私には、毎朝欠かさず行っていることがある。
一つ、朝日を浴びる。
二つ、水浴びをする。
三つ、レンから魚をもらう。
そして四つ。
我が一族の美形を眺める。
……うむ。
実に健康的な生活である。
前世の私が聞いたら、少々首を傾げるかもしれない。
何しろ、今の私は巨大な爬虫類だ。
だが、心の健康というものは、姿形が変わっても大切なのである。
「スイ、今日は早いね」
水辺にやって来たレンが、籠を持ち上げた。
中には、朝獲れの魚が入っている。
(おはようございます!)
私は元気よく鼻先を寄せた。
レンは笑いながら魚を差し出した。
「はいはい。順番ね」
(もちろんです)
私はきちんと待った。
……三秒ほど。
「スイ、近い近い」
(……すみません)
魚の魅力には、なかなか勝てないのである。
◇◇◇
その日の昼。
集落に、黒角族の使いが駆け込んできた。
馬ではない。
山道を走ってきたらしく、男は肩で息をしていた。
「白淵族の族長はいるか!」
ただならぬ声に、近くにいた者たちが顔を上げる。
私も水辺から首を伸ばした。
男は、以前の話し合いに同席していた黒角族の若者だった。
確か、道の見張りを任されていたはずだ。
「どうした」
トウエンが駆け寄る。
男は膝に手をつき、荒い息のまま答えた。
「南の道が……塞がれた!」
(……え?)
「谷の入口に、見知らぬ連中が陣取っている。通る者から荷を奪っているんだ!」
私は思わず顔を上げた。
荷を奪う?
それって。
(……山賊?)
いや、山の民だから山賊とは限らないけれど。
やっていることは、ほぼ山賊である。
男は続けた。
「黒角族の者が追い払おうとしたが、向こうは二十人近くいる。武器も持っている」
トウエンの表情が険しくなった。
「どこの部族だ」
「分からん。だが、北から流れてきた連中らしい」
(……北)
私は、以前商人が話していたことを思い出した。
北の道が危険になり、人が南へ流れている。
その中には、暮らす場所を失った者もいる。
……。
(……そうか)
単純に、悪い人たちが現れたという話ではないのかもしれない。
とはいえ。
荷を奪われる側にとっては、たまったものではない。
◇◇◇
「こちらからも人を出そう」
族長の言葉に、周囲がざわめいた。
「ただし、争いに行くのではない」
族長は使いの男を見た。
「まずは相手の素性と、何を求めているのかを確かめる」
「……助かる」
黒角族の男が深く頭を下げた。
その横で、セイランが静かに口を開いた。
「俺が行く」
(……おお)
相棒、出動。
私は反射的に立ち上がった。
すると、近くにいた闘蛇たちも立ち上がった。
「……スイも行く気か」
セイランがこちらを見た。
(当然です)
私は堂々と胸を張った。
我が一族の交易路が危ないのだ。
一族の一員として、放っておけるはずがない。
……それに。
正直なところ、セイランを一人で行かせる方が心配だった。
強いのは知っている。
誰よりも強い。
だが、相手が二十人もいるとなれば、何が起きるか分からない。
セイランは少し考え、私の首筋に手を置いた。
「……分かった。一緒に来い」
(はい!)
私は嬉しくなって喉を鳴らした。
レンが慌てて近づいてくる。
「スイ、危ないことしちゃ駄目だよ」
(分かってます)
「本当に?」
(……できるだけ)
レンは、なぜか深いため息をついた。
……。
そんなに信用がないだろうか。
◇◇◇
南の谷へ向かう道は、普段より静かだった。
鳥の声も少ない。
人の気配もない。
セイランは私の背に乗り、周囲を注意深く見渡していた。
後ろには白淵族の戦士が四人。
黒角族の案内役が二人。
闘蛇は私だけである。
今回は戦うためではなく、状況を確かめるための一行だった。
(……ふむ)
私は慎重に足を進めた。
谷へ近づくにつれ、煙の匂いが漂ってきた。
焚き火だ。
それから、人間の匂い。
……かなり多い。
(……いるなぁ)
私は鼻先を上げた。
セイランが私の首を軽く叩く。
「……気づいたか」
(もちろん)
私は小さく喉を鳴らした。
そのまま、岩陰で足を止める。
谷の入口には、粗末な柵が作られていた。
木を組み合わせただけのものだが、道を塞ぐには十分らしい。
その周囲には、武器を持った男たち。
……。
(……ああ)
本当に、いる。
しかも。
思ったより、みすぼらしい。
服は擦り切れ、武器も不揃い。
中には、槍の代わりに長い木の棒を持っている者もいた。
(……ん?)
私は目を凝らした。
男たちの後ろ。
岩陰に、小さな天幕がいくつかある。
その近くには、女や子供の姿も見えた。
……。
(……あれ)
山賊の集団、というより。
(……避難民?)
私は少し考え込んだ。
◇◇◇
「……見えるか」
セイランが黒角族の男に尋ねた。
「ああ。あいつらだ」
男は悔しそうに拳を握った。
「昨日も荷を奪われた」
セイランはしばらく谷を見つめていた。
「……女と子供がいるな」
「何?」
黒角族の男が目を細める。
「……本当だ」
セイランは静かに言った。
「先に話を聞く」
(……うん)
私も、それがいいと思う。
彼らが何者なのか。
なぜ道を塞いでいるのか。
それを知らないまま戦うのは、危険すぎる。
……というか。
できれば、戦わないでほしい。
◇◇◇
交渉は、最初から難航した。
「帰れ!」
柵の向こうから怒鳴り声が飛ぶ。
「ここは俺たちが使っている!」
セイランは私から降り、少し離れた場所に立った。
「……話がしたい」
「話すことなどない!」
(……うーん)
これは、なかなか。
私は岩陰から様子を見守っていた。
姿を見せれば、かえって相手を刺激するかもしれない。
何しろ、私は九メートル級の巨大生物である。
交渉の場に突然現れたら、誰だって驚く。
……。
(……悲しい)
こんなに穏やかな性格なのに。
セイランは落ち着いた声で続けた。
「道を塞げば、いずれ他の部族と争うことになる」
「知ったことか!」
「……何が必要だ」
その問いに、男たちが黙った。
しばらくして、一人が吐き捨てるように答えた。
「食い物だ」
……。
(……あ)
やっぱり。
「北の谷を追われた。冬を越すために蓄えていたものも、全部置いてきた」
男の声は荒れていた。
「このままじゃ、子供が飢える」
私は岩陰から天幕を見た。
その前に座っている子供は、痩せていた。
……。
(……そっか)
事情は分かった。
けれど。
だからといって、他人の荷を奪っていいわけではない。
難しい問題だ。
◇◇◇
「……食料が必要なら、交換できるものはないか」
セイランが尋ねた。
「交換だと?」
男が笑った。
「そんなものがあるなら、ここで道を塞いでいるものか!」
……。
(……それは)
確かに、そうかもしれない。
セイランは少し黙った。
その時。
天幕の方から、甲高い悲鳴が聞こえた。
「誰か! 来て!」
男たちが振り返る。
「どうした!」
「子供が……!」
(……え?)
私は反射的に首を上げた。
天幕の近くで、女が一人の子供を抱えていた。
その子はぐったりとしている。
周囲の大人たちが慌てて集まっていた。
……。
(……まずい)
何が起きたのかは分からない。
けれど、明らかに様子がおかしい。
私は思わず岩陰から出かけた。
「……スイ」
セイランがこちらを見た。
私は足を止めた。
……。
(……どうする?)
セイランは一瞬だけ考え、男たちへ声をかけた。
「薬草を持っている者がいる。診せるか」
……。
(……おお)
そうだった。
白淵族には、薬草に詳しい人がいる。
今回の一行にも、怪我に備えて薬草を持った戦士が同行していた。
男たちは顔を見合わせた。
やがて、先ほど怒鳴っていた男が、苦しそうに答えた。
「……頼む」
◇◇◇
子供は、熱を出していた。
何日もまともに食べられず、身体が弱っていたらしい。
白淵族の戦士が持っていた水を飲ませ、持参した薬草の中から使えるものを選んだ。
もちろん、それだけですぐに良くなるわけではない。
だが、少なくとも、少し落ち着いたようだった。
私は離れた場所から、その様子を見守っていた。
(……よかった)
まだ安心はできない。
それでも。
少しだけ、ほっとした。
すると、セイランがこちらへ歩いてきた。
「……スイ」
(……はい)
「戻るぞ」
(……え?)
もう?
私は思わず首を傾げた。
セイランは谷の方を見た。
「族長に報告する。あの者たちのことも含めて」
……。
(……なるほど)
確かに。
これは、私たちだけで決められる話ではない。
私は静かに頷いた。
◇◇◇
帰り道。
私はずっと考えていた。
彼らは、悪い人たちなのだろうか。
荷を奪うのは、悪いことだ。
それは間違いない。
でも。
子供を飢えさせないために、必死だったのかもしれない。
……。
(……うーん)
難しい。
前世の私は、ニュースで似たような話を見たことがある。
争いで故郷を追われる人。
食べ物がなくなる人。
行き場を失う人。
その時は、画面の向こうの出来事だった。
けれど、今は違う。
目の前にいる。
手を伸ばせば届く場所にいる。
……。
(……ああ)
こういうことなのか。
世界が変わる、というのは。
私は少しだけ、胸が重くなった。
◇◇◇
集落へ戻ると、セイランはすぐに族長へ報告した。
話を聞いた族長は、しばらく黙っていた。
「……北の谷を追われた者たちか」
「そうだ」
「何に追われた?」
セイランは首を振った。
「詳しくは聞けなかった。ただ、別の部族に土地を奪われたらしい」
……。
(……また)
部族同士の争い。
私は小さく息を吐いた。
族長はトウエンを見た。
「黒角族にも知らせよう。道を塞いでいる者たちの事情を」
「はい」
「そして、食料を少し分けられるか調べてくれ」
……。
(……おお)
族長。
やっぱり優しい。
だが、トウエンは慎重だった。
「我らの蓄えにも限りがあります」
「分かっている」
族長は静かに頷いた。
「だから、無理はせん。だが、見捨てることもできまい」
……。
(……うん)
そうだよね。
私も、そう思う。
◇◇◇
その夜。
私は水辺で、レンから魚をもらっていた。
いつも通りの、美味しい魚。
いつも通りの、穏やかな時間。
けれど。
今日は、少しだけ味が違う気がした。
……。
(……あの子)
ちゃんと、食べられているだろうか。
熱は下がっただろうか。
私は魚を飲み込みながら、谷で見た子供の顔を思い出した。
すると、レンが私の頭を撫でた。
「スイ、今日は元気ないね」
……。
(……そうかな)
私は小さく喉を鳴らした。
レンは少し考え、魚をもう一匹差し出した。
「はい。元気出して」
……。
…………。
(……あ)
ありがとう。
私はそっと魚を受け取った。
そして、ゆっくり飲み込んだ。
……。
(……うん)
やっぱり、美味しい。
私は少しだけ元気になった。
◇◇◇
翌朝。
集落では、族長たちが話し合いを続けていた。
黒角族にも使いが送られ、谷の者たちへの対応を相談することになったらしい。
……。
(……よかった)
少しずつ、解決に向かっている。
私は安心した。
だが、その時。
見張り役の男が、慌てた様子で駆け込んできた。
「族長!」
……。
(……ん?)
また?
「北の山から、別の使いが来ています!」
族長が顔を上げた。
「どこの部族だ」
見張り役は、少し戸惑ったように答えた。
「……それが」
「山の向こうで、いくつもの部族を従え始めた勢力の使いだと」
……。
…………。
(……え?)
私は思わず首を上げた。
いくつもの部族を?
それって。
……。
(……何だか)
ちょっと、大きな話になってきた気がする。
族長は静かに立ち上がった。
「……会おう」
私はその横顔を見つめた。
山の向こうで起きていた出来事が。
どうやら、少しずつ。
我が一族の暮らす場所へ、近づいてきているらしい。
……。
…………。
(……うーん)
困ったなぁ。
私は、ただ。
美形を眺めながら、魚を食べて暮らしたいだけなのに。
どうして、こうなるのだろう。
私は小さく喉を鳴らした。
すると、隣の闘蛇も同じように喉を鳴らした。
……。
…………。
(……君たち)
今日も平和だね。
本当に。
羨ましいくらいに。