世の中には、得意なことと不得意なことがある。
私は泳ぐのが得意だ。
魚を捕るのも得意だし、重い荷物を運ぶのも得意。
ついでに言えば、美形を見つけるのも得意である。
一方、不得意なこともある。
例えば、高いところ。
正確には、高いところそのものが怖いわけではない。
問題は、足場が狭いことだ。
何しろ、私は全長九メートル。
尻尾まで含めれば、人間が歩く道など少々窮屈なのである。
そして今。
私の目の前には、まさにその窮屈な道が広がっていた。
(……聞いてない)
いや、聞いてはいた。
崖道だと。
細い道だと。
でも、ここまでとは思わなかった。
「……厄介だな」
セイランが呟いた。
(本当にね)
私は崖の下を覗き込んだ。
かなり深い。
しかも、下には大きな岩が転がっている。
落ちたら痛い。
鱗が硬くても、さすがに痛い。
私はそっと首を引っ込めた。
◇◇◇
北の崖道に到着したのは、日が傾き始めた頃だった。
楊端和の集落を出てから、私たちは山道を進み続けていた。
先頭にはバジオウ。
その後ろに、私とセイラン、レン。
さらに、ハクたちが乗る二頭の闘蛇が続く。
黒角族の案内役も同行している。
途中からは、救援に向かう山の民の戦士たちが合流した。
彼らは皆、足が速い。
岩場を飛び越え、斜面を駆け上がる。
まるで山そのものが身体の一部であるかのように動く。
(……すごいなぁ)
映画で観たときも思ったけれど、実際に見ると本当にすごい。
あんな場所を、よく走れるものだ。
私は四本脚なので、それなりに安定している。
でも、二本脚であれをやれと言われたら絶対に無理だ。
……まあ。
今は四本脚でよかった。
心からそう思う。
◇◇◇
「ここから先だ」
バジオウが足を止めた。
目の前の山道は、途中で大きく崩れていた。
本来は岩壁に沿って続いていたらしい。
だが、その一部が崩れ落ち、細い足場だけが残っている。
向こう側には、負傷した山の民たちが集まっていた。
数は十人ほど。
そのうち数人は、自力で立てないようだった。
(……ああ)
これは大変だ。
私たちに気づいた戦士が、向こう側から叫んだ。
「助けが来たぞ!」
「負傷者をこちらへ運べるか!」
「道が崩れている! 担いでは通れん!」
バジオウが崩れた道を見た。
「……確かに、人を担いで渡るには危険だな」
セイランも地形を確かめている。
「下に降りる道は?」
「あるにはあるが、遠回りだ。夜までに戻れるか分からん」
「……そうか」
セイランは私の背から降りた。
レンも続く。
そして、私の前脚のあたりにしゃがみ込んだ。
「スイ、少し待っていろ」
私はその場に伏せた。
(……了解)
こういうとき、勝手に動かないのが一番だ。
◇◇◇
セイランとハクは、崩れた道の幅を調べ始めた。
闘蛇が通れるかどうか。
それが問題だった。
私たちは大きい。
身体も重い。
足場が崩れたら、いくら鱗が硬くてもどうにもならない。
しばらくして、セイランが戻ってきた。
「……無理だな」
(……ですよね)
私は内心で安心した。
無理なものは無理。
そこをちゃんと判断してくれるのが、うちの相棒の良いところだ。
ところが。
「だが、下からなら行けるかもしれない」
(……え?)
セイランは崖の下を指差した。
「谷底に水がある」
私は首を伸ばした。
確かに、崖の下には細い川が流れていた。
水量はそれほど多くない。
ただ、岩の間を縫うように流れている。
(……なるほど)
下から回るのか。
それなら、話は別だ。
水辺なら私の得意分野である。
◇◇◇
「谷底へ下りる道はあるのか」
バジオウが尋ねた。
黒角族の案内役が答えた。
「少し戻れば、獣が通れる斜面があります。ただし、かなり急です」
「どれほどだ」
「馬なら無理でしょう」
(……ほう)
馬なら無理。
いいですね。
そういう言葉、嫌いじゃない。
セイランは私を見た。
「スイなら、下りられるかもしれない」
レンが少し心配そうに言った。
「でも、足場が悪いんじゃ……」
「無理はさせない」
セイランはそう答えた。
私は、そっと前脚を伸ばした。
岩の感触を確かめる。
硬い。
滑りやすい場所もある。
でも、爪を立てれば踏ん張れそうだ。
(……まあ)
行けるかな。
私はゆっくりと立ち上がった。
セイランは私の動きを見て、短く言った。
「行こう」
◇◇◇
谷底へ下りる斜面は、想像以上に急だった。
ただし、崖道ほど狭くはない。
私は四本の脚を大きく開き、慎重に進んだ。
背中には誰も乗っていない。
セイランとレンは、少し離れて歩いている。
私が滑ったときに巻き込まれないためだ。
後ろから、二頭の闘蛇が続く。
(……ゆっくりね)
私は一歩ずつ足を運んだ。
前脚を置く。
体重をかける。
後ろ脚を動かす。
尻尾で身体のバランスを取る。
これを繰り返す。
普段は何も考えずに歩いているけれど、こういう場所では自分の身体の大きさを実感する。
(……長いな、私)
尻尾が。
非常に長い。
便利なことも多いけれど、狭い場所では気を遣う。
途中、大きな石が足元で動いた。
私は反射的に身体を低くした。
石が斜面を転がり落ちる。
カラカラと音を立て、谷底へ消えた。
(……怖っ)
私はしばらく動けなかった。
すると、上からバジオウの声がした。
「……今の動き」
彼は私を見下ろしていた。
「ただの獣にしては、随分と慎重だな」
(……いや)
そりゃ慎重にもなりますよ。
命がかかってますから。
セイランが答えた。
「こいつは、危険な場所では無理をしない」
「賢いな」
「そうだな」
……。
(……相棒)
何だか少し嬉しい。
私は再び足を動かした。
◇◇◇
谷底に着く頃には、すっかり身体が温まっていた。
目の前には、澄んだ川が流れている。
(……水!)
私は思わず足を速めた。
そして、そのまま川へ入った。
冷たい水が腹に触れる。
(……あああ)
最高。
生き返る。
私は少しだけ身体を沈めた。
すると、川底の小石が水流に押されて動いた。
魚の影も見える。
……。
(……魚)
いる。
魚がいる。
私は反射的に首を伸ばしかけた。
そのとき。
「スイ」
セイランの声がした。
(……あ)
はい。
仕事中でしたね。
私は何事もなかったように、川を渡り始めた。
後ろから、レンの笑い声が聞こえた。
「今、絶対に魚を捕ろうとしたよね」
……。
(……バレた)
さすがレン。
付き合いが長い。
◇◇◇
川沿いを進むと、崩れた崖道の向こう側へ出ることができた。
負傷者たちが、私たちを見て驚いた。
「……何だ、あの獣は」
「大きい……」
「人が乗るのか?」
私は静かに近づいた。
そのうちの一人が、後ずさった。
無理もない。
突然、九メートルの巨大な生き物が現れたのだから。
セイランが前に出た。
「怪我人を運ぶために来た」
「……その獣で?」
「そうだ」
負傷者たちは顔を見合わせた。
当然だろう。
見たこともない生き物の背に乗れと言われたら、私だって嫌だ。
……いや。
私は乗せる側だけれど。
◇◇◇
最初に運ぶことになったのは、脚を折った若い戦士だった。
自力では立てない。
仲間に肩を貸され、ようやく移動している状態だった。
レンが私の背に敷物を固定する。
その上に、負傷者を横たえられるようにした。
「揺れを少なくするために、身体を固定します」
レンが説明した。
白淵族では、怪我人を運ぶときにも闘蛇を使う。
だから、こういう準備には慣れている。
私はその間、地面に伏せていた。
若い戦士は、私の牙を見て顔を青くした。
「……食われないか?」
(……食べませんよ)
人間は食べません。
魚の方が好きです。
レンが笑った。
「大丈夫です。人を襲ったことはありませんから」
「……本当か?」
「はい」
……。
(……レン)
もう少し自信を持って言ってくれてもいいんですよ?
まあ、実際に人を襲ったことはないので、嘘ではない。
若い戦士は、恐る恐る私の背に乗せられた。
そして。
「……温かい」
小さく呟いた。
(……そりゃまあ)
生き物ですから。
私は心の中で答えた。
◇◇◇
三頭の闘蛇に、それぞれ負傷者を乗せた。
一度に全員は運べない。
何度か往復する必要がある。
ただし、問題が一つあった。
負傷者を乗せた状態で、あの急斜面を登らなければならない。
セイランは地形を見上げた。
「……登りは、下りより難しい」
ハクが答えた。
「荷が増えるからな」
「無理なら、別の道を探す」
二人は慎重に相談していた。
私は、そっと斜面を見た。
確かに急だ。
でも、足場は先ほど確認した。
どこに大きな岩があるか。
どこが滑りやすいか。
ある程度は覚えている。
(……行けるかな)
私は一歩踏み出した。
セイランがすぐに横へ来た。
「スイ」
私は立ち止まった。
彼は斜面を見上げ、それから私を見た。
「ゆっくりでいい」
……。
(……うん)
分かってる。
私は慎重に歩き始めた。
◇◇◇
最初の数歩は、順調だった。
前脚を岩にかける。
後ろ脚で身体を押し上げる。
尻尾でバランスを取る。
背中の負傷者が、時折小さく呻く。
私はできるだけ身体を揺らさないように進んだ。
ところが、斜面の中ほどで。
ガラッ。
足元の石が崩れた。
(……っ!)
私は反射的に前脚を踏ん張った。
身体が横へ傾く。
背中の負傷者が悲鳴を上げた。
「うわっ!」
「スイ!」
レンの声が響く。
私は必死に爪を岩へ立てた。
硬い鱗が、岩肌に擦れる。
ガリガリと嫌な音がした。
(……痛っ!)
いや。
痛いというより。
ものすごく不快!
身体の表面を削られるような感覚。
だが、鱗に傷はついていない。
私は身体を低くして、重心を戻した。
ようやく、足元が安定する。
(……ふう)
危なかった。
本当に危なかった。
セイランがすぐに近づいた。
「スイ、怪我は?」
私は動かずにいた。
セイランが前脚と腹の鱗を確かめる。
「……傷はないな」
(……はい)
でも、びっくりしました。
心臓に悪い。
非常に悪い。
バジオウが、少し離れた場所から見ていた。
「……岩に擦れても、傷一つつかんのか」
セイランが答えた。
「鱗は硬い」
「なるほど」
バジオウは興味深そうに私を見た。
「大したものだ」
……。
(……いや)
褒められても。
今はそれどころではない。
私は慎重に、再び足を動かした。
◇◇◇
斜面を登りきったとき、周囲から安堵の声が上がった。
負傷者は無事だった。
レンがすぐに固定具を外し、戦士たちが彼を運び下ろす。
「助かった……」
若い戦士が、小さく呟いた。
私はその声を聞きながら、地面に伏せた。
(……よかった)
本当に。
よかった。
セイランが私の首筋を軽く叩いた。
「よくやった」
……。
(……ふふん)
そうでしょう。
私は少しだけ、尻尾の先を動かした。
◇◇◇
その後も、私たちは何度か往復した。
負傷者を運び、荷を運び、再び谷底へ下りる。
さすがに疲れた。
私だけではない。
他の二頭の闘蛇も、動きが少し鈍くなっていた。
レンは途中で何度も水を飲ませ、休憩を取らせた。
セイランも無理に急がせることはしなかった。
その様子を、バジオウがじっと見ていた。
「……随分と大切に扱うのだな」
ハクが答えた。
「当然だ」
「戦に使う獣だろう?」
「それだけじゃない」
ハクは、闘蛇の首筋を撫でた。
「こいつらは、俺たちの暮らしを支えている」
バジオウは黙って聞いていた。
「狩りにも行く。荷も運ぶ。怪我人も助ける」
ハクは続けた。
「それに、簡単に増えるものでもない」
「……繁殖が難しいのか」
「ああ」
ハクは短く答えた。
「だから、無駄に死なせるようなことはしない」
(……うん)
そう。
そうなんです。
我が一族は、闘蛇を大切にしてくれる。
だから私も、白淵族が好きなのだ。
◇◇◇
日が暮れる頃、最後の負傷者が運び出された。
全員が無事に戻れたわけではない。
崩れた道の下で、すでに息絶えていた者もいた。
救助に来た戦士たちは、その亡骸を静かに運んだ。
私は少し離れた場所で、それを見ていた。
(……そうだよね)
助けられない人もいる。
それが、現実なのだ。
前世で映画を観ていたとき、私は戦の場面に興奮していた。
強い武将が敵を倒す。
大軍がぶつかり合う。
勝利の声が響く。
それは、確かに格好よかった。
でも。
その裏には、こういう人たちがいる。
怪我をした人。
帰れなくなった人。
待っている家族。
私は、静かに目を伏せた。
◇◇◇
帰り道。
バジオウがセイランに声をかけた。
「……白淵族は、面白い一族だな」
「そうか」
「ああ」
バジオウは私たちを見た。
「これほど強い獣を持ちながら、戦以外にも使う」
セイランは少しだけ笑った。
「戦うために育てているわけじゃない」
「……なるほど」
バジオウは、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「楊端和様も、気に入るだろう」
(……おや)
それは。
なかなか嬉しい評価ですね。
私は少しだけ顔を上げた。
ただし。
気に入ってもらえたからといって、すぐに仲間になるわけではない。
そこは、我が一族の族長が決めることだ。
私はただの闘蛇。
……いや。
白淵族の一員ではあるけれど。
政治的な判断までは、さすがに担当外である。
◇◇◇
夜。
私たちは、楊端和の集落へ戻った。
広場には、救助された負傷者たちが運ばれていく。
その様子を、楊端和が見守っていた。
バジオウが報告する。
「負傷者は、可能な限り連れ戻しました」
「ご苦労だった」
楊端和は静かに頷いた。
そして、セイランたちを見た。
「白淵族にも、礼を言う」
「必要なことをしただけだ」
セイランが答えた。
楊端和は、少しだけ笑ったようだった。
「その必要なことを、誰もができるわけではない」
……。
(……おお)
何だか、いいこと言う。
私は少し感心した。
そのとき、楊端和の視線が私へ向いた。
「スイ」
(……はい?)
私は心の中で返事をした。
もちろん、実際には何も反応しない。
楊端和は、私を見つめたまま言った。
「お前にも、礼を言おう」
……。
(……あ)
私は少し驚いた。
獣としてではなく。
道具としてでもなく。
私自身に、礼を言ってくれた。
何だか、それが嬉しかった。
私はゆっくりと身体を伏せた。
ただ疲れていただけかもしれない。
でも。
少なくとも、私の中では。
それが、山の王への小さな挨拶だった。
◇◇◇
その夜。
レンが持ってきてくれた魚を食べながら、私は考えていた。
キングダム。
楊端和。
バジオウ。
秦。
そして、これから起こるであろう戦。
前世で観た映画の世界に、私はいる。
それは間違いない。
でも、私は映画の主人公ではない。
信でもない。
嬴政でもない。
ましてや、王騎将軍でもない。
私は、白淵族のスイだ。
魚が好きで。
美形が好きで。
平和な暮らしが好きな、ただの闘蛇。
……。
(……まあ)
ただの闘蛇にしては、少し大きいけれど。
私は魚を一匹、丸呑みにした。
美味しい。
非常に美味しい。
やっぱり、魚は最高だ。
すると、隣に座っていたレンが笑った。
「スイ、今日は頑張ったね」
セイランも、少し離れた場所で頷いた。
「……ああ」
(……ふふん)
そうでしょう。
もっと褒めてもいいんですよ?
私は満足して、身体を丸めた。
そのとき。
遠くから、楊端和の声が聞こえた。
「……白淵族について、もう少し知りたい」
誰かと話しているらしい。
「特に、あの獣たちとの関わり方をな」
私は、ゆっくりと目を閉じた。
(……そうですか)
それなら、ぜひ。
我が一族のことを、知っていただきたい。
顔が良くて。
優しくて。
少し変わっていて。
そして、何より。
闘蛇と共に生きている、山の民の一族を。
私は、静かに眠りへ落ちていった。