グランツ公爵家の三階、東の角部屋。天蓋付きのベッドの上で、私は毛布のミノムシと化していた。
明日は王立学園の入学式である。
王侯貴族の子女が十五歳になると必ず通う、この国でいちばん格式の高い学び舎。
そこへ公爵令嬢アデル・フォン・グランツは、首席合格の肩書きを引っさげて乗り込む予定だった。
予定だった、というのは、私が三日前の朝からこのミノムシ形態を一度も解除していないからだ。
きっかけは一つ。前世の記憶を思い出したせいである。
三日前、制服の最終試着をしていた時のこと。
姿見の前で侍女のミリーに背中のリボンを結ばせながら、私はいつものように高飛車な文句を垂れ流していた。
「遅いわ、ずれてる」
「あなた、本当に使えないのね」
我ながら最悪の性根である。
そんな時、ふと、鏡の中の自分と目が合った。
完璧に巻かれたプラチナブロンドの縦ロール。きつく吊り上がった紫の瞳。傲慢に結ばれた薄い唇。
その瞬間、頭の奥で何かがバチンと弾けた。
——この顔、知ってる。
花冠のアカデミア、通称、花アカ。
前世の私が三百時間以上を捧げた乙女ゲームである。そしてアデル・フォン・グランツは、その悪役令嬢だ。
全六ルート、漏れなく断罪される女。修道院送り、国外追放、北の塔に幽閉、そして毒杯。スチル回収のために、私は画面越しに彼女の破滅を何度見送ったか分からない。
私はその場で白目を剥いて卒倒した。ミリーの悲鳴が、遠くのほうで木霊していた。
倒れた後、私は部屋に立てこもり、毛布の中で必死に花アカの全ルートを脳内再生した。そして一つの真理にたどり着いた。
断罪イベントは、学園に通うから起きる。
ヒロインと出会うのも、ヒロインを虐めるのも、王子に婚約破棄を突きつけられるのも、ぜんぶ学園の敷地内だ。
ならば話は極めて簡単である。行かなければいい。不登校万歳。引きこもり最高。
それは完璧な生存戦略のはずだった……が、ただ一つ、どうしても無視できない巨大な壁があった。
アデルの母である。
アリエノール・フォン・グランツ。四十二歳。
ゲーム本編には立ち絵すら出てこないモブだが、設定資料集には彼女の生態が冷酷に書き綴られていた。
アリエノールは、絵に描いたような毒親である。
娘の一挙一動に冷徹な目を光らせ、淑女教育と称して所作を一つ誤るたびに夕食を抜く。
姿勢を正す名目で背中に定規を差し込み、何時間も直立不動を強いる。
娘と交わす言葉は冷淡な叱責のみで、温かな日常会話の記録はゼロ。
アデルが極端に歪んで高飛車になったのは、完全にこの母親と家庭環境のせい——というのが、プレイヤー間では定説だった。
そして今。前世知識と十五年間のアデルの実体験が、見事に一致する。
背中の定規。抜かれた夕食。温度の宿らない氷のような青い瞳。
設定資料集の記述に、一ミリの誇張もなかった。
あの鉄の規律を誇る母が、娘の登校拒否など許すはずがない。
扉に「ぜったいに入らないで!」と書いた紙を貼り出して三日目の夜。
食事の載ったワゴンを受け取る際に「ありがとう」とお礼を言ったら、給仕のメイドが「お嬢様が……礼を……!」と咽び泣きながら廊下を疾走していった。
その直後のことだった。
ドォォォンッ!
グランツ公爵邸自慢の重厚な樫の一枚板が、蝶番ごと弾け飛んで床に轟音を立てた。
「……アデル」
鼓膜を凍りつかせる声が響いた。
毛布の隙間から恐る恐る覗くと、月明かりと燭台の炎を背負い、母が仁王立ちしていた。
蹴り上げた右足を静かに下ろす所作すら、絵画のように優雅である。たった今、物理の力で頑丈な扉を粉砕した人間とは到底思えない。
「明日が何の日か、分かっていますね」
「……にゅ、入学式、です……」
「では、なぜ寝台にいるのです。食事の席にも就かず、自室に引きこもって夕食とは。それでもグランツ家の淑女ですか」
私は毛布を頭から被り直して震えた。言えるはずがない。あなたの娘は一年後に毒杯を煽って息絶える運命なんです、などと。
「……行けません。どうしても、学園には行けません……!」
殴られるか。地下牢送りか。それとも定規で折檻か。
「我がグランツ家の誇りを、娘の不始末で地に落とすなど万死に値します」
「……はい」
私は身を固くして、訪れるであろう苛烈な罰を待った。
「どうしても貴女が部屋から出ないと言うのであれば、こちらにも考えがあります」
そして降ってきたのは、予想だにしない言葉だった。
「わたくし自身が、学園に通います」
「……は?」
母は扇子をばさりと開き、羽織っていた豪奢な部屋着を床へと脱ぎ捨てた。
露わになったその姿に、私の思考は完全に停止した。
完璧に巻き上げられた貫禄の金髪ドリルロール。氷のように研ぎ澄まされた貴族の威厳。
そして、その肉体を包んでいるのは——真新しい、王立学園の指定制服。
十五歳向けの少女用ブレザーは、明らかに大人の骨格に合っておらず、肩の縫い目が今にも弾けそうな悲鳴を上げている。
胸元なんかもうパッツパツだ。
そして膝丈の短すぎるプリーツスカートからは、四十二歳児の艶めかしい生足が堂々と。
「明日から、わたくしがアデルとして学園に通うことにします」
母は扇子で冷ややかに口元を隠し、完璧な淑女の笑みを浮かべてみせた。
「……いやきっっっっっつ!!!!」