世の中には、乗り物に向いている者と、そうでない者がいる。
例えば馬。人を乗せるために飼い慣らされ、長い年月をかけて騎乗技術が発達してきた、実に優秀な生き物である。
一方、闘蛇。
こちらは、正直なところ乗り物にはあまり向いていない。
いや、乗れないわけではない。実際、白淵族では昔から闘蛇を騎獣として利用してきた。
ただし、問題がある。
とにかく、気性が荒いのだ。
少しでも気に入らないことがあれば暴れるし、驚けば走り出す。興奮した時など、背中に乗っている人間のことなんて忘れてしまう。
つまり、何が言いたいかというと。
闘蛇に乗るには、それなりの技術と覚悟が必要なのである。
そして、どうやら今日。
私の背中に、一族で最も恐ろしい男が乗ることになったらしい。
……いや、待って。
聞いてないんですけど。
◇◇◇
「本当にこいつでいいのか?」
目の前の男が、レンに尋ねた。
「うん。スイなら大丈夫だと思う」
「他の闘蛇は、俺が近づくだけで騒ぐぞ」
「だからスイなんだよ」
なるほど。どうやら私の知らないところで、話が進んでいたらしい。
ちなみに、この男の名前はセイランという。白淵族の戦士であり、一族最強と呼ばれる男だ。
年齢は二十代半ば。長い黒髪を無造作に束ね、鋭い目つきをしている。普段はあまり喋らない。そして、笑わない。
先ほど笑ったところを見たのは、私にとっても珍しい出来事だった。
顔が良い。非常に良い。
……いや、そんなことはどうでもいい。
問題は、この男が私に乗ろうとしていることである。
「まずは歩かせてみよう」
レンが言った。
「無理はさせないでね」
「分かっている」
セイランはそう答えると、私の横に回り、背中に手を置いた。
……ちょっと。
触るなら一声かけていただきたい。心の準備というものがあるでしょう。
そんな私の抗議など知る由もなく、セイランは軽く地面を蹴った。
次の瞬間、ふわりと身体が浮き、私の背中に着地する。
……軽い。
いや、もちろん人間一人分の重さはある。だが、九メートルもある私からすれば、大した負担ではない。
それよりも驚いたのは、着地の衝撃がほとんどなかったことだ。
普通の人間なら、背中に乗る時に多少は身体が揺れる。ところが、この男は違う。
私の動きに合わせるように、自然と重心を移している。
……何この人。乗馬、上手すぎない?
いや、乗闘蛇か。
「……落ち着いているな」
セイランが呟いた。
「でしょ?」
レンが嬉しそうに答える。
「スイは本当に賢いんだ」
ふふん。もっと褒めてもいいのよ。
私は得意げに首を持ち上げた。
「スイ、歩いてみて」
はいはい、了解しました。
私はゆっくりと歩き出した。
一歩、二歩、三歩。
背中の男は、ほとんど揺れない。
いや、正確には揺れているのだろう。だが、その揺れに合わせて身体を動かしている。
まるで、私の身体の一部になったような感覚だ。
……ちょっと待って。
これ、結構すごくない?
「速度を上げるぞ」
セイランが言った。
え、もう?
いや、別にいいけど。
私は歩幅を広げた。湿った地面を蹴り、身体を前へと運ぶ。
周囲の景色が流れ始め、風が鱗の間を抜けていく。
気持ちが良い。
やっぱり走るのは好きだ。
前世では運動が得意だったわけではないけれど、この身体になってからは別である。
何しろ、足が速い。しかも、疲れにくい。
人間だった頃には考えられないほど、自由に身体を動かせる。
……まあ、細かい作業はできないけど。
「右だ」
セイランの声が聞こえた。
はい、右ね。
私は身体を傾けた。
「左」
はいはい。
「止まれ」
了解。
私は足を踏ん張り、ゆっくりと速度を落とした。
背中の男が黙り込んだ。
おや、どうしたの。
何か問題でも?
「……レン」
「何?」
「こいつ、本当に闘蛇か?」
……失礼な。
どこからどう見ても闘蛇でしょうが。
「俺も時々そう思うよ」
レンまでそんなことを言い出した。
おい、育ての親。
そこは否定してくれ。
◇◇◇
その後、訓練は少しずつ難しくなっていった。
まず、急な方向転換。次に、障害物を避けながらの走行。さらに、狭い道を通る訓練。
ここまでは問題なかった。
むしろ、楽しい。
何しろ、セイランの指示は的確なのだ。
無駄がない。私が動きやすいタイミングで声をかけてくれる。
そして何より、身体の使い方が上手い。
こちらが曲がろうとする前に、わずかに重心を移す。だから、次に何をしたいのかが自然と分かる。
……あれ?
これ、もしかして。
私たち、相性が良いのでは?
「次は、あの木まで走る」
セイランが前方を指さした。
そこには、大きな木が一本立っていた。距離はそれほど遠くないが、途中には倒木や岩が転がっている。
なるほど、障害物競走ですね。
任せなさい。
私は地面を蹴り、一気に加速した。
風が唸る。背中のセイランが、わずかに身体を低くした。
いいね。分かってるじゃないの。
私は倒木を飛び越え、岩を避けながら進んだ。
そして、最後の曲がり角。
セイランが右へ重心を移した。
はい、右ね。
……いや、待てよ。
私は一瞬、前方を見た。
右側には大きな岩。その向こうは狭い道。
確かに、右へ曲がれば目的の木に近づける。だが、そのまま進めば速度を落とさなければならない。
一方、左側には少し遠回りになるものの、開けた場所がある。
……よし、こっちだ。
私は左へ身体を傾けた。
「……!」
背中のセイランが反応する。だが、止めようとはしなかった。
私は左へ回り込み、大きく弧を描くように走った。そして、その勢いを保ったまま木の前へ。
最後に足を踏ん張り、ぴたりと止まる。
よし、完璧。
どうですか、この走り。
私は得意げに首を持ち上げた。
だが、背中の男は何も言わない。
……あれ?
もしかして、怒ってる?
指示と違う方向に行ったから?
いや、でも。こっちの方が速かったと思うんだけど。
しばらくして、セイランが口を開いた。
「……今のは」
はい。
「俺の指示を無視したな」
……すみません。
でも、理由がありまして。
私は小さく喉を鳴らした。
「だが」
セイランは続けた。
「正しい判断だった」
……!
おお、分かってくれましたか。
「右へ曲がれば、岩を避けるために速度を落とす必要があった。左へ回り込めば、勢いを保ったまま進める」
そうそう! そうなんですよ!
「……まさか、そこまで考えて動いたのか?」
はい! 考えました!
私は勢いよく首を上下させた。
セイランが黙り込む。
……あ。
しまった。
今の、ちょっと人間っぽすぎた?
「……面白い」
男が小さく笑った。
また笑った。本日二度目である。
これはもう、記念日として制定しても良いのではないだろうか。
◇◇◇
訓練を終えて戻ると、レンが駆け寄ってきた。
「どうだった?」
セイランは私の背中から軽やかに降りた。
「問題ない」
「本当?」
「ああ」
短い返事。だが、その表情はどこか満足そうだった。
「それどころか……」
セイランは一度、私を振り返った。
「こいつは、俺が考えていることを理解して動く」
レンが目を丸くした。
「そんなことが?」
「分からん。だが、少なくとも他の闘蛇とは違う」
ふむ。まあ、そうでしょうね。
中身が人間ですから。
「俺が右へ進もうとした時、こいつは左へ進んだ」
「えっ?」
「だが、その方が速かった」
レンは驚いたように私を見た。
「スイ……お前、そんなことまで考えられるのか?」
ふふん。もっと褒めてもいいのよ。
私は得意げに胸を張った。
……いや、闘蛇に胸を張るという表現が適切なのかは分からないけれど。
「決めた」
セイランが言った。
「何を?」
「今後、俺が乗るのはこいつだ」
……え。
ちょっと待って。
今、何て?
「スイを?」
「ああ」
レンは少し考え込んだ。
「でも、スイは他の闘蛇たちの面倒も見ているし……」
「必要な時だけでいい」
セイランは私を見た。
「こいつなら、俺についてこられる」
……いや、それはまあ。
ついていけるとは思いますけど。
でも、そんな真剣な顔で見つめられると困るんですよ。
顔が良すぎて。
「スイ」
セイランが私の鼻先に手を置いた。
「これからよろしく頼む」
……はい、こちらこそ。
私はそっと、その手に鼻先を押しつけた。
すると、セイランはわずかに目を細めた。
……ああ。
今日も顔が良い。本当に良い。
こうして私は、一族最強の戦士の騎獣となった。
もっとも、この時の私はまだ知らなかった。
この男を背に乗せるということが、どれほど大変なことなのかを。
そして、彼が戦場で見せる姿が、普段の何倍も恐ろしいということを。
……いや。
顔が良いことだけは、間違いないのだけれど。