秦の山奥で闘蛇やってます   作:欄外

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第十四話 山の平和は、意外と脆い

 

私には、毎朝欠かさず行っていることがある。

 

一つ、朝日を浴びる。

 

二つ、水浴びをする。

 

三つ、レンから魚をもらう。

 

そして四つ。

 

我が一族の美形を眺める。

 

……うむ。

 

実に健康的な生活である。

 

前世の私が聞いたら、少々首を傾げるかもしれない。

 

何しろ、今の私は巨大な爬虫類だ。

 

だが、心の健康というものは、姿形が変わっても大切なのである。

 

「スイ、今日は早いね」

 

水辺にやって来たレンが、籠を持ち上げた。

 

中には、朝獲れの魚が入っている。

 

(おはようございます!)

 

私は元気よく鼻先を寄せた。

 

レンは笑いながら魚を差し出した。

 

「はいはい。順番ね」

 

(もちろんです)

 

私はきちんと待った。

 

……三秒ほど。

 

「スイ、近い近い」

 

(……すみません)

 

魚の魅力には、なかなか勝てないのである。

 

◇◇◇

 

その日の昼。

 

集落に、黒角族の使いが駆け込んできた。

 

馬ではない。

 

山道を走ってきたらしく、男は肩で息をしていた。

 

「白淵族の族長はいるか!」

 

ただならぬ声に、近くにいた者たちが顔を上げる。

 

私も水辺から首を伸ばした。

 

男は、以前の話し合いに同席していた黒角族の若者だった。

 

確か、道の見張りを任されていたはずだ。

 

「どうした」

 

トウエンが駆け寄る。

 

男は膝に手をつき、荒い息のまま答えた。

 

「南の道が……塞がれた!」

 

(……え?)

 

「谷の入口に、見知らぬ連中が陣取っている。通る者から荷を奪っているんだ!」

 

私は思わず顔を上げた。

 

荷を奪う?

 

それって。

 

(……山賊?)

 

いや、山の民だから山賊とは限らないけれど。

 

やっていることは、ほぼ山賊である。

 

男は続けた。

 

「黒角族の者が追い払おうとしたが、向こうは二十人近くいる。武器も持っている」

 

トウエンの表情が険しくなった。

 

「どこの部族だ」

 

「分からん。だが、北から流れてきた連中らしい」

 

(……北)

 

私は、以前商人が話していたことを思い出した。

 

北の道が危険になり、人が南へ流れている。

 

その中には、暮らす場所を失った者もいる。

 

……。

 

(……そうか)

 

単純に、悪い人たちが現れたという話ではないのかもしれない。

 

とはいえ。

 

荷を奪われる側にとっては、たまったものではない。

 

◇◇◇

 

「こちらからも人を出そう」

 

族長の言葉に、周囲がざわめいた。

 

「ただし、争いに行くのではない」

 

族長は使いの男を見た。

 

「まずは相手の素性と、何を求めているのかを確かめる」

 

「……助かる」

 

黒角族の男が深く頭を下げた。

 

その横で、セイランが静かに口を開いた。

 

「俺が行く」

 

(……おお)

 

相棒、出動。

 

私は反射的に立ち上がった。

 

すると、近くにいた闘蛇たちも立ち上がった。

 

「……スイも行く気か」

 

セイランがこちらを見た。

 

(当然です)

 

私は堂々と胸を張った。

 

我が一族の交易路が危ないのだ。

 

一族の一員として、放っておけるはずがない。

 

……それに。

 

正直なところ、セイランを一人で行かせる方が心配だった。

 

強いのは知っている。

 

誰よりも強い。

 

だが、相手が二十人もいるとなれば、何が起きるか分からない。

 

セイランは少し考え、私の首筋に手を置いた。

 

「……分かった。一緒に来い」

 

(はい!)

 

私は嬉しくなって喉を鳴らした。

 

レンが慌てて近づいてくる。

 

「スイ、危ないことしちゃ駄目だよ」

 

(分かってます)

 

「本当に?」

 

(……できるだけ)

 

レンは、なぜか深いため息をついた。

 

……。

 

そんなに信用がないだろうか。

 

◇◇◇

 

南の谷へ向かう道は、普段より静かだった。

 

鳥の声も少ない。

 

人の気配もない。

 

セイランは私の背に乗り、周囲を注意深く見渡していた。

 

後ろには白淵族の戦士が四人。

 

黒角族の案内役が二人。

 

闘蛇は私だけである。

 

今回は戦うためではなく、状況を確かめるための一行だった。

 

(……ふむ)

 

私は慎重に足を進めた。

 

谷へ近づくにつれ、煙の匂いが漂ってきた。

 

焚き火だ。

 

それから、人間の匂い。

 

……かなり多い。

 

(……いるなぁ)

 

私は鼻先を上げた。

 

セイランが私の首を軽く叩く。

 

「……気づいたか」

 

(もちろん)

 

私は小さく喉を鳴らした。

 

そのまま、岩陰で足を止める。

 

谷の入口には、粗末な柵が作られていた。

 

木を組み合わせただけのものだが、道を塞ぐには十分らしい。

 

その周囲には、武器を持った男たち。

 

……。

 

(……ああ)

 

本当に、いる。

 

しかも。

 

思ったより、みすぼらしい。

 

服は擦り切れ、武器も不揃い。

 

中には、槍の代わりに長い木の棒を持っている者もいた。

 

(……ん?)

 

私は目を凝らした。

 

男たちの後ろ。

 

岩陰に、小さな天幕がいくつかある。

 

その近くには、女や子供の姿も見えた。

 

……。

 

(……あれ)

 

山賊の集団、というより。

 

(……避難民?)

 

私は少し考え込んだ。

 

◇◇◇

 

「……見えるか」

 

セイランが黒角族の男に尋ねた。

 

「ああ。あいつらだ」

 

男は悔しそうに拳を握った。

 

「昨日も荷を奪われた」

 

セイランはしばらく谷を見つめていた。

 

「……女と子供がいるな」

 

「何?」

 

黒角族の男が目を細める。

 

「……本当だ」

 

セイランは静かに言った。

 

「先に話を聞く」

 

(……うん)

 

私も、それがいいと思う。

 

彼らが何者なのか。

 

なぜ道を塞いでいるのか。

 

それを知らないまま戦うのは、危険すぎる。

 

……というか。

 

できれば、戦わないでほしい。

 

◇◇◇

 

交渉は、最初から難航した。

 

「帰れ!」

 

柵の向こうから怒鳴り声が飛ぶ。

 

「ここは俺たちが使っている!」

 

セイランは私から降り、少し離れた場所に立った。

 

「……話がしたい」

 

「話すことなどない!」

 

(……うーん)

 

これは、なかなか。

 

私は岩陰から様子を見守っていた。

 

姿を見せれば、かえって相手を刺激するかもしれない。

 

何しろ、私は九メートル級の巨大生物である。

 

交渉の場に突然現れたら、誰だって驚く。

 

……。

 

(……悲しい)

 

こんなに穏やかな性格なのに。

 

セイランは落ち着いた声で続けた。

 

「道を塞げば、いずれ他の部族と争うことになる」

 

「知ったことか!」

 

「……何が必要だ」

 

その問いに、男たちが黙った。

 

しばらくして、一人が吐き捨てるように答えた。

 

「食い物だ」

 

……。

 

(……あ)

 

やっぱり。

 

「北の谷を追われた。冬を越すために蓄えていたものも、全部置いてきた」

 

男の声は荒れていた。

 

「このままじゃ、子供が飢える」

 

私は岩陰から天幕を見た。

 

その前に座っている子供は、痩せていた。

 

……。

 

(……そっか)

 

事情は分かった。

 

けれど。

 

だからといって、他人の荷を奪っていいわけではない。

 

難しい問題だ。

 

◇◇◇

 

「……食料が必要なら、交換できるものはないか」

 

セイランが尋ねた。

 

「交換だと?」

 

男が笑った。

 

「そんなものがあるなら、ここで道を塞いでいるものか!」

 

……。

 

(……それは)

 

確かに、そうかもしれない。

 

セイランは少し黙った。

 

その時。

 

天幕の方から、甲高い悲鳴が聞こえた。

 

「誰か! 来て!」

 

男たちが振り返る。

 

「どうした!」

 

「子供が……!」

 

(……え?)

 

私は反射的に首を上げた。

 

天幕の近くで、女が一人の子供を抱えていた。

 

その子はぐったりとしている。

 

周囲の大人たちが慌てて集まっていた。

 

……。

 

(……まずい)

 

何が起きたのかは分からない。

 

けれど、明らかに様子がおかしい。

 

私は思わず岩陰から出かけた。

 

「……スイ」

 

セイランがこちらを見た。

 

私は足を止めた。

 

……。

 

(……どうする?)

 

セイランは一瞬だけ考え、男たちへ声をかけた。

 

「薬草を持っている者がいる。診せるか」

 

……。

 

(……おお)

 

そうだった。

 

白淵族には、薬草に詳しい人がいる。

 

今回の一行にも、怪我に備えて薬草を持った戦士が同行していた。

 

男たちは顔を見合わせた。

 

やがて、先ほど怒鳴っていた男が、苦しそうに答えた。

 

「……頼む」

 

◇◇◇

 

子供は、熱を出していた。

 

何日もまともに食べられず、身体が弱っていたらしい。

 

白淵族の戦士が持っていた水を飲ませ、持参した薬草の中から使えるものを選んだ。

 

もちろん、それだけですぐに良くなるわけではない。

 

だが、少なくとも、少し落ち着いたようだった。

 

私は離れた場所から、その様子を見守っていた。

 

(……よかった)

 

まだ安心はできない。

 

それでも。

 

少しだけ、ほっとした。

 

すると、セイランがこちらへ歩いてきた。

 

「……スイ」

 

(……はい)

 

「戻るぞ」

 

(……え?)

 

もう?

 

私は思わず首を傾げた。

 

セイランは谷の方を見た。

 

「族長に報告する。あの者たちのことも含めて」

 

……。

 

(……なるほど)

 

確かに。

 

これは、私たちだけで決められる話ではない。

 

私は静かに頷いた。

 

◇◇◇

 

帰り道。

 

私はずっと考えていた。

 

彼らは、悪い人たちなのだろうか。

 

荷を奪うのは、悪いことだ。

 

それは間違いない。

 

でも。

 

子供を飢えさせないために、必死だったのかもしれない。

 

……。

 

(……うーん)

 

難しい。

 

前世の私は、ニュースで似たような話を見たことがある。

 

争いで故郷を追われる人。

 

食べ物がなくなる人。

 

行き場を失う人。

 

その時は、画面の向こうの出来事だった。

 

けれど、今は違う。

 

目の前にいる。

 

手を伸ばせば届く場所にいる。

 

……。

 

(……ああ)

 

こういうことなのか。

 

世界が変わる、というのは。

 

私は少しだけ、胸が重くなった。

 

◇◇◇

 

集落へ戻ると、セイランはすぐに族長へ報告した。

 

話を聞いた族長は、しばらく黙っていた。

 

「……北の谷を追われた者たちか」

 

「そうだ」

 

「何に追われた?」

 

セイランは首を振った。

 

「詳しくは聞けなかった。ただ、別の部族に土地を奪われたらしい」

 

……。

 

(……また)

 

部族同士の争い。

 

私は小さく息を吐いた。

 

族長はトウエンを見た。

 

「黒角族にも知らせよう。道を塞いでいる者たちの事情を」

 

「はい」

 

「そして、食料を少し分けられるか調べてくれ」

 

……。

 

(……おお)

 

族長。

 

やっぱり優しい。

 

だが、トウエンは慎重だった。

 

「我らの蓄えにも限りがあります」

 

「分かっている」

 

族長は静かに頷いた。

 

「だから、無理はせん。だが、見捨てることもできまい」

 

……。

 

(……うん)

 

そうだよね。

 

私も、そう思う。

 

◇◇◇

 

その夜。

 

私は水辺で、レンから魚をもらっていた。

 

いつも通りの、美味しい魚。

 

いつも通りの、穏やかな時間。

 

けれど。

 

今日は、少しだけ味が違う気がした。

 

……。

 

(……あの子)

 

ちゃんと、食べられているだろうか。

 

熱は下がっただろうか。

 

私は魚を飲み込みながら、谷で見た子供の顔を思い出した。

 

すると、レンが私の頭を撫でた。

 

「スイ、今日は元気ないね」

 

……。

 

(……そうかな)

 

私は小さく喉を鳴らした。

 

レンは少し考え、魚をもう一匹差し出した。

 

「はい。元気出して」

 

……。

 

…………。

 

(……あ)

 

ありがとう。

 

私はそっと魚を受け取った。

 

そして、ゆっくり飲み込んだ。

 

……。

 

(……うん)

 

やっぱり、美味しい。

 

私は少しだけ元気になった。

 

◇◇◇

 

翌朝。

 

集落では、族長たちが話し合いを続けていた。

 

黒角族にも使いが送られ、谷の者たちへの対応を相談することになったらしい。

 

……。

 

(……よかった)

 

少しずつ、解決に向かっている。

 

私は安心した。

 

だが、その時。

 

見張り役の男が、慌てた様子で駆け込んできた。

 

「族長!」

 

……。

 

(……ん?)

 

また?

 

「北の山から、別の使いが来ています!」

 

族長が顔を上げた。

 

「どこの部族だ」

 

見張り役は、少し戸惑ったように答えた。

 

「……それが」

 

「山の向こうで、いくつもの部族を従え始めた勢力の使いだと」

 

……。

 

…………。

 

(……え?)

 

私は思わず首を上げた。

 

いくつもの部族を?

 

それって。

 

……。

 

(……何だか)

 

ちょっと、大きな話になってきた気がする。

 

族長は静かに立ち上がった。

 

「……会おう」

 

私はその横顔を見つめた。

 

山の向こうで起きていた出来事が。

 

どうやら、少しずつ。

 

我が一族の暮らす場所へ、近づいてきているらしい。

 

……。

 

…………。

 

(……うーん)

 

困ったなぁ。

 

私は、ただ。

 

美形を眺めながら、魚を食べて暮らしたいだけなのに。

 

どうして、こうなるのだろう。

 

私は小さく喉を鳴らした。

 

すると、隣の闘蛇も同じように喉を鳴らした。

 

……。

 

…………。

 

(……君たち)

 

今日も平和だね。

 

本当に。

 

羨ましいくらいに。

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