平和な暮らしというものは、実に素晴らしい。
朝起きて、魚を食べる。
水浴びをして、魚を食べる。
時々セイランと山を走り、帰ってきたら魚を食べる。
……。
(……あれ?)
食べてばかりでは?
いやいや。
そんなことはない。
私はちゃんと働いている。
荷物を運ぶし、人を助けるし、時には一族のために知恵も絞る。
つまり、これは正当な報酬である。
働かざる者、食うべからず。
働いた者は、遠慮なく食べるべし。
……うむ。
実に健全な考え方だ。
「スイ、今日はもう三匹目だよ」
レンが呆れたように笑った。
(……え?)
まだ三匹?
私は少し驚いた。
「そんな顔しても、次は夕方ね」
……。
(……残念)
どうやら、我が一族の食料事情にも限界があるらしい。
◇◇◇
カンロという使者が訪れてから、五日が経った。
白淵族の暮らしは、表面上は何も変わっていない。
子供たちは水辺で遊び、戦士たちは訓練をし、レンは相変わらず私たちの世話に追われている。
だが、少しだけ違うことがあった。
大人たちが、よく集まるようになったのだ。
しかも、話している内容があまり楽しそうではない。
「だから、今のままでよいと言っているのだ」
「だが、外の動きを知らずにいるのも危険だろう」
「我らから争いに近づく必要はない」
「近づかずとも、向こうから来るかもしれん」
……。
(……うーん)
難しい話をしている。
私は集会場の外で、静かに耳を傾けていた。
ちなみに、集会場といっても立派な建物ではない。
大きな岩を背にした広場に、木の柱と屋根があるだけだ。
人間にとっては十分な広さだろう。
ただし、九メートル級の闘蛇が入るには少々狭い。
以前、無理に参加しようとしてレンに止められたことがある。
……。
(……解せぬ)
私も一族の一員なのに。
◇◇◇
「西の勢力に加わるべきだ」
そう言ったのは、若い戦士だった。
名前はハク。
セイランほどではないが、腕の立つ戦士である。
もちろん、顔も良い。
……。
(……うん)
そこは大事。
私は満足げに頷いた。
ハクは真剣な表情で続けた。
「北の谷の者たちを見ただろう。土地を追われれば、我らも同じことになる」
「だからといって、他の部族の戦に加わるのか」
年配の男が反論した。
「我らは長く、この山で暮らしてきた。外の争いに関わらずとも、生きてこられたではないか」
「今までは、だ」
ハクは言った。
「これからも同じとは限らない」
……。
(……うん)
どちらの言い分も分かる。
今の暮らしを守りたい。
でも、守るためには変わる必要があるかもしれない。
前世でも、似たような話はよく聞いた。
会社でも、地域でも、国でも。
現状維持というのは、必ずしも何もしないことではない。
……。
(……難しいよね)
私は小さく喉を鳴らした。
すると、近くにいた闘蛇も喉を鳴らした。
……。
(……君は)
たぶん、何も考えてないよね。
◇◇◇
「セイランは、どう思う」
族長が尋ねた。
広場の空気が、少し変わった。
セイランは、柱の近くに立っていた。
腕を組み、黙って話を聞いていたらしい。
……。
(……おお)
相棒。
出番です。
私は少し期待した。
セイランはしばらく考え、短く答えた。
「……まだ分からん」
……。
…………。
(……え?)
分からない?
あのセイランが?
私は少し驚いた。
だが、彼は続けた。
「相手が何を望み、何をする者なのか。使者の言葉だけでは判断できん」
……。
(……あ)
なるほど。
確かに。
「強い者に従えば安全とは限らない。だが、強い者と争えば危険なのも確かだ」
……。
(……うん)
そうだよね。
「……だから、見極める必要がある」
セイランは静かに言った。
……。
(……おお)
何ということでしょう。
冷静。
実に冷静。
私は思わず感心した。
てっきり「戦うなら俺が行く」とか言い出すかと思っていた。
……。
(……失礼しました)
相棒は、私が思っている以上に理性的な人らしい。
◇◇◇
「……では、誰が見極める」
ハクが尋ねた。
セイランは少し考えた。
「……俺が行く」
……。
…………。
(……あ)
やっぱり。
結局、行くんですね。
私は思わず首を上げた。
すると、セイランがこちらを見た。
……。
(……ん?)
何ですか?
「……スイも連れて行く」
……。
…………。
(……え!?)
私!?
私は驚いた。
周囲の人間たちも、少しざわめいた。
「闘蛇を連れて?」
「危険ではないか」
「相手がどう出るか分からんぞ」
……。
(……そうですよね)
私も、ちょっとそう思います。
いや。
行きたくないわけではない。
むしろ、外の世界には興味がある。
でも。
知らない部族のところへ行くとなると、少し緊張する。
……。
(……うーん)
何しろ。
私は、山奥育ちなので。
◇◇◇
「……スイなら、問題ない」
セイランが言った。
……。
(……おや)
「危険を察するのが早い。それに、俺の指示を理解する」
……。
…………。
(……ふふん)
そうでしょう。
私は少し得意げになった。
「何より、他の闘蛇では俺を乗せられん」
……。
…………。
(……あ)
それは、そう。
私は思わず納得した。
セイランの気配に耐えられる闘蛇は、今のところ私だけだ。
……。
(……なるほど)
適任ですね。
私。
族長はしばらく考えていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……よかろう」
……。
…………。
(……え)
本当に?
「ただし、無理はするな。相手を見に行くのであって、争いに行くのではない」
「分かっている」
セイランが答えた。
……。
(……うん)
そうです。
平和的に。
平和的にお願いします。
◇◇◇
その日の夕方。
レンが私の身体を丁寧に洗っていた。
普段より、少し念入りである。
……。
(……おや)
どうしたの?
私は首を傾げた。
レンは私の鱗を撫でながら言った。
「遠くまで行くんだってね」
……。
(……あ)
そうだった。
「セイランと一緒なら大丈夫だと思うけど……」
レンは少し言葉を切った。
そして、私の顔を見上げた。
「無理しちゃ駄目だよ」
……。
…………。
(……レン)
私はそっと鼻先を近づけた。
レンは笑って、私の頭を撫でた。
「スイは、すぐ人のために頑張っちゃうから」
……。
…………。
(……え?)
そうかな。
私は少し考えた。
確かに、困っている人を見ると、放っておけない。
子供の頃、闘蛇の子供を助けた時もそうだった。
黒角族の少年を助けた時も。
北の谷の子供を見た時も。
……。
(……うーん)
そうかもしれない。
レンは静かに続けた。
「でも、スイも大事なんだからね」
……。
…………。
(……あ)
私は、少しだけ胸が温かくなった。
そうだ。
私も。
我が一族の一員なのだ。
……。
(……うん)
ちゃんと帰ってくるよ。
私はそっと、レンの肩に鼻先を寄せた。
レンは嬉しそうに笑った。
◇◇◇
翌朝。
私はセイランを乗せて、集落を出発した。
同行するのは、白淵族の戦士が二人。
そして、道案内を兼ねた黒角族の男が一人。
カンロたちが来た西の山へ向かう。
……。
(……おお)
ついに。
遠征。
私は少しわくわくした。
山の外。
知らない部族。
知らない景色。
……。
(……ふふん)
これは、なかなか楽しみである。
もちろん、危険があることも分かっている。
だが。
私は、少しだけ期待していた。
何しろ。
この世界には、まだ見ぬ美形がたくさんいるかもしれない。
……。
(……うん)
旅の醍醐味ですね。
私は元気よく歩き出した。
◇◇◇
西の山へ向かう道は、思った以上に険しかった。
岩場が多く、道も細い。
時には、川を渡る必要もある。
……。
(……ふむ)
なかなか大変。
だが、闘蛇である私にとっては、そこまで苦ではない。
むしろ、川があるのは嬉しい。
……。
(……水!)
私は思わず足を速めた。
「……スイ」
セイランの声がした。
……。
(……はい)
「遊ぶな」
……。
…………。
(……え)
まだ何もしてませんけど?
私は少し不満になった。
だが、セイランは私の首筋を軽く叩いた。
「……後でな」
……。
…………。
(……!!)
後で!
つまり。
水浴びしていいんですね!
私は嬉しくなった。
……。
(……ふふん)
やっぱり。
相棒は、よく分かっている。
◇◇◇
昼過ぎ。
一行は、小さな峠に差しかかった。
そこからは、遠くの山々が見渡せた。
……。
(……おお)
綺麗。
私は思わず足を止めた。
幾重にも重なる山。
谷を流れる川。
遠くに見える、小さな集落。
……。
(……へえ)
こんなに広いんだ。
私が知っている世界は、ほんの一部だったらしい。
セイランも、しばらく山々を見つめていた。
「……あの向こうだ」
……。
(……ん?)
私は首を傾げた。
「使者たちが来た場所は」
……。
(……なるほど)
あの山の向こうに。
山の民をまとめようとしている勢力がいる。
私は少し緊張した。
どんな人たちなのだろう。
怖い人たちだろうか。
それとも、案外話の分かる人たちだろうか。
……。
(……うーん)
分からない。
でも。
会ってみなければ、分からないこともある。
私はゆっくりと歩き出した。
◇◇◇
夕方。
一行は、山の中腹にある小さな集落へ到着した。
そこには、見慣れない服装の人々が暮らしていた。
……。
(……おや)
また新しい部族。
私は興味深く周囲を見回した。
すると、集落の人々が一斉に私を見た。
……。
…………。
(……あ)
また、この反応。
「……何だ、あの獣は」
「でかい……」
「人を乗せているぞ」
……。
(……はいはい)
闘蛇です。
よろしくお願いします。
私はおとなしく伏せた。
すると、一人の老人が近づいてきた。
白い髭を蓄えた、穏やかな顔の男だった。
「……白淵族か」
セイランが頷いた。
「そうだ」
老人は私を見た。
「噂は聞いている。巨大な獣を連れた一族がいるとな」
……。
(……おや)
噂。
もう広まっているの?
私は少し驚いた。
老人は静かに続けた。
「西の山では、最近よくその話を聞く」
……。
…………။
(……へえ)
我が一族。
意外と有名になっているらしい。
私は少し得意げになった。
◇◇◇
その夜。
私たちは集落の外れで休むことになった。
人間たちは焚き火を囲み、私は近くの水辺に身体を沈めていた。
……。
(……ああ)
気持ちいい。
長旅の後の水浴び。
最高である。
私は満足げに目を閉じた。
すると、少し離れた場所から声が聞こえた。
「……あの獣が、白淵族の闘蛇か」
……。
(……ん?)
私は薄目を開けた。
そこには、見知らぬ男が立っていた。
旅装束をまとい、腰には短い剣を下げている。
顔は布で半分隠れていたが、目つきは鋭い。
……。
(……おや)
またお客様?
男は、私をじっと見つめていた。
そして、小さく呟いた。
「……なるほど」
……。
(……ん?)
何が?
私は首を傾げた。
男はそれ以上何も言わず、静かに立ち去っていった。
……。
…………。
(……うーん)
何だったんだろう。
私は少し不思議に思った。
だが、すぐに水へ身体を沈めた。
……。
(……まあ)
いいか。
明日も、長い道のりが待っている。
今は、ゆっくり休もう。
私は目を閉じた。
山の向こうには、まだ知らない世界が広がっている。
そして、その先には。
まだ会ったことのない、山の民たちの主がいる。
……。
(……ふふん)
どんな人なんだろう。
私は少しだけ、楽しみになった。
できれば。
顔の良い人だと、嬉しい。
……。
…………。
いや。
もちろん、それだけが大事なわけではない。
一族の未来に関わる、大切な旅なのだから。
……。
(……うん)
分かっています。
ちゃんと。
私はそう自分に言い聞かせながら、静かに眠りについた。