秦の山奥で闘蛇やってます   作:欄外

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第二十六話 山の王が山を下りた日

 

山の民にとって、山を下りるというのは、なかなか大きな出来事らしい。

 

もちろん、山を下りること自体が珍しいわけではない。

 

交易のために出かける者もいるし、獲物を追って麓まで行く者もいる。

 

私だって、セイランたちと一緒に何度か遠出をしている。

 

ただし。

 

一族の戦士たちを率いて、山を下りるとなると話は別だ。

 

それは、交易でも狩りでもない。

 

戦である。

 

しかも、今回向かう先は、山の民同士の争いではないらしい。

 

(……秦国、ですか)

 

私は、川辺で身体を休めながら、遠くの山を眺めていた。

 

どうやら、山の王が動いたらしい。

 

◇◇◇

 

最初の知らせが届いたのは、楊端和のもとから帰って十日ほど経った頃だった。

 

黒角族から、使者が来た。

 

以前から顔見知りの案内役だ。

 

彼は族長の家へ向かい、セイランたちに告げた。

 

「楊端和のもとに、秦国の者が来たらしい」

 

「秦国?」

 

ハクが聞き返した。

 

「ああ。しかも、ただの使者ではないという話だ」

 

族長が顔を上げた。

 

「どういうことだ」

 

「……秦国の王が、自ら山へ入ったらしい」

 

……。

 

(……え)

 

私は、思わず耳を動かした。

 

秦国の王。

 

つまり。

 

嬴政?

 

あの、映画で観た若い王様?

 

(……おおお)

 

これは。

 

もしかして。

 

私は、前世の記憶を探った。

 

確か、映画の序盤。

 

王弟に王宮を奪われた嬴政が、信たちと一緒に山の民のもとを訪れる。

 

そして、楊端和と会う。

 

そう。

 

あの場面だ。

 

(……ということは)

 

今、あの出来事が起きている?

 

私は、静かに空を見上げた。

 

何だか、不思議な気分だった。

 

前世では、映画館の座席に座って観ていた物語。

 

それが今、山の向こうで現実に起きている。

 

◇◇◇

 

「秦国の王が、なぜ山へ来る」

 

ハクが尋ねた。

 

使者は首を横に振った。

 

「詳しいことは分からない。ただ、秦国の内側で争いが起きているという噂はある」

 

「……王が山へ逃れたのか」

 

セイランが言った。

 

「その可能性はある」

 

族長は、しばらく黙っていた。

 

「……楊端和は、どうするつもりだ」

 

「まだ、分かりません」

 

使者は答えた。

 

「ですが、山の王のもとでは、戦士たちが集められているようです」

 

……。

 

(……あ)

 

私は、少しだけ緊張した。

 

戦士を集めている。

 

ということは。

 

やっぱり。

 

あの戦いが始まるのだろうか。

 

◇◇◇

 

翌日。

 

白淵族の集落でも、その話が広まっていた。

 

「秦国の王が山へ来たらしいぞ」

 

「王が?」

 

「楊端和に助けを求めたそうだ」

 

「秦国の王が、山の民に?」

 

皆、驚いていた。

 

無理もない。

 

中華の大国の王が、山の民に助けを求める。

 

それは、山で暮らす人々にとって、簡単には信じられない話だった。

 

(……まあ)

 

私は、知っているんですけどね。

 

映画で観たので。

 

……。

 

(……いや)

 

知っているというのも、少し違うか。

 

映画で観た出来事が、この世界でも同じように起きるとは限らない。

 

それに、私はその場にいたわけではない。

 

だから、何が話されたのかは分からない。

 

私は、川辺で魚を食べながら、静かに耳を傾けていた。

 

◇◇◇

 

それから、さらに数日。

 

今度は、楊端和の勢力圏に近い山から知らせが届いた。

 

「……山の王が、軍を動かした」

 

使者が告げた。

 

族長の家に、緊張が走った。

 

「どこへ」

 

セイランが尋ねる。

 

「秦国へ」

 

「……秦国?」

 

「ああ。山の王が、自ら戦士たちを率いている」

 

……。

 

(……やっぱり)

 

私は、静かに目を閉じた。

 

嬴政と楊端和。

 

二人は、手を結んだのだ。

 

そして、楊端和は山の民を率いて、秦国へ向かった。

 

(……あの場面だ)

 

私は、前世で観た映画を思い出していた。

 

山の民が、秦国の王宮へ攻め込む。

 

仮面をつけた戦士たち。

 

そして、楊端和。

 

……。

 

(……格好よかったなぁ)

 

いや。

 

今は、そんなことを考えている場合ではない。

 

これは、映画ではない。

 

本当に、人が戦っているのだ。

 

◇◇◇

 

「……南の古道は使われたのか」

 

族長が尋ねた。

 

使者は首を横に振った。

 

「いいえ。山の王は、別の道を使ったようです」

 

「そうか」

 

族長は、少しだけ安堵したようだった。

 

南の古道については、つい先日、条件付きで通行を認める約束を交わしたばかりだ。

 

しかし、今回の出兵では、その道は使われなかったらしい。

 

(……まあ)

 

当然かもしれない。

 

楊端和には、もともと秦国へ通じる道があるのだろう。

 

私たちの古道は、山界の別の地域へ向かうためのものだ。

 

何でもかんでも、白淵族の土地を通るわけではない。

 

◇◇◇

 

その日の夕方。

 

セイランとハクが、川辺で話していた。

 

「……楊端和は、本当に秦国のために戦うつもりらしいな」

 

ハクが言った。

 

「ああ」

 

「山の民をまとめるだけでは、足りないのか」

 

セイランは、少し考えてから答えた。

 

「……山の民を守るためかもしれない」

 

「どういうことだ」

 

「秦国と争うより、手を結ぶ方がよいと判断したのだろう」

 

ハクは、しばらく黙っていた。

 

「……なるほどな」

 

私は、その話を聞きながら考えた。

 

確かに。

 

楊端和が秦国と同盟を結ぶことは、山の民にとっても意味がある。

 

秦国と争わずに済む。

 

交易もできるかもしれない。

 

そして、何より。

 

山の民が、中華の国と対等に話をする機会が生まれる。

 

……。

 

(……すごいなぁ)

 

私は、少し感心した。

 

◇◇◇

 

数日が過ぎた。

 

白淵族の暮らしは、いつもどおりだった。

 

狩りに出る者がいる。

 

魚を捕る者がいる。

 

子供たちは走り回り、闘蛇たちは水場で身体を休めている。

 

でも、どこか落ち着かない空気があった。

 

山の王が、戦に出ている。

 

それだけで、山界の人々は少し緊張していた。

 

「……楊端和は勝てるのか」

 

ある戦士が尋ねた。

 

「分からん」

 

別の者が答える。

 

「秦国の戦など、我らには想像もつかん」

 

……。

 

(……そうだよね)

 

私は、静かに思った。

 

白淵族の戦は、せいぜい山道での小競り合いや、集落を守るためのものだ。

 

中華の国々が行う戦とは、規模が違う。

 

何千。

 

何万。

 

そんな数の兵士が戦う世界。

 

私は、まだ知らない。

 

◇◇◇

 

そして、ある日の昼過ぎ。

 

黒角族から、再び使者が来た。

 

彼は、少し興奮した様子だった。

 

「……秦国の王が、王宮を取り戻したらしい!」

 

族長が顔を上げた。

 

「何だと」

 

「王弟が反乱を起こしていたそうです。だが、秦王が山の王の軍とともに王宮へ入り、反乱を鎮めたと!」

 

……。

 

(……おお)

 

私は、思わず顔を上げた。

 

やっぱり。

 

あの戦いだ。

 

成蟜の反乱。

 

そして、咸陽奪還。

 

前世で観た映画の出来事が、本当に起きたのだ。

 

◇◇◇

 

「……楊端和は無事なのか」

 

セイランが尋ねた。

 

「はい。山の王も、軍も戻り始めているそうです」

 

「そうか」

 

セイランは、少しだけ息を吐いた。

 

ハクが笑った。

 

「……やるな、山の王」

 

「そうだな」

 

セイランも、わずかに笑った。

 

……。

 

(……よかった)

 

私は、心の底から安心した。

 

楊端和が無事で。

 

山の民たちが戻ってくるなら。

 

それが一番だ。

 

もちろん、戦で傷ついた者もいるだろう。

 

命を落とした者もいるかもしれない。

 

だから、単純に喜んでいい話ではない。

 

でも。

 

少なくとも、楊端和は戻ってくる。

 

それが、嬉しかった。

 

◇◇◇

 

その夜。

 

族長は、セイランたちを集めた。

 

「……楊端和は、秦国の王と盟を結んだのだろう」

 

「そうだな」

 

セイランが答えた。

 

「山の王が、秦国の王を助けた」

 

族長は、しばらく考え込んだ。

 

「これから、山界も変わるかもしれぬ」

 

ハクが尋ねた。

 

「我らも、何かするべきでしょうか」

 

族長は首を横に振った。

 

「今は、何もする必要はない」

 

「……そうですか」

 

「だが、目を閉じていてよいわけではない」

 

族長は、静かに続けた。

 

「楊端和が秦国と盟を結んだことで、山界の争いも変わるだろう」

 

セイランが頷いた。

 

「……分かっている」

 

◇◇◇

 

翌朝。

 

私は、川辺で身体を休めていた。

 

レンが、魚を持ってきてくれた。

 

「スイ、今日は大きいのが捕れたよ」

 

(……おお)

 

素晴らしい。

 

私は、ありがたくいただいた。

 

レンは、私の首筋を撫でながら言った。

 

「山の王、すごいね」

 

(……うん)

 

本当に。

 

「秦国の王様を助けたんだって」

 

……。

 

(……そうだね)

 

レンは、少しだけ遠くを見つめた。

 

「……いつか、僕たちも山の外へ行くのかな」

 

私は、静かに耳を動かした。

 

山の外。

 

秦国。

 

そして、もっと遠く。

 

前世で観た映画の世界。

 

……。

 

(……どうだろう)

 

私は、少し考えた。

 

正直、興味はある。

 

嬴政にも会ってみたい。

 

信にも。

 

映画で観た、あの人たちが本当にいるのなら。

 

一度くらい、見てみたい。

 

……。

 

(……ただし)

 

戦場は嫌です。

 

できれば、平和な場所でお願いします。

 

私は、心の中でそう付け加えた。

 

◇◇◇

 

夕方。

 

セイランが、私のところへ来た。

 

彼は、しばらく黙って私を見つめていた。

 

そして、私の首筋に手を置いた。

 

「……山の王が、秦国の王と手を結んだ」

 

私は、静かに息を吐いた。

 

「これから、山の外のことも考えねばならんのかもしれないな」

 

……。

 

(……そうだね)

 

セイランは、少しだけ笑った。

 

「だが、今はまだ、ここが俺たちの場所だ」

 

私は、ゆっくりと目を細めた。

 

そう。

 

ここが、私たちの場所。

 

白淵族の山。

 

川。

 

森。

 

そして、家族。

 

世界がどれだけ大きく動いても。

 

私たちの暮らしは、ここにある。

 

◇◇◇

 

その夜。

 

私は、川辺で空を見上げていた。

 

星が、たくさん見えた。

 

前世では、こんなに綺麗な星空を見ることは、あまりなかった。

 

でも、この世界では。

 

夜になると、空いっぱいに星が広がる。

 

私は、静かに考えた。

 

嬴政が、王宮を取り戻した。

 

楊端和が、秦国と盟を結んだ。

 

そして、信という少年も。

 

きっと、あの戦いの中にいたのだろう。

 

……。

 

(……本当に)

 

キングダムの世界なんだなぁ。

 

私は、少しだけ笑いたくなった。

 

いや。

 

闘蛇なので、笑えないのだけれど。

 

それでも、心の中では。

 

少しだけ、笑っていた。

 

山の向こうで、物語が動き始めた。

 

そして、いつか。

 

私たちも、その物語に関わる日が来るのかもしれない。

 

……。

 

(……まあ)

 

そのときは、そのとき。

 

今は、眠ろう。

 

明日も、きっと。

 

美味しい魚が待っている。

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