山の民にとって、山を下りるというのは、なかなか大きな出来事らしい。
もちろん、山を下りること自体が珍しいわけではない。
交易のために出かける者もいるし、獲物を追って麓まで行く者もいる。
私だって、セイランたちと一緒に何度か遠出をしている。
ただし。
一族の戦士たちを率いて、山を下りるとなると話は別だ。
それは、交易でも狩りでもない。
戦である。
しかも、今回向かう先は、山の民同士の争いではないらしい。
(……秦国、ですか)
私は、川辺で身体を休めながら、遠くの山を眺めていた。
どうやら、山の王が動いたらしい。
◇◇◇
最初の知らせが届いたのは、楊端和のもとから帰って十日ほど経った頃だった。
黒角族から、使者が来た。
以前から顔見知りの案内役だ。
彼は族長の家へ向かい、セイランたちに告げた。
「楊端和のもとに、秦国の者が来たらしい」
「秦国?」
ハクが聞き返した。
「ああ。しかも、ただの使者ではないという話だ」
族長が顔を上げた。
「どういうことだ」
「……秦国の王が、自ら山へ入ったらしい」
……。
(……え)
私は、思わず耳を動かした。
秦国の王。
つまり。
嬴政?
あの、映画で観た若い王様?
(……おおお)
これは。
もしかして。
私は、前世の記憶を探った。
確か、映画の序盤。
王弟に王宮を奪われた嬴政が、信たちと一緒に山の民のもとを訪れる。
そして、楊端和と会う。
そう。
あの場面だ。
(……ということは)
今、あの出来事が起きている?
私は、静かに空を見上げた。
何だか、不思議な気分だった。
前世では、映画館の座席に座って観ていた物語。
それが今、山の向こうで現実に起きている。
◇◇◇
「秦国の王が、なぜ山へ来る」
ハクが尋ねた。
使者は首を横に振った。
「詳しいことは分からない。ただ、秦国の内側で争いが起きているという噂はある」
「……王が山へ逃れたのか」
セイランが言った。
「その可能性はある」
族長は、しばらく黙っていた。
「……楊端和は、どうするつもりだ」
「まだ、分かりません」
使者は答えた。
「ですが、山の王のもとでは、戦士たちが集められているようです」
……。
(……あ)
私は、少しだけ緊張した。
戦士を集めている。
ということは。
やっぱり。
あの戦いが始まるのだろうか。
◇◇◇
翌日。
白淵族の集落でも、その話が広まっていた。
「秦国の王が山へ来たらしいぞ」
「王が?」
「楊端和に助けを求めたそうだ」
「秦国の王が、山の民に?」
皆、驚いていた。
無理もない。
中華の大国の王が、山の民に助けを求める。
それは、山で暮らす人々にとって、簡単には信じられない話だった。
(……まあ)
私は、知っているんですけどね。
映画で観たので。
……。
(……いや)
知っているというのも、少し違うか。
映画で観た出来事が、この世界でも同じように起きるとは限らない。
それに、私はその場にいたわけではない。
だから、何が話されたのかは分からない。
私は、川辺で魚を食べながら、静かに耳を傾けていた。
◇◇◇
それから、さらに数日。
今度は、楊端和の勢力圏に近い山から知らせが届いた。
「……山の王が、軍を動かした」
使者が告げた。
族長の家に、緊張が走った。
「どこへ」
セイランが尋ねる。
「秦国へ」
「……秦国?」
「ああ。山の王が、自ら戦士たちを率いている」
……。
(……やっぱり)
私は、静かに目を閉じた。
嬴政と楊端和。
二人は、手を結んだのだ。
そして、楊端和は山の民を率いて、秦国へ向かった。
(……あの場面だ)
私は、前世で観た映画を思い出していた。
山の民が、秦国の王宮へ攻め込む。
仮面をつけた戦士たち。
そして、楊端和。
……。
(……格好よかったなぁ)
いや。
今は、そんなことを考えている場合ではない。
これは、映画ではない。
本当に、人が戦っているのだ。
◇◇◇
「……南の古道は使われたのか」
族長が尋ねた。
使者は首を横に振った。
「いいえ。山の王は、別の道を使ったようです」
「そうか」
族長は、少しだけ安堵したようだった。
南の古道については、つい先日、条件付きで通行を認める約束を交わしたばかりだ。
しかし、今回の出兵では、その道は使われなかったらしい。
(……まあ)
当然かもしれない。
楊端和には、もともと秦国へ通じる道があるのだろう。
私たちの古道は、山界の別の地域へ向かうためのものだ。
何でもかんでも、白淵族の土地を通るわけではない。
◇◇◇
その日の夕方。
セイランとハクが、川辺で話していた。
「……楊端和は、本当に秦国のために戦うつもりらしいな」
ハクが言った。
「ああ」
「山の民をまとめるだけでは、足りないのか」
セイランは、少し考えてから答えた。
「……山の民を守るためかもしれない」
「どういうことだ」
「秦国と争うより、手を結ぶ方がよいと判断したのだろう」
ハクは、しばらく黙っていた。
「……なるほどな」
私は、その話を聞きながら考えた。
確かに。
楊端和が秦国と同盟を結ぶことは、山の民にとっても意味がある。
秦国と争わずに済む。
交易もできるかもしれない。
そして、何より。
山の民が、中華の国と対等に話をする機会が生まれる。
……。
(……すごいなぁ)
私は、少し感心した。
◇◇◇
数日が過ぎた。
白淵族の暮らしは、いつもどおりだった。
狩りに出る者がいる。
魚を捕る者がいる。
子供たちは走り回り、闘蛇たちは水場で身体を休めている。
でも、どこか落ち着かない空気があった。
山の王が、戦に出ている。
それだけで、山界の人々は少し緊張していた。
「……楊端和は勝てるのか」
ある戦士が尋ねた。
「分からん」
別の者が答える。
「秦国の戦など、我らには想像もつかん」
……。
(……そうだよね)
私は、静かに思った。
白淵族の戦は、せいぜい山道での小競り合いや、集落を守るためのものだ。
中華の国々が行う戦とは、規模が違う。
何千。
何万。
そんな数の兵士が戦う世界。
私は、まだ知らない。
◇◇◇
そして、ある日の昼過ぎ。
黒角族から、再び使者が来た。
彼は、少し興奮した様子だった。
「……秦国の王が、王宮を取り戻したらしい!」
族長が顔を上げた。
「何だと」
「王弟が反乱を起こしていたそうです。だが、秦王が山の王の軍とともに王宮へ入り、反乱を鎮めたと!」
……。
(……おお)
私は、思わず顔を上げた。
やっぱり。
あの戦いだ。
成蟜の反乱。
そして、咸陽奪還。
前世で観た映画の出来事が、本当に起きたのだ。
◇◇◇
「……楊端和は無事なのか」
セイランが尋ねた。
「はい。山の王も、軍も戻り始めているそうです」
「そうか」
セイランは、少しだけ息を吐いた。
ハクが笑った。
「……やるな、山の王」
「そうだな」
セイランも、わずかに笑った。
……。
(……よかった)
私は、心の底から安心した。
楊端和が無事で。
山の民たちが戻ってくるなら。
それが一番だ。
もちろん、戦で傷ついた者もいるだろう。
命を落とした者もいるかもしれない。
だから、単純に喜んでいい話ではない。
でも。
少なくとも、楊端和は戻ってくる。
それが、嬉しかった。
◇◇◇
その夜。
族長は、セイランたちを集めた。
「……楊端和は、秦国の王と盟を結んだのだろう」
「そうだな」
セイランが答えた。
「山の王が、秦国の王を助けた」
族長は、しばらく考え込んだ。
「これから、山界も変わるかもしれぬ」
ハクが尋ねた。
「我らも、何かするべきでしょうか」
族長は首を横に振った。
「今は、何もする必要はない」
「……そうですか」
「だが、目を閉じていてよいわけではない」
族長は、静かに続けた。
「楊端和が秦国と盟を結んだことで、山界の争いも変わるだろう」
セイランが頷いた。
「……分かっている」
◇◇◇
翌朝。
私は、川辺で身体を休めていた。
レンが、魚を持ってきてくれた。
「スイ、今日は大きいのが捕れたよ」
(……おお)
素晴らしい。
私は、ありがたくいただいた。
レンは、私の首筋を撫でながら言った。
「山の王、すごいね」
(……うん)
本当に。
「秦国の王様を助けたんだって」
……。
(……そうだね)
レンは、少しだけ遠くを見つめた。
「……いつか、僕たちも山の外へ行くのかな」
私は、静かに耳を動かした。
山の外。
秦国。
そして、もっと遠く。
前世で観た映画の世界。
……。
(……どうだろう)
私は、少し考えた。
正直、興味はある。
嬴政にも会ってみたい。
信にも。
映画で観た、あの人たちが本当にいるのなら。
一度くらい、見てみたい。
……。
(……ただし)
戦場は嫌です。
できれば、平和な場所でお願いします。
私は、心の中でそう付け加えた。
◇◇◇
夕方。
セイランが、私のところへ来た。
彼は、しばらく黙って私を見つめていた。
そして、私の首筋に手を置いた。
「……山の王が、秦国の王と手を結んだ」
私は、静かに息を吐いた。
「これから、山の外のことも考えねばならんのかもしれないな」
……。
(……そうだね)
セイランは、少しだけ笑った。
「だが、今はまだ、ここが俺たちの場所だ」
私は、ゆっくりと目を細めた。
そう。
ここが、私たちの場所。
白淵族の山。
川。
森。
そして、家族。
世界がどれだけ大きく動いても。
私たちの暮らしは、ここにある。
◇◇◇
その夜。
私は、川辺で空を見上げていた。
星が、たくさん見えた。
前世では、こんなに綺麗な星空を見ることは、あまりなかった。
でも、この世界では。
夜になると、空いっぱいに星が広がる。
私は、静かに考えた。
嬴政が、王宮を取り戻した。
楊端和が、秦国と盟を結んだ。
そして、信という少年も。
きっと、あの戦いの中にいたのだろう。
……。
(……本当に)
キングダムの世界なんだなぁ。
私は、少しだけ笑いたくなった。
いや。
闘蛇なので、笑えないのだけれど。
それでも、心の中では。
少しだけ、笑っていた。
山の向こうで、物語が動き始めた。
そして、いつか。
私たちも、その物語に関わる日が来るのかもしれない。
……。
(……まあ)
そのときは、そのとき。
今は、眠ろう。
明日も、きっと。
美味しい魚が待っている。