前世で映画を観ていたとき、私は山の民が好きだった。
仮面を着けた戦士たちが、ものすごい勢いで敵に襲いかかる。
人間離れした身体能力。
独特の武器。
そして、彼らを率いる美しい女王。
格好よかった。
とても格好よかった。
ただし。
それは、あくまで映画の話である。
実際に目の前にすると、感想は少し変わる。
(……怖い)
私の周囲には、武器を構えた山の民たちがいた。
皆さん、上半身はほとんど裸。
筋肉がすごい。
そして仮面が怖い。
何より、その武器が怖い。
いや、私の方がずっと大きいんだけどね?
それでも、鋭い刃物を向けられるのは気分がよくない。
そもそも私は戦いたくないのだ。
魚を食べて、日向ぼっこをして、美形を眺めていたい。
それが私の理想の闘蛇生である。
「武器を下ろせ」
静かな声が響いた。
楊端和だった。
「客人を脅かすな」
その一言で、戦士たちが武器を下げる。
ただし、一人だけ動かなかった。
私の正面に立つ、獣の仮面を着けた大柄な男。
バジオウである。
彼は私の目をじっと見ていた。
私も、彼を見ていた。
(……あれ?)
この人。
もしかして。
映画に出てた?
記憶の奥で、何かが引っかかった。
確か、楊端和の側近に、ものすごく強い人がいたはずだ。
名前も、そんな感じだったような。
……いや。
さっき名前を聞いたときは思い出せなかったけど。
(……バジオウ!)
そうだ!
バジオウだ!
映画にもいた!
……はず!
私の記憶は、非常に頼りない。
映画館で観たときは夢中だったのに、細かいところはすっかり抜け落ちている。
それでも、目の前の男がただ者ではないことくらいは分かった。
彼は私の牙ではなく、前脚と尾の位置を見ていた。
もし私が暴れたら、どこから動くのか。
そんなことを確かめているように思えた。
(……やだなぁ)
私は戦うつもりなんてありませんよ。
そっと鼻先を地面に下ろす。
それを見て、バジオウはようやく武器を下げた。
◇◇◇
「驚かせたようだな」
楊端和が言った。
セイランは私の横に立ったまま、短く答えた。
「こちらの不手際だ」
「構わぬ。これほど大きな獣なら、声も大きかろう」
……。
(……ありがとうございます)
大変寛大な対応で助かります。
もっとも、今回に限っては完全に私が悪い。
楊端和という名前に驚いて叫ぶ闘蛇なんて、普通はいない。
いや、絶対にいない。
私は知らん顔をして、前脚を揃えた。
レンが隣にしゃがみ、私の首筋をゆっくり撫でている。
「もう大丈夫だよ、スイ」
その声を聞くと、不思議と落ち着いた。
卵から育ててくれたレンには、私がどれほど大きくなっても、昔と変わらないらしい。
ありがたいことだ。
「その者は、飼育を任されているのか」
楊端和がレンを見た。
「はい。幼い頃から世話をしています」
「よく懐いている」
「……そうですね」
レンは少し笑った。
「でも、懐いているというより、一緒に育った家族みたいなものです」
(……レン)
私は思わず目を細めた。
家族。
そうだ。
私は白淵族の一員なのだ。
人間ではないけれど。
牙もあるし、尻尾もあるし、魚を丸呑みにするけれど。
それでも、私の家族は白淵族だ。
楊端和はレンをしばらく見つめていた。
「そうか」
そして、セイランに向き直った。
「お前たちの一族は、あの獣と共に暮らしているのだな」
「そうだ」
「戦にも使うのか」
「必要ならば」
「ならば、強いだろうな」
セイランは答えなかった。
楊端和も、それ以上は聞かなかった。
私は少し意外に思った。
これほど大きな獣を見たら、普通はもっといろいろ聞きたくなるものではないだろうか。
何を食べるのか。
どれほど速く走るのか。
何人乗れるのか。
戦では何人倒せるのか。
……最後の質問は嫌だけれど。
楊端和は、そういうことを尋ねなかった。
代わりに、別の質問をした。
「白淵族は、何を守るために戦う?」
セイランは少し考えた。
「一族だ」
「土地ではなく?」
「土地も、一族が生きるために必要なものだ」
「なるほど」
楊端和は小さく笑った。
「では、我らと同じだな」
◇◇◇
その言葉に、セイランの表情がわずかに変わった。
「同じ、とは?」
「我らもまた、山の民が生きる場所を守るために戦っている」
楊端和は中庭の外へ視線を向けた。
「山には数え切れぬほどの部族がいる。それぞれに言葉があり、習わしがあり、守るべきものがある」
(……うん)
それは、よく分かる。
白淵族と黒角族だって、全然違う。
暮らす場所も、食べるものも、獣との付き合い方も。
「だが、部族が違うというだけで争う者もいる。弱い部族から奪い、従わぬ者を滅ぼす者もいる」
楊端和の声は、静かだった。
「それを終わらせたい」
セイランは黙って聞いていた。
「山の民が、互いの違いを理由に殺し合わずに済む場所を作る。そのために、私は山界をまとめている」
(……おお)
格好いい。
さすが楊端和。
映画で観たときも思ったけれど、実際に聞くと迫力が違う。
ただ。
私は、そこで少し引っかかった。
争いを終わらせるために、戦う。
それは、簡単なことではないはずだ。
現に、昨日だって戦があった。
負けた側には、怪我人もいた。
家族を失った人もいるかもしれない。
(……うーん)
理想は立派だ。
でも、理想だけでは人は救えない。
私は少しだけ、前世の自分に戻ったような気がした。
映画なら、格好いい台詞で場面が終わる。
けれど、ここでは。
戦が終わっても、怪我をした人間は痛い。
食べ物がなければ、お腹がすく。
家族が帰ってこなければ、悲しい。
そんな当たり前のことが、今は妙に重く感じられた。
◇◇◇
「一つ、聞きたい」
セイランが言った。
「何だ」
「従わぬ部族は、どうする」
中庭が静かになった。
周囲の戦士たちが、わずかに身じろぎする。
……。
(……相棒)
それ、かなり大事な質問ですね。
白淵族の族長も、きっと気にしていることだ。
楊端和は、すぐには答えなかった。
「理由による」
「理由?」
「我らを拒むだけなら、無理に従わせるつもりはない」
(……おお)
「だが、他の部族を襲い、奪うことをやめぬ者ならば、戦う」
セイランは静かに聞いていた。
「白淵族が我らに加わらずとも、それだけで敵とは見なさぬ」
楊端和は、まっすぐセイランを見た。
「ただし、我らの敵に加わるなら話は別だ」
「当然だ」
セイランは短く答えた。
二人の間に、妙な緊張が流れる。
私はそっとレンの方へ顔を寄せた。
(……大丈夫かな)
レンは私の鼻先を撫でた。
「大丈夫だよ」
……。
(……本当に?)
私は少し不安だった。
だって、相手は楊端和だ。
映画では味方だったけれど。
それは、あくまで秦にとっての話。
白淵族にとっても味方になるとは、まだ限らない。
◇◇◇
そのときだった。
中庭の外が、急に騒がしくなった。
「道を開けろ!」
「怪我人だ!」
複数の足音が近づいてくる。
楊端和が振り返った。
「何事だ」
一人の戦士が駆け込んできた。
仮面の下から、荒い息が聞こえる。
「北の谷から戻った者たちです。負傷者が多く、運びきれません」
「何があった」
「崖道で落石がありました。昨日の戦で傷を負った者たちを移送していたところ、道が崩れたようです」
(……え)
私は顔を上げた。
昨日の戦。
あの谷で見た、怪我人たちだろうか。
「死者は」
「まだ分かりません。谷に残された者もおります」
楊端和の声が鋭くなった。
「救援を出せ」
「はっ!」
戦士が走り去ろうとした、そのとき。
「待て」
セイランが声をかけた。
戦士が足を止める。
「その谷は、どのあたりだ」
「ここから北へ半日ほど。細い崖道を通ります」
「荷車は?」
「通れません。人が二人並ぶのがやっとの道です」
セイランは少し考えた。
そして、楊端和を見た。
「俺たちの獣なら、運べるかもしれない」
(……え?)
私は顔を上げた。
ちょっと待って。
今、何て?
◇◇◇
「スイたちは、荷を運ぶことにも慣れている」
セイランが説明した。
「だが、道を見なければ分からない」
楊端和は私を見た。
「崖道を通れるのか」
「場所による」
「ならば、案内をつけよう」
……。
(……ええと)
話が進んでいる。
ものすごい速さで進んでいる。
私、まだ何も言ってないんですけど?
いや。
言えないんだけど。
私はレンを見た。
レンも少し驚いた顔をしていた。
「セイラン、本当に行くの?」
「怪我人がいる」
「それは、そうだけど……」
セイランは私の首筋に手を置いた。
「無理なら引き返す」
(……相棒)
その言葉を聞いて、私は少し安心した。
そうだ。
セイランは、私に無理をさせる人ではない。
これまでだって、危険な場所では必ず様子を見てくれた。
何より。
怪我をした人が、山道で動けなくなっている。
それを知ってしまった以上、知らん顔をするのも気分が悪い。
(……仕方ないなぁ)
私はゆっくりと身体を起こした。
レンが私の背を撫でる。
「スイ、お願いできる?」
私は答えなかった。
ただ、いつものようにセイランが乗りやすい姿勢を取った。
それだけで十分だったらしい。
セイランは小さく笑った。
「行くぞ」
◇◇◇
中庭を出ると、ハクたちが待っていた。
事情を聞いたハクは、すぐに表情を引き締めた。
「俺たちも行く」
「三頭で運べるだけ運ぶ」
セイランが答えた。
黒角族の案内役も、崖道の場所を聞いて顔をしかめた。
「そこは足場が悪い。雨が降れば、人でも滑る」
(……え)
嫌な情報をありがとうございます。
私は足元を見た。
大きな爪。
丈夫な四本の脚。
長い尻尾。
確かに、普通の馬よりは踏ん張りが利くかもしれない。
でも。
(……高いところ、得意ってわけじゃないんですよね)
私は水辺の生き物なのだ。
川や沼なら、いくらでも泳げる。
しかし、崖から落ちたら話は別である。
落ちた先が川なら、まだいい。
岩だったら。
……考えるのをやめよう。
そのとき、バジオウが近づいてきた。
「俺も行く」
(……おお)
バジオウさん。
頼もしい。
彼は私を見上げた。
「この獣が、どれほど山を歩けるのか見てみたい」
……。
(……いや)
見世物ではないんですけど。
でも。
楊端和の側近が同行するなら、現地での話も早いだろう。
セイランも異論はないようだった。
「好きにしろ」
バジオウは短く笑った。
「面白い男だな、お前は」
(……それは)
こちらの台詞です。
◇◇◇
出発の準備が整うまで、少し時間があった。
私は建物の脇で、レンから水を飲ませてもらっていた。
冷たい水が喉を通る。
(……生き返る)
やっぱり水はいい。
できれば魚も欲しい。
朝からいろいろあって、お腹がすいてきた。
レンは私の口元を拭きながら、小さく言った。
「スイ、今日は大変な一日になりそうだね」
(……本当にね)
まったくです。
山の王に会うだけのはずだったのに。
まさか、怪我人の救助に行くことになるとは。
私はゆっくりと目を閉じた。
そのとき、少し離れた場所から声が聞こえた。
「……あの獣は、どこまで理解しているのだろうな」
楊端和だった。
私は目を開けずに、耳だけを動かした。
「さあな」
答えたのはバジオウだ。
「だが、普通の獣とは違う」
「そうか」
「俺が近づいたとき、逃げも威嚇もしなかった」
「それだけか?」
「こちらの動きを見ていた」
少しの沈黙。
「……戦う相手を見定めるようにな」
(……え)
いやいや。
違いますよ。
私は戦いたくなかっただけです。
何だか、ものすごく強そうに評価されている。
困る。
非常に困る。
楊端和が小さく笑った。
「ならば、なおさら興味深い」
「何がだ」
「あの獣を従える者ではなく、共に歩く者がいることだ」
私は、そっと目を開けた。
楊端和は、こちらを見ていなかった。
その視線は、遠くの山々へ向けられていた。
「山の民も、そうありたいものだな」
……。
(……ああ)
私は少しだけ、その言葉の意味を考えた。
従えるのではなく、共に歩く。
白淵族と闘蛇の関係を、そう見てくれたのだろうか。
だとしたら。
この人は、思っていた以上に、私たちの一族と相性がいいのかもしれない。
もちろん、まだ分からない。
それでも。
私は少しだけ、楊端和のことを好きになった。
◇◇◇
やがて、出発の声がかかった。
セイランが私の背に乗る。
レンも後ろに続いた。
ハクたちは、それぞれの闘蛇に騎乗している。
そして、バジオウは先頭に立った。
(……よし)
行きますか。
私はゆっくりと歩き出した。
目指すは、北の崖道。
怪我人の救助。
……。
(……あれ?)
そういえば。
私、映画の世界に来たんだよね?
だったら。
これから先、いろんな事件が起こるのでは?
秦の王様。
王騎将軍。
戦。
山の民。
私は、遠くの山々を見つめた。
(……うーん)
何となく、嫌な予感がする。
いや。
正確には。
映画の内容を、ほとんど覚えていないことに気づいた。
(……あれ?)
キングダムって。
最初、どういう話だったっけ?
吉沢亮が王様で。
大沢たかおが将軍で。
長澤まさみが山の王で。
……。
(……それしか覚えてない!)
私は心の中で頭を抱えた。
前世の私。
もう少し、ちゃんと覚えておいてほしかった。
だが、今さらどうにもならない。
私は大きく息を吐いた。
そして、背中の二人を感じながら、山道へ踏み出した。
映画の続きを知っているわけではない。
この先に何があるのかも分からない。
でも、一つだけ決めていることがある。
私は、白淵族の一員だ。
どんな世界であろうと、それは変わらない。
だから。
(……まずは、怪我人を助けましょうか)
難しいことは、その後で考えよう。
私は、少しだけ歩調を速めた。
背中で、セイランが静かに言った。
「……頼むぞ、スイ」
(任せてください)
もちろん、声には出さない。
ただ、足元の石を踏みしめて、前へ進んだ。
山の向こうでは、まだ誰かが助けを待っている。
そして私は、このとき初めて。
楊端和という山の王が、何を守ろうとしているのか。
その一端を、自分の目で確かめることになるのだった。