ホロウから戻った俺を見て、ワナビーは最初に右腕の検査記録を要求した。
「ンナ。(先に、ナローの方)」
「NnnA。(……ただいま、くらい言わせてくれない?)」
「ンナ。(おかえり。記録)」
このあたりの融通の利かなさは、実に彼女らしい。ンナンナ広場の作業台へ腰を下ろすと、ワナビーは既に用意していた充電ケーブルを差し出し、俺が取り出した端末から電力消費の履歴を受け取った。離れていた間にグレイとフルカブが引き受けた仕事はきちんと片付いているらしく、工具棚も修理台も出掛けたときより整然としていた。乾いた木箱の匂いと充電器の小さな作動音に包まれると、帰り道でずっと張り詰めていたものがようやく緩んでいく。
俺はホロウで起きたことを、なるべく順番どおりに説明した。古い仕分け施設で保守用交換品の記録を見つけたこと、エーテリアスに襲われたこと、触手が勝手に伸びて、その身体へ入り込もうとしたこと。調子がよくなったように感じていたのに、結果として普段より大きな電力を消費したことも、隠さなかった。
「ンナ。(……帰ってきてよかった)」
記録を読み終えたワナビーは、まずそう言った。それから異常な消費が始まった時刻に印を付け、明朝まで継続して計測するよう俺の端末へ予定を追加した。叱られるかと思っていたので少し拍子抜けしたが、彼女が画面へ《次は、ひとりで異常を確かめようとしない》と書き足したのを見て、やはり怒っているのだと分かった。
「NnnA。(うん。もう、あんなものに触れるつもりはない)」
「ンナ。(つもりがなくても、動いた)」
「NnnA。(……そうだった)」
ワナビーは俺の左手を握ったまま、約束の言い方を変えるよう促した。次に同じ反応が起きたら、立ち止まり、同行者に知らせ、対象から離れること。自分の判断だけで押さえ込めると思わないこと。どうやら、心配する側とされる側が入れ替わっても、俺たちのやることは大して変わらないらしい。
翌朝までの測定では、右腕の外付け機構にも歩行系にも新たな損傷は見つからず、昨夜の異常な電力消費も繰り返されなかった。エンゾウさんにも外側から確認できる記録を見てもらったが、未知の内部へ手を入れずに安全を保証する方法はなく、ホロウへ戻るなら作業範囲をさらに絞るべきだという結論だった。
それを踏まえて、ニコさんたちともう一度相談した。旧工場へ進むには追加の現地調査費がかかる。前に見つけた搬送記録を使えば探索する範囲は狭められるものの、建物の中で何が起こるかは分からない。俺が危険な反応を起こしたら、その時点で撤退する。それでも危険が大きいと判断された場合は、そもそも中へ入らない。条件を一つずつ確認してから、俺たちは再調査の依頼に署名した。
ワナビーは今回も広場へ残ると決めた。俺が心配している間に、グレイと協力して手元の保守履歴を整理し、交換材の残量が急に変わっていないことも確かめていた。さらに、現地で装置固有の情報が見つかったときに照合できるよう、本人の許可で外側の保守端子から読み出した識別情報を追加してくれた。ただし、持参するのは照合に必要な項目だけで、胸部の写真も日々の生活記録も含まれていない。
「ンナ。(説明書があれば、私も読む)」
「NnnA。(もちろん。持って帰るよ)」
「ンナ。(中身が変だったら、それも)」
その言葉を聞いたとき、俺は少しだけ返事に詰まった。昨日見つけた《生体適合材料》という表示が気になっていたからだ。けれど、彼女はもう、自分の装置が普通のボンプと同じ仕組みではないと知っている。何が書かれていようと、本人に知らせず勝手に処分する権利は俺にはなかった。
「NnnA。(……分かった。確かめられたことは、隠さない)」
ワナビーは頷き、俺の荷物へ予備セルを一つだけ追加した。
*
再びホロウへ入ったとき、俺は自分の足音に注意していた。
前と同じように、境界を越えるにつれて遠近感が頼りなくなり、紫色の靄が建物の輪郭を鈍らせていく。足元には細かな砂が溜まっていたが、乾いた金属の匂いに混じって、どこからともなく湿ったコンクリートの臭いが漂っていた。周囲の警告は少しずつ増えていく。それでも、自分の身体が歩きやすく感じられる瞬間があることは、もう驚きではなかった。
問題は、感じたとおりに動かしてよいかどうかだった。
イアスの後ろを歩きながら、俺は触手を外装の内側に収めたまま、意識して左手を使った。伸びたくなったら伸ばすのではなく、必要のない動作を一つずつやめる。視界の端には前日から追加した警告表示があり、通常とは異なる消費が始まればすぐに分かるようにしてある。念のため、異常が出たときの合図も同行者と決めていた。
「ナロー、歩く速度は大丈夫?」
先頭のアンビーさんが振り向く。俺が了承を端末へ表示すると、彼女は頷いて通路の先へ目を戻した。
「無理して合わせなくていいから。今日は逃げ道の確認を先に済ませるわ」
「へへっ、俺様も今日は真面目な護衛役に徹するぜ。ナローがまた変なものに触りそうになったら、ちゃんと教えてくれよ!」
「ビリー。まず敵を見て」
「おっと、そっちも忘れちゃいけねえな!」
少しだけ肩の力が抜けた。ニコさんは費用と時間の上限を再確認しており、以前見つけた仕分け施設を経由して旧工場へ向かうという手順も変わらない。ただ、昨日は立ち止まって眺めるしかなかった搬送路の終点まで、今度はイアスが安全を確かめながら少しずつ進路を伸ばしてくれた。
アキラさんの声は、今日もイアスと端末を通じて届いていた。
『前に記録した場所との照合は取れたよ。これから先は未確認の区間になる。少しでも危険が増えたら、入口まで戻るからね』
その判断に任せて進むと、やがて廊下の向こうに厚い壁が現れた。古い冷蔵倉庫のような構造で、外側には冷却設備の配管が何本も這っている。しかし冷却機の大半は既に取り外され、壁面には配管を抜いた跡が黒く残っていた。出入口に設けられた看板は外されていたが、その下には小さな管理番号だけが残っている。
俺の端末が、昨日見つけた搬送先の番号と一致したことを示した。
「NnnA。(……ここだ)」
目的の工場が、建物の形だけでも残っていた。嬉しいと言いたいところだったが、扉の周囲の様子が妙だった。解体の途中で作業をやめたような切断面もあれば、工具を使って丁寧に外された機材の跡もある。ホロウに呑まれたために設備が壊れたというより、その前から使われなくなっていた場所へ、後からホロウが重なったように見えた。
もっとも、それだけでは閉鎖された理由も時期も分からない。俺は近くの壁にあった旧式の保守表示を撮影し、エンゾウさんが教えてくれたとおり、分からないものを動かさずに記録を残した。
*
中に入ると、まず機械の少なさが気になった。
製造施設なら、少なくとも部品を加工するための設備があるはずだ。しかし広い作業場に残っていたのは、床に固定された架台と、切断された配線、移動用の細いレールばかりだった。壁際には温度管理用と思われる装置が並んでいたが、保管庫の中は空で、引き出しもほとんど抜かれている。床に散らばった樹脂製の留め具を踏むと、乾いた音が静かな室内へやけに大きく響いた。
「ずいぶん綺麗に持ち出してるわね。普通に廃業した工場でも、ここまで空っぽになるものかしら」
ニコさんは棚の列を見渡しながら言った。アンビーさんは奥の隔壁と天井の継ぎ目を確かめ、ビリーさんが入口から見える通路を警戒している。誰かが残したものを探すより、まず自分たちが安全に帰れるかを確認しているのだ。
俺も勝手に触手を伸ばすことはしなかった。ただ、レール脇に取り付けられた小型の支持具を眺めているうちに、見覚えのある形があることに気づく。二本の管を固定するための幅の狭い金具で、ワナビーの胸の奥にあった灰色の箱と、寸法の取り方がよく似ていた。
似ているだけなら、ほかの機械にもある。俺はそこへ手を伸ばさず、写真を撮って番号を控えた。
イアスが先へ進み、作業場の奥に残された管理室の前で立ち止まる。部屋の壁はほかより厚く、扉の横には古い記録端末が取り付けられていた。画面は割れ、給電用の端子も腐食していたが、内部の記憶装置らしい部分は破損を免れているように見えた。
『記録が残っている可能性はあるね。端末そのものを動かすより、取り出せる情報だけ確認したい』
アキラさんの声に、俺は了承した。こういう作業なら自分が役に立てるかもしれないと思ったが、さっきから続く妙な身体の軽さを思い出し、触手は使わずにイアスが観察できる範囲だけを写真に収める。筐体を開ける必要が生じたときも、俺が勝手に内部へ入り込むのではなく、工具で外せる箇所を確認してから作業することにした。
記憶装置は密閉ケースに入っていた。ケース自体は破損していなかったため、必要な部分を一度だけ外し、イアスが持ってきた読み取り器へ接続する。端末を丸ごと起動させることはせず、読み出したデータも元の記憶装置へ書き込まない。何が保存されているか分からない以上、余計な処理で壊したり、改変したりするのは避けたかった。
最初に開けたのは、保管設備の台帳だった。
《設備用途:循環補助材・保守部材の試験保管》
《搬出状況:最終搬出済》
《管理終了:記録あり》
搬入記録の番号は、昨日の紙片と一致していた。欠落した施設名の欄はここでも空白のままだったが、少なくとも俺たちが間違った建物へ来たわけではなさそうだ。
「ここまで運んだ交換材は、全部持ち出されたってこと?」
『台帳上はそうなってる。ただ、機材の保守履歴は別の区画に保存されていたみたいだ。そちらも確認するよ』
リンさんの声が端末から届き、画面の項目が切り替わった。兄妹はビデオ屋にいるはずなので、こちらで見ることのできない資料を向こうで照合しているのだろう。少し間を置いて、端末へ新しい一覧が届いた。
そこには、俺が知りたかった言葉があった。
《循環補助系統》
《交換材管理》
《補正動作》
「NnnA。(……同じだ。ワナビーの装置にもある)」
思わず身を乗り出しかけたが、俺はまず端末へ比較結果を表示した。持参した保守記号と装置の改訂番号が一致し、ワナビーから許可をもらっていた固有識別情報にも、ここで使われた設備の登録欄と同じ値があった。さらにポンプの標準波形を表示してもらうと、三つの山を繰り返す独特な圧力制御が記録されている。今は三つ目の頂点が欠けているものの、基本的な周期と圧力の切り替え位置は、俺たちが広場で測った値と重なった。
同じ種類の装置というだけではなく、ここにはワナビーの胸部装置そのものを扱った記録がある。
ようやく、その可能性を言葉にできた。
「NnnA。(……これなら、何を補充すればいいか分かるかもしれない)」
ニコさんが俺の画面を覗き込み、ほっとしたように肩を下ろした。
「よかったじゃない。あとは交換材の仕様書が見つかれば、依頼の目的は達成ね」
ところが、次の画面を開いたところで、彼女の表情が変わった。
*
保守資料は、普通の取扱説明書とは違っていた。
最初に並んでいたのは交換材の成分表ではなく、個体ごとの測定記録だった。ポンプの負荷、液体の交換効率、圧力の補正回数といった項目までは理解できる。しかし、その隣には《酸素移送》《代謝産物回収》《神経組織保全》という言葉が並んでいた。
俺は画面を何度か見直した。医療用の装置だったのだろうか。生体に適した材料を使っている理由としては、確かに筋が通る。だが、俺がワナビーの胸から外側だけを点検したとき、そこに何が入っているかまでは分からなかった。透明な管と小さな容器と、灰色の箱。少なくとも、普通のボンプに必要なものではない。
「NnnA。(……これ、医療機器の記録なんですか?)」
ニコさんは返事をせず、イアスの方を見た。アキラさんが少し考えてから答える。
『そういう用途の装置に見える。ただ、今はまだ、何を維持するための機械なのか分からない。別の記録と合わせて確かめたい』
俺は了承し、次の画面が開くのを待った。
少しして、リンさんの声がした。
『……お兄ちゃん。この項目、本当に同じ装置のもの?』
『識別情報は一致してる。けど、転記や分類の間違いがあるかもしれない。元の記録も見てみよう』
それから二人の声が途切れ、端末には読み取り中を示す小さな表示だけが残った。イアスは管理室の入口で動かず、アンビーさんも周囲の安全を確かめながら、時折こちらを見ている。見知らぬ施設の中で待っていると、電源を切った記憶装置から拾っている数字の方が、外にいる怪物よりも怖く感じられた。
ようやくアキラさんの声が戻ってきた。
『ナロー。確認しておきたい。ここまでに見つけたものは、まだ検査記録の一部だ。見間違いや、別の用途の情報が混じっている可能性もある。だから、いったん戻ってから精査した方がいいと思う』
「……あたしも、そうした方がいいと思うわ」
ニコさんの声は、普段よりずっと低かった。現地調査の時間が残っていることも、帰るための経路が確保されていることも、俺には分かっている。それでも、みんなが急に話を切り上げようとしているのが、単に危険を避けるためだけとは思えなかった。
「NnnA。(……何か見つかったんですか)」
俺は端末の文字を大きくして示した。
『見つかった。けれど、君の大切な相手に関わる話だから、僕たちだけで判断していいものか迷ってる』
「NnnA。(ワナビーのことなら、今教えてください。分からない部分があるなら、それも含めて)」
胸の奥がざわついていた。ホロウへ来てから感じていた、身体の動きやすさとは違う。俺はもう一度画面を開き、ワナビーが出発前に入力した《中身が変だったら、それも》という言葉を見た。あの子が知りたいと言ったのに、俺の方が怖いからといって目を閉じていいはずがない。
『……分かった。ただ、一つずつ説明するよ。途中で判断できないことがあれば、そう言う』
イアスから届いた記録が、俺の端末へ表示された。
最初に目に入ったのは、機械の図面ではなかった。
*
《素体生成区分:同一原型由来・複製系列》
《初期評価:運動・反応適性/基準未達》
《運用区分変更:移植用組織および臓器の供給》
何かの分類表なのだと思った。けれど、後ろに続く一覧を読み進めるうちに、その理解では済まないことが分かってきた。同じ原型を示す番号の下に、複数の個体識別符号と検査日付が並んでいる。形態、運動反応、適合する組織、搬出先。どの欄にも数値が細かく記録されていたが、名前を書く場所は最初から用意されていなかった。
「NnnA。(……これ、人間の記録ですよね)」
『そうだと思う。少なくとも、記録の形式と内容はそう示してる』
「NnnA。(複製系列って……同じ人から、何人も作ったってことですか)」
『そのように読める。ただ、元になった人や、誰が何のために許可したのかまでは、ここには出ていない』
画面には、ある個体が要求された反応速度に届かず、別の個体は身体機能の一部が基準を満たさなかったことが記されていた。不合格となった理由はまちまちなのに、その後の扱いは似通っている。移植先との適合判定を受け、利用できる組織を登録され、順番に搬出される。初めから臓器を作るための施設だったのか、別の目的で作ったものを転用したのか、まだ判然としなかった。
俺はその中で、経過観察の欄がひときわ長い個体に目を留めた。ほかの検体では一定の間隔で更新されている身体寸法が、何度測り直してもほとんど変わっていない。測定器の不良も疑われたらしく、別の方式で再検査した記録まで残っていた。
《検体属性:ヒト型/女性》
《成長評価:体躯発育停滞》
《成熟指標:基準未達/到達時期算定不能》
《運動適性:供用基準外》
年齢に当たる欄はなく、培養工程のどこで異常が起きたのかも記録されていない。ただ、予定された大きさや成熟度へ届かない状態が続き、何度検査しても判定が変わらなかったことだけは読み取れた。添付された身体寸法の比較図でも、体幹や四肢の測定値は成人相当の基準範囲に届いていなかった。
その個体にも、やがて別の用途が割り当てられていた。身体が小さいせいで供給に適さない臓器があったらしく、不適合と記された項目が多い。それでも、使えると判定されたものは、ほかの個体と同じように搬出予定へ組み込まれている。
俺は画面を下へ送った。
《処置記録:眼球・片側/搬出済》
《術後管理:循環・体温維持/安定》
《次回供給判定:実施可》
次の記録には、別の臓器の搬出と、欠損した機能を外部装置で補ったことが書かれていた。その後も測定、適合判定、搬出、維持処置が繰り返されている。記録の間に日付が挟まっているから、それぞれが別の日の出来事だと分かる。搬出先の受領確認や作業費の欄は埋められていたが、本人の希望や同意を確かめた記載は見当たらなかった。処置が増えるにつれて、身体そのものの働きは減っていき、代わりに必要な機械の数だけが増えていた。
外部循環器の交換、管路の清掃、警報閾値の再調整。故障した部分は翌回の検査まで放置されず、消耗品の交換も予定どおり行われていた。配管の接続部に漏れが見つかれば作業者が原因を調べ、測定値が規格から外れれば再検査の指示が出ている。修理屋として見れば、管理はむしろ丁寧な部類だった。
だから、次の行の意味がすぐに分かってしまった。
《維持目標:次期搬出予定までの供給能力保持》
この人たちは、目の前の身体が少しでも長く暮らせるようにと、機械を直していたわけではない。次に取り出すものが使い物になるよう、残った部分を壊さず保っていたのだ。俺が毎日やっている修理と、部品を点検し、傷んだところを交換する手順はよく似ている。その目的だけが、どうしようもなく違っていた。
俺は無意識に左手を握り込んだ。丸い手の内側へ当たる外装の感覚が戻ってきたところで、ようやく自分がしばらく画面を見つめたまま動いていなかったことに気づいた。
「NnnA。(……この人たち、生きていたんですよね)」
すぐには返事がなかった。アキラさんは記録を確かめ直したあと、慎重に答えた。
『少なくとも、処置の前後に生体機能が確認されている。ただ、どの時点で意識があったか、痛みを感じていたかまでは、この資料だけでは分からない』
その区別は必要なのだと思う。記録には麻酔や鎮静に関する管理項目もあったが、当人が何を感じ、どんな言葉を発したのかは書かれていなかった。苦しんでいたに違いないと決めつけるのも、何も感じなかったはずだと片付けるのも、ここに残る情報だけではできない。
発育の停滞が記録されていた個体の履歴は、まだ続いていた。ほかの検体では処置を終えたところで記録が切れているものもあるのに、この個体だけは維持装置の追加に合わせて保守履歴が長くなっている。やがて四肢の末端に循環不全が生じ、壊死と診断された部分について、切除と代替装置の設置が承認されていた。
《末梢組織評価:不可逆的な循環障害》
《処置:該当部位切除/生命維持系統更新》
《供給可能組織:再評価》
不要になった部位を外し、必要な装置を取り付け、残りの機能を確かめる。書類の上では前の処置と変わらず、交換部材の型式と作業に要した時間まで残っていた。誰がそれを受けたのかより、何を取り外し、次に何を利用できるかの方が細かく記録されている。途中から生体組織の維持費が増えたことまで分かったが、その身体の持ち主を何と呼んでいたのかは、最後まで見つからなかった。
そこで、何度も現れる保守系統の名称に、俺はようやく気づいた。
《循環補助系統:試験仕様》
《交換材管理:有効》
《補正動作:連続記録》
ワナビーの端末で見たものと、同じだった。
「NnnA。(……待って。どうして、この人の記録にワナビーの装置があるんですか)」
表示された文字を、誰もすぐには否定しなかった。
俺はさらに照合欄を開いた。昨日確認した搬送先の番号、広場から持参した装置固有の識別情報、研究施設で使われていた管理記号。その三つが、画面上で同じ個体の履歴へ結び付いている。偶然似た部品を使っただけなのだと考えたかったが、波形の制御周期も、取り付けられた補助回路の改訂番号も一致していた。
それでも、何かを取り違えている可能性はある。俺はその確認を求めた。
「NnnA。(……別の個体の記録と混ざってるんじゃないですか。番号の使い回しとか、読み取りの間違いとか)」
『可能性は考えた。でも、別々に保存されていた設備台帳と検体記録が同じ識別情報を指している。全部が同じ間違いをしていると考えるより、今は関連する資料だと判断する方が自然だと思う』
アキラさんはそう答えた。断定しない言い方だったからこそ、かえって逃げ道がなくなった。
俺はもう一度、最初にワナビーの胸を開いた日のことを思い出した。あのとき、摩耗していたのは循環ポンプの軸受けだった。電源系統も不安定で、そこだけなら普通の機械として直すことができた。しかし、その奥へ触手を入れかけたとき、何か柔らかいものへ引っ掛かり、慌てて手を引っ込めた。分からないから触らない、と決めた判断を、ワナビーは今でも覚えている。
あの奥には、何があったのだろう。
画面の下へ、次の記録が現れた。
《中枢神経組織:保全対象へ区分変更》
《既存身体による維持:費用対効果不良》
《代替容器への移設試験:承認》
俺は文字を目で追った。脳と、それに接続された必要な神経組織を取り出し、別の装置で生かし続ける試験が行われたらしい。図面には小型の循環容器と、神経信号を受けるための変換回路が描かれていた。手足を動かすことも、声を出すことも、元の身体の仕組みではもうできない。それを補うための機械として、別の装置が選ばれている。
設計資料には、中枢神経組織の寸法と、収容に必要な空間を測った数値も残っていた。同系列の標準規格より小さいという記載があり、それに合わせて容器や補助装置の配置を詰め直したらしい。だから筐体まで小さくしたのだろうか。俺には設計上の都合以上のことは分からないし、そんな寸法の違いから、誰かの知能や人格について判断できるわけでもなかった。
そこで、図面の外形を見て、俺はようやく理解した。
丸い頭と短い耳、胸に収められた小さな容器。二本の管が灰色の交換材管理器へ繋がり、周囲の装置がその容器の状態を保つために動いている。
ボンプの機体だった。
アンビーさんが俺の傍らに来た気配がしたが、俺は顔を上げられなかった。ビリーさんも黙っている。ニコさんは画面を見たまま、何度か何かを言いかけて、結局口を閉じた。
《代替容器:小型知能機械筐体》
《中枢神経移設:完了》
《信号変換・運動出力:起動確認》
《循環維持:継続》
俺はもう一度、画面に並んだ文字を読んだ。何度見ても、内容は変わらなかった。
ワナビーは、普通のボンプではなかった。少なくとも、その胸の装置は、初めからボンプの機械を冷却するために付けられたものではない。人間の身体から取り出した組織を生かすための機構が、そこに入っている。
では、あの子は。
毎朝、俺より先に起きて受付の予定を立て、映画のあらすじを読み、結末を知ってから観たいと笑う、あの黄色いボンプは。
「NnnA。(……ワナビー、なんですか)」
自分で打った文字なのに、何を尋ねているのか分からなくなった。
『この記録が示す移設先と、君が持ってきた装置の情報は一致している。ただし、彼女がそれ以前に何を覚えていたか、いつから自分を自分だと認識していたかまでは分からない。今のワナビーがどういう人なのかを、記録だけで決めることもできないよ』
アキラさんの答えは、できる限り正確だったと思う。
けれど、俺が知りたかったのは、そういうことではなかった。あの子の身体に何をしたのか。なぜ、そんなことをしてまで生かし続けたのか。もし生かすつもりがあったのなら、どうして廃品置き場でたった一体きりにしていたのか。
その答えを探して次の項目を開くと、そこには研究の最終評価が残っていた。
《神経信号・機体制御系の接続:成立》
《長期維持費:想定超過》
《汎用性および量産適性:不良》
《継続研究:承認せず》
何度も読み返した。
成功した、と書いてある。そのすぐ下に、費用が高すぎると書いてある。機械を動かせるようになり、中にある組織を生かし続けることには成功したのに、それが研究を続ける理由にはならなかったらしい。
さらに、検討欄には維持コストの見直し案がいくつも残っていた。交換材の使用量を減らす案、循環装置を簡素化する案、定期保守の間隔を延ばす案。どれも安全性や実用性の問題で採用されなかったようだが、最後の結論は同じだった。正常に動くことと、残しておく価値があると判断されることは、ここでは別々の基準だった。
「……冗談じゃないわよ」
ニコさんが低く呟いた。彼女の手は、いつの間にか鞄の紐を強く握っていた。
俺は何も言えず、画面へ視線を戻した。
《試験筐体:保管対象から除外》
《処分指示:発行》
《処分完了報告:未登録》
《回収状況:所在不明》
そこでようやく、廃品置き場の光景が繋がった。俺が目覚めたとき、ワナビーは傷んだ黄色い身体でそこにいた。どうしてあんな場所にいたのか、誰が持ち込んだのかは今も分からない。だが、この記録のとおりなら、彼女を生かしていた機体は、不要になったものとして処分されるはずだったのだ。
その処分が実行されたかどうかは分からない。指示と結果は別物で、ここには完了の記録がない。少なくとも今の彼女は生きていて、俺と一緒に広場へ帰る約束をしている。それだけは、古い資料より確かなことだった。
俺は震える手で、最後の管理欄を開いた。
試験筐体の処分記録とは別に、移設を終えた後の身体についての項目があった。そこにも同じ検体番号が付いていたが、移設先のボンプ機体とは別の管理番号が振られている。
俺は画面の文字を、上から順番に読んだ。
《中枢神経摘出後の残余躯体》
《保管区分:廃棄物》
《処理方法:施設内焼却》
《処理状況:完了》
今回は少し重い内容となりました。
次の第16.5話は間話として、18:30に投稿します。
この週末は1日2話ずつ投稿する予定ですので、よろしければ引き続きお付き合いください。