平和とは、何だろう。
朝起きたら魚があること。
日向ぼっこをしていても、誰にも邪魔されないこと。
レンが私の鱗を丁寧に磨いてくれること。
そして何より、大好きな人たちが、今日も元気に暮らしていること。
私にとっての平和とは、おそらくそういうものだ。
だから、争いというものが、どうにも好きになれない。
前世でも、今世でも。
できることなら、ずっと平和に暮らしていたい。
……。
(……まあ)
キングダムの世界に生まれてしまった時点で、それは難しいのかもしれないけれど。
◇◇◇
翌朝。
南の古道で出会った二人は、白淵族と黒角族の境にある休憩地で夜を明かした。
年配の男は、ロクという名だった。
若い女性は、ミナ。
二人は親子ではなく、同じ集落の者らしい。
ほかにも山を離れた者がいるが、途中で別々の道を選んだという。
「……秦の兵が、村を襲ったわけではないのだな」
セイランが尋ねた。
ロクは頷いた。
「ああ。少なくとも、我らの村は襲われていない」
「ならば、なぜ逃げた」
「……以前にも、同じことがあったからだ」
セイランは黙って続きを待った。
「兵が動き始めると、道が塞がれる。狩りにも行けなくなる。荷を運ぶ者が来なくなり、食料が足りなくなる」
ロクは、少しだけ目を伏せた。
「戦が始まってから逃げても、遅いことがある」
……。
(……なるほど)
私は、静かに話を聞いていた。
戦が起きていなくても、兵が動くだけで暮らしが変わる。
そういうことなのか。
◇◇◇
「それで、北へ向かったのか」
ハクが尋ねた。
「そうだ。黒角族の土地まで行けば、しばらく身を寄せられるかもしれないと思った」
黒角族の案内役が、少し驚いた顔をした。
「我らのことを知っているのか」
「昔、交易に来た者から聞いた」
ロクは答えた。
「山の奥に、外の者とも物を交換する一族がいると」
(……おお)
黒角族。
意外と有名。
いや、私たち白淵族が知られていなさすぎるだけかもしれない。
何しろ、闘蛇に乗って暮らしているのに、ほとんど外へ出ない一族なのだ。
……。
(……もったいない)
我が一族、顔も良いのに。
もっと知られてもいいと思う。
いや、知られすぎるのも困るか。
難しいところである。
◇◇◇
話し合いの結果、ロクとミナは、ひとまず黒角族のもとで保護されることになった。
白淵族の集落まで連れていく必要はない。
彼らも、闘蛇のいる土地へ入ることには不安があるらしい。
……。
(……え)
私たち、そんなに怖い?
私は少しだけ傷ついた。
まあ、目の前に巨大な爬虫類が三頭もいたら、普通は怖いだろう。
分かっている。
でも、少し寂しい。
レンが私の首筋を撫でた。
「スイ、今日は帰ろうね」
(……はい)
私は素直に立ち上がった。
◇◇◇
白淵族の集落へ戻ると、セイランたちはすぐに族長へ報告した。
南の古道の状態。
修繕が必要な場所。
そして、秦国の国境近くから来た二人のこと。
族長は、最後まで黙って聞いていた。
「……秦の兵か」
「ああ」
セイランが答える。
「まだ、何が起きているのかは分からない」
「分からぬうちは、軽々しく動けんな」
族長は、しばらく考え込んだ。
「黒角族にも、南の様子を探ってもらおう」
「分かった」
「ただし、危険な場所へ近づく必要はない」
族長は、静かに続けた。
「我らは、秦国の争いに加わるために生きているのではない」
……。
(……うん)
そうだよね。
私は、少し安心した。
◇◇◇
その日の夕方。
レンとトウエンが、私の身体を調べていた。
長い道を歩いたあとは、こうして鱗や脚を確認してくれる。
傷がないか。
足裏に石が挟まっていないか。
鱗が剥がれていないか。
(……至れり尽くせり)
ありがたいことである。
「……ここ、少し擦れているな」
トウエンが言った。
(……え?)
どこ?
私は少しだけ気になった。
「古道の石に当たったのかもしれない」
レンが答える。
「深い傷じゃないよ」
……。
(……よかった)
鱗は大切だ。
防御力の問題もあるけれど、何より見た目が大事なのである。
私の鱗は、なかなか美しい。
自分で言うのも何だが、光の当たり方によって、少し青みがかって見えるところなど、非常に気に入っている。
だから、傷がつくと少し悲しい。
レンは、丁寧に泥を落としてくれた。
「スイは、いつも綺麗だね」
……。
(……レン)
分かってる。
分かってるよ。
この子、本当に良い子。
私は、そっと目を閉じた。
◇◇◇
数日後。
黒角族から、知らせが届いた。
南の山で、秦国の兵が動いているという話は、ほかの集落にも広がっているらしい。
ただし、詳しい事情は分からない。
国境を守るためなのか。
誰かと争うためなのか。
それとも、単なる兵の移動なのか。
情報は、曖昧だった。
「……噂ばかりだな」
ハクが言った。
セイランが頷く。
「山の外のことは、分からない」
「秦国は大きな国だ。兵が動くこと自体は珍しくないだろう」
「そうだな」
……。
(……確かに)
私は、少し考えた。
キングダムの世界では、戦は日常茶飯事だ。
秦国だって、いつもどこかで戦っている。
だから、兵が動いているというだけでは、何も分からない。
……。
(……うーん)
前世で、もっとちゃんと映画を観ておけばよかった。
いや。
観ていた。
かなり真剣に観ていた。
ただ、顔の良い人たちに気を取られていただけで。
……。
(……反省)
少しだけ。
◇◇◇
その夜。
族長は、セイランを呼んだ。
「楊端和への返答を届ける準備を進めよ」
「分かった」
「ただし、南の情勢も伝えておけ」
セイランは頷いた。
「秦国の兵のことか」
「ああ」
族長は、静かに言った。
「山の王を名乗る者ならば、すでに知っているかもしれぬ。だが、知らぬ可能性もある」
「分かった」
「そして、もう一つ」
セイランが顔を上げた。
族長は、少しだけ表情を険しくした。
「我らは、まだ楊端和の配下ではない。そのことを忘れるな」
「……ああ」
セイランは、短く答えた。
「分かっている」
◇◇◇
翌朝。
私は、川辺で魚を食べていた。
すると、レンがやってきた。
「スイ、また出かけるよ」
(……おや)
今度こそ?
「楊端和さんのところへ、返事を届けに行くんだって」
(……おお)
いよいよ。
私は、少しだけ気分が上がった。
楊端和。
山の王。
あの、美しくて強い人。
また会えるのか。
(……楽しみ)
私は、魚を飲み込んだ。
すると、レンが笑った。
「そんなに嬉しい?」
……。
(……いや)
別に。
美人に会えるから嬉しいわけではない。
……。
(……少しはあるけど)
私は、そっと視線を逸らした。
◇◇◇
出発の準備は、数日かけて行われた。
南の古道の状態を確認し、修繕が必要な場所を記録する。
黒角族との取り決めをまとめる。
楊端和へ伝える条件を整理する。
そして、同行する者を決める。
セイラン。
ハク。
黒角族の使者。
それから、レン。
もちろん、闘蛇たちも一緒だ。
私を含めて三頭。
前回と同じ顔ぶれだった。
(……ふむ)
外交団、再結成。
何だか、少し格好いい。
私は、密かにそう思った。
◇◇◇
出発の前夜。
セイランが、私のところへ来た。
彼は、しばらく黙って私を見つめていた。
そして、私の首筋に手を置いた。
「……また、頼む」
(……もちろん)
私は、静かに息を吐いた。
セイランは、少しだけ笑った。
「お前がいると、心強い」
……。
(……あ)
それは。
ちょっと。
嬉しい。
私は、そっと目を細めた。
この人は、あまり多くを語らない。
でも、たまにこういうことを言う。
だから、困る。
……。
(……美形の破壊力)
本当に、恐ろしい。
◇◇◇
翌朝。
私たちは、再び山の王のもとへ向かった。
空は晴れていた。
山の風は、少し冷たい。
私は、ゆっくりと歩き始めた。
背中には、セイランとレン。
隣には、ハクたちの闘蛇。
そして、黒角族の使者。
いつもの道。
いつもの仲間。
でも、少しだけ違う。
山の外では、何かが起きている。
秦国の兵が動き、山の民が不安を抱えている。
そして、私たちは今、楊端和という王に会いに行く。
……。
(……何だか)
本当に、物語が動き始めている気がする。
私は、前方の山々を見つめた。
あの向こうには、私の知らない世界が広がっている。
前世で観た映画のような世界。
でも、今の私にとっては、ただの物語ではない。
ここで暮らす人たちは、皆、生きている。
笑って。
怒って。
悩んで。
そして、何かを守ろうとしている。
私も、その一人だ。
……いや。
一頭か。
まあ、どちらでもいい。
私は白淵族の一員なのだから。
◇◇◇
山道を進みながら、私はふと思った。
もし、いつか。
この山の外で、大きな戦が起きたら。
そのとき、私はどうするのだろう。
セイランたちが戦うなら、私も戦うのだろうか。
それとも、白淵族の暮らしを守るために、山へ残るのだろうか。
……。
(……分からない)
今は、まだ。
でも、一つだけ決まっていることがある。
私は、レンとセイランを守りたい。
トウエンも。
族長も。
白淵族の皆も。
そして、できることなら。
この山の平和も。
私は、静かに歩き続けた。
遠くで、鳥が鳴いていた。
山の向こうには、まだ見ぬ出来事が待っている。
けれど、今は。
この道を、進むだけだ。