焼却炉の底には、何もなかった。
正確には、煤も、砕けた耐火材も、長いあいだ使われなかった設備に特有の細かな塵もあった。けれど、それらが誰の身体に由来するものなのか、俺には分からなかった。触手を炉の内壁へ沿わせ、灰の回収口から排気管へ、さらに取り外された集塵装置の跡まで辿ってみても、返ってくるのは金属や石の構造ばかりである。何かの欠片を見つけるたびに調べ直したが、記録にあった一人の身体と結び付けられるものは、とうとう見つからなかった。
研究施設の記録は、手順を省略しなかった。少女のように小さな身体から何を取り出し、どの機能を機械で補い、いつ保守部品を交換したのか。最後に残った身体を焼却したことまで、きちんと記録していた。それなのに、俺が知りたいことは、どこにも書いていない。
あの子は、何を思っていたのだろう。
知らないままでもいいことがある。今まで俺はそう考えてきたし、知らない機械へ不用意に触れないよう、何度も自分へ言い聞かせてきた。けれど、その理屈をここへ持ち込もうとすると、どうしても引っ掛かるものがあった。自分の身体を少しずつ失っていく間、誰かに名前を呼んでもらえたのか。残ったものまで不要と判断されたとき、そばに誰かいたのか。そんなことさえ分からないまま、すべてが処理済みになっている。
もし、何か残っていれば。
そこまで考えて、俺はようやく、自分が何を期待して炉を開けたのか気づいた。壊れたものを見つければ、触手で繋げるかもしれない。欠けた場所を埋め、失われた形を作り直せば、何かが取り戻せるかもしれない。廃品置き場で目覚めて以来、俺はそうやって目の前の機械を直してきた。
だが、仮に焼け残った骨が見つかったとして、俺はどうするつもりだったのだろう。そこから人間の身体を作り直せたとしても、それが以前の持ち主の身体になる保証などない。まして、ワナビーは今、別の身体で暮らしている。毎朝俺より早く仕事を始め、映画の結末を先に調べたがり、俺の右腕の扱いが雑だと文句を言う。あの子が覚えていない過去を、俺の都合で形だけ取り戻して、それを何と呼ぶつもりだったのか。
炉の壁を這っていた触手が、次々に行き場を失った。いつの間にか俺は排気管まで繋ぎ直し、使われなくなった搬送装置を無理に動かそうとしていた。傷んだ設備がどんどん別の形へ変わっていくのに、肝心のものはひとつも見つからない。直すべきものがなくなった後も、身体だけが修理の続きを求めていた。
胸の奥が、冷たくなった。
俺はあの子を助けたつもりでいた。最初に胸のポンプを直したときも、廃品を集めて広場を作ったときも、あの子がここにいてくれてよかったと思った。けれど、彼女がそこへ来るまでに奪われたものを、俺はひとつも知らなかった。知ったところで取り返せない。触手をどれほど伸ばしても、炉の奥から返ってくるのは、もう誰のものとも分からない塵だけだった。
どこかで金属が裂け、誰かが俺を呼んでいた。音は聞こえているのに、言葉にならない。背中から伸びた黒い線の一部が俺から離れ、足元へ這い戻ってくるのが分かった。そのうち一本が足首の外装へ貼り付き、別の一本が灰色の右腕を這い上がって、傷の残る肩の隙間へ入り込もうとしていた。それでも、すぐには止める気になれなかった。
何もできなかったくせに、今度は自分まで壊そうとしている。
青白い光が視界を横切り、右肩へ伸びていた黒い線が途切れた。続いて床を這う別の一本が切り払われ、ようやくアンビーさんの声がはっきりと聞こえてきた。
「ナロー、こっちへ。今のはあなたの外側にあるものだけを斬った。まだ身体に繋がっているのには触ってない」
アンビーさんは俺を引っ張ろうとはしなかった。刃を構えたまま、こちらが動くのを待っている。足元では切り離された触手がなおも動いていたが、彼女は俺の身体ではなく、その進路だけを塞いでくれた。
そうまでしてもらって、やっと気づいた。
俺がこのまま炉の中を探し続ければ、何も知らない仲間まで巻き込んでしまう。自分には過去を取り戻せなくても、今ここにいる人たちを傷つけないことくらいは選べるはずだった。
俺は左手を床について身体を起こし、炉へ繋がった触手を一本ずつ引き戻した。どうしても離れないものは無理に引っ張らず、動きを止めてから接続をほどく。床に落ちた断片のすべてを回収することはできなかったが、少なくとも新しく伸ばすのはやめられた。
俺は端末に《……すみません、アンビーさん》と打ち込んだ。声を出す余裕はなく、それだけの文字を入力するにも、手間取ってしまった。アンビーさんは画面を読むと、「歩ける?」と尋ねただけで、何があったのかを責めようとはしなかった。
俺は頷き、炉へ背を向けた。灰色の右腕がひどく重かった。何かを拾って帰るつもりで空けておいた工具ケースも、結局、来たときと同じ重さのままだった。
*
ホロウを出るまで、俺はほとんど喋らなかった。
イアスの後ろを歩き、指示された場所で立ち止まり、必要なときだけ残量を報告する。時々、ビリーさんが歩く速度を落としてくれた。ニコさんはいつものように支払いの話を始めず、出口に着いてから、施設で見つかった記録を治安局へ届けるつもりだと教えてくれた。ワナビーの現在の名前と居場所は、本人の意向を確かめずに伝えないという。
俺が何か礼を言わなければと思っているうちに、ニコさんは端末の画面を閉じた。
「礼はいいから、まず帰ってあの子と話しなさい。それと、あんた自身も点検を受けること。これは依頼の範囲とは別よ」
「NnnA。(……はい)」
六分街へ戻る頃には、店先の灯りがつき始めていた。通りを行く人の話し声や、飲食店から漂ってくる油の匂いは出掛けたときと同じで、どうして街がこんなに普通なのか、少し不思議だった。ビデオ屋の前を通ると、昨日と同じ広告が貼られている。そこに書かれたあらすじを、ワナビーは帰ったらまた読み直すかもしれない。
そのことを考えると、ますます足が遅くなった。
ンナンナ広場では、修理台の脇に置いた灯りの下でワナビーが帳簿を閉じていた。俺が入口に姿を見せると、彼女はすぐに立ち上がり、まず肩と背中を見た。傷んだ外装と減った蓄電量を見つけたらしく、端末を差し出すより先に俺の左手を握る。
「ンナ。(おかえり。……何があった?)」
「NnnA。(ただいま。話したいことが、たくさんある)」
ワナビーは一度だけ頷き、作業台に置いた検査器具を脇へ寄せた。そうしてから、充電済みの携帯電源とケーブルを俺のために引き出し、自分の椅子を隣へ運んできた。
「ンナ。(じゃあ、座って話そう)」
俺は椅子に腰を下ろし、彼女が用意したケーブルを繋いだ。身体の奥に残る冷たさは、電気が流れ始めてもすぐには消えなかった。
*
何から話せばいいのか、なかなか決まらなかった。
発育の記録、臓器の搬出、中枢神経の移設、廃棄指示。どれも確かめられた資料であり、その一方で、誰が何のために研究を始め、なぜワナビーが廃品置き場まで運ばれたのかは分からない。俺自身が焼却区画でしてしまったことも、言葉にするのが嫌だった。
ワナビーは焦らせなかった。俺の電力表示と循環ポンプの記録を別々の画面に並べ、自分の方は安定していることを示してから、端末へ一つだけ質問を入れた。
《見つかった資料を、私も読める?》
「NnnA。(……うん。読める。ただ、すごく嫌なことが書いてある)」
「ンナ。(私のこと?)」
「NnnA。(それもある。でも、ほかにも……)」
そこで俺は、施設に残っていた記録を整理した概要から見せることにした。複製された人間の身体が研究に使われていたこと。基準を満たさない個体が臓器の供給元へ回されていたこと。そのうち一人の中枢神経組織が小型のボンプ機体に移され、識別情報がワナビーの装置と一致していること。
画面を読むワナビーの表情は大きく変わらなかったが、読み終えるまでの時間は普段より長かった。
「ンナ。(私の中に、人間の脳がある?)」
「NnnA。(資料では、そうなってる。俺たちはまだ中を開けて確かめてないし、むやみに開けるつもりもない)」
「ンナ。(うん。開けない)」
彼女は自分の胸を見下ろし、いつもと同じように小さく叩いた。あの頃から何度も聞いてきた循環ポンプの音が、いつもと変わらない間隔で続いている。俺にはその音の意味がまるで違って聞こえたが、ワナビーはしばらく耳を澄ませてから、もう一度端末を見た。
「ンナ。(私が覚えてるのは、ボンプの身体で目を覚ましたときから。それより前のことは分からない)」
「NnnA。(……うん)」
俺は、彼女の知らない過去を代わりに悲しもうとしていたのかもしれない。そのこと自体が間違いだとは思わない。けれど、彼女が覚えていないことを、覚えていてほしいと願うのは違う。俺には、あの記録を読んだ人間としての怒りと、目の前にいるワナビーを心配する気持ちとを、うまく切り分けられなかった。
「NnnA。(……まだ、続きがあるんだ。昔の身体は、移設の後で焼却されたって)」
ワナビーの耳が動きを止めた。
俺は焼却施設で何も見つけられなかったことを話した。残された設備を調べようとして触手の制御を失い、アンビーさんたちに助けられたことも、戻せなかった触手があることも隠さなかった。彼女が黙って聞いている間、俺は端末の画面を何度も確かめた。あれほど必死に探したのに、持ち帰れたのは何も見つけられなかったという報告だけで、どう伝え直しても、その事実は変わらなかった。
「NnnA。(何か残ってたら、俺なら直せるんじゃないかって思ったんだ。でも、何もなかった。……いや、仮に見つかってても、どうするつもりだったんだろうな)」
「ンナ。(それで、ナローまで危なくなったんだね)」
「NnnA。(……うん。みんなまで巻き込んだ。途中は、自分でも止められなかった)」
「ンナ。(でも、最後は止めた)」
反論しようとした俺の左手へ、ワナビーが自分の丸い手を重ねた。
「ンナ。(私の昔の身体、戻らないんだね)」
「NnnA。(……うん。あの場所では、何も見つけられなかった。俺には、元の身体を戻してあげられない)」
「ンナ。(ナローが捨てたんじゃない)」
ワナビーの言うことは正しかった。廃棄を決めたのも、焼却炉を動かしたのも俺ではない。それでも、手を伸ばせば何か一つくらい取り戻せると思っていた自分が、空っぽの炉の前で立ち尽くしていた光景だけは消えなかった。彼女は俺の左手を握ったまましばらく待ち、それから記録の続きを開いた。
「NnnA。(そこも読む? 詳しい処置の記録まであるけど)」
「ンナ。(今は、分かってることだけ聞きたい。詳しい記録は、あとで自分で読む)」
俺は必要な範囲を選び、事実と推測を分けた概要を画面へ出した。ワナビーはしばらく読んでから、研究施設にいたほかの個体について尋ねた。今も生きている人がいるのか、その人たちを誰かが探しているのか。どちらにも、確かな答えを持っていなかった。
「ンナ。(ほかの人たちのことも、調べてもらえる?)」
「NnnA。(うん。施設のことは、ニコさんたちが治安局へ通報するって言ってた。ほかの人たちがどうなったかまで分かるかは、まだ分からないけど)」
「ンナ。(そっか。……私のことは?)」
「NnnA。(君の今の名前や居場所は、勝手に伝えてないよ)」
「ンナ。(それは、あとで考える。記録は消さないで)」
「NnnA。(うん。元の記録は別に保管してある)」
ワナビーはようやく頷き、端末の画面を一度閉じた。しばらく何も言わなかったので、俺も隣に座ったまま待つ。作業台の向こうでは充電器が低く唸り、外を通る配送ボンプの車輪が舗装の継ぎ目を越える音がした。どちらも、昨日まで聞き慣れていた広場の音だった。
「ンナ。(……私は、今の身体で生きたい)」
その言葉を聞いたとき、俺は思わず顔を上げた。
「ンナ。(前のことは知りたい。でも、今の私をなくして戻るのは嫌)」
「NnnA。(……分かった)」
「ンナ。(だから、胸の装置を直そう)」
ワナビーはそう言って、いつもの検査表を開いた。俺がどんな言葉で返せばよいか迷っている間にも、彼女は交換材の残量欄へ今日の日付を書き足し、先週の値と比較し始めていた。
あの子にとって、過去を知ることと、明日も仕事を続けることは、どちらか一方を選ぶ話ではないらしい。
*
ただし、装置を直すという言葉だけなら簡単だった。
旧施設から持ち帰った資料には、交換材の管理方法と、補正回数が増えたときの保守手順が残っていた。生体組織へ必要なものを供給し、不要になった成分を回収する循環系統であることは分かる。問題は、研究施設で使っていた専用材料の一部が既に流通していないことと、ワナビーの現物を安全に分解できる保証がないことだった。記録上の値から配合を推測するだけでは、相性の悪い液体を流し込む危険がある。
翌日、俺たちは必要な部分だけを整理して、エンゾウさんへ持ち込んだ。
彼は俺の右肩の傷を見たあと、ワナビーの胸の装置の記録を読み、途中で工具を置いた。
「……これは俺の店だけで面倒を見ていい仕事じゃねえな」
「NnnA。(やっぱり、難しいですか)」
「難しいっていうより、分野が違う。ポンプの回転や配管の取り回しなら見られるが、こいつが何を生かしてるか分かった以上、中を流れるものを適当に作るわけにはいかねえ」
俺は頷いた。エンゾウさんは生体のことまで分かると豪語せず、外側の機械を維持するために必要な作業だけを切り分けてくれた。さらに、装置の仕様を伏せたまま検査できる項目と、専門の分析を頼まなければ判断できない項目を整理し、医療用途の材料検査に対応する窓口の連絡先を教えてくれた。
「材料の安全性はそっちに確認してもらえ。必要な成分が分かっても、清潔に作れなきゃ意味がねえ。あと、あの子の中身について、相談先に何を伝えるかは本人と決めろよ」
「ンナ。(分かった。私が決める)」
ワナビーは自分から端末へ同意の範囲を書いた。検査に出すのは保存済みの仕様値と、外部端子で確認できる循環状態の情報に限る。医療的な評価が必要なときは改めて相談する。少なくとも、身元も分からない研究施設の記録一式を、あちこちへ送りつけるつもりはなかった。
ワナビーの承諾を得て、生体材料を扱うことに慣れた専門家にも、装置の外側から得られた情報と旧施設の保守条件を見てもらうことにした。現在の名前や生活の場所を伝える必要はなくても、相談の目的を偽るわけにはいかない。個人情報を伏せたままでは判断できない項目もあったため、そこで無理に答えを求めず、検査と補充を進める際の条件だけを一つずつ決めていった。
材料の照合結果が出るまで、俺たちは箱の方を先に作り始めた。
最初に考えたのは、グレイの背中に載せているライドセルを大きくしたような装置だった。消費する材料を外から供給し、使い終わったものを一部回収して循環路へ戻す。ただし、既存のポンプを取り外して新しいものに置き換えるのは危険なので、最初は本体の密閉系へ介入せず、保守端子から状態を読み取り、交換材の状態を管理する独立した補助装置として組むことにした。
技術的には、二つの問題があった。一つは古い保守端子の規格が特殊で、市販の制御基板では状態を十分に読み取れないこと。もう一つは、どんな材料を補うにしても、外部の箱が誤動作しただけでワナビーの循環を止める仕組みにはできないことだ。
前者については、触手を利用すればどうにかなりそうだった。問題は後者で、俺自身の触手ほど信用できない部品もない。ホロウで起こしたばかりの騒ぎを思い出すと、自分から切り離したものを他人の生命維持装置へ使うなど、正気の沙汰とは思えなかった。
それを話すと、ワナビーはしばらく考えてから、以前グレイのライドセルで取った試験記録を開いた。
「ンナ。(危なかったのは、繋がったところ。なら、繋がらないようにする)」
「NnnA。(それができればいいけど、俺の身体がどこまで勝手に動くか、まだ分からない)」
「ンナ。(だから、試験。危なかったら使わない)」
彼女が提案したのは、微小な触手を交換可能な変換部へ封じ込め、保守端子と外部端末の間で信号だけを扱わせる方法だった。流体の通り道からは二重の壁で隔て、少しでも異常な発熱や変形が出れば、外側の接点ごと切り離す。たとえその変換部が完全に停止しても、ワナビーの胸で動いている既存のポンプには電源も制御も触れない構造にする。
もちろん、それで安全性が証明されるわけではない。材料の補充を任せる段階では、別の検査と確認が必要になる。それでも俺一人で考えていたときより、進める順番はずっと明確になった。
「NnnA。(……じゃあ、まず中身を入れない箱で試そう。変換部が暴れても、すぐ外せるかどうか)」
「ンナ。(うん。私が停止する)」
俺たちは作業台に何度も仮の回路を並べ、電源を切ったときの動作、誤った信号を入れたときの停止、固定具を外したときの影響を一つずつ確かめた。グレイにも外装の固定方法を見てもらったが、内部の用途までは話さない。彼はその条件を受け入れ、箱の重さや背中への当たり方についてだけ、実際に長時間装着した経験から助言してくれた。
「ンナ。(急いで作ると、だいたい角のところが当たるんだよねえ。背負って歩く方は、毎日だから)」
「NnnA。(……確かに、グレイの最初の箱もそうだった)」
それで思い出した。俺はまた、装置を動かすことばかり考えていたのだ。ワナビーが毎日持ち歩くのなら、修理中だけでなく、映画を借りに行くときも、帳簿を整理するときも邪魔にならない方がいい。
ワナビーは寸法を測り直し、俺の最初の設計より一回り小さい外装を選んだ。予備材料を入れる場所は別にし、すぐに使わない部品を背負わせない。着脱用の大きな留め具は、丸い手でも一人で操作できる位置へ移した。グレイのライドセルで使った部品と同じものがあると分かると、彼女は嬉しそうに在庫表へ番号を書き足した。
材料の検査結果が届いたのは、その数日後だった。
旧施設の資料から照合できる範囲では、循環を保つために必要な成分の一部は現在も正規の医療・工業用材料として入手できるらしい。ただし、古い専用担体をそのまま再現できたわけではなく、代替候補には適合性の試験が必要だった。相談先からも、外側の数値が一致するだけでは生体への安全性を保証できないと念を押された。俺たちは小分けの試験用材料を購入し、ワナビーの身体へ繋がない独立した装置で、回収と再生の処理を繰り返した。途中で濃度が規定範囲を外れるものは除き、費用が掛かりすぎる候補も記録を残して保留にした。
必要な電力は、予想より多かった。広場には相変わらず正式な電源設備がないので、外で充電した予備セルを持ち帰る手間まで含めて考えなければならない。購入した材料と検査の費用を見たワナビーが、何も言わず会計表へ項目を増やしたときには、少しだけ胸が痛んだ。
「NnnA。(……これ、相当かかるな。今の収入じゃ、ずっとは厳しいかもしれない)」
「ンナ。(だから、毎月の費用も計算する)」
「NnnA。(命の話だよ?)」
「ンナ。(うん。だから、来月も必要)」
その返事には、妙な説得力があった。俺は目の前の修理を終わらせることばかり考えていたが、ワナビーが欲しいのは一度だけ動く装置ではなく、来月も、その次も生活できる仕組みなのだ。部品が壊れたら交換できるようにすること、材料の購入先を複数残すこと、作った俺がいなくても保守内容を確認できること。彼女の指摘に従って一覧を整えるうちに、ようやく箱を完成させる意味が分かってきた気がした。
*
最初の接続試験は、広場の作業台で行った。安全な範囲の判断は事前に相談した専門家の確認を受けており、試験中の測定値も決めた手順に従って残すことになっている。
と言っても、いきなり胸の容器を開けたわけではない。既存の循環系を動かしたまま、外側に設けられた保守端子と、記録に残っていた補充用の接続部を確認し、取り付けた器具が規定どおり遮断されることを何度も確かめた。ワナビーには試験中に何が起こるかを説明し、途中で止めたくなったら彼女自身が停止できるよう、スイッチを手の届く位置へ置いた。
分析窓口で適合範囲を確認できた材料についても、最初から全部を補おうとはしなかった。まず外付けの回収機構で状態を測り、既存の循環系へ影響しない範囲で試験を繰り返す。その後、ワナビーの承諾を得て、資料上の許容値に収まるごく少量だけを補充用の接続部から供給し、異常が出ないか時間を置いて観察した。目に見える改善がなくても、追加する量を勝手に増やすつもりはない。
検査器具には、見覚えのある波形が表示されていた。
三つの山が並び、三つ目の頂点だけがわずかに欠けている。初めて異常を見つけたときから、何度も眺めてきた形だ。ワナビーは隣で自分の状態を入力し、胸元を通る小さな振動に変化がないことを確かめている。
「NnnA。(痛いとか、変な感じは?)」
「ンナ。(ない。いつもどおり)」
「NnnA。(少しでも違ったら、すぐ止めるから)」
「ンナ。(うん。数字も見る)」
俺たちはしばらく画面を見ていた。最初の数回は特に変化がなく、補正回数も以前と同じように増えていく。それでも外付けの箱は規定の温度を保ち、回収したものの測定値も安定していた。何も起こらないことが、これほどありがたい試験は初めてかもしれない。
やがて、次の計測周期で三つ目の山が少し高くなった。
俺は思わず身を乗り出したが、ワナビーの手が端末の上へ伸びてきた。
「ンナ。(まだ、一回)」
「NnnA。(……そうだな。もう少し見よう)」
連続した記録を取ると、頂点の欠け方は以前より小さくなっていた。ただし完全に消えたわけではないし、これが補充した材料のおかげなのか、外付け機構の循環補助によるものなのかも、現段階では切り分けられない。それでも、補正動作の回数が増えるペースは以前より緩やかになり、交換材の管理欄には初めて《補充履歴:確認済》と表示された。
「NnnA。(……入った。ちゃんと、記録が残ってる)」
「ンナ。(残量も、少し戻った)」
ワナビーが画面へ印を付ける。前から減るばかりだった数字が、ごく僅かに上向いている。その変化が今後も安全に続くかは、毎日の記録を比べなければ分からない。俺は結果に日付と使用した材料の番号を付け、異常があればすぐ元の循環だけへ戻せるよう、切り離す手順を保存した。
作業が終わる頃には、もう夕方だった。
新しい箱はワナビーの背中に収まり、グレイのライドセルによく似た形になった。ただし中身はまるで違う。演算と通訳を補助するグレイのものと違って、こちらは彼女の循環系を監視し、材料の回収と補充を助けるためだけの装置だ。試験中は俺のそばで使うこと、長期使用時の材料の適合性が確かめられるまでは自動補充をしないこと、何かあれば本人が止められることを、二人で確認した。
「NnnA。(……箱、ちょっと目立つかな)」
俺が尋ねると、ワナビーは店先のガラスへ自分の背中を映し、少し身体を左右へ揺らしてみせた。
「ンナ。(グレイと似てる)」
「NnnA。(まあ、外側は同じ系列だからね)」
「ンナ。(なら、普通)」
そう言うと、彼女は端末を開いて今日の予定を確かめた。試験のため午後の受付をグレイに頼んでいたが、修理の引き取りに来る客が一件あるらしい。俺がまだ休んでいた方がいいのではないかと尋ねる前に、ワナビーは修理台の前へ歩き、預かり品の番号を確認し始めていた。
「NnnA。(……今日は、もう休んでもいいんじゃない?)」
「ンナ。(引き取りだけ。ナローは座ってて)」
「NnnA。(俺の仕事だったはずなんだけどな)」
「ンナ。(じゃあ、明日やって)」
そこまで言われてしまうと、反論のしようがない。俺は椅子へ戻り、右肩の検査器具を片付けながら、彼女がいつもの手順で伝票を整理するのを眺めていた。
研究施設の記録は、今も別の端末に残っている。誰があの施設を作り、ほかの検体がどうなったのか、分からないことは山ほどあった。ワナビーの胸にあるものも、完全に理解できたわけではない。新しい箱が安定して動くかどうかは、これからの保守に掛かっている。どれか一つでも目を離せば、また危険が近づくかもしれなかった。
けれど、今日は少なくとも、明日を迎えるために必要なことを一つ進められた。
受付が終わると、ワナビーは端末へ新しい予定を追加した。
《Random Playで映画を借りる》
「NnnA。(ああ、あのポスターの?)」
「ンナ。(うん。結末、まだ調べてない)」
「NnnA。(珍しいな。先に知りたいんじゃなかった?)」
「ンナ。(一緒に観てからでもいい)」
少し驚いて彼女を見ると、ワナビーは黄色い耳を揺らし、背中の箱が邪魔にならないかを確かめるように、こちらへ一歩近づいた。
「ンナ。(ナローも行く?)」
「NnnA。(……うん。行こう)」
差し出された丸い手を、俺は左手で受け止めた。小さな箱の中でファンが低く回り、胸元からは、少しだけ形の戻った三つの波形に合わせて、聞き慣れたポンプの音が続いている。
映画を借りに行く約束は、明日の予定表に残された。