秦の山奥で闘蛇やってます   作:欄外

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第二十五話 山の王との約束

 

約束というものは、なかなか難しい。

 

例えば、レンが「明日も魚を持ってくるね」と言ったとする。

 

私は当然、楽しみにする。

 

翌朝はいつもより早く目が覚めるし、川辺で待つ時間も少し長くなる。

 

ところが、翌日になって魚がなかったら?

 

(……悲しい)

 

非常に悲しい。

 

もちろん、レンにも事情があるだろう。

 

川が増水して魚が捕れなかったのかもしれないし、ほかの仕事で忙しかったのかもしれない。

 

だから怒ったりはしない。

 

……たぶん。

 

けれど、約束した以上、期待してしまうのが生き物というものだ。

 

ましてや、それが魚ではなく、一族の暮らしに関わる約束なら。

 

簡単に交わしていいものではないのだろう。

 

◇◇◇

 

楊端和のもとへ向かう道は、前回よりも歩きやすかった。

 

道そのものが変わったわけではない。

 

私たちが、進むべき場所を知っているからだ。

 

崩れやすい斜面。

 

足場の悪い沢。

 

大きな身体では通りにくい岩の隙間。

 

一度通った場所なら、だいたい覚えている。

 

(……ふふん)

 

なかなか優秀でしょう?

 

私は鼻先を少し上げた。

 

背中では、レンがセイランに話しかけていた。

 

「前に来たときより、スイが落ち着いてるね」

 

「道を覚えたんだろう」

 

「やっぱり賢いなあ」

 

(……そうでしょう、そうでしょう)

 

褒めていただけるのは大変ありがたい。

 

ただし、あまり褒めすぎないでほしい。

 

調子に乗ってしまうので。

 

……私が。

 

◇◇◇

 

今回の使節には、黒角族からも正式な代表が加わっていた。

 

名をダンという。

 

以前から両族の交易に関わってきた男で、ガクの信頼も厚いらしい。

 

彼は道中、何度も古道の地形についてセイランに確認していた。

 

「南側の尾根は、雨が続くと崩れる」

 

「分かっている」

 

「兵が通るなら、あそこは一度に大勢を入れられん」

 

「ああ」

 

「それから、谷の手前には――」

 

「そこも確認した」

 

ダンは、少しだけ眉を寄せた。

 

「……お前は、もう少し話を聞く姿勢を見せられんのか」

 

セイランは不思議そうに彼を見た。

 

「聞いている」

 

「そういう意味ではない」

 

ハクが横で笑った。

 

私は、こっそり感心した。

 

(……すごい)

 

セイランに正面から文句を言える人、意外といるんだ。

 

しかも、本人はまったく気にしていない。

 

こういうところを見ると、山の民同士の付き合いというのも面白い。

 

◇◇◇

 

山の王の勢力圏へ入ると、空気が変わった。

 

見張りが増えたのだ。

 

尾根の上。

 

木々の間。

 

細い道を見下ろす岩場。

 

仮面をつけた戦士たちが、こちらを観察している。

 

前回と同じだ。

 

ただ、今回は私たちを見ても、すぐに武器を構える者はいなかった。

 

「白淵族の者か」

 

見張りの一人が声をかけてきた。

 

セイランが答える。

 

「ああ。楊端和に会いに来た」

 

「話は聞いている。少し待て」

 

男は仲間に合図を送り、山道の奥へ消えた。

 

(……おお)

 

顔パス。

 

いや、顔は見えているけれど。

 

私の場合、顔というより身体で覚えられていそうだ。

 

九メートルの闘蛇なんて、そう何頭もいないだろうし。

 

「……あれが闘蛇か」

 

見張りの一人が呟いた。

 

「前に崖道で人を助けたという獣だろう」

 

「思ったより大きいな」

 

(……どうも)

 

噂になっているらしい。

 

悪い気はしない。

 

ただ、英雄扱いされるのは少々困る。

 

私は別に、人助けが趣味というわけではない。

 

困っている人がいたから、セイランたちと一緒に助けただけだ。

 

それに、あのときは結構怖かった。

 

崖は高いし、足場は悪いし。

 

二度とやりたくない。

 

……できれば。

 

◇◇◇

 

しばらくして、見覚えのある男が現れた。

 

バジオウだった。

 

仮面をつけた、楊端和の側近。

 

相変わらず、何を考えているのか分かりにくい。

 

けれど、こちらを見る目には、以前ほどの警戒がなかった。

 

「来たか」

 

「ああ」

 

セイランが答えた。

 

「返答を持ってきた」

 

バジオウは頷く。

 

「王が待っている」

 

そして、私を見上げた。

 

「……その獣も元気そうだな」

 

(……おや)

 

気にかけてくれた?

 

私は、軽く鼻から息を吐いた。

 

バジオウは一瞬だけこちらを見たが、それ以上は何も言わなかった。

 

……。

 

(……ふむ)

 

この人、なかなか良い人なのでは。

 

無口だけれど。

 

まあ、セイランも似たようなものか。

 

◇◇◇

 

楊端和は、前回と同じく、岩を組んだ広い場所で私たちを迎えた。

 

周囲には、何人もの戦士が控えている。

 

皆、仮面をつけていた。

 

その中央に、山の王が立っている。

 

(……おお)

 

やっぱり格好いい。

 

私は思わず見入ってしまった。

 

仮面をつけていても分かる、堂々とした立ち姿。

 

周囲の戦士たちが、自然と彼女を中心に動いている。

 

王様というのは、こういう人のことを言うのかもしれない。

 

「よく来たな、白淵族」

 

楊端和が言った。

 

「黒角族の者もいるようだな」

 

ダンが一歩前へ出た。

 

「黒角族のダンと申します。族長ガクの命を受け、参りました」

 

「そうか」

 

楊端和は頷いた。

 

「話を聞こう」

 

◇◇◇

 

セイランは、族長から預かった言葉を伝えた。

 

南の古道について。

 

白淵族と黒角族は、条件付きで通行を認める用意があること。

 

ただし、集落へ続く道には入らないこと。

 

闘蛇の繁殖地や水場には近づかないこと。

 

通行する人数と目的を、事前に知らせること。

 

そして、軍が道を傷めた場合は、修繕に協力すること。

 

楊端和は、途中で口を挟まなかった。

 

すべてを聞き終えてから、静かに言った。

 

「……随分と細かいな」

 

(……あ)

 

怒った?

 

私は少しだけ緊張した。

 

しかし、楊端和の声に不快そうな響きはなかった。

 

むしろ、少し面白がっているようにも聞こえる。

 

「当然の条件だと思うが」

 

セイランが答えた。

 

「我らの暮らしに関わる」

 

「そうだな」

 

楊端和は頷いた。

 

「私も、勝手に土地を荒らされれば腹が立つ」

 

……。

 

(……おお)

 

話が早い。

 

◇◇◇

 

「だが、一つ聞きたい」

 

楊端和が続けた。

 

「その道を、敵が使おうとした場合はどうする」

 

場の空気が変わった。

 

セイランは、すぐには答えなかった。

 

楊端和は静かに続ける。

 

「私の軍だけに道を貸すのか。それとも、条件を守る者なら誰でも通すのか」

 

……。

 

(……あ)

 

なるほど。

 

確かに、そこは大事だ。

 

道を貸すということは、誰を通すか決めるということでもある。

 

もし楊端和と敵対する一族が、同じ道を通りたいと言ってきたら?

 

白淵族は、どうするのだろう。

 

セイランは、少し考えてから答えた。

 

「我らの土地を脅かす者は通さない」

 

「それ以外なら?」

 

「族長が判断する」

 

楊端和は、セイランを見つめた。

 

「私の敵でもか」

 

「ああ」

 

……。

 

(……相棒)

 

強い。

 

いや、言っていることは正しいのだけれど。

 

相手は山の王ですよ?

 

もう少し、こう。

 

柔らかい言い方とか。

 

……。

 

(……無理か)

 

セイランだもんね。

 

◇◇◇

 

沈黙が続いた。

 

周囲の戦士たちが、わずかに身じろぎする。

 

バジオウも、黙ってセイランを見ていた。

 

しかし、楊端和は笑った。

 

「面白い」

 

……。

 

(……え)

 

笑った?

 

「つまり、お前たちは私の味方になるつもりはないということか」

 

「今は、そうだ」

 

セイランは答えた。

 

「我らは、我らの土地を守る」

 

楊端和は、しばらく黙っていた。

 

そして、静かに頷いた。

 

「それでいい」

 

……。

 

(……おお)

 

私は少し驚いた。

 

「無理に従わせても、長くは続かん」

 

楊端和は言った。

 

「私は、山の民をまとめたい。だが、すべての一族を力で従わせるつもりはない」

 

その言葉に、セイランの表情がわずかに変わった。

 

「……ならば、我らの条件を受け入れるのか」

 

「基本的にはな」

 

楊端和は答えた。

 

「ただし、道を使うたびに、互いの使者が確認することにしよう」

 

「分かった」

 

「そして、何か問題が起きた場合は、まず話し合う」

 

「同意する」

 

ダンも頷いた。

 

「黒角族としても、それで異存ありません」

 

◇◇◇

 

こうして、南の古道についての約束が交わされた。

 

白淵族と黒角族は、独立したまま。

 

楊端和の軍に、条件付きで道を貸す。

 

軍への参加義務はない。

 

食料や物資の提供も、強制されない。

 

必要な場合は、その都度相談する。

 

……。

 

(……よかった)

 

私は、心の底から安心した。

 

少なくとも、今すぐ戦に巻き込まれることはなさそうだ。

 

何より、セイランたちが納得している。

 

それが一番大事だ。

 

◇◇◇

 

話し合いが終わりかけた頃。

 

セイランが、もう一つの報告をした。

 

「南の山で、秦国の兵が動いているらしい」

 

楊端和の表情が変わった。

 

「……秦国?」

 

「ああ。国境に近い集落から、山を離れた者がいる」

 

「何が起きている」

 

「詳しくは分からない」

 

セイランは、ロクとミナから聞いた話を伝えた。

 

兵の往来が増えていること。

 

山の民の間で、不安が広がっていること。

 

ただし、実際に集落が襲われたわけではないこと。

 

楊端和は、しばらく考え込んだ。

 

「……秦国か」

 

その声には、先ほどまでとは違う響きがあった。

 

私は、少しだけ緊張した。

 

(……あれ)

 

もしかして。

 

この話、何かにつながる?

 

◇◇◇

 

「秦国のことは、我らも気にかけている」

 

楊端和が言った。

 

「だが、今のところ、こちらへ兵を向けてくる様子はない」

 

「そうか」

 

セイランが答えた。

 

「情報があれば、また伝える」

 

「助かる」

 

楊端和は頷いた。

 

そして、少しだけ視線を上げた。

 

「……中華の国々も、落ち着かぬようだな」

 

……。

 

(……うん)

 

そうでしょうね。

 

私は心の中で答えた。

 

何しろ、ここはキングダムの世界。

 

落ち着いている時期の方が珍しい。

 

ただし、今がどの時点なのかは、相変わらず分からない。

 

映画で観た出来事が、すでに起きたのか。

 

それとも、これから起きるのか。

 

私は、まだ知らない。

 

◇◇◇

 

その日の夕方。

 

私たちは、楊端和のもとで一夜を過ごすことになった。

 

闘蛇たちのために、水場の近い場所を用意してもらった。

 

ありがたい。

 

非常にありがたい。

 

私は、早速水へ入った。

 

冷たい水が、身体を包む。

 

(……ああ)

 

生き返る。

 

山道を歩くのは嫌いではないけれど、やっぱり水の中は落ち着く。

 

私はゆっくりと泳いだ。

 

すると、岸辺に人影が現れた。

 

バジオウだった。

 

彼は、少し離れた場所から私を見ていた。

 

……。

 

(……おや)

 

また来た。

 

私、そんなに珍しいですかね。

 

まあ、珍しいか。

 

バジオウは、しばらく私を観察していた。

 

そして、近くにいたレンに尋ねた。

 

「……闘蛇は、どれほど長く生きる」

 

レンは少し驚いた顔をした。

 

「個体によりますけど、長生きする子はかなり長く生きます」

 

「そうか」

 

「スイは、まだ若い方ですよ」

 

……。

 

(……そうなんです)

 

若いんです。

 

ぴちぴちです。

 

私は水の中で、ゆっくりと尾を動かした。

 

バジオウは、私を見つめた。

 

「……戦に出せば、強いだろうな」

 

レンの表情が変わった。

 

「……そうかもしれません」

 

彼は、少しだけ言葉を選んだ。

 

「でも、闘蛇は戦のために育てているわけじゃないんです」

 

バジオウは黙っていた。

 

レンは続けた。

 

「スイは、家族みたいなものなので」

 

……。

 

(……レン)

 

私は、静かに岸辺へ近づいた。

 

レンが、私の鼻先に手を伸ばす。

 

私は、その手にそっと触れた。

 

バジオウは、何も言わなかった。

 

ただ、しばらく私たちを見ていた。

 

◇◇◇

 

夜。

 

セイランが、私のところへ来た。

 

レンは、少し離れた場所で荷物を整理している。

 

セイランは、私の首筋に手を置いた。

 

「……今日は、よくやった」

 

(……え)

 

私、何かした?

 

ただ歩いて、待って、水に入っただけですけど。

 

「長い道だったからな」

 

……。

 

(……ああ)

 

そういうこと。

 

私は、静かに目を細めた。

 

セイランは、しばらく黙っていた。

 

そして、ぽつりと言った。

 

「……この先、どうなるかは分からない」

 

私は、耳を動かした。

 

「だが、俺は白淵族を守る」

 

……。

 

(……うん)

 

知ってる。

 

あなたは、そういう人だ。

 

セイランは、私の鱗を軽く撫でた。

 

「お前にも、無理はさせない」

 

……。

 

(……あ)

 

それは。

 

少し、嬉しい。

 

私は、そっと息を吐いた。

 

この人は、私をただの乗り物だと思っていない。

 

戦うための道具だとも思っていない。

 

だから、私はこの人を背中に乗せている。

 

きっと、これからも。

 

◇◇◇

 

翌朝。

 

私たちは、白淵族の集落へ帰る準備をしていた。

 

そのとき、楊端和がセイランに声をかけた。

 

「白淵族の者よ」

 

セイランが振り返る。

 

「何だ」

 

楊端和は、少しだけ笑った。

 

「また会おう」

 

セイランは、短く答えた。

 

「ああ」

 

……。

 

(……おお)

 

何だか、格好いい。

 

山の王と、我が一族の戦士。

 

互いに従うわけではない。

 

けれど、約束を交わした。

 

それは、きっと。

 

小さなことではないのだろう。

 

私は、静かに歩き始めた。

 

背中には、セイランとレン。

 

隣には、ハクたちの闘蛇。

 

山の風が、心地よかった。

 

◇◇◇

 

帰り道。

 

私は、ふと考えた。

 

楊端和は、秦国のことを気にしていた。

 

秦国では、兵が動いている。

 

山の民の間でも、不安が広がっている。

 

そして、私たちは今、山の王と約束を交わした。

 

……。

 

(……何だか)

 

少しずつ、世界が広がっている。

 

白淵族の川。

 

黒角族の山。

 

楊端和の治める土地。

 

そして、その向こうにある秦国。

 

私は、まだ山の外を知らない。

 

でも、いつか。

 

その世界へ行くことになるのだろうか。

 

……。

 

(……まあ)

 

そのときは、そのとき。

 

今は、帰ろう。

 

私たちの家へ。

 

レンが待っている川へ。

 

トウエンがいる飼育場へ。

 

そして、私の大好きな魚たちが泳ぐ場所へ。

 

私は、少しだけ歩調を速めた。

 

山の向こうでは、今日も誰かが争っているのかもしれない。

 

けれど、私の背中には。

 

守りたい人たちが、ちゃんと乗っている。

 

それだけは、忘れないでいようと思った。

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