残照の果てに   作:ヘドロ30

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『残照の果てに』後編です。
変わりゆく帝国とユリウスの姿を前に、イシュタルが何を思い、どのような選択をするのか。
最後までお付き合いいただければ幸いです。


後編 籠の中

 バーハラの朝は、静かだった。

 窓から差し込む柔らかな光が、寝台の端を照らしていた。

 イシュタルはゆっくりと目を開けた。

 隣では、ユリウスが眠っていた。

 その寝顔は穏やかで、かつて手紙を交わしていた頃の少年を思わせた。

 イシュタルはしばらく、その横顔を見つめていた。

「……ユリウス様」

 小さく呼びかける。

 返事はない。

 彼女がそっと髪に触れると、ユリウスが身じろぎした。

「……イシュタル?」

「おはようございます」

「……もう朝か」

 ユリウスは目を細め、彼女を見た。

「今日は、どこにも行かないでくれよ」

 イシュタルは答えなかった。

 軍からの報告が届いているはずだった。フリージからも、返事を求める書簡が来ている。

 だが、ユリウスは彼女の手を取った。

「……もう少しだけ」

 その言葉に、イシュタルはかすかに微笑んだ。

「……はい」

 窓の外では、王都の鐘が鳴り始めていた。

     *

 翌日、ユリウスはバーハラを発った。

 ロプト教団の者たちを伴い、帝国各地を巡るという。

 行き先も、帰還の日取りも、イシュタルには告げられなかった。

「ユリウス様は、いつお戻りになるの?」

 侍従は頭を下げた。

「申し訳ございません。私どもにも……」

「……そう」

 イシュタルはそれ以上尋ねなかった。

 執務室には、各地から報告書が届いていた。

 解放軍の進軍。帝国軍の敗走。各地で発生する反乱。

 彼女は書類を開いた。

 戦況図を見れば、どこに兵を置くべきか、どの街道を押さえるべきか、すぐにわかった。

 かつてなら、部下を呼び、命令を下していただろう。

 だが、今の彼女には指揮する軍がなかった。

 イシュタルは書類を閉じた。

 窓の外では、兵士たちが訓練を続けている。

 号令が響く。

 剣と盾のぶつかる音が聞こえる。

 彼女はしばらく、その光景を眺めていた。

 やがて、静かに窓を閉めた。

     *

 バーハラの城内では、奇妙な教育が行われている。

 ロプト教団の神官たちが集めた子供に、教義を唱えさせていた。

 しかし、その子たちはあまりにも幼かった。

「ロプト神こそ、我らの唯一の神である」

 幼い声が、揃って繰り返す。

「皇子ユリウス様こそ、我らを導く御方である」

 声を出さない子供がいた。

 神官はその子の前に立ち、厳しく叱責した。

 イシュタルは廊下の向こうから、その様子を見ていた。

「……何をしているのですか」

 神官が振り返った。

「これはイシュタル様。子供たちに正しい教えを授けております」

「その子は、まだ幼いではありませんか」

「幼いからこそ、教えを受ける必要があるのです」

 神官は当然のことのように答えた。

 イシュタルは子供を見た。怯えた目が、彼女を見上げていた。

「……今日は、もう終わりにしてあげなさい」

「しかし、教団の定めが――」

「私が許可します。終わりにしなさい」

 静かな声だった。

 だが、神官はそれ以上逆らわなかった。

 子供たちが去ったあと、イシュタルはしばらくその場に立っていた。

 自分が今、何を守れたのか。

 そんなことさえ、わからなかった。

     *

 ヴェルトマーから知らせが届いた。

 ロプト教団が大規模な祭典を開催するという。

 名は、ロプト生誕祭。

 各地から神官と信徒が集められ、街には巨大な祭壇が築かれた。

 祭典の日、マンフロイは壇上に立った。

「ついに……ついに、この日が訪れた!」

 群衆の歓声が響く。

「我らが長年待ち望んだ、ロプト神の御世! 今こそ、その栄光を世界に示すのだ!」

 神官たちが一斉にひざまずいた。

 ユリウスは玉座に腰掛け、その光景を眺めていた。

 口元に笑みが浮かぶ。

 マンフロイは両腕を広げた。

「ロプト神に栄光あれ!」

 歓声が街を覆った。

 鐘が鳴り響き、神官たちは祝福の言葉を唱えた。広場では信徒たちがひざまずき、ロプト神の復活を讃えていた。

 そのすぐ向こうで、一軒の家が取り壊されていた。

「お願いです! ここにはまだ家族が――!」

 男の叫びを、兵士が押し潰した。

 通りには、縄でつながれた人々が連れ出されていた。

 泣き叫ぶ子供。母親の名を呼ぶ少年。抵抗して地面に倒される老人。

 彼らがどこへ連れていかれるのか、誰も知らなかった。

 いや、知っていても、口にする者はいなかった。

「ロプト神に栄光あれ!」

 再び歓声が上がった。

 祭壇の前では、神官たちが祈りを捧げていた。

 その祈りの声に混じって、悲鳴が聞こえた。

 一人、また一人と、生贄が捧げられていく。

 祭壇を覆う鈍い紫色の光が、ゆっくりとユリウスのいる玉座へ伸びていった。

 それは光というより、闇が滲み出しているようだった。

 音もなく、床を這うように広がっていく。

「ふふっ……」

 ユリウスは、静かに微笑んだ。その瞳には、恐怖も驚きもなかった。

 まるで、古い友人を迎えるかのように。ただ、近づいてくる紫の光を眺めていた。

 祭典は幾日も続いた。

 家々は壊され、通りは祭壇に変わり、住民たちは姿を消していった。

 かつて人々が暮らしていた街には、祈りと歓声と悲鳴だけが残された。

 ヴェルトマーは、もはや以前の姿をとどめていなかった。

     *

 バーハラにも、祭典の報告が届いた。

 イシュタルは書簡を読み終え、机に置いた。

 ヴェルトマー。

 かつてユリウスが、いつか良い国をつくると語っていた。

 その土地で、今、何が起きているのか。

 彼女は窓の外を見た。空は晴れていた。

 ユリウスからの手紙は、届いていなかった。

 その日も、翌日も。

 イシュタルは待った。

 彼が帰ってきたら、何を話そう。

 各地の戦況だろうか。ヴェルトマーのことだろうか。

 それとも、昔のように、ただ何でもない話をするのだろうか。

 考えているうちに、日が暮れた。

 結局、彼女は何も決められなかった。

     *

 ある夜、イシュタルのもとに一人の兵士が訪れた。

「イシュタル様。お願いがございます」

「何でしょう」

「子供たちのことです」

 兵士は声を落とした。

 バーハラに集められた子供たちの一部が、近く教団の施設へ移されるという。

 その後、どうなるのかは誰も知らない。

「……何人ですか」

 兵士が人数を告げた。

 イシュタルはしばらく黙っていた。

「馬車を用意できますか」

「はっ?」

「夜明け前に、西門へ。護衛は最小限で構いません」

 兵士は顔を上げた。

「よろしいのですか。教団に知られれば……」

「私も一緒に行きます」

 その声には、かつて軍を率いた将軍の響きがあった。

 兵士は深く頭を下げた。

「承知いたしました」

 数日後、イシュタルは子供たちに伴って、ひそかにバーハラを離れた。

 フリージの修道院が、彼らを受け入れた。

 兵士たちは雷神を恐れ、修道院に近づこうとはしなかった。

 だが、胸の奥は少しも軽くならなかった。

 バーハラには、まだ多くの子供が残されていた。

 そして、教団は新たな子供たちを集め続けていた。

     *

 戦況は悪化していた。

 解放軍は各地の帝国軍を破り、ついにフリージにも迫っていた。

 ヒルダからは、幾度となく書簡が届いていた。

 戦況を知らせるもの。援軍を求めるもの。

 そして、ユリウスのもとでの地位を確かなものにせよと命じるもの。

 イシュタルは、それらをすべて読んだ。

 しかし、返事を書くことはできなかった。

 ある日、フリージから急使が到着した。

 その兵士は、ひざまずいたまま顔を上げなかった。

「……申し上げます」

 イシュタルは静かに待った。

「ヒルダ様が……戦死なされました」

 長い沈黙があった。

「……そうですか」

 それだけだった。

 急使は言葉を失った。

 イシュタルは立ち上がり、窓辺へ歩いた。

 母は、最後まで戦ったのだという。

 兵を率い、解放軍を迎え撃った。

 しかし、フリージ城はもはや落城間近だという。

 イシュタルは窓枠に手を置いた。自分なら、どう戦っただろう。

 敵の進路を読めば、別の布陣ができたはずだった。

 退路を確保することも、兵を温存することも。

 考え始めると、いくつもの策が浮かんだ。

 だが、もう遅かった。

「……お母様」

 声は、かすれていた。

 そして、涙があふれ出た。

     *

 フリージ城が陥落した。

 自分を支え続けた兵士たちは次々に倒れ、その一方で解放軍が勢いづけていく。

 もはやどうにもならなかった。

 バーハラの城内にも、動揺が広がっていた。

 兵士たちは命令を求め、役人たちは責任を押しつけ合った。

 イシュタルは報告書を読み続けた。

 敵軍の進路。残存兵力。補給線。地形。

 どれも、彼女には理解できた。

 敗北を避けることが、もはや困難であることも。

 それでも、まだ戦える兵がいた。

 守るべき場所があった。

 イシュタルは戦況図に目を落とした。

 気がつくと、指が街道をたどっていた。

 ここに兵を置く。

 こちらから敵の側面を突く。

 魔道部隊を後方に下げ、騎兵で敵の先鋒を崩す。

 かつて何度も繰り返した思考だった。

 彼女は、はっとして手を止めた。

「……私は」

 その先の言葉は出なかった。

     *

 ユリウスがバーハラへ戻ったのは、それから間もなくのことだった。

「ずいぶん騒がしいね」

 彼は不機嫌そうに言った。

「どいつもこいつも、解放軍が来ると騒いでいる」

 イシュタルは彼を迎えた。

「お帰りなさいませ、ユリウス様」

「……イシュタル」

 ユリウスは彼女を見た。

「どうしたんだい。ずいぶん顔色が悪いじゃないか」

「……少し、疲れているだけです」

「ふうん」

 彼はそれ以上尋ねなかった。

 イシュタルは静かに口を開いた。

「ユリウス様。お願いがございます」

「何だい?」

「私に、出撃をお許しください」

 ユリウスの表情が変わった。

「わたしはヴァイスリッターを率いて帝都の守りを固めます」

「……守りだと?」

「はい。しばらくお側を離れることをお許しください」

 イシュタルを除いて、帝都には軍を指揮できるものが残されていなかった。

 しかし、ユリウスに危機感はなかった。

「奴等がどれほどの数で来ようとも、私を倒すことなど不可能なのだ。わざわざおまえが出ることもなかろう」

 その言葉を、今のイシュタルは否定できなかった。

 ユリウスから放たれる魔力は、以前とは比較にならないほど膨れ上がっていた。

 まるで激流のように、絶え間なく押し寄せる力。

 いつから、これほどの力を持つようになったのだろう。

 その瞳は、相手の動きも、思考も、その先に待つ結末さえも、すべて見通しているかのようだった。

 誰にも抗えない、魔性の力。

 ここにいれば、すべてが終わるまで安全なのかもしれない。

 しかしーー

「しかし、私も誇りあるフリージ家の魔法戦士。両親や兄弟を殺されておめおめと生きてはおれません。どうか戦う機会をお与えください」

 ユリウスは怪訝な顔をした。

「おまえは死に急いでるようだな。なぜだ、イシュタル」

「…………」

「私から逃げたくなったか」

 イシュタルは顔を上げた。

 その問いに、迷いはなかった。

「いえ、今でもユリウス様を愛しております」

 ユリウスは彼女を見つめた。やがて、薄く笑った。

「ふふっ、まあいいさ。戦いたくば戦え、止めはしない」

「……ありがとうございます」

 イシュタルは深く頭を下げた。

 それ以上、二人は何も話さなかった。

     *

 久しぶりに軍服へ袖を通した。

 鏡の中には、かつての自分がいた。

 雷神イシュタル。

 フリージの誇る将軍。

 数多の戦場を駆け、敵を打ち破ってきた女。

 彼女は鏡を見つめた。

 そこに映る顔は、以前とは違っていた。

 それでも、軍服の着方を忘れてはいなかった。

 剣帯を締め、手袋をはめる。

 トールハンマーを手に取る。

 すべて、体が覚えていた。

 城門では、残された兵士たちが彼女を待っていた。

「イシュタル様!」

 兵士たちが姿勢を正す。

 彼女は馬に乗った。隊列を見渡す。

 兵の数は少ない。だが、まだ戦える。

「……全軍、出陣するぞ。私とともに来い!」

 力強い命令だった。

 兵士たちは一斉に動いた。

 雷神としての、最後の戦場へ向かった。

     *

 解放軍の旗が見えた。

 イシュタルは敵陣を見渡した。

 その布陣は整っていた。よく訓練された軍だった。

 かつての彼女なら、その指揮官と戦うことに喜びを感じたかもしれない。

 今は、何も感じなかった。

 ただ、敵がいる。自分には、率いる兵がいる。

 それだけだった。

 やがて、敵軍の中に見覚えのある姿を見つけた。

「……ティニー」

 かつてフリージで暮らした少女。

 今は解放軍の一員として、彼女の前に立っていた。

「イシュタル従姉さま、もうやめてください!」

 ティニーの声が響いた。

「従姉さまはわたしにやさしくしてくださいました。こんな戦いなど望んでいないはずです」

 イシュタルは、しばらく彼女を見つめていた。

 ティニーの言葉は正しかったのかもしれない。

 戦わずに済む道が、どこかにあったのかもしれない。

 だが、彼女にはもう、その道が見えなかった。

「私はまちがっていたのかもしれない。だけど、もう後へはもどれないの」

 彼女はトールハンマーを構えた。

「……許してね、ティニー」

 雷鳴が轟いた。

     *

 戦場を雷光が走った。イシュタルの指揮は正確だった。

 兵士たちは彼女の命令に従い、解放軍へ襲いかかった。

 魔法が降り注ぎ、騎兵が駆ける。

 かつて帝国最強と恐れられた将軍の姿が、そこにあった。

 だが、戦況は覆らなかった。

 一人、また一人と兵が倒れていく。

 イシュタルは最後まで指揮を執った。

 やがて、彼女自身も深い傷を負った。

 膝が折れる。

 トールハンマーが地面に落ちた。

 遠くで、兵士の叫び声が聞こえた。

 空を見上げる。

 灰色の雲が流れていた。

 幼い頃、ユリウスと交わした約束。

 フリージでの日々。

 戦場を駆けた記憶。

 バーハラの静かな朝。

 さまざまな光景が、浮かんでは消えた。

「ユリウス様……わたしは……」

 

 

【挿絵表示】

 

 

 その先の言葉は、誰にも届かなかった。




最後までお読みいただき、ありがとうございました。
次回はティニーを主人公とした短編『雷神の名を借りて』を投稿予定です。
引き続き、お楽しみいただければ幸いです。
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