故郷の匂いというものがある。
前世では、あまり意識したことがなかった。
旅行から帰ってきたときに、何となく安心する。
その程度だったと思う。
しかし、闘蛇になった今は違う。
湿った土。
川の水。
木々の葉。
そして、魚。
(……魚!!)
私は思わず歩調を速めた。
「スイ、まだ集落に着いてないよ」
背中からレンの声がした。
(分かってますとも)
でも、もうすぐだ。
風に混じって、懐かしい匂いがする。
ああ。
帰ってきた。
我が愛しの白淵族へ。
◇◇◇
集落へ戻ったのは、出発から数日後のことだった。
山道を抜け、湿地へ続く川が見えた瞬間、私は思わず喉を鳴らした。
「クルル……」
水辺にいた子供たちが、こちらに気づいた。
「あっ!」
「スイだ!」
「帰ってきた!」
(……ただいま!)
私はゆっくりと集落へ入った。
子供たちが駆け寄ってくる。
その後ろから、大人たちも姿を見せた。
「セイラン!」
「無事だったか!」
「ハクも戻ったぞ!」
あちこちから声が上がる。
私は少しだけ胸を張った。
(ふふん)
全員、無事に帰還しました。
もちろん。
私のおかげでもあります。
……まあ、道案内はほとんど人間がしてくれたけれど。
◇◇◇
「レン!」
聞き慣れた声が響いた。
トウエンだった。
レンの父親であり、白淵族の闘蛇を育てる責任者でもある。
彼は真っ先にレンへ近づき、肩を掴んだ。
「怪我はないか」
「うん、大丈夫」
「闘蛇たちは?」
「三頭とも無事だよ」
トウエンはようやく安心したように息を吐いた。
そして、私の方へ歩いてきた。
「……スイ」
(……お久しぶりです)
私は静かに伏せた。
トウエンは私の前脚や腹の鱗を確かめ始めた。
「傷は……ないな」
「崖道で岩に擦ったけど、大丈夫だった」
レンが説明する。
トウエンの手が止まった。
「崖道?」
「うん。怪我人を運ぶことになって」
「……詳しく聞こう」
(……あ)
レン。
怒られるかもしれませんね。
私はそっと目を逸らした。
◇◇◇
その日の夕方。
族長の家に、一族の主だった者たちが集まった。
セイラン。
ハク。
同行した戦士。
黒角族の案内役。
そして、レンとトウエン。
私も、建物の外にいた。
中には入れない。
身体が大きすぎるからだ。
ただし、入口は開いている。
声は十分に聞こえる。
(……ふむ)
本日の議題は、楊端和について。
私は地面に伏せ、耳を澄ませた。
◇◇◇
「……楊端和、か」
族長が静かに呟いた。
「山界をまとめようとしている王だそうだな」
セイランが答えた。
「ああ」
「どのような人物だった」
「強い」
(……うん)
それは間違いない。
「それだけか?」
族長が尋ねた。
セイランは少し考えた。
「……話が通じる」
(……おお)
相棒。
最大級の褒め言葉ですね。
セイランは、あまり人を褒めない。
ましてや、初対面の相手ならなおさらだ。
そのセイランが、話が通じると言った。
これは、かなりの高評価である。
「無理に従えとは言わなかった」
セイランは続けた。
「一族の暮らしを守ることを、否定しなかった」
族長は静かに頷いた。
「なるほど」
◇◇◇
「俺は、悪い話ではないと思います」
ハクが口を開いた。
(……お)
来ましたね。
積極派。
「楊端和の勢力は、すでに多くの部族をまとめています。今後、山界の争いが大きくなれば、俺たちも無関係ではいられません」
「それは分かっている」
族長が答えた。
「ならば、今のうちに関係を築いておくべきです」
ハクの声には、力があった。
「少なくとも、敵になる理由はありません」
(……うんうん)
それも分かる。
楊端和は、私たちに無理な要求をしなかった。
怪我人の救助にも感謝してくれた。
悪い人には見えなかった。
……ただし。
それだけで、すべてを信用していいかは別の話である。
◇◇◇
「……私は、慎重であるべきだと思う」
別の男が言った。
年配の戦士だった。
「楊端和が今は友好的でも、勢力が大きくなれば考えが変わるかもしれん」
(……ああ)
なるほど。
それも、もっともだ。
「道を通すことを認めれば、次は兵を置きたいと言うかもしれん。兵を置けば、いずれ集落に口を出すようになる」
「そこまで疑っていては、何もできません」
ハクが反論した。
「疑うのではない。備えるのだ」
年配の戦士は静かに答えた。
「我らには、守るべきものがある」
……。
(……うーん)
難しい。
本当に難しい。
私は思わず、前脚に顎を乗せた。
どちらの言い分も分かる。
ハクは、未来の危険に備えようとしている。
年配の戦士は、今ある暮らしを守ろうとしている。
目的は同じなのだ。
ただ、方法が違う。
◇◇◇
「……レンはどう思う」
族長が尋ねた。
(……おや)
レン?
私は少し驚いた。
彼は戦士ではない。
闘蛇の世話をしている若者だ。
こういう話し合いで意見を求められるのは、珍しい。
レンも少し驚いたようだった。
「僕ですか?」
「ああ。お前も、実際に見てきたのだろう」
少しの沈黙。
やがて、レンが口を開いた。
「……僕は、悪い人たちではないと思いました」
(……うん)
「怪我人を助けようとしていましたし、スイたちのことも大切に扱ってくれました」
(……おお)
そう。
そこ、大事。
非常に大事。
「でも……」
レンは少し言葉を探した。
「闘蛇を見たとき、戦に使えるかどうかを気にする人もいました」
(……あ)
私は耳を動かした。
確かに。
巨大な獣を見れば、戦力として考える人もいる。
それは仕方がない。
でも、白淵族にとって闘蛇は、ただの武器ではない。
レンは続けた。
「僕は、スイたちを戦のためだけに使うのは嫌です」
(……レン)
私は少しだけ、胸が温かくなった。
「だから、もし協力するなら、そこはちゃんと決めてほしいです」
族長は静かに頷いた。
「分かった」
◇◇◇
「……トウエン」
族長が呼んだ。
「お前はどう思う」
トウエンは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「闘蛇は、簡単には増やせません」
(……うん)
そうです。
「卵が産まれても、すべてが育つわけではない。育ったとしても、人を乗せられる個体ばかりではない」
トウエンの声は、いつもより重かった。
「一頭失えば、その穴を埋めるのに何年もかかります」
誰も口を挟まなかった。
「だから、戦に使うなら、何のために使うのかを明確にしてほしい」
(……おお)
さすが。
飼育責任者。
「ただし」
トウエンは続けた。
「一族を守るためなら、闘蛇の力を使うことを否定するつもりはありません」
……。
(……なるほど)
それも、白淵族らしい考え方だ。
闘蛇を大切にする。
でも、危険だからといって、何もさせないわけではない。
私たちは、一緒に暮らしているのだから。
◇◇◇
話し合いは、しばらく続いた。
楊端和の勢力。
南の古道。
黒角族との関係。
闘蛇の繁殖地。
私は途中から、少し眠くなってきた。
……。
(……政治って)
本当に大変ですね。
前世でも、会議が長いと眠くなったものだ。
まさか闘蛇になってまで、同じ経験をするとは思わなかった。
私は小さく欠伸をした。
そのとき。
「……セイラン」
族長の声が聞こえた。
私は耳を立てた。
「お前自身は、どうしたい」
少しの沈黙。
セイランは、静かに答えた。
「……道を通すことは、認めてもいいと思う」
(……おお)
意外。
私は少し驚いた。
「ただし、条件がある」
(……ですよね)
相棒ですもの。
「集落の近くは通さない。闘蛇の繁殖地にも近づけない」
「うむ」
「通る人数と目的は、事前に知らせる。武器を持った集団が、勝手に入ることは認めない」
族長は静かに聞いていた。
「それから」
セイランは少しだけ声を低くした。
「白淵族に、戦への参加を強制しないこと」
……。
(……うん)
それは、大事。
非常に大事。
族長は、しばらく考えていた。
そして、静かに言った。
「……よかろう」
◇◇◇
「楊端和には、南の古道の通行を条件付きで認める方向で返事を出そう」
(……おお)
決まった。
「ただし、黒角族の同意も必要だ。先方にも話を通す」
黒角族の案内役が、静かに頷いた。
「ガク様に伝えます」
族長は続けた。
「そして、白淵族は今すぐ楊端和の軍に加わることはしない」
(……うん)
それでいいと思う。
「友として付き合う道を探る。だが、我らの暮らしは我らで守る」
その言葉に、集まった者たちが頷いた。
私は、静かに目を閉じた。
(……よかった)
何だか、安心した。
もちろん、これですべてが解決したわけではない。
でも、少なくとも。
白淵族は、自分たちで未来を選ぼうとしている。
それが、何より嬉しかった。
◇◇◇
話し合いが終わった頃には、すっかり日が暮れていた。
レンが外へ出てきた。
「スイ、待たせたね」
(……お疲れさま)
私はゆっくりと身体を起こした。
レンは私の首筋を撫でた。
「難しい話だったね」
(……本当に)
私は心の中で同意した。
「でも、少し安心したよ」
レンは小さく笑った。
「スイたちが、無理に戦へ連れていかれることはなさそうだから」
……。
(……うん)
私も。
それが、一番嬉しい。
◇◇◇
その夜。
私は、いつもの川辺にいた。
水は冷たく、魚の気配がする。
空には星が広がっていた。
(……ああ)
帰ってきた。
本当に。
帰ってきたんだ。
私はゆっくりと水へ入った。
身体が沈む。
水が鱗の間を流れる。
心地よい。
私は少しだけ泳いだ。
そして、水面から顔を出した。
遠くには、白淵族の家々が見える。
灯りがともっている。
誰かの笑い声が聞こえる。
子供たちが走り回っている。
(……いいなぁ)
私は、心からそう思った。
この暮らしが好きだ。
セイランも。
レンも。
トウエンも。
族長も。
ハクも。
みんな、大切だ。
だからこそ。
(……守りたいな)
私は静かに思った。
もし、いつか。
この暮らしが脅かされることがあるなら。
そのときは。
私も、できることをしよう。
ただし。
(……できれば)
戦わずに済む方法がいい。
私は、ゆっくりと水の中へ潜った。
魚の影が見える。
(……おや)
美味しそう。
私は迷わず追いかけた。
難しいことは、明日考えよう。
今は。
我が愛しの故郷で。
思う存分、魚を食べることにした。