大きいことは、必ずしも有利とは限らない。
広い場所なら、私の身体はそれなりに役に立つ。太い尻尾を振れば木の枝くらいは折れるし、四本の脚で踏ん張れば、人間が数人がかりで押しても簡単には動かない。
けれど、今いるのは沢沿いの細い道だ。
右には岩壁。左には木々が密集した斜面。
その間に、槍を持った男が二人。
さらに奥には、縄で縛られた子どもがいる。
(これ、下手に動けないやつだ)
私は慎重に前脚を置いた。
足元の石が、ぱきりと割れる。
男の一人が、びくりと肩を震わせた。
ごめん。
別に脅すつもりはなかった。
いや、少しはあったかもしれない。
◇◇◇
「それ以上、近づくな!」
男が槍を突き出した。
セイランは、私の背に乗ったまま答えた。
「その子を放せ」
「こいつがどうなってもいいのか!」
茂みの奥から声がした。
先ほど逃げた男だ。
どうやら子どものところへ回り込んでいたらしい。
男は子どもの襟をつかみ、短い刃物を首元に当てていた。
(うわ、最悪)
子どもは唇を噛みしめ、声を出さずに耐えている。
セイランの手が、私の首筋に触れた。
いつもより少し長く、押さえるような合図。
停止。
私は四本の脚に体重をかけ、その場にとどまった。
「望みは何だ」
セイランが尋ねる。
「道を空けろ。追ってくるな」
「その子は?」
「俺たちが離れたら放してやる」
(絶対に信用できない)
そう思ったのは、私だけではなかったらしい。
セイランは返事をせず、男たちの位置を確かめていた。
◇◇◇
「セイラン」
後方にいた一族の戦士が、小さく声をかけた。
「右の岩壁を登れば、上から回れます」
「見えている。だが、今動けば気づかれる」
「では……」
「待て」
セイランは短く答えた。
男たちにも聞こえる距離だ。
ここで不用意に相談を始めれば、相手を刺激する。
私は首を動かさずに、目だけで周囲を見た。
子どもを押さえている男は、茂みの奥。
槍を持った二人は、その手前。
そして私たちは、沢の下流側。
相手が逃げるとすれば、上流へ向かうしかない。
ただ、そこには細い獣道が続いている。
(あそこを塞げればいいんだけど)
私の身体では、茂みの奥まで入り込めない。
無理に突っ込めば、子どもを傷つける可能性もある。
そこで、ふと思いついた。
(水の中なら?)
沢は浅い。
けれど、私の身体が入るには十分な幅がある。
陸から回り込むより、ずっと動きやすい。
問題は、背中のセイランだ。
私は鼻先を沢へ向け、前脚を少しだけ水に入れた。
セイランが気づく。
「スイ?」
私は、そこで止まった。
勝手には動かない。
セイランは沢を見て、それから子どもの位置を確かめた。
数秒後。
彼の手が、私の首筋を二度叩いた。
後退。
(あ、違う?)
私は指示に従い、ゆっくりと後ろへ下がった。
するとセイランが背から降りた。
「俺はここに残る。お前は水際へ」
小さな声だった。
私は鼻先を下げる。
(なるほど)
一人で回れ、と。
◇◇◇
「何をしている!」
槍を持った男が怒鳴った。
セイランは、地面に降りたまま槍を構えた。
「見ての通りだ。闘蛇を下げる」
「もっと下がれ!」
「その子を放せば、そうする」
男たちの視線は、セイランへ向いている。
私はゆっくりと身体を後退させた。
一歩。
二歩。
岩陰に入る。
そこから首を低くして沢へ降りた。
水が腹の下を流れる。
(よし)
水の中なら、足音も多少は紛れる。
とはいえ、九メートルの巨体である。
完全に隠れるのは無理だ。
私は岸の木々を利用しながら、少しずつ上流へ進んだ。
◇◇◇
その間、セイランは男たちとの距離を保っていた。
「荷車を襲ったのは、お前たちか」
「まだそんなことを言ってるのか!」
「答えろ」
「うるさい!」
男は苛立っていた。
子どもを押さえる男も、落ち着かない様子で周囲を見回している。
私がいなくなったことに気づいたのだろう。
「おい、あの獣はどこへ行った!」
(あ、ばれた)
私は水の中で動きを止めた。
セイランは表情を変えなかった。
「下げた。お前たちが望んだ通りだ」
「見える場所に出せ!」
「その子を放せ」
「くそっ!」
男が子どもの肩を強く引いた。
子どもが、痛みに顔をしかめる。
(やめなさいよ)
私は思わず喉の奥で低く唸った。
水面が、わずかに震える。
◇◇◇
その音に気づいたのは、子どもだった。
彼がこちらを見た。
目が合う。
(あ)
まずい。
叫ばれたら終わりだ。
けれど彼は、何も言わなかった。
ただ、大きく目を見開いたまま、私を見つめている。
私はゆっくりと鼻先を下げた。
(お願い、静かにしてて)
通じるはずはない。
それでも彼は、唇を固く結んだ。
◇◇◇
「セイラン!」
突然、下流側から声が響いた。
一族の戦士の一人だった。
「後方に人影! 二人、こちらへ向かっています!」
セイランが振り返る。
「確認しろ。無理に近づくな!」
男たちも、そちらへ顔を向けた。
その一瞬。
私は沢の中で身体を進めた。
水が跳ねる。
木の枝が揺れる。
(今!)
私は子どものいる茂みのさらに奥へ首を伸ばした。
そして、逃げ道になっている獣道へ、太い前脚を置いた。
どすん。
地面が震えた。
男が振り返る。
「なっ……!」
彼の目の前には、私の顔があった。
(こんにちは)
男は、完全に固まった。
◇◇◇
「動くな!」
セイランの声が響いた。
一族の戦士たちが、一斉に前へ出る。
男たちは反射的に槍を構えた。
しかし、逃げ道は塞がれている。
前にはセイランたち。
後ろには私。
そして沢の反対側は急な斜面だ。
「くそっ!」
子どもを押さえていた男が、刃物を振り上げた。
(!)
私は反射的に首を動かしかけた。
だが、間に合わない。
その瞬間。
子どもが、男の足を思いきり踏んだ。
「ぐあっ!」
男の身体が揺れる。
刃物が首元から離れた。
子どもは、そのまま地面へ転がった。
「伏せろ!」
セイランが叫んだ。
私は、子どもの上へ伸びかけた男の腕を、鼻先で強く押しのけた。
男は足を滑らせ、浅い沢へ転がり落ちる。
水しぶきが上がった。
(よし!)
私は、子どもと男の間に首を差し入れた。
彼は地面に伏せたまま、震えている。
けれど、大きな怪我はなさそうだ。
◇◇◇
残る二人は、すぐに槍を捨てた。
「降参だ!」
「殺さないでくれ!」
セイランは、一族の戦士たちへ指示を出した。
「武器を離させろ。縄で縛れ」
「分かった!」
沢へ落ちた男も、抵抗できなかった。
私がすぐそばで見下ろしていたからである。
(いや、そんなに怖がらなくても)
男は、私の顔を見たまま青ざめていた。
まあ、口を開けば人間の頭くらい簡単に入りそうな大きさではある。
怖いか。
◇◇◇
「大丈夫か」
セイランが子どものそばに膝をついた。
彼は何度も頷いた。
「兄ちゃんは?」
「生きている。先に我らの集落へ運んだ」
子どもの顔が、くしゃりと歪んだ。
「本当?」
「ああ」
「よかった……」
そのまま、彼は泣き出した。
セイランは何も言わず、手首の縄を解いてやった。
「名前は?」
「……リク」
「リクか。よく頑張ったな」
リクは、涙を拭いながら頷いた。
私は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
(よかった)
本当に。
◇◇◇
だが、問題はまだ残っていた。
捕らえた男たちの素性である。
「お前たちは、どこの者だ」
セイランが尋ねた。
男たちは互いの顔を見合わせた。
誰も答えない。
セイランは、少しだけ声を低くした。
「荷を奪い、人を傷つけ、子どもを縛った。黙っていれば済むと思うな」
一人の男が、顔を上げた。
「俺たちは、ただの盗賊だ」
「どこの部族だ」
「部族なんて関係ない」
「では、誰に命じられた」
男の表情が変わった。
ほんの一瞬だった。
けれど、セイランは見逃さなかった。
「誰かに命じられたのか」
男は慌てて首を振った。
「違う!」
◇◇◇
「セイラン、これを」
戦士の一人が、男の荷物を持ってきた。
小さな革袋だった。
中には乾いた肉と石の刃。
それから、黒い布が一枚。
布の端には、角のような模様が縫い込まれていた。
セイランの目が、わずかに細くなる。
「黒角族のものか」
(え)
黒角族?
私は思わず顔を上げた。
以前、白淵族と境界について話し合った部族だ。
族長のガク。
使者のダン。
確か、南の旧道にも関わりがあったはず。
(まさか)
◇◇◇
「黒角族の者なのか」
セイランが尋ねた。
男は唇を噛んだ。
「違う」
「では、なぜこれを持っている」
「拾ったんだ」
「どこで」
男は答えなかった。
セイランは、しばらくその顔を見つめていた。
やがて、立ち上がる。
「集落へ連れて帰る」
戦士たちが頷いた。
◇◇◇
帰り道。
リクは、私の背に乗ることになった。
セイランが前に座り、その後ろへリクを乗せる。
もちろん、しっかりと身体を支えている。
「怖くないか」
セイランが尋ねた。
リクは、私の背中を見つめた。
「少し」
(まあ、そうだよね)
私はできるだけゆっくり歩いた。
揺れないように。
急に動かないように。
背中のリクは、最初こそ身体を固くしていた。
けれど、しばらくすると、少しだけ力を抜いた。
「あったかい」
リクが、小さく呟いた。
(え)
そう?
私は、少しだけ嬉しくなった。
◇◇◇
集落へ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
入口には、ハクとレンが待っていた。
「セイラン!」
ハクが駆け寄る。
「無事でしたか!」
「ああ。リクも助けた」
レンが、ほっと息をついた。
「よかった……」
リクは、セイランに支えられながら背から降りた。
そのまま、レンに案内されて兄のいる家へ向かう。
私は静かに身体を伏せた。
(疲れた)
今日は、さすがに疲れた。
◇◇◇
その夜。
族長の家では、捕らえた男たちについて話し合いが行われていた。
「黒角族の布か」
族長が低く呟いた。
セイランが頷く。
「ただし、本人たちは否定しています」
「布だけで決めつけるわけにはいかんな」
「はい」
トウエンが口を開いた。
「黒角族に知らせるか?」
族長は、しばらく考えた。
「知らせよう。ただし、責めるためではない」
「では?」
「確かめるためだ」
族長は黒い布を見つめた。
「山の道で争いが起きるとき、最初に失われるのは信用だ」
◇◇◇
翌朝。
私は川辺で身体を休めていた。
昨日の疲れが、まだ少し残っている。
けれど、身体に怪我はない。
セイランも無事。
リクも、兄のところへ戻れた。
(よかった)
私は水面へ鼻先を近づけた。
冷たい水が、気持ちいい。
そのとき。
背後から、ゆっくりと足音がした。
振り返ると、ガンが立っていた。
(おや)
おはようございます。
ガンは私の隣へ来ると、静かに身体を伏せた。
しばらく、二頭で川を眺める。
やがて、ガンが低く喉を鳴らした。
私は少しだけ首を傾げた。
(何でしょう)
ガンは、私の肩に残っていた泥を鼻先で軽く押した。
それから、沢の方角へ顔を向ける。
(ああ)
昨日のこと?
私は、ゆっくりと尻尾を揺らした。
大丈夫。
ちゃんと帰ってきましたよ。
ガンはしばらく私を見ていた。
そして、静かに目を閉じた。
◇◇◇
その頃。
族長の家では、一通の使いが準備されていた。
宛先は、黒角族の族長ガク。
内容は、南の旧道で起きた襲撃事件について。
そして、捕らえた男たちが持っていた黒い布について。
白淵族は、まだ誰かを敵と決めたわけではない。
だが、山の向こうで何が起きているのか。
確かめる必要があった。
南の旧道を巡る小さな事件は、やがて二つの部族を再び向き合わせることになる。