グレイの頭をよくする。
翌朝、作業台に向かってそんなことを考えた俺は、すぐに自分の言い方を反省した。昨日の台車騒ぎで動きが遅れたのは、グレイが何をすべきか分からなかったからではない。呼びかけと車輪の音を同時に聞き、危険の位置を確かめようとしたところで、古い演算装置の処理が追いつかなくなったのだ。
何年も倉庫で働き、今では広場の物品管理から収支の記録まで引き受けている相手である。むしろ俺の方が、考える前に触手を伸ばして失敗することが多い。そんな相手を捕まえて頭をよくしてやるなどと、随分と失礼な話だった。
「ンナーナ?(それで、僕の頭をよくしてくれるんだって?)」
「NnnAッ!?(いや、そういう意味じゃなくて!)」
作業台の向こうから顔を覗かせたグレイが、楽しそうに耳を動かした。片方の耳は外装が欠けたままだが、以前修理した受信機構には異常がない。本人によれば、昨日も俺の声はきちんと聞こえていたという。
「ンナナ。(冗談だよ。僕だって今の機械が古いことくらい分かってるさ。ただねえ、中身を丸ごと替えるのは、ちょっと困るんだ)」
「NnnA。(うん。そこは触らないつもりだよ。外から周囲を調べて、危ないときだけ知らせる装置を考えてる)」
「ンーナ。(それなら試してみたいね。昨日はさすがに、肝が冷えたもの)」
グレイは胸元に丸い手を当てた。ボンプにも肝があるのかという疑問はひとまず置いておくとして、同じことが起きれば今度も俺が間に合うとは限らない。本人の判断を奪わずに、判断するまでの余裕を作る。それが今回の目標だった。
作業台にはワナビーが集めた中古の測距センサーと、小さな制御基板が並んでいる。基板を貸してくれたのは、昨日も広場の通路を整備していた緑色のボンプだった。元は倉庫の運搬台に使っていたものらしく、型は古いが演算性能にはまだ余裕があるという。
「ンナッ、ンナナ。(そいつはもう俺の台車じゃ使わねえ。試すのは構わんが、焼いたら弁償してもらうからな)」
「NnnA。(分かった。最初は低い電圧で試すよ)」
「ンナ。(記録済み)」
ワナビーが貸出条件を端末に表示した。部品の所有者、返却の予定、破損した場合の扱いまで記されている。昨日、二週間の試験利用料として八千ディニーを支払ったばかりなので、今はできるだけ新しい部品を買いたくない。広場の共同資金は千四百六十ディニーしか残っておらず、そこから修理用の消耗品まで賄わなければならないのだ。
センサーと基板を繋ぐと、早速問題が見つかった。新しいセンサーが送り出す信号を、古い制御基板が理解できないのである。規格が違うなら変換器を挟むのが普通なのだろうが、そんな都合のよい部品が手元にあるはずもない。
「NnnA。(……こういうときだけは、便利なんだよな)」
背中の外装を少し開き、黒い触手を一本伸ばす。端子へ軽く触れると、金属の接点から内部の配線までが、まるで俺の身体の続きを調べるように感じられた。新旧の規格の間に何が足りないのかも、理屈より先に分かる。ただし、そこから先は俺の意思で選ぶ必要がある。触れたまま任せきりにすれば、配線を組み直すだけでなく、必要のない部分まで勝手に繋ぎかねない。
信号の変換に使う端子だけへ意識を絞ると、触手の先から淡い紫色の光が滲み、古い基板の一角へ細い導電路が形成された。低電圧の試験信号が流れ、画面にセンサーの数値が並び始める。
「ンナッ!(動いた)」
「NnnA。(うん。まだ数字が読めるようになっただけだけどね)」
ワナビーは耳を立てたまま、試験結果を記録していく。その横でグレイは、触手を使わずに動かせるようになった基板を感心した様子で眺めていた。
「ンーナナ。(それだけ分かれば大したものだよ。もっとも、何でもかんでも知らせられても困るけどねえ)」
「NnnA。(そこは気をつけるつもり。グレイが避ける必要のあるものだけ知らせたいんだ)」
俺たちは小さな振動器を二つ用意し、グレイの左右の外装に仮止めした。右から危険が迫れば右、左からなら左へ振動を伝える。機体そのものの制御系には接続せず、周囲のセンサーが拾った情報だけを別の箱で計算する仕組みだ。装置を止めてもグレイの脚は動くし、本人が外そうと思えば固定具を解除できる。
もっとも、そうしてできた試作品の評判は、あまり芳しくなかった。
*
「ンナナッ!?(ちょっとナロー、これじゃ落ち着いて歩けないよ!)」
グレイが作業台の前を横切るたび、左右の振動器が忙しなく動いていた。部品棚へ近づけば右側が震え、台車を追い越せば左側が震える。本人が立ち止まっても、近くを誰かが通ればまた警告が鳴るらしい。
確かに装置は、接近する物体の位置と速度を計算している。しかし、広場には棚も椅子も、仕事をしているボンプたちもいる。それらを片端から危険と判定していては、何もしない方が安全な気がしてくる。
「NnnA。(……すぐ止める。ごめん、情報が多すぎた)」
「ンーナ。(いやいや、こうして分かることもあるさ。僕がどれだけ動き回ってるか、数字で見せてもらえたもの)」
そう言うグレイの声には、腹を立てた様子がなかった。自分の機体の問題なのだから、自分も試験に加わるのが当然だと考えているらしい。ワナビーは警告記録を開き、繰り返し振動した場所へ印を付けた。
「ンナ。(棚は動かない)」
「NnnA。(……うん?)」
「ンナナ。(ぶつかるかどうかだけ)」
なるほど。棚が近くにあるという事実と、今まさに棚へ衝突しそうだという予測は別である。俺は距離だけでなく相対的な動きと、グレイ自身がどちらへ進もうとしているかを外付けの慣性センサーから計算するようにした。ただし、どこへ行こうとしているかを本体の記録から読み取るのではなく、実際の移動方向を見て予測する。グレイが気にしている線引きは、そこだった。
調整後の試験では、台車に軽い空箱を積んで通路を通してもらった。普段の速度で横を通るだけなら、装置は静かなままだったが、台車の向きを急に変えてグレイの進路へ寄せたところで、左側の振動器が短く動いた。
グレイは自分で足を止め、台車を先に通した。
「ンナーナ。(……これならいいねえ。昨日だったら、止まるべきかどうか考える前に計算待ちになってたかもしれない)」
「NnnA。(でも、これだけで事故がなくなるわけじゃないよ。センサーが見落とすこともあるし、電池が切れたら何も知らせられない)」
「ンナナ。(分かってるよ。こいつがなくたって僕は歩けるんだから。知らせてもらった後にどうするかは、僕が考えるさ)」
その言葉を聞いて、ようやく肩の力が抜けた。やりたかったのは新しい頭を取り付けることではなく、危険なときに一瞬だけ余裕を作ることだったのだ。グレイが装置に従うのではなく、装置がグレイの役に立つ。その順序なら、間違えずに済みそうだった。
ただ、製作に使った電池と基板を測定器から取り外そうとしたところで、俺は別の不便に気づいた。振動装置はどうにか動いても、グレイが外で使えば電力は徐々に減る。修理屋に正式な電源設備はなく、充電のためには街まで出なければならない。それなのに、何かあれば装置へ一つ機能を増やしたくなる。便利な道具を作るほど、新しい出費が増えていくわけだ。
そこへ、修理を相談しに来た人間の男性が受付を覗き込んだ。
「あの、すみません。ここって古いボンプの修理も見てもらえますか?」
ワナビーがすぐに応対し、端末へ《見積もりから承ります》と表示する。男性はほっとしたように笑って、持っていた小型端末を取り出した。
「助かった。職場のボンプなんだけど、右脚の動きがちょっとおかしくてさ。前に別のところで調べてもらったら、動かなくなるまでは使えると言われたんだけど……本人が気にしてて」
グレイが右脚の症状を尋ねると、男性の小型端末が短く鳴り、翻訳された文章が画面へ現れた。ところが男性は眉を寄せ、「交換が必要かってこと?」と聞き返した。グレイは首を振り、もう一度質問する。次の翻訳も上手く伝わらなかったらしく、ワナビーが《不調は歩き始めに出ますか。それとも歩いている途中ですか》と文字で補うと、ようやく男性は質問の意味を理解した。
普通の用件なら、手持ちの翻訳機能で十分なのだろう。しかし、グレイの古い発声機構との相性が悪いのか、細かな質問になると意味がずれる。ワナビーが症状と修理条件を文章でも確認してくれるので相談は進むものの、そのたびに少しずつ時間がかかっていた。
「NnnA。(……あれも、何とかできないかな)」
「ンーナ?(何を?)」
「NnnA。(グレイの声を相手の端末が拾いきれないときの手間。せっかくだから、補助装置から人間の言葉も出せるようにしたらどうかなって)」
ワナビーは少し考え、中古部品の棚から小さなスピーカーを持ってきた。画面には《音声出力装置/動作確認済み》と書いてある。俺が知らないうちに動作確認まで済ませていたらしい。
「NnnA。(……いつ用意したの、これ)」
「ンナ。(前から)」
「NnnA。(そういうことは先に言ってくれないかな)」
「ンナッ。(今、言った)」
反論の余地がないようで、実はある気もしたが、ワナビーはもう新しい試験項目を端末に追加していた。グレイも男性とのやり取りを終え、こちらへ戻ってくる。
「ンナーナ。(そりゃありがたいねえ。通訳機は珍しくないけど、僕の話し方だと上手く訳してもらえないことがあるんだよ。そうなると、結局は端末で文字を打つしかないからねえ)」
「NnnA。(ただ、新しい部品を買う余裕はないから、今あるものでできるか調べるだけね)」
「ンナ。(買わない)」
ワナビーはスピーカーの費用欄を示した。以前修理した品を持ち主の許可を得て引き取ったもので、今回の持ち出しはゼロとある。それなら、試すくらいはできそうだった。
もっとも、始めてみれば、演算補助より厄介な問題が待っていた。
*
「NnnA……。(どうして分からないんだろうな)」
作業台の上にはスピーカーと音声解析用の端末が並び、ワナビーがその前で何度もボンプ語を喋っていた。
「ンナ。(おはよう)」
「ンナ。(分かった)」
俺には違う意味に聞こえるのに、手元の古い音声解析端末では、録音された波形にわずかな違いしか見つからない。短い音の高さや長さを比較しても、二つの発声を安定して区別できるほどの手掛かりは得られなかった。
「ンーナ?(ナローは分かるのに?)」
「NnnA。(俺が一番聞きたいことだよ、それ。何で俺は分かるんだ?)」
人間だった頃の言葉だって、毎回文法を計算して理解していたわけではない。そんなことを考えながら自分の受信機構を調べていると、グレイが当然のように言った。
「ンナーナ。(発声だけで話してるわけじゃないからねえ。仕事用の機体だと、短い通信も一緒に送ってるよ)」
調べてみると、確かに発声と同時に補助的な信号が出ていた。機体の識別や伝達の形式に関する情報が含まれるらしい。変換規格の資料には、音声だけでなくこうした信号も参照する通訳機器が載っていたが、古い機体ごとに形式が違い、公開された資料だけでは読み切れない部分が多かった。音声だけを頼りに、あり合わせの端末で翻訳しようとしていた俺が失敗するのも無理はない。
通訳技術そのものはすでに普及している。俺が作りたいのは新しい翻訳方式ではなく、グレイの機体に合う変換回路を用意し、本人が必要なときに使える音声出力を、今ある補助装置へ組み込むことだった。それでも、この古い基板で異なる形式を扱うのは難しそうだった。
「NnnA。(……また信号の変換か)」
俺は触手を伸ばし、基板の端子を調べた。使っている形式が違うだけなら、足りない経路を補うことはできる。実際、触手が繋がっている間は、解析画面の読み取れない部分が少しずつ意味を持ち始めた。
だが、これでは駄目だった。グレイが外出するたびに俺が付いていくわけにはいかないし、触手を差し込んだままでは相手に渡せる装置にならない。
「ンナ?(離すと止まる?)」
「NnnA。(今のままだとね。変換する回路を全部作れればいいんだけど、どう繋がってるか俺にも上手く説明できない)」
ワナビーは触手と基板を見比べ、何かを思いついたように耳を動かした。
「ンナ。(少し残す)」
「NnnA。(……何を?)」
彼女が示したのは、基板へ触れている黒い触手だった。
冗談かと思ったが、その瞬間、触手の先端が細かく枝分かれした。黒い表面から糸のようなものが伸び、端子の間へ潜り込んでいく。薄紫の光が短く明滅するたび、配線の接続状態が変わり、さっきまで不明だった信号が解析画面へ流れ込んできた。
「NnnA……。(……これ、俺がやってるのか?)」
もちろん自分の身体から伸びたものだし、止めようとすれば止められる。だが、細かな糸がどの端子を選んだのかは、指示した覚えがなかった。機械に触れたときと同じように、接続の必要だけを理解して、身体の方が勝手に形を合わせているらしい。
太い触手を引いてみても、端子へ絡みついた細い枝はその場に残った。無理に引けば基板を壊しそうなので、俺は作業を止め、電源を切ってから慎重に根元を分けてみた。小さな抵抗とともに、背中の奥を引っ張られるような感覚が走り、すぐに消える。
黒い糸は基板へ残ったままだった。
ワナビーは身を乗り出して確認していたが、俺はしばらく動けなかった。触手が細かく分かれたり、金属の中へ入り込んだりすることには慣れ始めていた。それでも、自分の身体の一部を切り離し、それが別の機械の中で働き続けるというのは、今まで考えたこともない。
「ンーナ?(痛い?)」
「NnnA。(……痛くはない。ただ、変な感じがする)」
電源を入れる前に、切り離した部分が動かないか確かめた。熱も増していないし、勝手にどこかへ伸びようとする様子もない。端末から試験信号だけを流すと、黒い糸はほんの少し形を変え、異なる規格の情報を繋ぎ始めた。俺が触手を戻しても、変換は途切れなかった。
「NnnA。(……動いてる)」
「ワタッ!(できた)」
「NnnA。(待って。できたと言っていいのか、まだ分からない)」
俺はすぐに通訳装置を外部の試験回路へ切り離し、制御信号と電源だけを接続した状態で動作を調べた。少なくとも、グレイの記憶や判断に関わる領域へアクセスする線はない。だが、それで安全だと証明できるわけでもない。切り離した触手がどうやって働き続けるのか、俺にも分からないのだから。
「ンナーナ。(無理に使わなくてもいいんだよ、ナロー。君の身体を削ってまで、僕が喋る必要はないんだからね)」
グレイの言葉に、俺は少し驚いて顔を上げた。どうやら、こちらが気にしていることは伝わっていたらしい。
「NnnA。(ありがとう。……でも、まずは調べさせてほしい。駄目そうなら使わないから)」
「ンナナ。(それなら、僕も試験に付き合うよ。ただし、今日は君の見てるところでね)」
それからしばらく、俺たちは電源を切ったり入れたりしながら、通訳の精度と装置の発熱を確かめた。使う情報は外へ公開された発声と補助信号だけに限定し、本人が許可したとき以外は音声を出さない。ワナビーが保存した試験記録には、今までの失敗もそのまま残してある。
「ンナナ。(今日はいい天気だねえ)」
《本日は良好な設備です》
最初の試験では、相変わらず妙な文章が出た。グレイが呆れたように耳を揺らし、俺が変換候補を見直すと、今度は《今日はいい天気ですね》と表示される。同じ意味のはずなのに、言い回しが少し変わると選び方も変わるらしい。
「ンーナ。(まあ、設備の具合も悪くないけどねえ)」
《まあ、設備の具合も悪くありませんが》
「NnnA。(……つっこみまで訳すのか)」
グレイは笑うような音を立てた。機械がまるで喋っているようで、少しばかり面白い。ただ、そのままにしておくと、本人が誰にも聞かせたくない独り言まで読み上げてしまう。ワナビーが指摘する前に気づいたので、自動読み上げを止め、外側の操作部で本人が通訳を有効にしたときだけ音声を出すように変更した。あやふやな言葉は画面で確認してから出力する。
その試験を終える頃には、グレイが自分の声を人間の言葉で聞けるようになっていた。
「ンナーナ。(こんにちは。修理のご相談ですか?)」
《こんにちは。修理のご相談ですか?》
古いスピーカーから落ち着いた男性の声が流れた。少し硬い口調ではあるが、グレイが何を言ったかは十分に分かる。
「ンナナッ!(おお、これは便利だねえ!)」
《おお、これは便利ですね!》
「NnnA。(……今度は喜び方が少し丁寧になったな)」
俺の感想に、グレイは何度も頷いた。相手の端末との相性を気にせず、必要なときに自分で音声出力を選べるようになったことが、想像以上に嬉しいらしい。ワナビーもその様子を眺めてから、使い終わった電池の残量を確かめていた。
「ンナ。(減った)」
「NnnA。(……何%?)」
「ンナ。(かなり)」
嫌な予感がして画面を見ると、音声出力と演算補助を同時に使った時間に比べ、電池の減りが大きかった。便利にはなったが、一日中働かせるには相応の容量が必要になる。いくら触手が特殊でも、電気まで無から生み出せるわけではないらしい。
*
結局、装置を使うには、むき出しの基板や配線を一つにまとめる必要があった。グレイの背中へセンサーを直接取り付け、脇へスピーカーをぶら下げるなどという格好では、通路でどこかに引っ掛けてしまうだろう。
そこでワナビーが持ってきたのは、留め具の壊れた小さな工具箱だった。
「ンナ。(これ)」
「ンーナナ。(ああ、それなら使っていいよ。昔、倉庫で使ってたやつだ。もう工具は入れないからねえ)」
本人の許可を得たので、俺は箱の内部を区切り直し、演算補助の基板と通訳用の回路、電池を一つの筐体へ収めた。外側には小さなスピーカーと停止スイッチ、左右には振動を伝える部品を残す。グレイの外装へ直接加工するのは避け、取り外せる固定具だけで背中に載せた。
古い工具箱は、角張った小さな背負い鞄のようになった。
「ンナーナ。(おや、思ったより軽いね。これなら荷物を運ぶときも邪魔にならなさそうだ)」
グレイが歩いてみせると、小さな箱が背中で揺れた。安全のため、外装との間には柔らかな緩衝材を入れてあり、装置が発熱しても直接熱が伝わりにくいようにしてある。取り外し用の留め具も、本人が丸い手で操作できる大きさにした。
それを見ているうちに、俺は妙な懐かしさを覚えた。
小さな子供たちが、似たような鞄を背負って歩いている。赤いものや黒いものがあり、学校へ向かう道に何個も並んでいた。人間だった頃に何度も見た光景のはずなのに、肝心の鞄の名前だけが思い出せない。
「NnnA。(……こういうの、何て言ったっけ。子供が学校へ背負っていくやつ)」
「ンーナ?(子供の鞄かい?)」
「NnnA。(うん。ランド……いや、ライドセル、だったかな)」
「ンナッ!(ライドセル)」
ワナビーが勢いよく耳を立てた。
「NnnA。(いや、違うかも。俺が思い出したいのはもっと普通の――)」
「ンナナッ!(へえ、ライドセル! いい名前じゃないか!)」
グレイまで嬉しそうに繰り返した。俺は二体を見比べ、せめて一度くらい本当にそんな名前だったか調べようかと思ったが、ワナビーはもう受付用の端末へ記録を付けていた。
《ライドセル》
《試作一号機》
《使用者 グレイ》
《本人の許可なしに通訳しない》
どうやら決定したらしい。名前については、もう何を言っても遅そうだった。
「NnnA。(……まあ、使いやすい名前ならいいか)」
「ンナ。(いい)」
ワナビーは満足したように頷いた。俺自身の名前も製造番号を聞き違えたところから始まったのだから、今さら機械の名前だけ厳密にしたところで仕方がないのかもしれない。
完成した試作品をエンゾウさんの店へ持ち込むと、彼はグレイの背中を見て片眉を上げた。
「おう、今度は背負い箱か。お前さんたち、また変わったもん作ったな」
ワナビーが説明を端末に表示すると、エンゾウさんは興味深そうに箱を調べ、通訳の試験を引き受けてくれた。グレイが自分で音声出力を有効にし、いつもの挨拶をすると、店先に落ち着いた男性の声が響く。
「ンナーナ。(こんにちは、エンゾウさん。今日はちょっとお願いがあってね)」
《こんにちは、エンゾウさん。今日は少しお願いがあります》
「おっ、そっちの箱から人間の言葉が出るのか。なるほど、こいつは便利だな」
彼はグレイにいくつか質問したあと、通訳の誤りが起きたときの確認方法や、電池が切れた際に本人の機体へ影響が出ないかを確かめた。取り外し方法と停止操作も実際に試してから、ようやく小さく頷く。
「外付けで計算を手伝うのは悪くねえ考えだ。ただ、音声と演算を一緒に使うなら熱と電池に気をつけろよ。背中で熱を持つようじゃ困るし、これが壊れたせいで本人まで動けなくなったら本末転倒だ」
《装置を停止してもグレイの動作には影響しません》
《貸借部品を使用しているため販売はしません》
《長時間試験はこれからです》
「それならいい。……で、その信号変換は、どうやってるんだ?」
俺は少し迷い、端末に事情を入力した。触手を使って規格の異なる回路を繋いだこと、しかし詳しい原理はまだ調べていること。切り離した一部についてまで、ここで説明するべきかは判断がつかなかったが、少なくとも安全性を確かめきれていないことだけは伝える。
《内部に未検証の接続機構があります》
《安全性が分かるまで身内の試験だけにします》
「……そうか。分からねえところを分かったふりするよりはいい。使うなら記録を残して、無理が出たら止めろよ」
いつもの調子でそう言うと、エンゾウさんは装置の固定具について二つほど改善案を教えてくれた。俺は礼を伝え、ワナビーとグレイを連れて広場へ戻った。
午後の陽射しは少し傾いており、路地の舗装に残る湿気が靴音に混じっていた。飲食店の方から揚げ物の匂いが流れ、通りでは配送ボンプたちが荷物を積んだ台車を押している。グレイは新しい箱を背負ったまま、今日の予定を端末で確認していた。
「ンーナ?(ねえ、ナロー。ちょっと試してもいいかい?)」
「NnnA。(まだ試験中だよ。俺が見てるところならいいけど)」
グレイは頷き、近くの店先で荷物を整理していた人間へ向き直ると、通訳を有効にした。
「ンナーナ。(すみません。ここに置かれた箱は、まだ運びますか? 通路を空けたいんです)」
《すみません。その箱はまだ運びますか? 通路を空けたいのですが》
相手は背中の箱から聞こえてきた声に一瞬目を丸くしたものの、すぐに「ああ、もう片付けるよ」と答えた。グレイは礼を言い、自分から店の前を離れていく。以前なら、相手の端末で訳しきれないときは文字を打って画面を見せていたような用件も、今は短い会話で済んでいた。
俺の隣でワナビーが顔を上げる。
「ンーナ?(嬉しい?)」
「NnnA。(……俺が?)」
「ンナ。(作るの)」
俺は少し考えた。誰かが困っているのを見て修理を始めたはずなのに、今は新しい仕組みを考え、使える形にしていくことそのものが面白い。ただし、便利にするつもりで、本人の中身を勝手に弄るようなことはしたくなかった。
「NnnA。(うん。面白かったよ。……少し怖いところもあったけど)」
「ンナ。(次も作る)」
「NnnA。(……できれば、予算が増えてからにしようね)」
ワナビーは返事をする前に運営費の画面を開いた。確認されるのが少々怖かったので、俺はそっと目を逸らした。
*
その夜、広場ではライドセルの最初の試験記録を整理した。
グレイは通訳を停止させ、慣れた手つきで箱を取り外した。電池を充電するため、明日の朝には街の施設へ持っていく必要がある。正式な電源設備のない広場では、たった一台の便利な装置にも、こうして余分な手間が付いてくるのだった。
作業台に戻した箱は、昼間より少し温かかった。測定器の数値には大きな異常がなく、通訳の記録も予定した範囲だけが残っている。グレイ本人の機体ログを勝手に読んだ形跡も見当たらない。それを確かめてから電源を切り、俺は念のため内部の基板へ意識を向けてみた。
切り離した黒い糸は、端子の間に収まったままだった。
繋がっていないはずなのに、意識を向けると、背中の奥に小さな引っかかりが生じる。最初は単なる錯覚だと思った。しかし、装置に外部電源を繋いでいないことを確認したあと、もう一度、そこへ気持ちを集中させた。
黒い糸の先端が、ゆっくりと向きを変えた。
俺は何も命令していない。