約束というものは、なかなか難しい。
例えば、レンが「明日も魚を持ってくるね」と言ったとする。
私は当然、楽しみにする。
翌朝はいつもより早く目が覚めるし、川辺で待つ時間も少し長くなる。
ところが、翌日になって魚がなかったら?
(……悲しい)
非常に悲しい。
もちろん、レンにも事情があるだろう。
川が増水して魚が捕れなかったのかもしれないし、ほかの仕事で忙しかったのかもしれない。
だから怒ったりはしない。
……たぶん。
けれど、約束した以上、期待してしまうのが生き物というものだ。
ましてや、それが魚ではなく、一族の暮らしに関わる約束なら。
簡単に交わしていいものではないのだろう。
◇◇◇
楊端和のもとへ向かう道は、前回よりも歩きやすかった。
道そのものが変わったわけではない。
私たちが、進むべき場所を知っているからだ。
崩れやすい斜面。
足場の悪い沢。
大きな身体では通りにくい岩の隙間。
一度通った場所なら、だいたい覚えている。
(……ふふん)
なかなか優秀でしょう?
私は鼻先を少し上げた。
背中では、レンがセイランに話しかけていた。
「前に来たときより、スイが落ち着いてるね」
「道を覚えたんだろう」
「やっぱり賢いなあ」
(……そうでしょう、そうでしょう)
褒めていただけるのは大変ありがたい。
ただし、あまり褒めすぎないでほしい。
調子に乗ってしまうので。
……私が。
◇◇◇
今回の使節には、黒角族からも正式な代表が加わっていた。
名をダンという。
以前から両族の交易に関わってきた男で、ガクの信頼も厚いらしい。
彼は道中、何度も古道の地形についてセイランに確認していた。
「南側の尾根は、雨が続くと崩れる」
「分かっている」
「兵が通るなら、あそこは一度に大勢を入れられん」
「ああ」
「それから、谷の手前には――」
「そこも確認した」
ダンは、少しだけ眉を寄せた。
「……お前は、もう少し話を聞く姿勢を見せられんのか」
セイランは不思議そうに彼を見た。
「聞いている」
「そういう意味ではない」
ハクが横で笑った。
私は、こっそり感心した。
(……すごい)
セイランに正面から文句を言える人、意外といるんだ。
しかも、本人はまったく気にしていない。
こういうところを見ると、山の民同士の付き合いというのも面白い。
◇◇◇
山の王の勢力圏へ入ると、空気が変わった。
見張りが増えたのだ。
尾根の上。
木々の間。
細い道を見下ろす岩場。
仮面をつけた戦士たちが、こちらを観察している。
前回と同じだ。
ただ、今回は私たちを見ても、すぐに武器を構える者はいなかった。
「白淵族の者か」
見張りの一人が声をかけてきた。
セイランが答える。
「ああ。楊端和に会いに来た」
「話は聞いている。少し待て」
男は仲間に合図を送り、山道の奥へ消えた。
(……おお)
顔パス。
いや、顔は見えているけれど。
私の場合、顔というより身体で覚えられていそうだ。
九メートルの闘蛇なんて、そう何頭もいないだろうし。
「……あれが闘蛇か」
見張りの一人が呟いた。
「前に崖道で人を助けたという獣だろう」
「思ったより大きいな」
(……どうも)
噂になっているらしい。
悪い気はしない。
ただ、英雄扱いされるのは少々困る。
私は別に、人助けが趣味というわけではない。
困っている人がいたから、セイランたちと一緒に助けただけだ。
それに、あのときは結構怖かった。
崖は高いし、足場は悪いし。
二度とやりたくない。
……できれば。
◇◇◇
しばらくして、見覚えのある男が現れた。
バジオウだった。
仮面をつけた、楊端和の側近。
相変わらず、何を考えているのか分かりにくい。
けれど、こちらを見る目には、以前ほどの警戒がなかった。
「来たか」
「ああ」
セイランが答えた。
「返答を持ってきた」
バジオウは頷く。
「王が待っている」
そして、私を見上げた。
「……その獣も元気そうだな」
(……おや)
気にかけてくれた?
私は、軽く鼻から息を吐いた。
バジオウは一瞬だけこちらを見たが、それ以上は何も言わなかった。
……。
(……ふむ)
この人、なかなか良い人なのでは。
無口だけれど。
まあ、セイランも似たようなものか。
◇◇◇
楊端和は、前回と同じく、岩を組んだ広い場所で私たちを迎えた。
周囲には、何人もの戦士が控えている。
皆、仮面をつけていた。
その中央に、山の王が立っている。
(……おお)
やっぱり格好いい。
私は思わず見入ってしまった。
仮面をつけていても分かる、堂々とした立ち姿。
周囲の戦士たちが、自然と彼女を中心に動いている。
王様というのは、こういう人のことを言うのかもしれない。
「よく来たな、白淵族」
楊端和が言った。
「黒角族の者もいるようだな」
ダンが一歩前へ出た。
「黒角族のダンと申します。族長ガクの命を受け、参りました」
「そうか」
楊端和は頷いた。
「話を聞こう」
◇◇◇
セイランは、族長から預かった言葉を伝えた。
南の古道について。
白淵族と黒角族は、条件付きで通行を認める用意があること。
ただし、集落へ続く道には入らないこと。
闘蛇の繁殖地や水場には近づかないこと。
通行する人数と目的を、事前に知らせること。
そして、軍が道を傷めた場合は、修繕に協力すること。
楊端和は、途中で口を挟まなかった。
すべてを聞き終えてから、静かに言った。
「……随分と細かいな」
(……あ)
怒った?
私は少しだけ緊張した。
しかし、楊端和の声に不快そうな響きはなかった。
むしろ、少し面白がっているようにも聞こえる。
「当然の条件だと思うが」
セイランが答えた。
「我らの暮らしに関わる」
「そうだな」
楊端和は頷いた。
「私も、勝手に土地を荒らされれば腹が立つ」
……。
(……おお)
話が早い。
◇◇◇
「だが、一つ聞きたい」
楊端和が続けた。
「その道を、敵が使おうとした場合はどうする」
場の空気が変わった。
セイランは、すぐには答えなかった。
楊端和は静かに続ける。
「私の軍だけに道を貸すのか。それとも、条件を守る者なら誰でも通すのか」
……。
(……あ)
なるほど。
確かに、そこは大事だ。
道を貸すということは、誰を通すか決めるということでもある。
もし楊端和と敵対する一族が、同じ道を通りたいと言ってきたら?
白淵族は、どうするのだろう。
セイランは、少し考えてから答えた。
「我らの土地を脅かす者は通さない」
「それ以外なら?」
「族長が判断する」
楊端和は、セイランを見つめた。
「私の敵でもか」
「ああ」
……。
(……相棒)
強い。
いや、言っていることは正しいのだけれど。
相手は山の王ですよ?
もう少し、こう。
柔らかい言い方とか。
……。
(……無理か)
セイランだもんね。
◇◇◇
沈黙が続いた。
周囲の戦士たちが、わずかに身じろぎする。
バジオウも、黙ってセイランを見ていた。
しかし、楊端和は笑った。
「面白い」
……。
(……え)
笑った?
「つまり、お前たちは私の味方になるつもりはないということか」
「今は、そうだ」
セイランは答えた。
「我らは、我らの土地を守る」
楊端和は、しばらく黙っていた。
そして、静かに頷いた。
「それでいい」
……。
(……おお)
私は少し驚いた。
「無理に従わせても、長くは続かん」
楊端和は言った。
「私は、山の民をまとめたい。だが、すべての一族を力で従わせるつもりはない」
その言葉に、セイランの表情がわずかに変わった。
「……ならば、我らの条件を受け入れるのか」
「基本的にはな」
楊端和は答えた。
「ただし、道を使うたびに、互いの使者が確認することにしよう」
「分かった」
「そして、何か問題が起きた場合は、まず話し合う」
「同意する」
ダンも頷いた。
「黒角族としても、それで異存ありません」
◇◇◇
こうして、南の古道についての約束が交わされた。
白淵族と黒角族は、独立したまま。
楊端和の軍に、条件付きで道を貸す。
軍への参加義務はない。
食料や物資の提供も、強制されない。
必要な場合は、その都度相談する。
……。
(……よかった)
私は、心の底から安心した。
少なくとも、今すぐ戦に巻き込まれることはなさそうだ。
何より、セイランたちが納得している。
それが一番大事だ。
◇◇◇
話し合いが終わりかけた頃。
セイランが、もう一つの報告をした。
「南の山で、秦国の兵が動いているらしい」
楊端和の表情が変わった。
「……秦国?」
「ああ。国境に近い集落から、山を離れた者がいる」
「何が起きている」
「詳しくは分からない」
セイランは、ロクとミナから聞いた話を伝えた。
兵の往来が増えていること。
山の民の間で、不安が広がっていること。
ただし、実際に集落が襲われたわけではないこと。
楊端和は、しばらく考え込んだ。
「……秦国か」
その声には、先ほどまでとは違う響きがあった。
私は、少しだけ緊張した。
(……あれ)
もしかして。
この話、何かにつながる?
◇◇◇
「秦国のことは、我らも気にかけている」
楊端和が言った。
「だが、今のところ、こちらへ兵を向けてくる様子はない」
「そうか」
セイランが答えた。
「情報があれば、また伝える」
「助かる」
楊端和は頷いた。
そして、少しだけ視線を上げた。
「……中華の国々も、落ち着かぬようだな」
……。
(……うん)
そうでしょうね。
私は心の中で答えた。
何しろ、ここはキングダムの世界。
落ち着いている時期の方が珍しい。
ただし、今がどの時点なのかは、相変わらず分からない。
映画で観た出来事が、すでに起きたのか。
それとも、これから起きるのか。
私は、まだ知らない。
◇◇◇
その日の夕方。
私たちは、楊端和のもとで一夜を過ごすことになった。
闘蛇たちのために、水場の近い場所を用意してもらった。
ありがたい。
非常にありがたい。
私は、早速水へ入った。
冷たい水が、身体を包む。
(……ああ)
生き返る。
山道を歩くのは嫌いではないけれど、やっぱり水の中は落ち着く。
私はゆっくりと泳いだ。
すると、岸辺に人影が現れた。
バジオウだった。
彼は、少し離れた場所から私を見ていた。
……。
(……おや)
また来た。
私、そんなに珍しいですかね。
まあ、珍しいか。
バジオウは、しばらく私を観察していた。
そして、近くにいたレンに尋ねた。
「……闘蛇は、どれほど長く生きる」
レンは少し驚いた顔をした。
「個体によりますけど、長生きする子はかなり長く生きます」
「そうか」
「スイは、まだ若い方ですよ」
……。
(……そうなんです)
若いんです。
ぴちぴちです。
私は水の中で、ゆっくりと尾を動かした。
バジオウは、私を見つめた。
「……戦に出せば、強いだろうな」
レンの表情が変わった。
「……そうかもしれません」
彼は、少しだけ言葉を選んだ。
「でも、闘蛇は戦のために育てているわけじゃないんです」
バジオウは黙っていた。
レンは続けた。
「スイは、家族みたいなものなので」
……。
(……レン)
私は、静かに岸辺へ近づいた。
レンが、私の鼻先に手を伸ばす。
私は、その手にそっと触れた。
バジオウは、何も言わなかった。
ただ、しばらく私たちを見ていた。
◇◇◇
夜。
セイランが、私のところへ来た。
レンは、少し離れた場所で荷物を整理している。
セイランは、私の首筋に手を置いた。
「……今日は、よくやった」
(……え)
私、何かした?
ただ歩いて、待って、水に入っただけですけど。
「長い道だったからな」
……。
(……ああ)
そういうこと。
私は、静かに目を細めた。
セイランは、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「……この先、どうなるかは分からない」
私は、耳を動かした。
「だが、俺は白淵族を守る」
……。
(……うん)
知ってる。
あなたは、そういう人だ。
セイランは、私の鱗を軽く撫でた。
「お前にも、無理はさせない」
……。
(……あ)
それは。
少し、嬉しい。
私は、そっと息を吐いた。
この人は、私をただの乗り物だと思っていない。
戦うための道具だとも思っていない。
だから、私はこの人を背中に乗せている。
きっと、これからも。
◇◇◇
翌朝。
私たちは、白淵族の集落へ帰る準備をしていた。
そのとき、楊端和がセイランに声をかけた。
「白淵族の者よ」
セイランが振り返る。
「何だ」
楊端和は、少しだけ笑った。
「また会おう」
セイランは、短く答えた。
「ああ」
……。
(……おお)
何だか、格好いい。
山の王と、我が一族の戦士。
互いに従うわけではない。
けれど、約束を交わした。
それは、きっと。
小さなことではないのだろう。
私は、静かに歩き始めた。
背中には、セイランとレン。
隣には、ハクたちの闘蛇。
山の風が、心地よかった。
◇◇◇
帰り道。
私は、ふと考えた。
楊端和は、秦国のことを気にしていた。
秦国では、兵が動いている。
山の民の間でも、不安が広がっている。
そして、私たちは今、山の王と約束を交わした。
……。
(……何だか)
少しずつ、世界が広がっている。
白淵族の川。
黒角族の山。
楊端和の治める土地。
そして、その向こうにある秦国。
私は、まだ山の外を知らない。
でも、いつか。
その世界へ行くことになるのだろうか。
……。
(……まあ)
そのときは、そのとき。
今は、帰ろう。
私たちの家へ。
レンが待っている川へ。
トウエンがいる飼育場へ。
そして、私の大好きな魚たちが泳ぐ場所へ。
私は、少しだけ歩調を速めた。
山の向こうでは、今日も誰かが争っているのかもしれない。
けれど、私の背中には。
守りたい人たちが、ちゃんと乗っている。
それだけは、忘れないでいようと思った。