ナローたちがホロウから戻った翌朝、朱鳶の手元へ届いたのは、通報者が撮影した一枚の写真だった。
古い端末の画面に映っているのは、複製された人間の身体を移植用の供給源として扱ったらしい研究施設の管理記録である。記載された処置の名称だけなら、医療機関の資料にも見える。しかし、何をどこへ搬出したかを示す欄の隣には、生命維持に掛かった費用と、次に利用できる組織の評価が並んでいた。
写真の下には、元データの照合値と採取場所が添えられている。通報に使われた複製の出所はまだ確認中だったが、現地には元の記憶装置が残っているという。詳しい事情を調べる前に、少なくとも記録を保全する価値はあった。
「……先輩。これは、見過ごせません」
朱鳶が顔を上げると、向かいの席で白湯を飲んでいた青衣も、端末の画面へ目を向けた。窓の外には朝の車列が続き、治安局の執務室には通常どおり連絡端末の着信音と、報告書をめくる乾いた音が響いている。そこだけ切り取れば、普段と変わらない朝だった。
「うむ。記載が事実なら、供給先まで含めて調べねばならぬ。記録が古いからといって、なかったことにはできまい」
「はい。現場はホロウの内側です。管理区域への立ち入りと、鑑識班の同行を申請します。施設の所有者が不明なままなので、権利関係の確認も並行して進めます」
朱鳶は受付番号を付けた報告書を開き、通報の内容を確かな事実と未確認事項に分けた。複数の人間が被害を受けた可能性があること。旧施設には記憶装置が残っていること。現在の施設名称と管理者は特定できていないこと。それから、焼却設備の周辺で、通常の瓦礫とは異なる黒い繊維状のものが見つかったという報告。
最後の項目には、現場へ入った民間人が設備を損傷した可能性も書き添えられていた。通報者の判断で現場の状況が変わってしまったのであれば、その経緯は別に確認しなければならない。ただ、そこに問題があるからといって、施設に残された犯罪の証拠まで調べない理由にはならなかった。
「証拠を持ち出した人物にも、後で話を聞く必要があります。現場の損傷がいつ生じたか、資料をどんな手順で複製したか……」
「ぬしの言うとおりじゃ。されど朱鳶、順序を誤るでないぞ。今すぐ消えそうなものを先に守る。人の記憶は後でも尋ねられるが、崩れた設備の状態は元に戻らぬ」
「……はい、先輩。まず現場の保全を優先します」
朱鳶は頷き、申請画面の送信欄へ手を伸ばした。
*
旧施設は、通報にあったとおり空っぽに近かった。
ホロウの境界から施設までの移動には、認可された調査経路と護衛を用いた。元は工場だったらしい建物の入口には会社名がなく、外された看板の跡だけが壁に四角く残っている。冷却設備の配管は途中で切断され、床のレールも搬送先を失っていた。紫がかった光の下でそれらを眺めていると、長い年月のうちに朽ちた場所と、閉鎖時に計画的に片付けられた場所が、奇妙に入り交じって見えた。
「普通の解体途中の建物にも見えます。でも、この奥の記録が本物なら……」
「まずは現物を確かめようぞ。端末の中身は、見た目だけでは分からぬからな」
青衣がそう言うと、同行した鑑識担当者が封印された収集箱を運び込んだ。管理室の端末には破損があったものの、記憶装置を収めたケースは残っている。朱鳶は位置と状態を撮影させ、元の配線を動かさないまま読み出せる範囲を確認した。既に誰かが外した痕跡もあったので、そこについては推測せず、見つけたときの状態として記録した。
通報に添付されていたファイルと、現地の記憶装置から読み出せた記録は、同じ管理番号を持っていた。保存された検体の一覧は完全ではなく、施設名や責任者の欄にも空白がある。それでも、処置の履歴と出荷記録は複数の区画に残り、照合できる箇所では日付と搬送番号が一致していた。
「脳や神経組織の維持に使う装置まで……こんな研究をしていたんですか」
朱鳶が表示を拡大すると、費用対効果を理由に試験の継続を打ち切ったという判断が読めた。研究の成否を検討する書類としては珍しくない形式なのに、評価の対象となっているのは、臓器を取り出された人間の身体である。
青衣は机の端に残された古い表示板を見ながら、しばらく黙っていた。
「……恐ろしいのは、これほどの手間を掛けて、なお人を資材としか見ておらぬことよ。設備は丁寧に手入れしておる。傷んだ管も交換されておる。じゃが、それは誰のための保守だったのか」
「はい。どんな事情があったとしても、これだけで済ませていい話ではありません」
朱鳶は関係資料の保全を指示し、検体を示す番号と、搬出された組織の配送先を別々の表へまとめさせた。施設にいた人々が今どうなっているのか、ここに書かれた個体以外にも被害者がいるのか。すぐに答えが出るとは思えなかったが、調べるべきことは明確だった。
管理室の奥から連絡が入ったのは、そのときだった。
「朱鳶班長、焼却区画を確認してください。壁の一部が、妙な状態になっています」
案内された通路には、金属製の扉が大きく開いていた。本来なら既に動力を失っているはずの駆動部に、真新しい接合面が残っている。錆の上から金属を溶かして流し込んだというには色が揃いすぎており、溶接に使う熱で変形した痕跡も見当たらない。切断された軸が一部分だけ継ぎ足され、そこから扉の内側へ、細い黒い筋が何本も走っていた。
「通報の特記事項にあったものですね」
「そうらしいのう。だが、何をもって繋がっておるのか……」
青衣が顔を近づけようとすると、朱鳶は反射的に手を伸ばした。
「先輩、触らないでください。今は鑑識の担当です」
「触れるつもりはないわい。ぬしも、なかなか我を信用せぬのう」
「以前にも、似たようなことがありましたから!」
青衣は涼しい顔で白湯の入った容器を持ち直したが、黒い筋を見つめる目は真剣だった。朱鳶も担当者が測定を終えるまで一歩下がり、結果を待った。
簡易検査では、危険なエーテル残留の可能性を否定できなかった。ただし、付着物は単に表面へ貼り付いているわけではなく、金属の内部へ入り込んだように見える。外側から剥がそうとすると、下地まで一緒に欠けてしまう箇所があった。
「侵蝕された金属、ということですか?」
「そこまでは分かりません。結晶化の状態が典型的な試料と違いますし、別の材料が混ざっている可能性もあります。通常の鑑識では断定できません」
担当者は無理に繊維を引き剥がすことを避け、付着した金属ごと小さな破片を採取した。採取場所は焼却炉の回収口付近と、扉の駆動部の二か所。周囲の壁や床には似た痕跡がまだ残っていたので、全体の位置関係を撮影し、危険区域として立ち入り制限を掛けた。
朱鳶は採取品の番号を確かめながら、通報者の報告を思い出していた。黒い繊維はその場から回収できず、動いていたようにも見えたという。民間人が動揺して見誤ったのか、実際に不可解な現象が起きたのか、今は判断できない。
「……先輩、これを単なる設備損傷として扱うのは危険ですね」
「うむ。犯罪の記録とは別に、現場の危険を調べねばなるまい。何しろ、あの施設はホロウに呑まれてからも長らく放置されておったのじゃ。誰がいつ入ってもおかしくない」
朱鳶は証拠品の封印番号と採取担当者、搬送先の一覧を確認し、通常の捜査資料と照合できるよう同じ事件番号を付けた。黒い付着物の正体が何であれ、これを理由に人体実験の記録まで扱いを曖昧にしてはいけない。二つは関係があるのかもしれないし、たまたま同じ場所で見つかった別のものなのかもしれなかった。
*
治安局へ戻ったあとも照会は続き、数日後、朱鳶の机には新しい報告が三件届いていた。
一件は廃止された工業区画の所有権について。研究施設の土地を使用していた法人はかなり前に解散しており、登記上の役員も現在の所在が分からない。もう一件は当時の搬出記録で、臓器の受領先に記されているのは病院名ではなく、いくつもの委託業者の番号だった。最後の一件は企業の決済履歴で、閉鎖後にも施設管理費らしい支払いが一定期間続いていたことを示している。
「施設を閉めた後にも、誰かが帳簿を整理していた可能性があるんですね」
「さよう。しかも名義を変え、窓口を変えておる。糸の先は幾つにも分かれておるが、切れてはおらぬらしい」
青衣は報告書を一枚ずつ並べ、企業名ではなく送金先の識別番号へ丸を付けた。その幾つかは既に消滅した法人へ続いていたが、そこから別の取引先へ資金が動いていることも確認できる。施設の中だけを調べていれば、名前のない研究所が廃止されたという記録しか残らなかっただろう。
「まずは生存している関係者を特定します。搬出された組織を受け取った先にも確認が必要です。時効や管轄の問題があっても、被害者がどう扱われたかを調べずには終われません」
「よい判断じゃ。だが、ぬしの机もそろそろ限界ではないか? 書類の山が執務室の立派な景観を作りつつあるぞ」
「先輩が置いた分も、かなりありますよ」
「我の分は、朱鳶が見つけやすいよう寄せておいたのじゃ」
「それは整理とは言いません!」
いつもの調子で言い返してから、朱鳶は机の端に置かれた通知へ気づいた。捜査資料の一部を、長官室で確認したいという連絡だった。
用件には《旧工業区画における違法研究施設の発見報告》とある。珍しいことではない。複数の被害者がいた可能性がある事件なら、上層部への早期報告は必要だった。
それでも、胸の奥に小さな緊張が走った。
朱鳶にとってブリンガー長官は、幼い頃に自分を救ってくれた恩人だった。今では治安局の上層に立ち、市民の前へ姿を見せることも増えている。昔と変わったと噂する者もいるが、それだけで職務上の判断を疑ってよいわけではない。何より、今回の事件は見過ごしてよいものではなかった。
「先輩、長官室へ報告に行ってきます」
「うむ。我も同行しよう。現場の試料について聞かれるやもしれぬ」
青衣は白湯の容器の蓋を閉じ、朱鳶とともに席を立った。
*
ブリンガーは報告書の最初のページを読み終えると、手元のペンを机へ置いた。
「……何ということだ。人間を、交換部品のように扱っていたというのか」
長官室には来客用の椅子と、整然と並べられた資料棚がある。壁には市民向けの安全啓発活動に使われた写真が飾られ、ブリンガー自身もその一枚に写っていた。朱鳶は机の向こうにいる長官を見つめ、短く頷いた。
「はい、長官。少なくとも、現場の記録にはそのような処置と搬出が繰り返された形跡があります。現在、原本の保全と受領先の照会を進めています」
「言語道断だな。そんな研究がこの街の陰で行われていたとは……。市民の命を守る治安局として、看過できるものではない!」
ブリンガーは強い調子で言い、次のページへ目を通した。送金経路の一覧を見つけると、太い指でいくつかの番号をなぞる。
「関係企業が幾つもあるようだね。責任者と資金の出所は?」
「現在照会中です。名義上の会社は解散済みですが、閉鎖後にも資金移動が続いており、追跡できる可能性があります」
「よろしい。朱鳶班長、君の班にこの線を任せよう。必要な人員は申請したまえ。企業名を幾つ並べようと、人命を軽んじた者が責任を免れてよい道理はない」
「はい! 必ず、事実関係を明らかにします」
力を込めて返事をすると、ブリンガーは満足そうに頷いた。少なくとも指示された内容は、朱鳶が現場で必要だと判断した捜査と一致している。青衣も隣で黙って報告を聞いていた。
ところが、最後の資料へ目を移したところで、長官の手が止まった。
「……特記事項あり。黒い繊維状の付着物、か。これは何だね?」
「焼却区画で採取されたものです。金属と一体化したような形状で、簡易検査では材質も侵蝕の有無も判定できませんでした。現場の設備損傷と関係する可能性があります」
「人体実験と関係があるのか?」
「分かりません。現場に残されていたものですが、施設が使われていた時期から存在したかどうかも未確認です」
「そうか……なるほど」
ブリンガーは報告書を閉じ、少し考えるように顎へ手を当てた。
「であれば、ここは分けた方がよいだろう。君たちは被害者と企業の捜査に専念してくれたまえ。危険な試料の分析は、装備と設備のある専門部門へ移管する。万一、未知の侵蝕性物質なら、通常の鑑識室へ長く置いておくべきではない」
「試料を移管すること自体に異論はありません。ただ、分析結果と現場の記録は、同じ事件番号で照合できるようにしておきたいです」
朱鳶が申し出ると、ブリンガーはすぐに頷いた。
「もちろんだとも。分析が済めば報告を受け取れるようにしよう。今回の捜査に必要な情報なら、正式な手順で照会すればいい。君たちの仕事を止めるつもりはないよ」
「承知しました、長官」
青衣がそこで口を開いた。
「長官どの。ひとつよろしいか。試料は、設備の壁と繋がった状態で見つかっておる。単体の成分だけでなく、接合面の構造も記録するよう伝えていただきたい」
「もっともな指摘だ。専門部門へ、その点も申し添えよう」
そう言ったブリンガーは、机の脇に置いてあった広報用の予定表へ一度だけ視線を向けた。
「それにしても、ひどい事件だ。公表の段階では市民の不安を煽らないよう、正確な情報を揃える必要がある。君たちが成果を出してくれれば、治安局としても胸を張って説明できるだろう」
長官はそれ以上、黒い繊維について質問しなかった。朱鳶は報告書を受け取り、青衣とともに一礼して部屋を後にする。
廊下へ出ると、青衣が静かに言った。
「朱鳶。試料の移管書には、現物と写真、採取位置をそれぞれ紐づけておこうぞ」
「はい。長官も分析結果を共有してくださるとのことですし、手続きを整えておきます」
「うむ。記録は互いを照らし合うものじゃ。一本の糸だけ追っては、どこで途切れたか分からぬからな」
朱鳶はその言葉を覚えておくことにした。青衣が何かを疑っているようにも聞こえたが、彼女はそれ以上説明せず、いつもの足取りで廊下を歩き始める。先輩の勘を軽んじるつもりはない。ただ、今は目の前にある被害者たちの記録を追わなければならなかった。
*
試料の移管は、書類の上では滞りなく進んだ。
採取された金属片は封印された容器ごと専門部門へ運ばれ、現場の写真と採取記録は同じ事件番号で保存された。朱鳶の班には受領確認が返され、企業の決済経路と搬出先を追うための人員も追加された。黒い付着物の鑑定結果だけは、危険性の判定が終わるまで保留と記されていた。
その一方で、専門部門からは、外部の協力機関へ性状の照合を委託する申請が上がっていた。付着物を無闇に増やしたり培養したりするのではなく、封入状態を保った微量の試料を既存の参照データと比較する。申請書には安全対策と返却義務が記載され、元の試料の所在も変わらない。手続きだけ見れば、特殊な材質の鑑定ではあり得る進め方だった。
承認欄には、ブリンガーの署名があった。
外部委託先の詳細な連絡先が、朱鳶の机へ届くことはなかった。担当部門が別である以上、それ自体は不自然ではない。彼女は被害者の供給先について新たな照会結果を受け取り、長い番号の列から、まだ解散していない一社を見つけていた。
青衣が隣で白湯を飲みながら、その社名を見た。
「ほう。ようやく、生きた窓口が一つ出てきたか」
「はい。取引先の名義も残っています。ここから先は、相手の説明だけではなく、当時の契約書も確認します」
「うむ。名前を消したつもりでも、帳簿には往々にして足跡が残るものじゃ」
朱鳶は頷き、調査対象の企業へ正式な照会を掛けた。誰が研究を命じ、誰が組織を供給し、誰がその対価を受け取ったのか。施設を閉じた理由も、そこで暮らしていた人々がどうなったのかも、まだ答えは見つかっていない。
それでも捜査は、確かに先へ進んでいた。
*
封じられた透明な容器を、サラは照明の下へ置いた。
中にあるのは、金属片に絡みついた黒い繊維だった。表面には目立った動きがなく、単なる焦げた樹脂にも見える。だが、拡大した画像には不自然な接合面が写っていた。金属の傷へ繊維が入り込んでいるのではなく、途中から双方の境界が曖昧になり、別の一つの構造として続いている。
送られてきた資料には、発見場所と簡易分析の結果が添えられている。黒い繊維がどうしてそこに残されたのか、現地で何が起きたのかまでは分からない。施設の古い研究についても、サラの手元にある情報だけでは、臓器供給の仕組みの全容を知ることはできなかった。
彼女が関心を向けたのは、その隣に添えられた接合面の拡大画像だった。
サラは少し考えてから、別の保護領域へ入っている古い記録を開いた。そこには、かつて共同研究先で起きた事故の測定結果と、回収不能と判断された試験機についての断片的な資料が保存されている。記録に映っていた黒い構造も、接触した部材との境界を曖昧にしていた。ただし、そのとき確認された変化は制御できず、最後には試験区域の機器ごと破壊されていた。
彼女は二つの画像を並べ、端末の明るさを落とした。今回の試料では、接合面に沿って細い枝のような構造がいくつも伸びている。古い事故の画像とは似ているが、まったく同じではない。むしろ、あのとき雑然と広がっていたものが、今は限られた場所を選んで入り込んだかのようだった。
サラは測定結果をもう一度確認し、元のファイルにあった《試料回収不能》という記載へ視線を戻した。
机の端には、以前の面談で記録した音声の索引が残っていた。本人の希望や適性を確認するための、ごくありふれた書類である。サラはそこから一件を開き、音声の再生を始めた。
『……特別な何かに、なりたいんです。俺じゃなきゃいけないって、誰かに言ってもらえるような』
若い男の声が流れ、やがて途切れた。
サラはしばらく黙って黒い繊維を見つめていた。ガラスの向こうにあるものは動かず、返事をすることもない。彼女は再生画面を閉じ、封印された容器にそっと指を添えた。
「本当に、特別な存在になれたんですね」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ひとまず、これにて物語は一区切りとなります。
今後の展開については、プロットや伏線を整理し、じっくり構成を練ってから続きを執筆しようと思っています。そのため、次の更新まで少し間が空く予定です。
再開の際には、またお付き合いいただければ嬉しいです。