蓄電量がひと目盛り減ったのを見て、俺は慌てて右肩の外装へ手を当てた。
ついさっきまで何もなかった高架下に、何かがいるような気がする。目の前には錆びた搬送レールが続き、その先は紫がかった薄暗がりに沈んでいるだけなのに、肩の奥では細かな振動が収まらず、背中へ引っ込めていた触手まで出口を探すように動いていた。
「NnnA……。(……待て。そっちへは行かない)」
声に出したところで、誰に命令しているのか自分でも分からない。俺は外装の隙間を左手で押さえ、伸びかけた触手を引き戻そうとした。しかし今回は、引っ張る力を込める必要がほとんどなかった。意識を向けた途端に黒い先端がするりと引っ込み、右肩の違和感まで少し和らいだのである。
普段ならもっとぎこちない。細い触手を数本同時に扱おうとすれば、どれか一本の位置が分かりにくくなるし、形を変えるときも、思ったより時間がかかる。それなのに今は、収めようとした触手がほとんど抵抗なく動いてくれた。おかげで危険を避けられたはずなのに、妙に気持ちの悪い滑らかさだった。
「ナロー?」
アンビーさんが振り向いた。俺は端末へ短く《身体の内側で異常な反応。前方に何かある気がします》と打ち、彼女とニコさんへ見せる。自分の身体の話なら、まず自分で報告するべきだ。
「気配がするってこと?」
ニコさんが問い返すより早く、アンビーさんは高架下へ視線を戻した。ビリーさんも二丁の拳銃を抜き、俺とイアスの前へ回り込む。
「ナローが何か感じたなら、一応見とくか。俺様にも今のところは見えねえけどな」
『ちょっと待って。イアスの観測にも不規則な反応が出た。搬送レールの向こう、柱の陰だ』
アキラさんの声が聞こえると、イアスは俺のそばへ戻り、壁を背にした。全員が同じ方向を見ている。それでも、柱の向こうには古い配管と崩れた建材しかないように見えた。
アンビーさんが一歩前へ出る。
「ニコ、ここから離れた方がいい。何か動いてる」
その声とほとんど同時に、積み重なった配管の奥から黒い塊が滑り出した。
人間のように二本の脚を持っているのに、膝に当たる部分が妙な方向へ折れ、肩から上は尖った殻に覆われている。ところどころに紫色の結晶めいたものが突き出し、その奥で光る模様は、こちらを見る目なのか単なる発光部なのか判別できなかった。歩くたびに金属を硬い床へ擦りつけるような音がして、あの細長い身体から聞こえているとは思えないほど重く響く。
ホロウの中にいる異形の怪物、エーテリアス。映像や資料で見たことはあっても、目の前に立つのは初めてだった。
「二体。もう一体、上にいる」
アンビーさんが言った直後、頭上の梁から別の影が落ちてきた。鋭い腕が振り下ろされたが、彼女は身体を半歩ひねっただけでその軌道を外し、抜いた刃で相手の側面を斬りつけた。青白い電光が短く走り、着地し損ねた怪物の足元で火花が散る。
「よっしゃ、ここは俺様たちに任せとけ!」
ビリーさんの拳銃が連続して火を噴いた。乾いた発射音が梁の間で反響し、黒い殻へ弾丸が当たるたびに、硬いものの砕ける音が返ってくる。二体目の怪物がこちらへ向かいかけると、ニコさんがアタッシュケースを構え、紫色の力場を生む弾を撃ち込んだ。身体を引かれた怪物が体勢を崩し、その隙にビリーさんの射撃が集中する。
俺はといえば、壁際で端末を抱えたまま動けなかった。三人の連携を目で追うだけでも精一杯で、誰がどの怪物を相手にしているのか、次の瞬間には分からなくなっている。修理台の上なら、並んだ部品の状態を一つずつ確かめられる。だが、こちらへ向かってくる相手を前に、原因と手順を考えている余裕などなかった。
『ナロー、イアスと一緒に後ろへ下がって。今は退避が先だ』
俺は頷いてイアスの後ろへ続いた。足元の搬送レールをまたいだとき、ふと、自分の脚が妙に軽いことに気づく。段差の高さも、着地する位置も、ほとんど考えずに分かった。ホロウへ入ってから周囲の警告が増え、電池まで早く減っているのに、歩行や触手の動かし方だけは普段よりずっと自然に感じられる。
それが何を意味するのか考える前に、背後で大きな音がした。
アンビーさんが斬った一体が柱へ叩きつけられ、尖った殻の一部を散らしている。まだ動こうとしていたが、彼女が踏み込み、電光を帯びた一撃を重ねると、その動きは途切れた。残った一体もビリーさんの射撃に押され、ニコさんの力場へ身体を引かれている。
戦いは、俺が思っていたよりずっと早く終わりかけていた。少なくとも、そう見えた。
*
倒れたエーテリアスのすぐそばを通らずに済むよう、イアスは壁沿いの通路へ進路を変えた。
アンビーさんたちが周囲を確かめている間、俺は移動を続けるつもりだった。ところが、レールの継ぎ目を越えたところで、背中の奥が急に熱を帯びた。さっき感じたものより、ずっとはっきりした感覚だった。
倒れた怪物の身体から、何かがこちらへ流れてくるような気がする。
正確には、触れれば流れ込んでくるはずのものを、身体が先に知っている。普段、切れた配線に触手を当てると、電気の通る場所と断線した場所の違いが分かる。傷んだ軸受けなら、どこを削り、どこへ材料を足せばよいかが、工具を手に取るより先に浮かんでくる。
いま目の前にあるのも、それと似た感覚だった。だが、分かるのは壊れた場所ではない。殻の内側にある不規則な空間と、そこへ何かを通すための隙間ばかりが、ひどく魅力的な形をしている。
「NnnA……。(……何だ、これ)」
背中の外装が押し上げられた。
自分で動かそうとした覚えはない。それなのに、黒い触手が一本、外装の隙間から伸びていく。俺が引き戻そうと意識を向けたときには、先端は既に床を這い、倒れたエーテリアスへ届きかけていた。
まずい。
俺は左手で外装を押さえ、触手を引き戻そうとした。ところが、いつもの修理で使う「戻れ」という感覚が、なぜか途中で別の意味に変わってしまう。引き込むつもりが、先端の向こうにある隙間へさらに入り込もうとしている。細い黒いものが床を滑り、怪物の割れた殻へ触れた。
その瞬間、俺の視界にないはずの輪郭が現れた。
砕けた殻の内側を、細い管のような構造が幾重にも走っている。向こうから流れてくる紫色の光が、その隙間を満たしては途切れる。硬い部分と柔らかい部分が同じものとして繋がり、どこまでが相手の身体なのか、はっきりしない。見ているのではなく、触れた先の形がこちらへ押し込まれてくるようだった。
そこへ、俺の触手が入り込もうとする。
壊れた場所を直すのではない。相手の中へ自分の通り道を作り、繋いだまま離れないように、先端が細かく枝分かれし始めた。
「NnnAッ!(……やめろ!)」
俺が叫ぶと、ビリーさんが振り向いた。
「ナロー!? おい、どうした!」
返事をするための文字が打てない。目の前で見えている景色と、触手の先から流れてくる形が重なり、端末の位置すら分かりにくくなっていた。敵の残骸を材料に使えると考えたわけではないし、動かなくなった怪物へ触れてみたいとも思っていない。それでも身体のどこかは、繋がることが当然だと判断していた。
胸の奥から、急に熱が引いていく。
視界の隅に警告が増えた。電池の残量だけではない。普段の修理では見たことのない項目が、更新されるたびに赤へ変わっている。何かを使い果たしかけている感覚があるのに、それが何なのか分からなかった。
「ナロー、動かないで。こっちを見る」
アンビーさんの声が近くでした。彼女は俺の前にしゃがみ、倒れた怪物と俺の触手を交互に見ている。
「その黒いの、戻せる?」
俺は頷こうとしたが、思ったように頭が動かなかった。代わりに、左手で床を押して身体を後ろへずらす。触手が伸びきり、背中の内側に不快な引っ張られ方が伝わった。まだ繋がっている。それでも、距離を取れば切れるかもしれない。
「ビリー、残ってる方をお願い。ニコ、足元を空けて」
「了解だ!」
少し離れた場所で銃声が響き、最後まで動こうとしていたエーテリアスの殻が砕けた。ニコさんは俺の横へ来ると、絡まりかけていた荷札の金具と配線を足で払って退路を開けてくれた。誰も俺の触手を無理に引きちぎろうとはしない。
「ナロー、引っ張れるなら自分で下がりなさい。無理なら言って。勝手に触らないから」
その言葉を聞いた途端、ほんの少しだけ考える余裕が戻った。
俺は修理屋だ。相手の機械の中身が分からなければ、手を付けない。何をしている装置なのか理解できないときは、エンゾウさんに相談する。ワナビーの胸の奥に触れかけたときだって、それ以上は進まないと自分で決めた。
今も同じはずだ。目の前の得体の知れないものを、知らないまま繋いでいい理由などない。
俺は触手の先端を細くするのをやめ、繋がった部分をほどくことだけを考えた。自分の内側に戻る道筋を一つずつ確かめるように意識を向け、左手で床を押しながらゆっくり後退する。
黒い糸が、殻の割れ目から一本ずつ抜けていく。途中で何かが引っ掛かり、今度こそ離れないのではないかと思ったが、アンビーさんが俺の進む先を確保し、ニコさんが身体の傾きを支えてくれたおかげで、ようやく最後の一本まで引き抜くことができた。
俺はそのまま壁に背中を預け、動けなくなった。
触れていたのは僅かな時間だったはずだ。だが、警告表示に並んだ消費量は、さっき扉の軸を直したときとは比べものにならない数字になっていた。右腕の外付け機構は正常なのに、本体側の残量だけが大きく減っている。
さらに、触手を収めた背中の奥には、冷たい液体を流し込まれたような感覚が残っていた。俺はその意味を知らないし、身体のどこが冷えているのかも説明できなかった。
「……戻せたみたいね」
ニコさんが俺の様子を見て、少し息をついた。
「ちょっと、何が起きたの? エーテリアスに触るなって、普通は言われなくても分かるでしょ」
怒鳴られても仕方がない。俺は端末を持ち直し、《自分で触ろうとしたわけではありません。身体の内側から勝手に伸びました》と入力して、彼女へ見せた。
ニコさんはそれを読むと、顔つきを変えた。
「……じゃあ、今のは自分でも止められなかったの?」
「NnnA。(途中までは。戻すのも、なかなか……)」
文字の入力が追いつかず、俺は後半を表示し直した。ビリーさんが壊れた怪物の方を見てから、俺の隣へしゃがみ込む。
「ナロー、何かを直そうとしたなら、俺様も分からなくはねえさ。でも、知らねえものに勝手に身体が伸びるってのは、ちょっと笑えねえな」
「しかも、エーテリアス相手にね」
ニコさんは端末の表示を確かめ、俺の外装や右肩に目立つ損傷がないことを確認した。アンビーさんも少し離れたところで周囲を見張りながら、何度かこちらの様子を確かめている。
『ナロー、もし記録を取れるなら、今の時刻と消費電力を残してほしい。身体の異常については、戻ってから専門家に見てもらおう。ここで詳しく調べるのは危険だ』
アキラさんの声は普段と変わらず穏やかだったが、すぐに原因を推測しようとはしなかった。俺は端末を操作し、時刻と警告の履歴を保存した。さっきまでの妙な軽さはすっかり消え、代わりに手足の動きが鈍く感じられる。
「NnnA。(……分かりました。今日はもう、戻りたいです)」
「そう言ってくれて助かったわ。あたしも同じことを考えてたところ」
ニコさんは立ち上がると、イアスへ帰路の確認を頼んだ。
*
帰り道は、来たときより長く感じられた。
イアスが先導し、アンビーさんが進路の安全を確かめてくれる。ビリーさんは俺の歩幅に合わせて最後尾を歩き、ニコさんは何度か電力表示を見て、必要なら予備セルを使うよう促してくれた。実際にはまだ歩けるだけの電力が残っていたが、さっきのように予告なく大きく減る可能性を考えると、安心できる数字ではなかった。
それに、どうも辻褄が合わないことがある。
ホロウへ入ってから、俺はずっと身体の調子がよいと思っていた。薄暗い通路の幅が普段より正確に分かり、僅かな段差にも引っ掛からず、触手を出し入れするのも滑らかだった。怪物が現れたときには身体を動かせなかったが、それは恐怖のせいであって、機体の反応が鈍かったわけではない。
ならば、最初から気づいておくべきだった。慣れないホロウで、何もしていないのに急に身体が動かしやすくなる方がおかしい。普段より上手く扱えているつもりでも、その動きがどこまで自分の意思によるものなのか、俺には区別できていなかった。
それを認めた途端、少し寒くなったように感じた。もちろん、この身体が本当に寒さを感じているのか、内部のセンサーが何かの変化をそう伝えているだけなのかは分からない。
「NnnA。(……俺、ホロウに入ってから調子がいいと思ってたんです)」
立ち止まった隙に端末へ入力し、ニコさんに見せた。彼女は眉を寄せ、俺が続けた文章を読み進める。
《手足も、触手も、いつもより自然に動きました。でも、電気は普段より減っていました》
《怪物に触れる直前が、一番よく動いていた気がします》
「調子がいいのと、安全なのは別ってことね」
「NnnA。(はい。……さっきまで、その違いを考えてませんでした)」
ニコさんは俺の肩を見てから、少し考えた。
「機械のことはあんたの方が詳しいんでしょうけど、ホロウで妙なことが起きたら、良い兆候だと思わない方がいいわ。エーテルは便利な資源でもあるけど、ここじゃ危ないものなんだから」
俺は頷いた。電力消費が増えているからといって、どこかでエーテルを燃料として使えているとは限らない。現に、蓄電量は減ったままだし、触手の奥には得体の知れない違和感が残っている。さっきエーテリアスから何かを持ち帰ったのか、それとも、ただ消耗しただけなのかさえ分からなかった。
最後尾のビリーさんが、わざとらしく明るい声を出した。
「ま、俺様だってホロウで絶好調だからって、点検しなくていいわけじゃねえしな! 帰ったらエンゾウのとこでしっかり見てもらえよ」
「NnnA。(……そうします)」
「それと、今日のことはワナビーにも話せよ。心配させたくねえのは分かるけど、黙ってたら余計に怒られちまうぜ」
まったく、そのとおりだ。あの子は俺が腕の調子を隠していたら、きっと検査記録から見つけて問い詰めるだろう。その姿を想像すると少し笑えて、同時に、無事に帰って話せることがありがたかった。
俺たちは崩れた搬送路を迂回し、来たときに通った仕分け施設の裏側へ出た。もう一度狭い事務室を通れば外縁へ戻れるらしいが、イアスが途中で立ち止まり、アキラさんから短い連絡が入った。
『ここでひとつ確認したいものがある。危険な場所へ寄り道する必要はないよ。帰路のすぐ脇に、古い搬送設備が残っているんだ』
示されたのは、廊下の壁に埋め込まれた荷物用の小さな昇降口だった。扉は開かず、操作盤にも電源は入っていない。だが、その脇には現場で使う配送票を差し込む金属製の枠があり、風で半分剥がれた紙が何枚か引っ掛かっていた。
アンビーさんが廊下の先を確かめてから、こちらへ頷く。
「見るだけなら大丈夫。ただし、扉は開けないで」
『うん。記録を撮るだけでいい』
イアスが紙片へカメラを向けると、俺の端末にも拡大画像が届いた。水に濡れたような変色と、長い年月で剥げた印刷のせいで読めない部分が多い。それでも、紙の端に残った区分記号は、さっき見つけた荷札の番号と続いていた。
《保守用交換品》
《専用担体・低温保管》
《搬送先:管理区画――》
俺は最後の行に目を留めた。削れているのは施設名の部分で、その下には区画番号だけが残っている。アキラさんは昨日の古い索引を呼び出し、イアスから送られた番号を照合し始めた。
『……一致した。最初に探していた旧工場の番地と、この搬送先は同じ区画にある。建物が残っているかはまだ分からないけれど、少なくとも、交換品を運んでいた経路までは辿れそうだ』
俺は思わず胸を撫で下ろした。あの怪物と触れ合った後で、また何かを見つけたからといって深入りするつもりはない。それでも、手ぶらで帰らずに済むことは、ワナビーへ説明するうえでも大きかった。
「やったじゃない。これで次に調べる場所も絞れそうね」
ニコさんが言った。現地へもう一度入る必要があるなら、危険性や俺の身体の状態も含めて依頼条件を考え直すことになるだろう。少なくとも、今日のような調査の仕方を繰り返すわけにはいかない。
アキラさんから送られてきた追加資料には、古い搬送路の終点として、一つの建物の輪郭が記されていた。そこだけ他の施設より壁が厚く、搬入用の昇降設備と、温度管理された保管室らしい区画が併設されている。
普通の工場であれば、材料を保管するための設備なのだろう。だが、保守用交換品の送り先にしては、何となく大掛かりに思えた。
俺がそのことを端末へ打ちかけたところで、リンさんの声が聞こえてきた。
『お兄ちゃん、少し待って。その資料、搬送先の設備名が一つだけ残ってる』
『どこ?』
『一番下。施設名じゃなくて、管理区画の用途欄』
画面の端に新しい項目が開かれた。欠けた文字の間には、数字と記号が何列も並んでいる。その末尾に、他の保管室とは違う区分があった。
《生体適合材料・試験保管区画》
俺はその文字を何度も読み返した。
生体適合。医療機器や人体に触れる材料にも使われる言葉だったはずだ。しかし、ワナビーの胸の装置が何を循環させているかも分からない今、その分類だけで何かを決めつけるわけにはいかない。
それでも、昨日までただの交換材としか呼べなかったものに、ようやく別の名前が付いた。
端末にはもう一行、保管設備の状態を示す記録が残っていた。
《最終搬入後、管理記録の継続なし》
その先には、何も表示されなかった。