初投稿です!
原作へのリスペクトを忘れずに、多くは語られなかった雷神イシュタルの心情と選択に焦点を当てた短編です。全2話構成です。
バーハラ城の窓から、春の庭園が見えた。
「外へ出たいのですか?」
イシュタルが尋ねると、少年は振り返った。
「うん。でも、今日は駄目だって」
ユリウス皇子は、少し残念そうに笑った。
病弱で、外出を制限されることが多いという。それでも、その表情は明るかった。
イシュタルを皇子に引き合わせたのは、母ヒルダだった。
士官候補生としてバーハラに滞在していたイシュタルに、母は皇子への謁見を勧めたのだった。
フリージ家の娘として、皇族との親交が何を意味するのか、十一歳の彼女にも理解できた。
しかし、少年との会話は、そんな事情を忘れさせるほど楽しかった。
「君は魔法が得意なんだって?」
「はい。剣よりは、ずっと」
「僕も魔法を習っているよ。いつか勝負しよう」
「手加減はいたしませんよ」
「それでいいよ!」
ユリウスは嬉しそうに笑った。
彼の部屋には多くの本があった。
魔法、歴史、法律、農業、税制。
イシュタルが興味を持たないような分野まで、彼は熱心に学んでいた。
「そんなことまで勉強なさるのですか?」
「皇帝になるからね」
当然のように答えた。
「何も知らないまま命令したら、間違ったことをしてしまうだろう?」
「……そうですね」
「父上のように、みんなが安心して暮らせる国を作りたいんだ」
イシュタルは、少年を見つめた。
自分より二つ年下の皇子が、誰よりも遠い未来を見ている。
「イシュタルは、どんな軍人になりたいの?」
「誰にも負けない軍人です」
「それから?」
「それから、とは?」
「勝ったあと、どうするの?」
彼女は答えられなかった。
戦うこと。勝つこと。軍を率いること。
その先にあるものを、まだ考えたことがなかった。
「君が国を守ってくれるなら、僕はその国を良くするよ」
ユリウスは微笑んだ。
少年らしい、無邪気な約束だった。
それでもイシュタルは、その言葉を忘れなかった。
やがて彼女は士官候補生の課程を首席で終え、アルヴィス皇帝に忠誠を誓った。
その報告を聞いたユリウスは、自分のことのように喜んだ。
「おめでとう、イシュタル」
「ありがとうございます」
「いつか一緒に仕事ができるといいね」
「はい。楽しみにしております」
ユリウスは窓の外を見た。
「本当は、君と二人で遊びたいな」
「お身体が良くなりましたら」
「約束だよ」
「ええ。約束です」
それは、何の変哲もない会話だった。
二人とも、その言葉を長く覚えていることになるとは、思っていなかった。
*
翌年、バーハラから悲報が届いた。
皇后ディアドラの死。
皇女ユリアの失踪。
そして、ユリウス皇子の異変。
何が起きたのか、詳しい事情は伝わらなかった。
アルスターに戻っていたイシュタルのもとへ、一通の手紙が届いた。
ユリウスからだった。
母と妹を失った悲しみ。
以前のように勉強できない苛立ち。
そして、彼女の近況を尋ねる言葉。
イシュタルは何度も読み返した。
返事には、軍での生活を書いた。
新しい戦術を学んだこと。馬術で失敗したこと。教官に褒められたこと。
以前のように、何でも話したかった。
*
その頃、ユリウスは自分の内側に生まれた異質な存在と戦っていた。
理由もなく怒りが込み上げる。
覚えのない言葉が口をつく。
自分の意思とは違う考えが、いつの間にか当然のものとして心を満たしている。
恐ろしかった。
自分が自分でなくなっていく。
それでも、イシュタルからの手紙を読むときだけは、以前の自分を思い出せた。
彼女は努力している。
自分も負けるわけにはいかない。
少年は手紙を握りしめた。
その抵抗が、いつまで続くのかも知らずに。
*
十三歳のイシュタルは初陣を迎えた。
父ブルームの軍に参謀として加わり、戦況を見極め、部隊を動かした。
彼女の判断は正確だった。
敵の進路を読み、兵を配置し、少ない損害で勝利を収めた。
勝利は一度では終わらなかった。
二度、三度と重なるにつれ、誰も彼女の才を疑わなくなった。
戦場では、年齢など意味を持たなかった。
彼女が命じれば兵は動き、その判断が兵の命を救った。
勝利の報告を受けたブルームは、娘の成長を喜んだ。
だが、イシュタルが最も報告したかった相手は別にいた。
『以前、勝ったあとにどうするのかと尋ねられましたね。今は少しだけ、分かった気がします』
ユリウスからの返事は、以前より短かった。
それでも、彼女の勝利を喜ぶ言葉があった。
『君なら、きっとできると思っていた』
イシュタルはその手紙を大切にしまった。
翌年、彼女は神器トールハンマーを託された。
戦場に雷鳴が響き渡った。
敵軍は崩れ、味方は歓声を上げた。
人々は彼女を「雷神」と呼び始めた。
しかし、その頃からユリウスの手紙は変わっていった。
返事が遅くなった。
文章が短くなった。
時には、以前の彼なら決して書かなかったような冷たい言葉が混じった。
それでも、最後には彼女の名があった。
イシュタルは何度も筆を取った。
何かお困りではありませんか。
お身体は大丈夫ですか。
私にできることはありませんか。
しかし、書いては消した。
何が起きているのか分からない。
自分が尋ねてよいことなのかも分からなかった。
結局、いつも通りの報告を書いた。
軍のこと。
部下のこと。
これから学びたいこと。
いつか再び、以前のように語り合える日を信じて。
*
十五歳の春。
イシュタルは勲功を認められ、バーハラへ召された。
久しぶりにユリウスと会える。
そのことが嬉しかった。
母ヒルダは、皇子との関係をさらに深めるよう念を押した。
イシュタルは曖昧に答えた。
自分にとってユリウスは、母が望むような政治的な相手ではなかった。
手紙を交わし、互いの成長を喜び、未来を語った少年だった。
しかし、再会したユリウスは変わっていた。
背が伸び、顔立ちは整い、以前の病弱な印象は薄れていた。
その瞳には、奇妙な強さがあった。
「久しぶりだね、イシュタル」
「ユリウス様……」
「ずいぶん立派になったじゃないか。雷神、だったかな」
微笑んでいる。
声も覚えている。
それなのに、何かが違った。
「お元気そうで、安心いたしました」
「元気?」
ユリウスは小さく笑った。
「そう見える?」
答えに迷った。
その一瞬を、彼は見逃さなかった。
「君まで、僕をそんな目で見るのか」
「そんなつもりでは……」
「なら、こちらへおいで」
命令だった。
以前のユリウスなら、彼女の返事を待っただろう。
今は違った。
やがて、イシュタルは皇子のそばで過ごす時間が増えた。
「僕のそばにいればいい」
「ですが、私は軍人です。任務がございます」
「そんなもの、誰かに任せればいい」
「ユリウス様」
「君は僕のものだ」
かつての少年は、彼女の才を喜んでくれた。
戦場で活躍することを、誰よりも楽しみにしていた。
その少年が今、彼女を自分のそばに置こうとしている。
「私は……あなたのお役に立ちたいのです」
「なら、ここにいればいい」
ユリウスは彼女の手を取った。
イシュタルは振りほどかなかった。
けれど、握り返すこともできなかった。
イシュタルが戦場に立つ機会は、次第に失われていった。
軍からは、幾度も出陣を求める報告が届いた。
しかし、そのたびにユリウスは彼女を引き止めた。
戦況を聞けば、指揮官としての判断を示すことはできた。
だが、その判断を自らの手で実行することは許されなかった。
それでも、戦場から雷神の名が消えることはなかった。
敵軍はその名を恐れ、帝国の兵士たちは彼女の帰還を待ち望んだ。
イシュタルは報告書を閉じた。
かつて、誰よりも自分の勝利を喜んでくれた少年。
その少年のそばにいる今、戦場へ戻ることさえできない。
彼女は、何も言わなかった。
*
宮廷では、彼女をユリウス皇子の愛人と呼ぶ者が現れた。
二人が共に過ごす時間は増えた。
しかし、以前のように語り合う時間は失われていった。
ユリウスは残酷な命令を下した。
帝国各地では子供狩りが行われ、逆らう者は容赦なく処罰された。
イシュタルは幾度も諫めた。
時には激しく言葉を交わした。
それでも、彼の決定を覆すことは難しかった。
彼女は軍人だった。
皇帝に忠誠を誓い、帝国を守ることを使命としてきた。
しかし、今の帝国が何を守ろうとしているのか。
その問いに答えられなくなっていた。
ただ一つ、誰にも知られていないことがあった。
ユリウスの体調は安定していなかった。
昼間は恐ろしいほど精力的に振る舞いながら、夜になると高熱に苦しむことがあった。
時には何日も寝込んだ。
ある夜、イシュタルは寝台のそばに座っていた。
ユリウスは熱にうなされていた。
彼女が額に触れると、少年はわずかに目を開いた。
「……イシュタル?」
その声に、彼女は動きを止めた。
以前と同じ呼び方だった。
「はい。ここにおります」
ユリウスはしばらく彼女を見つめていた。
何かを言おうとした。
しかし、言葉は出なかった。
やがて目を閉じた。
翌朝、彼は何事もなかったように振る舞った。
「どうしたんだい。そんな顔をして」
イシュタルは答えられなかった。
あの声は何だったのだろう。
熱に浮かされた幻だったのか。
それとも。
彼女は、その先を考えることができなかった。
十七歳になると、イシュタルは再び軍務に就いた。赴任先はマンスターだった。
反乱は各地で広がり、帝国の支配は揺らぎ始めていた。
彼女の軍事的な評価はますます高まった。
優れた指揮官。
部下の命を軽んじない将軍。
雷神の名にふさわしい戦いぶり。
だが、宮廷では別の呼び名が先に立った。
ユリウス皇子の愛人。
その言葉を耳にするたび、彼女は何も言わなかった。
否定すれば、ユリウスを裏切るような気がした。
肯定すれば、何か大切なものを失うような気がした。
彼女自身にも、答えはなかった。
マンスターでユリウスが高熱に倒れたとき、イシュタルは司祭サイアスを頼った。
何が彼を苦しめているのか。
治す方法はないのか。
問いかけても、確かな答えは得られなかった。
それでも彼女は諦めなかった。
軍人としてなら、敵を見つけ、戦い、勝利を得ることができる。
だが、ユリウスを苦しめるものには剣も雷も届かなかった。
雷神と呼ばれる女は、ただ一人の少年を救うことができなかった。
*
セリスの解放軍が挙兵した。
それに呼応するかのように帝国は各地で反乱に直面し、戦火は広がっていった。
イシュタルは軍を率いて戦った。
戦況を読み、兵を動かし、迫り来る敵を退けた。
彼女の指揮は正確だった。
部下たちはその才を信じ、彼女のもとで戦うことを誇りに思っていた。
しかし、勝利しても戦争は終わらなかった。
帝国の支配は揺らぎ、各地で反乱が広がった。
父ブルームが戦死した。
やがて母ヒルダも戦場へ向かった。
イシュタルは軍人として戦い続けた。
それが自分の役割だった。
そう信じようとした。
しかし、守るべき帝国は、かつてユリウスが語った国とはあまりにも違っていた。
やがて戦場はミレトスへ移った。
帝国軍は敗走を重ね、解放軍は迫っていた。
そんな中、ユリウスはイシュタルに声をかけた。
「イシュタル、ここは暗黒司祭どもに任せて国へ帰ろう」
彼女は顔を上げた。
「そうだ、ついでにおまえと二人で遊びたいな」
その言葉に、イシュタルは息を止めた。
二人で遊びたい。
八年前、バーハラ城の窓辺で聞いた言葉。
病弱だった少年が、庭園を眺めながら口にした願い。
あの日の声が、鮮明によみがえった。
ユリウスは続けた。
「反逆者を一人血祭りに上げる。どちらが早く、しとめられるか腕だめしだ」
イシュタルは、彼の顔を見つめた。
目も、声も、笑い方も、かつての少年に似ている。
しかし、何も感じられなかった。
もう何年も、そうだった。
彼の瞳にあるのは、獲物を見つけた者の愉悦だった。
人々が安心して暮らせる国を作りたいと語った少年は、どこにもいなかった。
それなのに。
なぜ、今になって、あの言葉を。
偶然だろうか。
昔のことを覚えていたのだろうか。
それとも、まだ。
……そんなはずはない。
彼女はユリウスを見つめた。
何も感じられない。
あの少年は、もういない。
そう思った。
そう思わなければならなかった。
けれど、彼女は答えた。
「はい、わかりました。そういうことなら喜んで!」
ユリウスが笑った。
イシュタルも微笑んだ。
そして二人は、解放軍へ向かった。
彼女が何を期待していたのか。
あるいは、何も期待していなかったのか。
それは彼女自身にも、分からなかった。
ただ、その先に待っていたのは、自由に飛べない籠だった。
お読みいただき、ありがとうございます。
初投稿ということで不慣れな点もありますが、楽しんでいただければ幸いです。
後編は10月18日に投稿予定です。