画面の最下段に《処理状況:完了》という文字が現れたとき、アキラは次に何を言うべきか分からなくなった。
Random Playの奥の作業室では、使い慣れた機器の冷却ファンが回っていた。モニターにはホロウ内の管理室が映り、机の前に立った小柄な白いボンプが、最後の記録を開いたまま動かなくなっている。イアスの視覚と聴覚を借りて現場を確認していたアキラには、誰かが息を詰めたような静けさまで伝わってくる。しかし、それは実際の室温でも空気の重さでもなく、天井の割れた管理室で仲間たちの動きが止まったことによるものだった。
「……お兄ちゃん」
隣の端末を操作していたリンが、低い声で呼んだ。彼女の前には研究施設から読み出した保守記録と、別の装置に残っていた処置台帳が並んでいる。複数の記録が同じ識別番号を指している以上、単なる転記ミスで片付けるのは難しい。アキラもそれを理解していたが、だからといって、画面の向こうにいるナローに何か慰めの言葉を掛けられるわけではなかった。
イアスが少し身じろぎすると、ナローの左手にある端末が見えた。表面にはさきほどの記録がそのまま表示されている。小さな丸い手は動かず、肩に取り付けられた灰色の右腕だけが、時折かすかに震えていた。
「ナロー。聞こえるかい?」
アキラが声を掛けると、ナローは遅れて顔を上げた。普段ならすぐに返ってくる独特な鳴き声はなく、しばらくしてから端末に文字が打ち込まれる。
《焼却設備は、どこにありますか》
アキラは答えを選びかねた。すでに一行の記録は見つかったのだ。焼却処理が終わっているという報告も、残った身体と今も動いているボンプの機体が別に管理されていたことも、確認できる範囲では一致している。そこから先に何を探すつもりなのかは、本人に聞くしかなかった。
「施設の図面には、焼却区画が残っている。ただ、記録どおりなら処理が終わってから随分経ってるはずだし、現場も安全とは限らない」
ナローは返事をせず、もう一度端末へ文字を入れた。
《場所を教えてください》
「……ナロー、いったん落ち着きましょ」
管理室でニコが膝を折り、彼と目線を合わせた。普段の彼女なら何か言い返しそうなところだったが、今は声を荒らげない。ビリーも扉の近くで銃を下ろしたまま、二人の様子を見守っている。
「ここまでで見つかった記録は持って帰れるわ。それに、あの子は今も広場で待ってるんでしょ? 今日はもう――」
「NnnA……」
短い鳴き声に続いて、ナローの端末へ文章が現れた。
《何か残っているかもしれません》
そこに表示されたのは、期待というより、ほかに何をすればよいか分からなくなった者の頼みのように、アキラには見えた。
彼はリンへ小さく合図し、施設の見取図を呼び出した。ここで位置を隠したところで、ナローが一人で探し始めればかえって危険が大きくなる。とはいえ、依頼人が行きたいと言うだけで、予定外の区画へ案内してよいわけでもない。
「ニコ、焼却設備は管理室の奥にある。だけど、移動していいかどうかは君たちに判断してほしい。それから、先に証拠の複製を確保しておきたい」
『原本の読取結果は、取得時の状態のまま保存してあります』
Fairyの声が、現場へは流れない回線で返ってきた。リンが確認画面を開き、ファイルの照合値と時刻を別に記録する。現場にある記憶装置へは書き戻さず、個体ごとの資料も、改変していない複製を保管した。ナローとワナビーから預かった現在の検査情報は別の保護領域にあり、研究施設側の資料へ混ぜていない。
「分かったわ。案内はしてもらうけど、危険なら途中でも引き返す。ナロー、それでいい?」
ニコの問いに、ナローがようやく頷いた。
*
焼却区画へ向かう通路には、ほかの部屋とは違う臭いが残っていた。
イアスが受け取った環境センサーの記録には、周囲に残る微粒子の値が並んでいた。錆の浮いた排気管の状態と合わせれば、長い間ここで何かを燃やしていたことは想像できた。床の中央には運搬用の細いレールが走り、壁には剥がれかけた《高温設備》の表示がある。照明はとうに死んでいたが、ホロウ特有の光が配管の継ぎ目を紫色に照らしていた。
ナローは先頭へ出ようとして、アンビーに止められた。
「前は私が見る。床の状態が分からないから」
彼女が進路を確認する間、ナローはすぐ後ろで立ち止まり、両手を身体の前に揃えていた。背中の外装が何度か動いたように見えたが、触手が出てくることはない。前の探索で異常が起きたとき、伸ばさないと決めていたのをアキラは覚えていた。
焼却設備の扉は、厚い金属板を二枚重ねた構造だった。通路側にあった操作盤は取り外され、扉を動かすための駆動軸も途中で切られている。機械を使う仕事をしてきた誰かが、廃止に際して丁寧に機能を止めたのだろう。破壊されたというより、もう使わないと決めてから解体された設備に見えた。
「ここから先は、扉を開けるだけでも手間がかかるわね」
ニコが呟くと、ナローは扉の脇へ歩み寄った。灰色の右手で外側の固定具へ触れ、しばらく見つめる。やがて工具ケースを開こうとしたが、途中でその手が止まり、代わりに背中から黒いものが一本伸びた。
「ナロー、待って」
アンビーの声が届くより早く、細い触手が操作盤の抜かれた穴へ入り込んだ。
イアスの映像に映ったのは、錆びた金具の間を黒い糸が潜り抜ける様子だった。初めは細い工具を差し込んでいるようにしか見えなかったが、先端が見えなくなると、扉の内側から鈍い音がした。固定具の周りの金属がわずかに盛り上がり、切断されていたはずの軸が、継ぎ目を埋められたように一続きの形へ変わっていく。
「……今の、何?」
リンの問いに、アキラは答えられなかった。機械が動き始めたことは分かる。けれど、電源の入っていない駆動部で、新しい部材が組み上がっているように見える理由が分からない。
「ナロー! 戻って!」
ニコが手を伸ばしたとき、扉が重い音を立てて開いた。ナローは彼女の手をすり抜けるように奥へ進み、イアスの視界から一瞬消えた。
『マスター。設備の形状変化を検知しました。通常の機械的修理によるものとは判定できません』
「分かってる。Fairy、イアスの映像を記録して。外部には送らないで」
アキラは自分の声が硬くなっていることに気づいた。現場のニコたちには、通路を戻るよう伝えなければならない。しかし今、ナローをこの奥へ一人で行かせれば、どんなことが起きるか分からなかった。
「アンビー、ナローが中へ入った。イアスも追う。危なければ全員で退こう」
「了解。ビリー、ニコをお願い」
「任せろ! こっちの通路は俺様が押さえる!」
アンビーが先に扉を越え、イアスが後を追った。
*
焼却炉の内部は、想像していたよりも空っぽだった。
奥の壁には大きな炉が据え付けられているが、内側の耐火材は一部が取り外され、投入用の搬送台も途中で途切れている。炉の下には灰の回収口があり、そこから延びる細い管は別の部屋の集塵設備へ続いていた。かつて何かを焼いた痕跡は残っているものの、処理を終えた後に内部を清掃したらしく、炉床には大きな残留物が見当たらない。
ナローはその炉の前に立ち、天井まで伸びる排気管を見上げていた。
「NnnA……」
声は聞こえたが、端末には何も表示されなかった。
彼が炉の点検口へ近づくと、アンビーが間に入ろうとした。だが、それより先に触手が四本、六本と背中から伸び、点検口の隙間へ潜り込んだ。金属を擦る音が続き、炉の外壁へ細い線が浮かぶ。イアスの観測では、壁の温度は上がっていない。なのに、黒い線の周りだけが軟らかい材料を押し付けたように歪み、古い溶接痕を包むように形を変えていった。
「ナロー、やめなさい! その設備、もう動いてないのよ!」
ニコが叫ぶ。ナローは振り向かず、さらに何本もの触手を伸ばした。排気管の取り付け部が軋み、炉の下にある回収口の蓋が内側から押し上げられる。黒いものは金属の裏を伝い、搬送レールに残った細い溝へ入り込み、ほとんど同時に離れた集塵装置の外装を震わせた。
アキラはイアスを少し離れた柱の陰へ移した。画面上では複数の機器が一つの動作として反応しているが、どこに動力が供給されているのか分からない。扉の軸へ触手を差し込んだときにも感じた疑問が、今は危険として目の前に広がっていた。
『金属部材の位置が変化しています。熱変形ではありません。対象の黒色構造と接触した部分から、連続的な形状変化が進行しています』
Fairyの説明を聞きながら、リンが別の映像を拡大した。排気管の外壁が裂けたところから、煤と細かな粉がこぼれ落ちる。ナローはその一つひとつを拾い上げようとするように触手を伸ばしていたが、ある程度調べるとすぐに離し、次の場所へ移っていく。
「……探してるんだね」
リンが小さく言った。アキラも同じように見ていた。ナローは炉の中だけでなく、灰の回収口や搬送路、その先にある集塵設備まで順番に確かめている。焼却されたものがどこへ運ばれたのかを、機械の構造から辿ろうとしているようだった。
だが、炉内に残っているのは古い煤と崩れた耐火材、出所の分からない粉塵だけだった。回収装置の容器は既に外され、集塵設備も分解されている。映像で見える範囲には骨の形をしたものはなく、何かが残っていたとしても、あの記録に書かれた一人の身体に由来すると確かめられるものではなかった。
ナローの触手は、それでも止まらなかった。
「ニコ、いったん彼から離れて。設備がどこまで繋がっているか分からない」
『退避を推奨します。天井の配管支持部に過大な荷重を検出しました』
Fairyの警告が届くのと、金属の裂ける音が響くのはほとんど同時だった。高いところで配管の吊り具が外れ、斜めに傾いた鋼管が搬送レールの上へ落ちてきた。アンビーがニコの肩を引いて身をかわし、ビリーがイアスとナローの間へ割り込む。鋼管は床へ叩きつけられ、粉塵を巻き上げながら転がった。
「おいナロー! もうやめろって! お前まで壊れちまうぞ!」
ビリーの声にも、ナローは返事をしなかった。背中から延びた黒い線だけが、炉の底をなぞっている。
やがて、その動きが唐突に止まった。
黒い触手は炉の壁や排気管へ繋がったまま、しばらく一度も動かなかった。ナロー自身も顔を伏せ、両手を身体の横へ落としている。なぜ止まったのか、何かを見つけたのか、それとも諦めたのか。イアスの映像からは分からなかった。
アキラはゆっくり声を掛けた。
「ナロー。戻ろう。ここで見つからなかったからといって、君が何かを間違えたわけじゃない。少なくとも、今はこれ以上調べられない」
端末の通信表示が一度だけ点滅した。返事を打とうとしたのかもしれない。だが、画面に文字は現れず、彼の背中から延びる触手のうち何本かが、ひどく不自然な方向へ折れ曲がった。
*
最初の一本がちぎれたとき、アキラは何が起きたのか分からなかった。
炉の外壁に繋がっていた黒い線が、途中で細くくびれ、ナローの背中へ続く部分からちぎれて床へ落ちる。ところが、その先端は力を失わず、細い脚のような突起を何本も作って動き始めた。もう一本も壁の継ぎ目から外れ、床を滑ってナローの足元へ近づいていく。
「……あの黒いの、まだ動いてる!」
リンが声を上げた。アキラはイアスの視界を拡大した。切り離された触手の先が、ナローの足へ向かっている。彼はそれを避けようとせず、身体を傾けたまま動かなかった。
黒い線が足首の外装へ貼り付いた。別の一本が灰色の右腕の付け根を這い上がり、関節の隙間へ先端を差し込もうとする。その動きは、修理のために配線を確かめる作業にも似ていた。ただし、接続しようとしている場所は、自分自身の外装を壊しかねない部分だった。
「ナロー、離れて!」
アキラが叫ぶのと同時に、アンビーが走った。
彼女の刃が青白い光を帯び、ナローの右肩へ延びていた黒い線を、関節の隙間へ入り込む寸前で切り払う。飛び散った断片は床に落ちてなお細かく震え、近くの金属片へまとわり付こうとした。アンビーはナローの身体には刃を当てず、彼と床の間を這うもう一本を断ち切ると、すぐに距離を取った。
「ナロー、こっちへ。今のはあなたの外側にあるものだけを斬った。まだ身体に繋がっているのには触ってない」
返事がない。ナローは頭を上げたものの、右腕を支える左手には力が入っていないようだった。
「アンビー! あいつの背中、まだ動いてるぜ!」
ビリーが知らせた。炉の壁へ伸びていた別の触手が、ナローの外装を引っ張るように縮み始めている。彼自身を炉へ引き戻そうとしているのか、それとも繋がったものを回収しようとしているのか、見ただけでは分からない。
アンビーは一歩だけ近づいたが、そこで止まった。
「無理に引っ張るのは危険ね。ナロー、自分で動ける?」
「NnnA……」
ナローの顔面表示に短い警告が走り、端末へ一文字ずつ入力が始まった。
《アンビーさん》
彼が何かを書こうとしている間にも、床の断片は動き続けている。アンビーは刃を構えたまま、急かさず待った。
《離れてください》
「離れる。でも、あなたを置いてはいかない」
アンビーの返事は簡潔だった。彼女が半歩下がると、ナローは身体を起こし、左手を床へついてゆっくり後退した。外装から延びている触手は、その動きに合わせて張りつめる。床に落ちたものがこちらへ向かうたび、アンビーの刃が進路だけを塞いだ。
そこで、ナローの動きが変わった。
先ほどまで周囲の機械へ広がるばかりだった黒い線が、一本ずつ内側へ戻り始めたのである。右腕を這っていた先端は灰色の関節から離れ、背中に繋がっていた触手は金属の継ぎ目をほどきながら短くなる。床へ落ちた断片の一部は、ナロー自身が伸ばした別の触手に絡め取られ、そのまま引き寄せられた。戻らないものもあったが、少なくとも設備の中へ新しい線を伸ばす動きは止まっていた。
「そう、そのまま。急がなくていい」
アキラはイアスを少し近づけ、ナローが後退する足元を照らした。アンビーが前方を、ビリーが頭上の配管を見張る。ニコは開いた扉を押さえ、いつでも通路へ退避できるようにしていた。誰もナローの触手を勝手に掴まない。何が彼の身体に繋がっていて、どこからが切り離されたものなのか分からない以上、無理に動かせば別の傷を作りかねなかった。
最後に一本、炉の下部へ深く潜り込んでいた触手が残った。
ナローはそれを引き戻しかけて、一度止めた。線の先で細かな振動が続いていたが、やがて接続部から力が抜け、黒いものがゆっくりと炉から離れていく。
ナローは警告が幾つも出ている端末へ、ゆっくり文字を打ち込んだ。イアスが捉えた画面には、《……すみません、アンビーさん》と表示されている。
「歩ける?」
アンビーが尋ねると、ナローは小さく頷いた。それから炉へ背を向け、自分の足でアンビーたちのいる通路まで戻ってきた。
背後では、回収しきれなかった細い断片が、床の隙間へ入り込むのが見えた。アキラはその位置を記録したが、取りに戻れとは言わなかった。今は全員を帰すことの方が大切だった。
*
焼却区画を離れ、比較的安定した通路まで戻ってから、アキラはようやくイアスの映像を小さくした。
現実の部屋ではリンが椅子を引き寄せ、何も言わずに水の入ったコップを置いてくれていた。二人ともホロウには入っていない。それなのに、目の奥へ残る金属の軋みと、切り離されても動いていた黒い線の映像は、容易には消えなかった。
「お兄ちゃん、あれ……どういう仕組みなの?」
「分からない。僕には、機械を直していたというより、別のものに変えていたように見えた」
アキラは遠隔回線を閉じず、現場の様子を確かめた。ナローは壁際で充電用の予備セルを繋ぎ、ニコから渡された点検表へ少しずつ文字を入力している。アンビーが外装の損傷を確かめ、ビリーはまだ背後の通路から目を離していなかった。ナローの右肩には傷があったが、少なくとも今は自分の意思で動き、質問にも答えている。
画面の隅に、非公開の解析結果が開いた。
『マスター。先ほどの黒色構造について、既存のボンプ機構と照合しました』
「……結果は?」
『通常の外部補助装置としては説明不能です。黒色構造は本体から分離した後も活動を続け、接触した金属部材の形状を変化させました。また、確認できた駆動源は、ボンプ用の標準電源系統と一致しません』
リンは画面に映るナローを見つめた。白い外装と丸い頭、片方だけ灰色になった右腕。何度見ても、姿だけなら少し変わったボンプにしか見えない。広場の修理屋として、古い部品を直しているところを掲示板で見た相手でもある。
「普通のボンプじゃない、ってこと?」
『それよりも重大な不一致です。ただし、黒色構造の組成と動作原理、人格の所在は不明です。エーテル侵蝕による変異とも、既知の機械生命体とも断定できません』
アキラは黙って頷いた。かつてホロウで見た、無機物と生き物の境界を曖昧にする異常なものを、一瞬だけ思い出す。だが、似た現象があることと、同じ正体を持つことは違う。目の前のナローについて分かっているのは、危険な反応を示したことと、それでも最後は周囲を巻き込まないよう、自分で動きを止めたことだけだった。
「Fairy、その情報は僕とリンだけに残しておいて。現場の判断に必要な危険情報は伝えるけど、推測まで本人に言うのはまだ早い」
『了解しました、マスター』
アキラは画面を閉じ、イアス越しにニコへ連絡した。
「これ以上の調査はやめよう。出口までの経路は確認できている。ナローの電源と外装を見ながら、ゆっくり戻ってほしい」
「こっちも異論なし。……それと、アキラ。あの施設の記録、どうする?」
ニコの声は低かった。研究施設に何があったかを知った以上、契約書に書かれた保守資料だけ持って帰って終わりにはできない。あの記録には複数の人間が臓器を取り出され、必要がなくなるまで維持されていたことが記されている。これが事実なら、放置してよいものではなかった。
「治安局に届けようと思う。施設の場所と、読めた原本の複製、今も残っている記憶装置の位置を。勝手に書き換えたり、都合の悪い部分を消したりはしない」
「そうね。ただし、あの黄色い子の今の名前や居場所は別よ。本人に何も聞かないうちに、そこまで知らせるつもりはないわ」
「うん。研究施設に残っていた記録だけでも、調べるべきことは十分にある。現在の彼女の生活記録は、そこに含めない」
リンが提出用の資料を分け始めた。施設から読み出した記録の原本複製は保全し、通報の第一報には所在地と犯罪を示す項目、照合値と原本の保管状況を添える。誰がどの手段で現地へ入ったのか、施設で何が損傷したのかという問題まで消えるわけではないが、発見した被害を見なかったことにはできない。アキラは後で説明を求められた場合に備え、危険事象が起きた場所と時刻も別に記録した。
現場から回収できなかった黒い繊維の位置には、ひとまず立ち入りを避けるための印を付けた。侵蝕の危険があるかどうかも分からないものを、何も知らせず放置するわけにはいかない。だが、回収したと偽ることも、今ある設備だけで安全に持ち出すこともできなかった。
ほどなく、出口へ向かって歩き始めた一行が映った。ナローはイアスの後ろを歩き、少し遅れるとビリーが速度を落として待ってくれる。アンビーは何度も振り返ったが、彼が自分で歩いているのを確かめると、何も言わず先頭へ戻った。
やがて一行がホロウの外縁に出て、通常の通信が使える場所まで戻ったのを確認すると、ニコは治安局の通報窓口へ施設の位置と事件の概要を送った。アキラたちも、研究施設から取得した記録のうち犯罪の調査に必要な原本複製を保管し、その照合値と所在を伝える。現場に残った未確認の黒い繊維についても、回収できなかった事実と位置を危険情報として添えた。資料にないことを推測で付け足さず、ワナビーの現在の名前や居場所も書かなかった。自分たちが無許可でホロウへ入った経緯について説明を求められる可能性は残る。それでも、通報した事実と受付番号が確認できたことで、少なくともあの施設で起きたことを、誰も知らないままにする状況からは一歩進んだ。
アキラはもう一度だけ、非公開の解析画面を開いた。最後に表示された文字は、短かった。
《通常ボンプとしての分類:不成立》
続いて、Fairyの声が二人だけに届いた。
『アレはボンプではありません』