朝から、非常に困ったことになっている。
魚がない。
いや、正確には、魚が少ない。
目の前には、昨夜の残りが三匹ほど置かれている。
普通の人間なら、三匹もあれば十分かもしれない。
しかし、私は全長九メートルの闘蛇である。
三匹。
……。
(おやつですね)
朝食には、少々物足りない。
私は目の前の魚を眺めた。
レンが困ったように笑っている。
「ごめんね、スイ。この辺りでは、あまり魚が捕れないみたいなんだ」
(……なんと)
由々しき事態である。
白淵族の集落なら、川に行けば魚がいる。
レンやトウエンが用意してくれることもあるし、自分で捕ることもできる。
しかし、ここは山の王の集落。
川はあるが、私の故郷ほど魚が豊富ではないらしい。
「昨日はたくさん動いたから、お腹すいたよね」
レンが私の鼻先を撫でた。
(……分かってくれるのは、君だけだよ)
私はありがたく魚を食べた。
三匹。
あっという間である。
……。
(……足りない)
私は空になった籠を見つめた。
レンは、その視線に気づいたらしい。
「あとで何か探してくるよ」
(……お願いします)
心の底から。
◇◇◇
私たちが休んでいたのは、集落の端にある広い岩場だった。
闘蛇三頭が身体を休められるよう、楊端和の配下が場所を空けてくれたのだ。
近くには水場もある。
なかなか快適である。
ただし、落ち着かないことが一つ。
見物人が多い。
「……本当に人を乗せるんだな」
「昨日、怪我人を運んだらしいぞ」
「鱗が岩に擦れても、傷がつかなかったそうだ」
「そんな獣がいるのか……」
(……いますとも)
ここに。
私は日当たりのよい場所に伏せたまま、話を聞いていた。
周囲に集まっているのは、仮面を着けた山の民たちだ。
腰に獣皮を巻き、上半身を露わにした戦士が多い。
中には、昨日救助した負傷者の仲間もいた。
彼らは私たちを遠巻きに眺めている。
触ろうとする者はいない。
賢明な判断である。
見知らぬ巨大生物に、いきなり触るべきではない。
私だって、知らない人に突然撫でられたら驚く。
……まあ。
美形なら、少し考えるけれど。
◇◇◇
「随分と人気者だな」
声がした。
顔を上げると、バジオウが立っていた。
今日も仮面を着けている。
腰には獣皮。
上半身は、相変わらず見事な筋肉である。
(……おはようございます)
私は心の中で挨拶した。
バジオウは私の横を通り、セイランへ近づいた。
「楊端和様がお呼びだ」
「分かった」
セイランが立ち上がる。
ハクも、少し離れた場所から歩いてきた。
「俺も行く」
「ああ」
二人はバジオウについて歩き出した。
……。
(……え?)
私は顔を上げた。
ちょっと待って。
また置いていくの?
私はゆっくりと身体を起こした。
レンが慌てて近づいてきた。
「スイ?」
私はセイランたちの背中を見つめた。
昨日は、あんなに大変な思いをして怪我人を運んだのである。
その結果、山の王が私たちに興味を持った。
ならば。
私も話を聞く権利があるのでは?
……。
(……いや)
権利があるかどうかは分からないけれど。
少なくとも、興味はある。
私は一歩踏み出した。
「スイ」
セイランが振り返った。
私は足を止めた。
彼は私を見つめ、少しだけ眉を動かした。
「……来たいのか」
(……もちろん)
私は何も答えず、ただその場に立っていた。
セイランは短く息を吐いた。
「バジオウ」
「何だ」
「こいつも連れていっていいか」
バジオウは私を見上げた。
そして、少し笑った。
「……好きにしろ」
(……おお)
話が早い。
素晴らしい。
レンも一緒に来ることになり、私たちは再び中庭へ向かった。
◇◇◇
楊端和は、昨日と同じ場所にいた。
一段高い場所に座り、数人の戦士と話している。
私たちが入ると、静かに顔を上げた。
「来たか」
セイランが前へ出る。
「何の用だ」
相変わらず、遠慮のない物言いである。
私は少しだけ心配になった。
相手は山の王ですよ?
もう少し、こう。
丁寧にしてもいいのでは?
……いや。
セイランが誰にでもこんな感じなのは、今に始まったことではない。
楊端和は気にした様子もなく言った。
「昨日の働きについて、改めて礼を言いたい」
「礼なら、もう受けた」
「それだけではない」
楊端和は私たちを見渡した。
「白淵族について、話を聞きたい」
◇◇◇
最初に尋ねられたのは、闘蛇のことだった。
「どれほどの数を育てている」
「多くはない」
セイランが答えた。
「繁殖が難しい。育てるにも時間がかかる」
「何年ほどで人を乗せられる」
「個体による」
ハクが補足した。
「幼い頃から人に慣らしても、騎乗に向かないものもいる」
(……そうそう)
私たちにも、個性がありますからね。
闘蛇なら誰でも人を乗せられるわけではない。
気性が荒い子もいる。
臆病な子もいる。
水に入るのが好きな子もいれば、日向ぼっこばかりしている子もいる。
……最後の子は、私と気が合いそうだ。
「なるほど」
楊端和は興味深そうに聞いていた。
「では、他の部族が闘蛇を手に入れたとしても、すぐに乗りこなせるわけではないのだな」
「無理だろう」
セイランが答えた。
「育て方を知らなければ、人も獣も死ぬ」
その言葉に、楊端和は静かに頷いた。
「よく分かった」
(……おお)
意外とあっさり。
もっと、闘蛇を貸してくれとか、増やせないのかとか、聞かれると思っていた。
だが、楊端和はそれ以上、闘蛇の数について追及しなかった。
◇◇◇
「では、白淵族は何を望む」
楊端和が尋ねた。
セイランは少し考えた。
「今の暮らしを守ることだ」
「それだけか」
「それが一番難しい」
……。
(……相棒)
良いこと言う。
私は心の中で拍手した。
セイランは続けた。
「山の外で何が起きようと、俺たちの集落には子供がいる。年寄りもいる。狩りをし、魚を捕り、獣を育てて暮らしている」
楊端和は黙って聞いていた。
「その暮らしを壊してまで、戦に加わるつもりはない」
中庭が静かになった。
ハクが、わずかにセイランを見た。
彼は以前から、楊端和の勢力と関係を築くことに前向きだった。
だから、少し複雑な気持ちなのかもしれない。
けれど、セイランの言葉を否定することはなかった。
楊端和は、しばらく考えていた。
そして。
「……よい」
静かに言った。
「無理に加われとは言わぬ」
(……おお)
私は少し驚いた。
もっと強く誘われるかと思っていた。
「ただし、一つ頼みがある」
……。
(……あ)
来ましたね。
本題。
◇◇◇
「白淵族の領地を通る道についてだ」
楊端和が言った。
「我らは、山界の西と東を結ぶ道を確保したい」
セイランの表情が変わった。
「軍を通すつもりか」
「必要があれば」
「どれほどの数だ」
「時と場合による」
(……うーん)
これは、なかなか難しい話だ。
白淵族の集落は、山奥にある。
外からの侵入者は少ない。
だからこそ、平和に暮らせている。
そこへ、何百人、何千人という戦士が通るようになったら。
……。
(……嫌だなぁ)
正直、嫌だ。
私は静かに二人を見つめた。
セイランも同じことを考えているのだろう。
「集落の近くは通さない」
即答だった。
楊端和は、少しも驚かなかった。
「理由は?」
「一族の暮らしを守るためだ」
「なるほど」
「それに、闘蛇の繁殖地もある」
(……そう!)
それ、大事!
非常に大事!
卵を産む場所に、大勢の人間が押し寄せたら大変である。
闘蛇は、ただでさえ繁殖が難しい。
静かな場所が必要なのだ。
楊端和は、少し考えた。
「ならば、別の道を探す」
……。
(……え?)
私は少し驚いた。
そんなに簡単に?
「白淵族が守るべき場所を、我らが踏み荒らすつもりはない」
楊端和は続けた。
「ただし、通行を認められる道があるなら、教えてほしい」
セイランは答えなかった。
しばらく考えている。
やがて、ハクが口を開いた。
「……南の古道なら、通れるかもしれない」
(……あ)
あそこか。
黒角族との交易に使い始めた道だ。
集落からは離れている。
ただし、道幅は狭い。
大軍が一度に通るには向かない。
「だが、あの道は黒角族とも関わりがある」
ハクが続けた。
「俺たちだけでは決められない」
「当然だ」
楊端和は頷いた。
「黒角族にも話を通そう」
……。
(……ふむ)
なるほど。
勝手に通るのではなく、話し合う。
少なくとも、今のところは。
私は少し安心した。
◇◇◇
その後も、話し合いは続いた。
白淵族の領地。
黒角族との交易。
山道の安全。
互いの集落に立ち入る際の決まり。
私は途中から、少し眠くなってきた。
……。
(……難しい)
政治って、難しいですね。
私はただ、魚を食べて暮らしたいだけなのに。
それを守るためには、こんなにたくさんのことを考えなければならないらしい。
前世でも、似たようなことを思った気がする。
平和な暮らしというのは、何もしなくても続くものではない。
誰かが話し合い、決め、守っている。
白淵族の族長も、きっとそうなのだろう。
私は少しだけ、故郷が恋しくなった。
◇◇◇
「一つ、確認したい」
セイランが言った。
楊端和が顔を上げる。
「何だ」
「お前たちが、白淵族の道を通るとする」
「ああ」
「その途中で、別の部族と争いになったらどうする」
楊端和は、少し考えた。
「我らが引き起こした争いなら、我らが責任を負う」
「白淵族に助けを求めることは?」
「必要ならば、頼むことはあるだろう」
セイランは黙っていた。
「だが、強制はせぬ」
楊端和は続けた。
「助けるかどうかは、お前たちが決めればよい」
……。
(……おお)
それなら。
少しは安心できる。
セイランも、わずかに表情を緩めた。
「分かった」
楊端和は、静かに言った。
「では、族長に伝えてくれ」
「何を」
「我らは、白淵族と争うつもりはない」
そして。
「できることなら、友として付き合いたいとな」
◇◇◇
話し合いが終わる頃には、日が高くなっていた。
私は中庭を出て、大きく身体を伸ばした。
(……ふう)
疲れた。
昨日は身体が疲れたけれど、今日は頭が疲れた。
いや、ほとんど聞いていただけなんだけど。
それでも、なかなか大変だった。
レンが私の横に来た。
「スイ、お腹すいた?」
(……もちろん)
私は鼻先を、空になった籠へ向けた。
レンが笑った。
「やっぱりね」
……。
(……レン)
君は、本当によく分かっている。
私は嬉しくなった。
◇◇◇
その日の夕方。
私たちは、翌朝に白淵族の集落へ戻ることを決めた。
セイランとハクは、族長に報告する内容を整理している。
レンは、帰り道のために食料を用意していた。
私は、少し離れた場所で身体を休めていた。
すると、バジオウが近づいてきた。
「明日、帰るそうだな」
セイランが答えた。
「ああ」
「楊端和様は、お前たちを気に入ったようだ」
「そうか」
「特に、あの獣をな」
バジオウは私を見た。
(……おや)
私ですか。
光栄です。
「だが、気に入ったからといって、無理に連れていこうとはなさらん」
セイランは、少しだけ笑った。
「それなら助かる」
バジオウも笑った。
「また会おう」
「……ああ」
私は、そのやり取りを聞いていた。
また会う。
その言葉が、妙に心に残った。
◇◇◇
夜。
私はレンの隣で、静かに身体を丸めていた。
遠くでは、山の民たちの声が聞こえる。
火が燃える音。
武器を手入れする音。
誰かが笑う声。
白淵族の集落とは、違う夜だった。
でも、不思議と嫌ではなかった。
(……楊端和)
私は、今日の話を思い出した。
山の民をまとめる王。
争いを終わらせようとしている人。
そして、白淵族と友になりたいと言ってくれた人。
前世で映画を観たとき、私は彼女を格好いいと思った。
今日、実際に話を聞いて。
少しだけ、その理由が分かった気がする。
ただ強いからではない。
強いだけなら、他にもいる。
彼女は、違う部族の人間を、同じ山の民として見ている。
……。
(……いい人かもしれない)
もちろん。
まだ、分からないけれど。
私はゆっくりと目を閉じた。
明日は、故郷へ帰る。
我が一族の美形たち。
優しい族長。
トウエン。
そして、いつもの川。
(……ああ)
早く帰りたい。
魚がたくさんいる、あの川へ。
私は満足して、眠りに落ちた。
山の王との出会いが、これから白淵族に何をもたらすのか。
それは、まだ誰にも分からなかった。