世の中には、話し合いで解決できる問題と、そうでない問題がある。
前世の私は、できることなら何でも話し合いで解決したい派だった。
何しろ、喧嘩は疲れる。
怒鳴り合いなんて、できれば一生したくない。
それに、相手の言い分を聞いてみれば、案外どうにかなることも多い。
……ただし。
今の私には、一つ大きな問題がある。
話し合いに参加したくても、言葉が話せないのだ。
「グルル」
「スイ、魚はさっき食べただろ」
……。
違います。
そういう話ではありません。
◇◇◇
三日後。
白淵族の集落に、客人がやって来た。
先日、交易路で揉めた山の民たちである。
ただし、今回は様子が違った。
先頭に立っているのは、以前の男ではない。
背の高い、壮年の男だった。
日に焼けた顔には古い傷があり、肩には黒い獣の毛皮を掛けている。
そして、その後ろには、十人ほどの男たち。
……。
(……多いな)
私は水辺から様子を眺めていた。
もちろん、ただの野次馬ではない。
我が一族の一大事である。
一族の一員として、状況を把握しておく必要があるのだ。
「スイ、あんまり近づいちゃ駄目だよ」
レンが私の首を撫でた。
……。
(……分かってます)
私はおとなしく伏せた。
すると、隣にいた若い闘蛇も伏せた。
……君は別に、会議に参加しなくていいんだけどね。
◇◇◇
客人たちは、**黒角族(こっかくぞく)**と名乗った。
白淵族の南東に暮らす山の民で、山羊に似た獣を飼い、険しい岩場を行き来しているらしい。
……。
(……へえ)
山の民にも、いろいろいるんだなぁ。
白淵族は闘蛇。
黒角族は山の獣。
それぞれ、暮らす土地に合わせて生きている。
私は少し感心した。
黒角族の族長は、ガクという名前だった。
彼は白淵族の族長と向かい合い、低い声で言った。
「先日は、うちの若い者が無礼をした」
……。
(……おや)
いきなり謝罪。
これは、なかなか好印象である。
白淵族の族長は穏やかに頷いた。
「怪我人も出ておらぬ。気にすることはない」
「そう言ってもらえると助かる」
ガクは少し表情を緩めた。
だが、すぐに真剣な顔へ戻った。
「ただ、南の道については、こちらにも事情がある」
……。
(……ふむ)
来ました。
本題です。
私はそっと首を伸ばした。
レンに鼻先を押し戻された。
……。
(……はい)
おとなしく聞きます。
◇◇◇
「北の道が使えなくなってから、こちらを通る者が増えた」
ガクは言った。
「商人だけではない。獣を追う狩人も、住む場所を失った者もいる」
……。
(……あ)
なるほど。
「その中には、他の部族の狩り場を荒らす者もいる。荷を奪う者も出始めた」
……。
(……うーん)
それは困る。
黒角族が警戒するのも、無理はないかもしれない。
「だから、道を守る者を置いた。だが、人を出せば食い扶持がいる」
……。
(……ああ)
そこで、通行料。
話がつながった。
白淵族の族長は、しばらく考え込んだ。
「ならば、道を使う者で負担を分けるのがよかろう」
「そうしたい」
「だが、荷をどれだけ渡すかは、互いに決めねばならん」
ガクは頷いた。
「そのために来た」
……。
(……おお)
いいですね。
実に建設的。
私は少し嬉しくなった。
何だ。
ちゃんと話せば、分かり合えるじゃないですか。
◇◇◇
話し合いは、思ったより長く続いた。
どこからどこまでを黒角族が見張るのか。
道が崩れた時は、誰が直すのか。
荷を運ぶ者が怪我をしたら、どうするのか。
……。
(……うわぁ)
細かい。
でも、大事。
私は前世の仕事を少し思い出した。
契約というものは、こういうところが難しい。
最初に曖昧にしておくと、後から揉める。
……。
(……うんうん)
大事だよね。
非常に大事。
私は真剣に聞いていた。
すると、レンが私の顔を覗き込んだ。
「スイ、眠いの?」
……。
(……違います)
考えているんです。
「もう少しで終わるからね」
……。
(……いや)
だから。
眠いわけじゃないんですって。
◇◇◇
その時だった。
集落の入口から、慌ただしい足音が聞こえた。
「族長!」
若い男が駆け込んできた。
白淵族の見張り役だ。
「南の道で、荷車が動けなくなっています!」
……。
(……え?)
荷車?
「黒角族の者が、岩場を越えようとして車輪を壊したようです!」
ガクが立ち上がった。
「何だと?」
見張り役は息を整えながら続けた。
「荷車には塩と干し肉が積まれています。人手だけでは動かせません!」
……。
(……あらら)
それは大変。
しかも、よりによって今日。
私はガクを見た。
彼の顔が、みるみる険しくなっていく。
「……あの馬鹿ども」
……。
(……あ)
怒ってる。
かなり怒ってる。
どうやら、族長に黙って荷を運んでいた者がいるらしい。
◇◇◇
「場所は?」
セイランが尋ねた。
見張り役が答える。
「南の岩場を越えた先です!」
「……分かった」
セイランは立ち上がった。
そして、私を見た。
「スイ」
……。
(……はい!)
来ました。
出番です。
私は勢いよく立ち上がった。
すると、隣の闘蛇も立ち上がった。
……。
(……いや)
君は待ってて。
今日は私だけで十分です。
◇◇◇
現場に着くと、状況は思ったより深刻だった。
細い山道の途中で、荷車が横倒しになっている。
車輪の一つは完全に壊れていた。
そして、その横には、困り果てた顔の男たち。
……。
(……うわぁ)
これは、なかなか。
荷車は大きく、荷物も重そうだ。
しかも、道の片側は急な斜面になっている。
下手に動かせば、荷ごと落ちてしまうかもしれない。
……。
(……危ないなぁ)
私は慎重に近づいた。
すると、男たちが私を見て飛び上がった。
「うわっ!」
「何だ、その獣は!」
……。
(……はいはい)
いつもの反応ですね。
もう慣れました。
私はおとなしく立ち止まった。
セイランが前へ出る。
「……荷を降ろせ」
男たちは顔を見合わせた。
「だが、荷を降ろしても車が動かん!」
「車は後だ」
……。
(……おお)
的確。
セイランは周囲を見回した。
「まず、人を離せ」
……。
(……うん)
そうだよね。
安全第一。
私は少し感心した。
◇◇◇
荷を降ろす作業が始まった。
男たちが袋を運び出し、道の広い場所へ移していく。
私はその様子を眺めていた。
……。
(……ん?)
ふと、気になるものが目に入った。
荷車の下。
壊れた車輪の近くに、細い縄が垂れている。
……。
(……あれ?)
何だろう。
私は首を伸ばした。
よく見ると、縄の先は荷車の下に潜り込んでいる。
……。
(……んん?)
私はさらに近づこうとした。
「スイ、待て」
セイランが声をかけた。
……。
(……あ)
はい。
私は止まった。
だが、どうしても気になる。
私は低く喉を鳴らし、鼻先で荷車の下を示した。
「……何だ」
セイランが近づいてくる。
そして、荷車の下を覗き込んだ。
……。
…………。
「……子供がいる」
……。
(……え!?)
子供!?
私は驚いた。
よく見ると、荷車の陰に、小さな人影があった。
十歳くらいだろうか。
黒角族の少年が、荷車の下に潜り込んでいた。
どうやら、落ちた荷を拾おうとして、動けなくなってしまったらしい。
……。
(……ちょっと!)
危ないでしょうが!
私は思わず喉を鳴らした。
「グルルッ!」
少年がびくっと震えた。
……。
(……あ)
ごめん。
怒ってるわけじゃないよ。
私は慌てて身体を低くした。
◇◇◇
「……動くな」
セイランが少年に言った。
「今、助ける」
少年は涙目で頷いた。
だが、問題があった。
荷車は斜面に傾いている。
下手に持ち上げれば、さらに崩れるかもしれない。
……。
(……うーん)
これは、力任せでは駄目だ。
私は周囲を見回した。
そして、ふと思いついた。
……。
(……あ)
私の尻尾。
長い。
太い。
しかも、かなり力がある。
……。
(……これなら)
私はそっと荷車の反対側へ回り込んだ。
セイランが私を見た。
「……スイ?」
私は尻尾をゆっくりと動かした。
荷車の下に差し込む。
……。
(……よし)
これで、支えられる。
私は身体を低くし、尻尾で荷車を押さえた。
セイランが目を細めた。
「……なるほど」
……。
(……ふふん)
分かってくれましたか。
「トウエン!」
セイランが声を上げた。
「スイに車を支えさせる。子供を引き出せ!」
「分かった!」
……。
(……よし)
作戦開始。
◇◇◇
私は慎重に力を込めた。
荷車が、わずかに動く。
……。
(……おっと)
強すぎた。
私はすぐに力を緩めた。
壊れた車輪が、ぎしりと音を立てた。
……。
(……怖い怖い)
慎重に。
慎重に。
セイランが少年へ手を伸ばした。
「……こっちへ来い」
少年は震えながら、ゆっくりと這い出してくる。
……。
(……頑張れ)
あと少し。
私はじっと荷車を支えた。
尻尾の筋肉が、じわじわと疲れてくる。
……。
(……うう)
重い。
思ったより、重い。
でも。
まだ大丈夫。
「……よし!」
トウエンの声がした。
少年が、無事に引き出された。
……。
(……やった!)
私は思わず力を抜きかけた。
「スイ、まだだ!」
セイランが叫んだ。
……。
(……あっ)
そうだった。
荷車!
私は慌てて力を戻した。
そして、周囲の人間たちが離れたのを確認してから、ゆっくりと尻尾を引き抜いた。
荷車が、がたんと傾いた。
……。
…………。
(……ふう)
危なかった。
本当に。
◇◇◇
「……助かった」
ガクが、私を見つめていた。
その腕の中には、先ほどの少年がいる。
どうやら、彼の一族の子供らしい。
少年はまだ少し震えていた。
……。
(……大丈夫かな)
私はそっと鼻先を近づけた。
すると、少年がびくっとした。
……。
(……あ)
怖いよね。
そりゃそうだ。
私はすぐに顔を引っ込めた。
だが。
少年が、小さな声で言った。
「……ありがとう」
……。
…………。
(……え?)
私は思わず目を瞬いた。
少年は私を見上げていた。
「……助けてくれて、ありがとう」
……。
…………。
(……あら)
私は嬉しくなった。
そっと喉を鳴らす。
「クルル」
少年は少し驚いた顔をした。
そして、ほんの少しだけ笑った。
……。
…………。
(……よかった)
私は安心した。
どうやら、怖がらせるだけではなかったらしい。
◇◇◇
集落へ戻ると、話し合いは再開された。
ただし、先ほどまでとは空気が違った。
ガクは白淵族の族長に向かって、深く頭を下げた。
「……借りができた」
族長は首を振った。
「困っている者を助けただけだ」
「それでも、助かった」
ガクは私を見た。
「……あの獣は、ただの荷運びではないのだな」
……。
…………。
(……ふふん)
そうです。
私は、なかなか優秀なのです。
私は胸を張った。
すると、後ろの闘蛇たちも胸を張った。
……。
…………。
(……君たち)
今日は何もしてないでしょうが。
ガクは少し笑った。
「……面白い一族だ」
……。
(……でしょう?)
私もそう思います。
◇◇◇
その日の夕方。
白淵族と黒角族は、南の道について一つの約束を交わした。
道の見張りは黒角族が担当する。
白淵族は、荷を運ぶ際に少量の物資を渡す。
そして、危険な場所があれば、互いに知らせ合う。
……。
(……なるほど)
なかなか良い落としどころではないだろうか。
私は満足げに頷いた。
すると、族長がこちらを見た。
「スイのおかげで、話が進んだな」
……。
…………。
(……え)
私?
「人を助ける姿を見れば、あの者たちも闘蛇を恐れるばかりではなくなる」
……。
…………。
(……ああ)
なるほど。
そういうことか。
私は少し嬉しくなった。
ガクも頷いた。
「白淵族が、なぜあの獣を大切にするのか、少し分かった気がする」
……。
…………。
(……ふふん)
当然です。
何しろ、我が一族ですから。
……。
…………。
ん?
ちょっと待って。
「あの獣を大切にする」
……。
(……あれ?)
私も一族なんですけど?
私は首を傾げた。
だが、誰も気づいてくれなかった。
……。
…………。
(……まあ)
いいか。
細かいことは。
◇◇◇
夜。
私は水辺で、魚を食べていた。
今日も、レンが少し多めに用意してくれた。
……。
(……美味しい)
働いた後の魚は、格別である。
私は満足げに喉を鳴らした。
すると、隣の闘蛇も喉を鳴らした。
……。
…………。
(……君たち)
今日は本当に、何もしてないよね?
私は少し呆れた。
だが、まあ。
仲間が元気なのは良いことだ。
私は再び魚を口に運んだ。
その時。
少し離れた場所で、族長とトウエンが話している声が聞こえた。
「……山の民も、変わり始めているな」
「そうですな」
「北の道だけではない。あちこちで、部族同士の争いが増えていると聞く」
……。
(……ん?)
私は耳を澄ませた。
トウエンが言った。
「黒角族も、他の部族との境を気にしていました」
「……うむ」
族長はしばらく黙っていた。
そして、静かに呟いた。
「山が騒がしくなる時は、大きな力が動く前触れかもしれん」
……。
…………。
(……大きな力?)
私は首を傾げた。
何だろう。
戦争?
部族同士の争い?
それとも、もっと別の何か?
……。
…………。
(……うーん)
分からない。
ただ、一つだけ思う。
我が一族には、平和でいてほしい。
レンも。
トウエンも。
族長も。
セイランも。
そして、スイ族の仲間たちも。
みんな、元気で暮らしていてほしい。
……。
(……うん)
私はそっと目を閉じた。
何が起きても。
できることは、やろう。
私はそう決めた。
……。
…………。
ただし。
その前に。
もう一匹、魚を食べてもいいだろうか。
私はそっと、残りの魚へ鼻先を伸ばした。
すると。
隣の闘蛇も、同じように鼻先を伸ばした。
……。
…………。
(……こら)
それは、私のです。
スイ族の平和は、今日も小さな争いから始まるらしい。