変わりゆく帝国とユリウスの姿を前に、イシュタルが何を思い、どのような選択をするのか。
最後までお付き合いいただければ幸いです。
バーハラの朝は、静かだった。
窓から差し込む柔らかな光が、寝台の端を照らしていた。
イシュタルはゆっくりと目を開けた。
隣では、ユリウスが眠っていた。
その寝顔は穏やかで、かつて手紙を交わしていた頃の少年を思わせた。
イシュタルはしばらく、その横顔を見つめていた。
「……ユリウス様」
小さく呼びかける。
返事はない。
彼女がそっと髪に触れると、ユリウスが身じろぎした。
「……イシュタル?」
「おはようございます」
「……もう朝か」
ユリウスは目を細め、彼女を見た。
「今日は、どこにも行かないでくれよ」
イシュタルは答えなかった。
軍からの報告が届いているはずだった。フリージからも、返事を求める書簡が来ている。
だが、ユリウスは彼女の手を取った。
「……もう少しだけ」
その言葉に、イシュタルはかすかに微笑んだ。
「……はい」
窓の外では、王都の鐘が鳴り始めていた。
*
翌日、ユリウスはバーハラを発った。
ロプト教団の者たちを伴い、帝国各地を巡るという。
行き先も、帰還の日取りも、イシュタルには告げられなかった。
「ユリウス様は、いつお戻りになるの?」
侍従は頭を下げた。
「申し訳ございません。私どもにも……」
「……そう」
イシュタルはそれ以上尋ねなかった。
執務室には、各地から報告書が届いていた。
解放軍の進軍。帝国軍の敗走。各地で発生する反乱。
彼女は書類を開いた。
戦況図を見れば、どこに兵を置くべきか、どの街道を押さえるべきか、すぐにわかった。
かつてなら、部下を呼び、命令を下していただろう。
だが、今の彼女には指揮する軍がなかった。
イシュタルは書類を閉じた。
窓の外では、兵士たちが訓練を続けている。
号令が響く。
剣と盾のぶつかる音が聞こえる。
彼女はしばらく、その光景を眺めていた。
やがて、静かに窓を閉めた。
*
バーハラの城内では、奇妙な教育が行われている。
ロプト教団の神官たちが集めた子供に、教義を唱えさせていた。
しかし、その子たちはあまりにも幼かった。
「ロプト神こそ、我らの唯一の神である」
幼い声が、揃って繰り返す。
「皇子ユリウス様こそ、我らを導く御方である」
声を出さない子供がいた。
神官はその子の前に立ち、厳しく叱責した。
イシュタルは廊下の向こうから、その様子を見ていた。
「……何をしているのですか」
神官が振り返った。
「これはイシュタル様。子供たちに正しい教えを授けております」
「その子は、まだ幼いではありませんか」
「幼いからこそ、教えを受ける必要があるのです」
神官は当然のことのように答えた。
イシュタルは子供を見た。怯えた目が、彼女を見上げていた。
「……今日は、もう終わりにしてあげなさい」
「しかし、教団の定めが――」
「私が許可します。終わりにしなさい」
静かな声だった。
だが、神官はそれ以上逆らわなかった。
子供たちが去ったあと、イシュタルはしばらくその場に立っていた。
自分が今、何を守れたのか。
そんなことさえ、わからなかった。
*
ヴェルトマーから知らせが届いた。
ロプト教団が大規模な祭典を開催するという。
名は、ロプト生誕祭。
各地から神官と信徒が集められ、街には巨大な祭壇が築かれた。
祭典の日、マンフロイは壇上に立った。
「ついに……ついに、この日が訪れた!」
群衆の歓声が響く。
「我らが長年待ち望んだ、ロプト神の御世! 今こそ、その栄光を世界に示すのだ!」
神官たちが一斉にひざまずいた。
ユリウスは玉座に腰掛け、その光景を眺めていた。
口元に笑みが浮かぶ。
マンフロイは両腕を広げた。
「ロプト神に栄光あれ!」
歓声が街を覆った。
鐘が鳴り響き、神官たちは祝福の言葉を唱えた。広場では信徒たちがひざまずき、ロプト神の復活を讃えていた。
そのすぐ向こうで、一軒の家が取り壊されていた。
「お願いです! ここにはまだ家族が――!」
男の叫びを、兵士が押し潰した。
通りには、縄でつながれた人々が連れ出されていた。
泣き叫ぶ子供。母親の名を呼ぶ少年。抵抗して地面に倒される老人。
彼らがどこへ連れていかれるのか、誰も知らなかった。
いや、知っていても、口にする者はいなかった。
「ロプト神に栄光あれ!」
再び歓声が上がった。
祭壇の前では、神官たちが祈りを捧げていた。
その祈りの声に混じって、悲鳴が聞こえた。
一人、また一人と、生贄が捧げられていく。
祭壇を覆う鈍い紫色の光が、ゆっくりとユリウスのいる玉座へ伸びていった。
それは光というより、闇が滲み出しているようだった。
音もなく、床を這うように広がっていく。
「ふふっ……」
ユリウスは、静かに微笑んだ。その瞳には、恐怖も驚きもなかった。
まるで、古い友人を迎えるかのように。ただ、近づいてくる紫の光を眺めていた。
祭典は幾日も続いた。
家々は壊され、通りは祭壇に変わり、住民たちは姿を消していった。
かつて人々が暮らしていた街には、祈りと歓声と悲鳴だけが残された。
ヴェルトマーは、もはや以前の姿をとどめていなかった。
*
バーハラにも、祭典の報告が届いた。
イシュタルは書簡を読み終え、机に置いた。
ヴェルトマー。
かつてユリウスが、いつか良い国をつくると語っていた。
その土地で、今、何が起きているのか。
彼女は窓の外を見た。空は晴れていた。
ユリウスからの手紙は、届いていなかった。
その日も、翌日も。
イシュタルは待った。
彼が帰ってきたら、何を話そう。
各地の戦況だろうか。ヴェルトマーのことだろうか。
それとも、昔のように、ただ何でもない話をするのだろうか。
考えているうちに、日が暮れた。
結局、彼女は何も決められなかった。
*
ある夜、イシュタルのもとに一人の兵士が訪れた。
「イシュタル様。お願いがございます」
「何でしょう」
「子供たちのことです」
兵士は声を落とした。
バーハラに集められた子供たちの一部が、近く教団の施設へ移されるという。
その後、どうなるのかは誰も知らない。
「……何人ですか」
兵士が人数を告げた。
イシュタルはしばらく黙っていた。
「馬車を用意できますか」
「はっ?」
「夜明け前に、西門へ。護衛は最小限で構いません」
兵士は顔を上げた。
「よろしいのですか。教団に知られれば……」
「私も一緒に行きます」
その声には、かつて軍を率いた将軍の響きがあった。
兵士は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
数日後、イシュタルは子供たちに伴って、ひそかにバーハラを離れた。
フリージの修道院が、彼らを受け入れた。
兵士たちは雷神を恐れ、修道院に近づこうとはしなかった。
だが、胸の奥は少しも軽くならなかった。
バーハラには、まだ多くの子供が残されていた。
そして、教団は新たな子供たちを集め続けていた。
*
戦況は悪化していた。
解放軍は各地の帝国軍を破り、ついにフリージにも迫っていた。
ヒルダからは、幾度となく書簡が届いていた。
戦況を知らせるもの。援軍を求めるもの。
そして、ユリウスのもとでの地位を確かなものにせよと命じるもの。
イシュタルは、それらをすべて読んだ。
しかし、返事を書くことはできなかった。
ある日、フリージから急使が到着した。
その兵士は、ひざまずいたまま顔を上げなかった。
「……申し上げます」
イシュタルは静かに待った。
「ヒルダ様が……戦死なされました」
長い沈黙があった。
「……そうですか」
それだけだった。
急使は言葉を失った。
イシュタルは立ち上がり、窓辺へ歩いた。
母は、最後まで戦ったのだという。
兵を率い、解放軍を迎え撃った。
しかし、フリージ城はもはや落城間近だという。
イシュタルは窓枠に手を置いた。自分なら、どう戦っただろう。
敵の進路を読めば、別の布陣ができたはずだった。
退路を確保することも、兵を温存することも。
考え始めると、いくつもの策が浮かんだ。
だが、もう遅かった。
「……お母様」
声は、かすれていた。
そして、涙があふれ出た。
*
フリージ城が陥落した。
自分を支え続けた兵士たちは次々に倒れ、その一方で解放軍が勢いづけていく。
もはやどうにもならなかった。
バーハラの城内にも、動揺が広がっていた。
兵士たちは命令を求め、役人たちは責任を押しつけ合った。
イシュタルは報告書を読み続けた。
敵軍の進路。残存兵力。補給線。地形。
どれも、彼女には理解できた。
敗北を避けることが、もはや困難であることも。
それでも、まだ戦える兵がいた。
守るべき場所があった。
イシュタルは戦況図に目を落とした。
気がつくと、指が街道をたどっていた。
ここに兵を置く。
こちらから敵の側面を突く。
魔道部隊を後方に下げ、騎兵で敵の先鋒を崩す。
かつて何度も繰り返した思考だった。
彼女は、はっとして手を止めた。
「……私は」
その先の言葉は出なかった。
*
ユリウスがバーハラへ戻ったのは、それから間もなくのことだった。
「ずいぶん騒がしいね」
彼は不機嫌そうに言った。
「どいつもこいつも、解放軍が来ると騒いでいる」
イシュタルは彼を迎えた。
「お帰りなさいませ、ユリウス様」
「……イシュタル」
ユリウスは彼女を見た。
「どうしたんだい。ずいぶん顔色が悪いじゃないか」
「……少し、疲れているだけです」
「ふうん」
彼はそれ以上尋ねなかった。
イシュタルは静かに口を開いた。
「ユリウス様。お願いがございます」
「何だい?」
「私に、出撃をお許しください」
ユリウスの表情が変わった。
「わたしはヴァイスリッターを率いて帝都の守りを固めます」
「……守りだと?」
「はい。しばらくお側を離れることをお許しください」
イシュタルを除いて、帝都には軍を指揮できるものが残されていなかった。
しかし、ユリウスに危機感はなかった。
「奴等がどれほどの数で来ようとも、私を倒すことなど不可能なのだ。わざわざおまえが出ることもなかろう」
その言葉を、今のイシュタルは否定できなかった。
ユリウスから放たれる魔力は、以前とは比較にならないほど膨れ上がっていた。
まるで激流のように、絶え間なく押し寄せる力。
いつから、これほどの力を持つようになったのだろう。
その瞳は、相手の動きも、思考も、その先に待つ結末さえも、すべて見通しているかのようだった。
誰にも抗えない、魔性の力。
ここにいれば、すべてが終わるまで安全なのかもしれない。
しかしーー
「しかし、私も誇りあるフリージ家の魔法戦士。両親や兄弟を殺されておめおめと生きてはおれません。どうか戦う機会をお与えください」
ユリウスは怪訝な顔をした。
「おまえは死に急いでるようだな。なぜだ、イシュタル」
「…………」
「私から逃げたくなったか」
イシュタルは顔を上げた。
その問いに、迷いはなかった。
「いえ、今でもユリウス様を愛しております」
ユリウスは彼女を見つめた。やがて、薄く笑った。
「ふふっ、まあいいさ。戦いたくば戦え、止めはしない」
「……ありがとうございます」
イシュタルは深く頭を下げた。
それ以上、二人は何も話さなかった。
*
久しぶりに軍服へ袖を通した。
鏡の中には、かつての自分がいた。
雷神イシュタル。
フリージの誇る将軍。
数多の戦場を駆け、敵を打ち破ってきた女。
彼女は鏡を見つめた。
そこに映る顔は、以前とは違っていた。
それでも、軍服の着方を忘れてはいなかった。
剣帯を締め、手袋をはめる。
トールハンマーを手に取る。
すべて、体が覚えていた。
城門では、残された兵士たちが彼女を待っていた。
「イシュタル様!」
兵士たちが姿勢を正す。
彼女は馬に乗った。隊列を見渡す。
兵の数は少ない。だが、まだ戦える。
「……全軍、出陣するぞ。私とともに来い!」
力強い命令だった。
兵士たちは一斉に動いた。
雷神としての、最後の戦場へ向かった。
*
解放軍の旗が見えた。
イシュタルは敵陣を見渡した。
その布陣は整っていた。よく訓練された軍だった。
かつての彼女なら、その指揮官と戦うことに喜びを感じたかもしれない。
今は、何も感じなかった。
ただ、敵がいる。自分には、率いる兵がいる。
それだけだった。
やがて、敵軍の中に見覚えのある姿を見つけた。
「……ティニー」
かつてフリージで暮らした少女。
今は解放軍の一員として、彼女の前に立っていた。
「イシュタル従姉さま、もうやめてください!」
ティニーの声が響いた。
「従姉さまはわたしにやさしくしてくださいました。こんな戦いなど望んでいないはずです」
イシュタルは、しばらく彼女を見つめていた。
ティニーの言葉は正しかったのかもしれない。
戦わずに済む道が、どこかにあったのかもしれない。
だが、彼女にはもう、その道が見えなかった。
「私はまちがっていたのかもしれない。だけど、もう後へはもどれないの」
彼女はトールハンマーを構えた。
「……許してね、ティニー」
雷鳴が轟いた。
*
戦場を雷光が走った。イシュタルの指揮は正確だった。
兵士たちは彼女の命令に従い、解放軍へ襲いかかった。
魔法が降り注ぎ、騎兵が駆ける。
かつて帝国最強と恐れられた将軍の姿が、そこにあった。
だが、戦況は覆らなかった。
一人、また一人と兵が倒れていく。
イシュタルは最後まで指揮を執った。
やがて、彼女自身も深い傷を負った。
膝が折れる。
トールハンマーが地面に落ちた。
遠くで、兵士の叫び声が聞こえた。
空を見上げる。
灰色の雲が流れていた。
幼い頃、ユリウスと交わした約束。
フリージでの日々。
戦場を駆けた記憶。
バーハラの静かな朝。
さまざまな光景が、浮かんでは消えた。
「ユリウス様……わたしは……」
その先の言葉は、誰にも届かなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
次回はティニーを主人公とした短編『雷神の名を借りて』を投稿予定です。
引き続き、お楽しみいただければ幸いです。