秦の山奥で闘蛇やってます   作:欄外

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第二十二話 守りたいものは同じでも

 

故郷の匂いというものがある。

 

前世では、あまり意識したことがなかった。

 

旅行から帰ってきたときに、何となく安心する。

 

その程度だったと思う。

 

しかし、闘蛇になった今は違う。

 

湿った土。

 

川の水。

 

木々の葉。

 

そして、魚。

 

(……魚!!)

 

私は思わず歩調を速めた。

 

「スイ、まだ集落に着いてないよ」

 

背中からレンの声がした。

 

(分かってますとも)

 

でも、もうすぐだ。

 

風に混じって、懐かしい匂いがする。

 

ああ。

 

帰ってきた。

 

我が愛しの白淵族へ。

 

◇◇◇

 

集落へ戻ったのは、出発から数日後のことだった。

 

山道を抜け、湿地へ続く川が見えた瞬間、私は思わず喉を鳴らした。

 

「クルル……」

 

水辺にいた子供たちが、こちらに気づいた。

 

「あっ!」

 

「スイだ!」

 

「帰ってきた!」

 

(……ただいま!)

 

私はゆっくりと集落へ入った。

 

子供たちが駆け寄ってくる。

 

その後ろから、大人たちも姿を見せた。

 

「セイラン!」

 

「無事だったか!」

 

「ハクも戻ったぞ!」

 

あちこちから声が上がる。

 

私は少しだけ胸を張った。

 

(ふふん)

 

全員、無事に帰還しました。

 

もちろん。

 

私のおかげでもあります。

 

……まあ、道案内はほとんど人間がしてくれたけれど。

 

◇◇◇

 

「レン!」

 

聞き慣れた声が響いた。

 

トウエンだった。

 

レンの父親であり、白淵族の闘蛇を育てる責任者でもある。

 

彼は真っ先にレンへ近づき、肩を掴んだ。

 

「怪我はないか」

 

「うん、大丈夫」

 

「闘蛇たちは?」

 

「三頭とも無事だよ」

 

トウエンはようやく安心したように息を吐いた。

 

そして、私の方へ歩いてきた。

 

「……スイ」

 

(……お久しぶりです)

 

私は静かに伏せた。

 

トウエンは私の前脚や腹の鱗を確かめ始めた。

 

「傷は……ないな」

 

「崖道で岩に擦ったけど、大丈夫だった」

 

レンが説明する。

 

トウエンの手が止まった。

 

「崖道?」

 

「うん。怪我人を運ぶことになって」

 

「……詳しく聞こう」

 

(……あ)

 

レン。

 

怒られるかもしれませんね。

 

私はそっと目を逸らした。

 

◇◇◇

 

その日の夕方。

 

族長の家に、一族の主だった者たちが集まった。

 

セイラン。

 

ハク。

 

同行した戦士。

 

黒角族の案内役。

 

そして、レンとトウエン。

 

私も、建物の外にいた。

 

中には入れない。

 

身体が大きすぎるからだ。

 

ただし、入口は開いている。

 

声は十分に聞こえる。

 

(……ふむ)

 

本日の議題は、楊端和について。

 

私は地面に伏せ、耳を澄ませた。

 

◇◇◇

 

「……楊端和、か」

 

族長が静かに呟いた。

 

「山界をまとめようとしている王だそうだな」

 

セイランが答えた。

 

「ああ」

 

「どのような人物だった」

 

「強い」

 

(……うん)

 

それは間違いない。

 

「それだけか?」

 

族長が尋ねた。

 

セイランは少し考えた。

 

「……話が通じる」

 

(……おお)

 

相棒。

 

最大級の褒め言葉ですね。

 

セイランは、あまり人を褒めない。

 

ましてや、初対面の相手ならなおさらだ。

 

そのセイランが、話が通じると言った。

 

これは、かなりの高評価である。

 

「無理に従えとは言わなかった」

 

セイランは続けた。

 

「一族の暮らしを守ることを、否定しなかった」

 

族長は静かに頷いた。

 

「なるほど」

 

◇◇◇

 

「俺は、悪い話ではないと思います」

 

ハクが口を開いた。

 

(……お)

 

来ましたね。

 

積極派。

 

「楊端和の勢力は、すでに多くの部族をまとめています。今後、山界の争いが大きくなれば、俺たちも無関係ではいられません」

 

「それは分かっている」

 

族長が答えた。

 

「ならば、今のうちに関係を築いておくべきです」

 

ハクの声には、力があった。

 

「少なくとも、敵になる理由はありません」

 

(……うんうん)

 

それも分かる。

 

楊端和は、私たちに無理な要求をしなかった。

 

怪我人の救助にも感謝してくれた。

 

悪い人には見えなかった。

 

……ただし。

 

それだけで、すべてを信用していいかは別の話である。

 

◇◇◇

 

「……私は、慎重であるべきだと思う」

 

別の男が言った。

 

年配の戦士だった。

 

「楊端和が今は友好的でも、勢力が大きくなれば考えが変わるかもしれん」

 

(……ああ)

 

なるほど。

 

それも、もっともだ。

 

「道を通すことを認めれば、次は兵を置きたいと言うかもしれん。兵を置けば、いずれ集落に口を出すようになる」

 

「そこまで疑っていては、何もできません」

 

ハクが反論した。

 

「疑うのではない。備えるのだ」

 

年配の戦士は静かに答えた。

 

「我らには、守るべきものがある」

 

……。

 

(……うーん)

 

難しい。

 

本当に難しい。

 

私は思わず、前脚に顎を乗せた。

 

どちらの言い分も分かる。

 

ハクは、未来の危険に備えようとしている。

 

年配の戦士は、今ある暮らしを守ろうとしている。

 

目的は同じなのだ。

 

ただ、方法が違う。

 

◇◇◇

 

「……レンはどう思う」

 

族長が尋ねた。

 

(……おや)

 

レン?

 

私は少し驚いた。

 

彼は戦士ではない。

 

闘蛇の世話をしている若者だ。

 

こういう話し合いで意見を求められるのは、珍しい。

 

レンも少し驚いたようだった。

 

「僕ですか?」

 

「ああ。お前も、実際に見てきたのだろう」

 

少しの沈黙。

 

やがて、レンが口を開いた。

 

「……僕は、悪い人たちではないと思いました」

 

(……うん)

 

「怪我人を助けようとしていましたし、スイたちのことも大切に扱ってくれました」

 

(……おお)

 

そう。

 

そこ、大事。

 

非常に大事。

 

「でも……」

 

レンは少し言葉を探した。

 

「闘蛇を見たとき、戦に使えるかどうかを気にする人もいました」

 

(……あ)

 

私は耳を動かした。

 

確かに。

 

巨大な獣を見れば、戦力として考える人もいる。

 

それは仕方がない。

 

でも、白淵族にとって闘蛇は、ただの武器ではない。

 

レンは続けた。

 

「僕は、スイたちを戦のためだけに使うのは嫌です」

 

(……レン)

 

私は少しだけ、胸が温かくなった。

 

「だから、もし協力するなら、そこはちゃんと決めてほしいです」

 

族長は静かに頷いた。

 

「分かった」

 

◇◇◇

 

「……トウエン」

 

族長が呼んだ。

 

「お前はどう思う」

 

トウエンは、しばらく黙っていた。

 

そして、ゆっくりと口を開いた。

 

「闘蛇は、簡単には増やせません」

 

(……うん)

 

そうです。

 

「卵が産まれても、すべてが育つわけではない。育ったとしても、人を乗せられる個体ばかりではない」

 

トウエンの声は、いつもより重かった。

 

「一頭失えば、その穴を埋めるのに何年もかかります」

 

誰も口を挟まなかった。

 

「だから、戦に使うなら、何のために使うのかを明確にしてほしい」

 

(……おお)

 

さすが。

 

飼育責任者。

 

「ただし」

 

トウエンは続けた。

 

「一族を守るためなら、闘蛇の力を使うことを否定するつもりはありません」

 

……。

 

(……なるほど)

 

それも、白淵族らしい考え方だ。

 

闘蛇を大切にする。

 

でも、危険だからといって、何もさせないわけではない。

 

私たちは、一緒に暮らしているのだから。

 

◇◇◇

 

話し合いは、しばらく続いた。

 

楊端和の勢力。

 

南の古道。

 

黒角族との関係。

 

闘蛇の繁殖地。

 

私は途中から、少し眠くなってきた。

 

……。

 

(……政治って)

 

本当に大変ですね。

 

前世でも、会議が長いと眠くなったものだ。

 

まさか闘蛇になってまで、同じ経験をするとは思わなかった。

 

私は小さく欠伸をした。

 

そのとき。

 

「……セイラン」

 

族長の声が聞こえた。

 

私は耳を立てた。

 

「お前自身は、どうしたい」

 

少しの沈黙。

 

セイランは、静かに答えた。

 

「……道を通すことは、認めてもいいと思う」

 

(……おお)

 

意外。

 

私は少し驚いた。

 

「ただし、条件がある」

 

(……ですよね)

 

相棒ですもの。

 

「集落の近くは通さない。闘蛇の繁殖地にも近づけない」

 

「うむ」

 

「通る人数と目的は、事前に知らせる。武器を持った集団が、勝手に入ることは認めない」

 

族長は静かに聞いていた。

 

「それから」

 

セイランは少しだけ声を低くした。

 

「白淵族に、戦への参加を強制しないこと」

 

……。

 

(……うん)

 

それは、大事。

 

非常に大事。

 

族長は、しばらく考えていた。

 

そして、静かに言った。

 

「……よかろう」

 

◇◇◇

 

「楊端和には、南の古道の通行を条件付きで認める方向で返事を出そう」

 

(……おお)

 

決まった。

 

「ただし、黒角族の同意も必要だ。先方にも話を通す」

 

黒角族の案内役が、静かに頷いた。

 

「ガク様に伝えます」

 

族長は続けた。

 

「そして、白淵族は今すぐ楊端和の軍に加わることはしない」

 

(……うん)

 

それでいいと思う。

 

「友として付き合う道を探る。だが、我らの暮らしは我らで守る」

 

その言葉に、集まった者たちが頷いた。

 

私は、静かに目を閉じた。

 

(……よかった)

 

何だか、安心した。

 

もちろん、これですべてが解決したわけではない。

 

でも、少なくとも。

 

白淵族は、自分たちで未来を選ぼうとしている。

 

それが、何より嬉しかった。

 

◇◇◇

 

話し合いが終わった頃には、すっかり日が暮れていた。

 

レンが外へ出てきた。

 

「スイ、待たせたね」

 

(……お疲れさま)

 

私はゆっくりと身体を起こした。

 

レンは私の首筋を撫でた。

 

「難しい話だったね」

 

(……本当に)

 

私は心の中で同意した。

 

「でも、少し安心したよ」

 

レンは小さく笑った。

 

「スイたちが、無理に戦へ連れていかれることはなさそうだから」

 

……。

 

(……うん)

 

私も。

 

それが、一番嬉しい。

 

◇◇◇

 

その夜。

 

私は、いつもの川辺にいた。

 

水は冷たく、魚の気配がする。

 

空には星が広がっていた。

 

(……ああ)

 

帰ってきた。

 

本当に。

 

帰ってきたんだ。

 

私はゆっくりと水へ入った。

 

身体が沈む。

 

水が鱗の間を流れる。

 

心地よい。

 

私は少しだけ泳いだ。

 

そして、水面から顔を出した。

 

遠くには、白淵族の家々が見える。

 

灯りがともっている。

 

誰かの笑い声が聞こえる。

 

子供たちが走り回っている。

 

(……いいなぁ)

 

私は、心からそう思った。

 

この暮らしが好きだ。

 

セイランも。

 

レンも。

 

トウエンも。

 

族長も。

 

ハクも。

 

みんな、大切だ。

 

だからこそ。

 

(……守りたいな)

 

私は静かに思った。

 

もし、いつか。

 

この暮らしが脅かされることがあるなら。

 

そのときは。

 

私も、できることをしよう。

 

ただし。

 

(……できれば)

 

戦わずに済む方法がいい。

 

私は、ゆっくりと水の中へ潜った。

 

魚の影が見える。

 

(……おや)

 

美味しそう。

 

私は迷わず追いかけた。

 

難しいことは、明日考えよう。

 

今は。

 

我が愛しの故郷で。

 

思う存分、魚を食べることにした。

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