秦の山奥で闘蛇やってます   作:欄外

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第二十一話 山の王が欲しいもの

 

朝から、非常に困ったことになっている。

 

魚がない。

 

いや、正確には、魚が少ない。

 

目の前には、昨夜の残りが三匹ほど置かれている。

 

普通の人間なら、三匹もあれば十分かもしれない。

 

しかし、私は全長九メートルの闘蛇である。

 

三匹。

 

……。

 

(おやつですね)

 

朝食には、少々物足りない。

 

私は目の前の魚を眺めた。

 

レンが困ったように笑っている。

 

「ごめんね、スイ。この辺りでは、あまり魚が捕れないみたいなんだ」

 

(……なんと)

 

由々しき事態である。

 

白淵族の集落なら、川に行けば魚がいる。

 

レンやトウエンが用意してくれることもあるし、自分で捕ることもできる。

 

しかし、ここは山の王の集落。

 

川はあるが、私の故郷ほど魚が豊富ではないらしい。

 

「昨日はたくさん動いたから、お腹すいたよね」

 

レンが私の鼻先を撫でた。

 

(……分かってくれるのは、君だけだよ)

 

私はありがたく魚を食べた。

 

三匹。

 

あっという間である。

 

……。

 

(……足りない)

 

私は空になった籠を見つめた。

 

レンは、その視線に気づいたらしい。

 

「あとで何か探してくるよ」

 

(……お願いします)

 

心の底から。

 

◇◇◇

 

私たちが休んでいたのは、集落の端にある広い岩場だった。

 

闘蛇三頭が身体を休められるよう、楊端和の配下が場所を空けてくれたのだ。

 

近くには水場もある。

 

なかなか快適である。

 

ただし、落ち着かないことが一つ。

 

見物人が多い。

 

「……本当に人を乗せるんだな」

 

「昨日、怪我人を運んだらしいぞ」

 

「鱗が岩に擦れても、傷がつかなかったそうだ」

 

「そんな獣がいるのか……」

 

(……いますとも)

 

ここに。

 

私は日当たりのよい場所に伏せたまま、話を聞いていた。

 

周囲に集まっているのは、仮面を着けた山の民たちだ。

 

腰に獣皮を巻き、上半身を露わにした戦士が多い。

 

中には、昨日救助した負傷者の仲間もいた。

 

彼らは私たちを遠巻きに眺めている。

 

触ろうとする者はいない。

 

賢明な判断である。

 

見知らぬ巨大生物に、いきなり触るべきではない。

 

私だって、知らない人に突然撫でられたら驚く。

 

……まあ。

 

美形なら、少し考えるけれど。

 

◇◇◇

 

「随分と人気者だな」

 

声がした。

 

顔を上げると、バジオウが立っていた。

 

今日も仮面を着けている。

 

腰には獣皮。

 

上半身は、相変わらず見事な筋肉である。

 

(……おはようございます)

 

私は心の中で挨拶した。

 

バジオウは私の横を通り、セイランへ近づいた。

 

「楊端和様がお呼びだ」

 

「分かった」

 

セイランが立ち上がる。

 

ハクも、少し離れた場所から歩いてきた。

 

「俺も行く」

 

「ああ」

 

二人はバジオウについて歩き出した。

 

……。

 

(……え?)

 

私は顔を上げた。

 

ちょっと待って。

 

また置いていくの?

 

私はゆっくりと身体を起こした。

 

レンが慌てて近づいてきた。

 

「スイ?」

 

私はセイランたちの背中を見つめた。

 

昨日は、あんなに大変な思いをして怪我人を運んだのである。

 

その結果、山の王が私たちに興味を持った。

 

ならば。

 

私も話を聞く権利があるのでは?

 

……。

 

(……いや)

 

権利があるかどうかは分からないけれど。

 

少なくとも、興味はある。

 

私は一歩踏み出した。

 

「スイ」

 

セイランが振り返った。

 

私は足を止めた。

 

彼は私を見つめ、少しだけ眉を動かした。

 

「……来たいのか」

 

(……もちろん)

 

私は何も答えず、ただその場に立っていた。

 

セイランは短く息を吐いた。

 

「バジオウ」

 

「何だ」

 

「こいつも連れていっていいか」

 

バジオウは私を見上げた。

 

そして、少し笑った。

 

「……好きにしろ」

 

(……おお)

 

話が早い。

 

素晴らしい。

 

レンも一緒に来ることになり、私たちは再び中庭へ向かった。

 

◇◇◇

 

楊端和は、昨日と同じ場所にいた。

 

一段高い場所に座り、数人の戦士と話している。

 

私たちが入ると、静かに顔を上げた。

 

「来たか」

 

セイランが前へ出る。

 

「何の用だ」

 

相変わらず、遠慮のない物言いである。

 

私は少しだけ心配になった。

 

相手は山の王ですよ?

 

もう少し、こう。

 

丁寧にしてもいいのでは?

 

……いや。

 

セイランが誰にでもこんな感じなのは、今に始まったことではない。

 

楊端和は気にした様子もなく言った。

 

「昨日の働きについて、改めて礼を言いたい」

 

「礼なら、もう受けた」

 

「それだけではない」

 

楊端和は私たちを見渡した。

 

「白淵族について、話を聞きたい」

 

◇◇◇

 

最初に尋ねられたのは、闘蛇のことだった。

 

「どれほどの数を育てている」

 

「多くはない」

 

セイランが答えた。

 

「繁殖が難しい。育てるにも時間がかかる」

 

「何年ほどで人を乗せられる」

 

「個体による」

 

ハクが補足した。

 

「幼い頃から人に慣らしても、騎乗に向かないものもいる」

 

(……そうそう)

 

私たちにも、個性がありますからね。

 

闘蛇なら誰でも人を乗せられるわけではない。

 

気性が荒い子もいる。

 

臆病な子もいる。

 

水に入るのが好きな子もいれば、日向ぼっこばかりしている子もいる。

 

……最後の子は、私と気が合いそうだ。

 

「なるほど」

 

楊端和は興味深そうに聞いていた。

 

「では、他の部族が闘蛇を手に入れたとしても、すぐに乗りこなせるわけではないのだな」

 

「無理だろう」

 

セイランが答えた。

 

「育て方を知らなければ、人も獣も死ぬ」

 

その言葉に、楊端和は静かに頷いた。

 

「よく分かった」

 

(……おお)

 

意外とあっさり。

 

もっと、闘蛇を貸してくれとか、増やせないのかとか、聞かれると思っていた。

 

だが、楊端和はそれ以上、闘蛇の数について追及しなかった。

 

◇◇◇

 

「では、白淵族は何を望む」

 

楊端和が尋ねた。

 

セイランは少し考えた。

 

「今の暮らしを守ることだ」

 

「それだけか」

 

「それが一番難しい」

 

……。

 

(……相棒)

 

良いこと言う。

 

私は心の中で拍手した。

 

セイランは続けた。

 

「山の外で何が起きようと、俺たちの集落には子供がいる。年寄りもいる。狩りをし、魚を捕り、獣を育てて暮らしている」

 

楊端和は黙って聞いていた。

 

「その暮らしを壊してまで、戦に加わるつもりはない」

 

中庭が静かになった。

 

ハクが、わずかにセイランを見た。

 

彼は以前から、楊端和の勢力と関係を築くことに前向きだった。

 

だから、少し複雑な気持ちなのかもしれない。

 

けれど、セイランの言葉を否定することはなかった。

 

楊端和は、しばらく考えていた。

 

そして。

 

「……よい」

 

静かに言った。

 

「無理に加われとは言わぬ」

 

(……おお)

 

私は少し驚いた。

 

もっと強く誘われるかと思っていた。

 

「ただし、一つ頼みがある」

 

……。

 

(……あ)

 

来ましたね。

 

本題。

 

◇◇◇

 

「白淵族の領地を通る道についてだ」

 

楊端和が言った。

 

「我らは、山界の西と東を結ぶ道を確保したい」

 

セイランの表情が変わった。

 

「軍を通すつもりか」

 

「必要があれば」

 

「どれほどの数だ」

 

「時と場合による」

 

(……うーん)

 

これは、なかなか難しい話だ。

 

白淵族の集落は、山奥にある。

 

外からの侵入者は少ない。

 

だからこそ、平和に暮らせている。

 

そこへ、何百人、何千人という戦士が通るようになったら。

 

……。

 

(……嫌だなぁ)

 

正直、嫌だ。

 

私は静かに二人を見つめた。

 

セイランも同じことを考えているのだろう。

 

「集落の近くは通さない」

 

即答だった。

 

楊端和は、少しも驚かなかった。

 

「理由は?」

 

「一族の暮らしを守るためだ」

 

「なるほど」

 

「それに、闘蛇の繁殖地もある」

 

(……そう!)

 

それ、大事!

 

非常に大事!

 

卵を産む場所に、大勢の人間が押し寄せたら大変である。

 

闘蛇は、ただでさえ繁殖が難しい。

 

静かな場所が必要なのだ。

 

楊端和は、少し考えた。

 

「ならば、別の道を探す」

 

……。

 

(……え?)

 

私は少し驚いた。

 

そんなに簡単に?

 

「白淵族が守るべき場所を、我らが踏み荒らすつもりはない」

 

楊端和は続けた。

 

「ただし、通行を認められる道があるなら、教えてほしい」

 

セイランは答えなかった。

 

しばらく考えている。

 

やがて、ハクが口を開いた。

 

「……南の古道なら、通れるかもしれない」

 

(……あ)

 

あそこか。

 

黒角族との交易に使い始めた道だ。

 

集落からは離れている。

 

ただし、道幅は狭い。

 

大軍が一度に通るには向かない。

 

「だが、あの道は黒角族とも関わりがある」

 

ハクが続けた。

 

「俺たちだけでは決められない」

 

「当然だ」

 

楊端和は頷いた。

 

「黒角族にも話を通そう」

 

……。

 

(……ふむ)

 

なるほど。

 

勝手に通るのではなく、話し合う。

 

少なくとも、今のところは。

 

私は少し安心した。

 

◇◇◇

 

その後も、話し合いは続いた。

 

白淵族の領地。

 

黒角族との交易。

 

山道の安全。

 

互いの集落に立ち入る際の決まり。

 

私は途中から、少し眠くなってきた。

 

……。

 

(……難しい)

 

政治って、難しいですね。

 

私はただ、魚を食べて暮らしたいだけなのに。

 

それを守るためには、こんなにたくさんのことを考えなければならないらしい。

 

前世でも、似たようなことを思った気がする。

 

平和な暮らしというのは、何もしなくても続くものではない。

 

誰かが話し合い、決め、守っている。

 

白淵族の族長も、きっとそうなのだろう。

 

私は少しだけ、故郷が恋しくなった。

 

◇◇◇

 

「一つ、確認したい」

 

セイランが言った。

 

楊端和が顔を上げる。

 

「何だ」

 

「お前たちが、白淵族の道を通るとする」

 

「ああ」

 

「その途中で、別の部族と争いになったらどうする」

 

楊端和は、少し考えた。

 

「我らが引き起こした争いなら、我らが責任を負う」

 

「白淵族に助けを求めることは?」

 

「必要ならば、頼むことはあるだろう」

 

セイランは黙っていた。

 

「だが、強制はせぬ」

 

楊端和は続けた。

 

「助けるかどうかは、お前たちが決めればよい」

 

……。

 

(……おお)

 

それなら。

 

少しは安心できる。

 

セイランも、わずかに表情を緩めた。

 

「分かった」

 

楊端和は、静かに言った。

 

「では、族長に伝えてくれ」

 

「何を」

 

「我らは、白淵族と争うつもりはない」

 

そして。

 

「できることなら、友として付き合いたいとな」

 

◇◇◇

 

話し合いが終わる頃には、日が高くなっていた。

 

私は中庭を出て、大きく身体を伸ばした。

 

(……ふう)

 

疲れた。

 

昨日は身体が疲れたけれど、今日は頭が疲れた。

 

いや、ほとんど聞いていただけなんだけど。

 

それでも、なかなか大変だった。

 

レンが私の横に来た。

 

「スイ、お腹すいた?」

 

(……もちろん)

 

私は鼻先を、空になった籠へ向けた。

 

レンが笑った。

 

「やっぱりね」

 

……。

 

(……レン)

 

君は、本当によく分かっている。

 

私は嬉しくなった。

 

◇◇◇

 

その日の夕方。

 

私たちは、翌朝に白淵族の集落へ戻ることを決めた。

 

セイランとハクは、族長に報告する内容を整理している。

 

レンは、帰り道のために食料を用意していた。

 

私は、少し離れた場所で身体を休めていた。

 

すると、バジオウが近づいてきた。

 

「明日、帰るそうだな」

 

セイランが答えた。

 

「ああ」

 

「楊端和様は、お前たちを気に入ったようだ」

 

「そうか」

 

「特に、あの獣をな」

 

バジオウは私を見た。

 

(……おや)

 

私ですか。

 

光栄です。

 

「だが、気に入ったからといって、無理に連れていこうとはなさらん」

 

セイランは、少しだけ笑った。

 

「それなら助かる」

 

バジオウも笑った。

 

「また会おう」

 

「……ああ」

 

私は、そのやり取りを聞いていた。

 

また会う。

 

その言葉が、妙に心に残った。

 

◇◇◇

 

夜。

 

私はレンの隣で、静かに身体を丸めていた。

 

遠くでは、山の民たちの声が聞こえる。

 

火が燃える音。

 

武器を手入れする音。

 

誰かが笑う声。

 

白淵族の集落とは、違う夜だった。

 

でも、不思議と嫌ではなかった。

 

(……楊端和)

 

私は、今日の話を思い出した。

 

山の民をまとめる王。

 

争いを終わらせようとしている人。

 

そして、白淵族と友になりたいと言ってくれた人。

 

前世で映画を観たとき、私は彼女を格好いいと思った。

 

今日、実際に話を聞いて。

 

少しだけ、その理由が分かった気がする。

 

ただ強いからではない。

 

強いだけなら、他にもいる。

 

彼女は、違う部族の人間を、同じ山の民として見ている。

 

……。

 

(……いい人かもしれない)

 

もちろん。

 

まだ、分からないけれど。

 

私はゆっくりと目を閉じた。

 

明日は、故郷へ帰る。

 

我が一族の美形たち。

 

優しい族長。

 

トウエン。

 

そして、いつもの川。

 

(……ああ)

 

早く帰りたい。

 

魚がたくさんいる、あの川へ。

 

私は満足して、眠りに落ちた。

 

山の王との出会いが、これから白淵族に何をもたらすのか。

 

それは、まだ誰にも分からなかった。

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