳簿は湿気で傷み、端末の記憶装置は抜き取られている。どれも長い間放置された結果かもしれないし、ここを閉めるときに整理されたのかもしれない。見た目だけで誰かが証拠を隠したと決めるには、まだ材料が足りなかった。
しばらくして、イアスが机の下から薄い金属板を見つけてきた。
配送用の荷札を保護するための板らしく、角に残った穴からは切れた封印線が垂れている。片面は擦れていたが、裏側に刻まれた管理番号は読めた。アキラさんへ番号を送ると、向こうで何かを照合する音が続いた。
『……あった。ここで扱っていた荷物のうち、一部が旧工業区画の奥へ送られていた記録が残っている。施設の名前は空欄だけど、搬送先の区画番号と、荷物の分類は確認できたよ』
端末に送られてきた情報を開くと、搬送先は昨日から探していた古い番地の近くに位置していた。荷物の分類には《保守用交換品》という文字があり、その隣に、見覚えのある区分記号が続いている。
ワナビーの灰色の箱に残っていた刻印と、同じ並びだった。
「NnnA。(……これだ)」
俺は思わず画面を拡大した。形の似た記号が同じ順番で並んでいるだけでは、同じ装置の記録と断定できない。それでも、ようやく手にした具体的な手掛かりだった。俺は元の画像と照合結果を分けて保存し、ワナビーへ帰ってから見せられるよう、検査番号を付けておく。
「やったじゃない、ナロー。無駄足にはならなかったわね」
ニコさんが声を掛けてくれたが、俺はまだ画面から目を離せなかった。帰って、ワナビーと一緒にこの文字を読むところを想像する。あの子はきっと、一致した部分よりも、まだ分からない部分を先に指摘するのだろう。それでも、その相手に持ち帰れるものができたことは嬉しかった。
しかし、喜んでばかりもいられなかった。照合した搬送先は現在のホロウの奥側にあり、今日の調査だけでそこまで進むには、まだ距離と危険が残っている。
アキラさんも同じ結論だったらしい。
『ここから先は、改めて安全な道があるか確認する必要がある。時間も使ったし、今日はこの記録を持ち帰る選択もあるよ』
俺はニコさんを見上げた。契約では、予定外の危険が増えた場合、勝手に奥へ進まないと決めている。現地まで来たのだからもう少し、と言いたくなる気持ちはあったが、ワナビーのために出掛けて、何も持ち帰れなくなっては意味がない。
「NnnA。(今日は、ここまででも構いません。もう一つ先へ行くかは、皆さんが安全だと判断できる範囲で)」
端末を読んだニコさんは、少し満足そうに頷いた。
「分かってるじゃない。じゃあ、帰りの経路を確認して、それで余裕があれば隣の通路まで見る。危なければすぐ戻るわよ」
*
事務室を出た俺たちは、イアスが示した短い迂回路を使って、建物の外周を回ることになった。
高架の下は思った以上に暗く、赤く錆びた梁の隙間から差し込む紫色の光が、何かの水面を見ているように床へ揺れていた。足元には古い搬送レールが伸び、その途中で地面ごと壁へ呑み込まれたように途切れている。向こう側には別の建物が見えるが、距離感がおかしく、数歩進んだだけで窓の位置がずれた。
イアスが止まり、アキラさんの声が届く。
『この先の通路は、工場のある側へ繋がっている可能性が高い。ただ、奥の観測データがまだ足りない。今日はここで記録を取って、戻ろう』
その判断に、ニコさんも異論はなかった。アンビーさんは来た道を振り返り、ビリーさんが最後尾へ移って退路を確認する。俺も端末の時刻を見て、ワナビーと決めた帰還予定にはまだ余裕があることを確かめた。
そのとき、肩の奥で何かが動いた。
灰色の右腕ではない。外付けの関節も固定具も正常なのに、そのさらに内側、俺自身にも構造を説明できない場所から、熱を持ったような感覚が伝わってくる。いつもの修理で金属に触れたときとは違い、触れていないものの輪郭だけが、遠くからじわじわと押し寄せてくるようだった。
俺は足を止めた。何かがあればすぐに報告するつもりで、端末へ手を伸ばす。だが、文字を打つより先に、背中の外装の裏側で、黒い触手の先端が僅かに持ち上がった。
前方の高架下には、まだ何も見えない。アンビーさんもビリーさんも退路を確認しており、イアスは観測を続けている。
それなのに、俺の身体だけが、その先に何かあると知っているように動いた。
視界の端で、蓄電量の表示がひと目盛り下がった。