世の中には、顔が良いのに近寄りがたい人間というものがいる。
例えば、我が一族最強の戦士、セイラン。
長い黒髪に鋭い目つき。黙って立っているだけで、周囲の空気がぴんと張り詰めるような男である。
これが人間同士なら、単に「怖そうな人」で済むのかもしれない。
だが、我々闘蛇にとっては少々事情が違う。
何しろ、闘蛇という生き物は、人間が思っている以上に周囲の気配に敏感なのだ。
特に、殺気。
これには滅法弱い。
……いや、弱いというより、反応しすぎると言った方が正しいかもしれない。
危険を感じれば牙を剥き、相手が近づけば威嚇する。場合によっては、飼い主の制止すら聞かなくなる。
そして、セイランという男。
この人、どうやら殺気がものすごいらしい。
……らしい、というのは、私自身はあまり怖いと思ったことがないからだ。
だって、顔が良いし。
いや、顔が良ければ何でも許されるわけではない。
もちろん、そんなことは分かっている。
分かっているのだが。
……顔が良いんだよなぁ。
◇◇◇
「今日は北の森へ行く」
朝食を終えた私の前で、セイランがそう言った。
その隣では、レンが何やら心配そうな顔をしている。
「本当にスイを連れていくの?」
「ああ」
「昨日初めて乗ったばかりだよ?」
「問題ない」
「でも、北の森って……」
レンが言いかけたところで、セイランは私を見た。
「こいつなら大丈夫だ」
……。
いや。
そんなに信頼されても困るんですけど。
私、昨日初めてあなたを乗せたばかりですよ?
せめて、もう少し段階というものを踏んでいただきたい。
「スイ、嫌だったら無理しなくていいからね」
レンが私の鼻先を撫でた。
ああ、優しい。
本当に優しい。
この人はどうしてこんなに優しいのだろう。
私は甘えるように鼻先を押しつけた。
「……大丈夫そうだね」
いや、違う。
今のは単なる愛情表現です。
承諾の意思表示ではありません。
だが、そんな私の抗議が伝わるはずもなく、セイランはさっさと背中に乗ってしまった。
……。
仕方ない。
行きますか。
◇◇◇
北の森は、白淵族の集落から少し離れた場所にある。
普段私たちが暮らしている湿地帯とは違い、背の高い木々が密集し、地面には太い根が張り巡らされている。
闘蛇にとって、あまり走りやすい場所ではない。
何しろ、身体が大きい。
狭い道では尻尾が木にぶつかるし、足元の根に引っかかることもある。
とはいえ、今日は狩りである。
つまり、獲物がいる。
そして、獲物がいるということは。
……ご飯になる可能性があるということだ。
素晴らしい。
俄然やる気が出てきた。
「スイ、止まれ」
セイランの声が聞こえた。
私は足を止める。
前方には、深い茂みが広がっていた。
セイランは背中から降りると、地面に片膝をついた。
何やら足跡を調べているらしい。
……。
あの姿勢、格好良いな。
いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
私も鼻先を下げ、地面の匂いを嗅いだ。
湿った土の匂い。
草の匂い。
そして、その奥に混じる、獣の匂い。
……おや?
これは、なかなか大きそうですね。
「いるな」
セイランが呟いた。
私は小さく喉を鳴らした。
うん、いるね。
しかも、結構近い。
「行くぞ」
セイランが再び背中に乗った。
私はゆっくりと歩き出した。
◇◇◇
最初に姿を現したのは、大きな猪だった。
いや、猪と言っていいのだろうか。
前世で見たものより、ひと回りもふた回りも大きい。
黒々とした毛に覆われ、口元からは太い牙が突き出している。
……。
でっか。
あれ、食べられるのかな。
いや、食べられるんだろうけど。
どうやって調理するんだろう。
そんなことを考えている間に、セイランが静かに槍を構えた。
空気が変わった。
……あ。
これか。
私は初めて、レンが言っていたことを理解した。
セイランの身体から、何かが溢れ出すような感覚。
目には見えない。
音もしない。
だが、確かに分かる。
獲物を仕留める。
その一点だけに意識が集中している。
……。
うわ。
すごい。
さっきまで普通に背中に乗っていた人と、同じ人物とは思えない。
これが、殺気というものなのだろうか。
猪がこちらに気づいた。
そして、次の瞬間。
「グオオオッ!」
凄まじい声を上げて突進してきた。
……え。
ちょっと待って。
こっち来るの!?
いや、そりゃそうか。
こっちが狩りに来てるんだから、向こうだって必死だよね。
私は反射的に身体を横へ動かした。
巨大な猪が、すぐ横を駆け抜けていく。
その瞬間、背中のセイランが動いた。
槍が閃く。
一瞬だった。
猪の首元に、深々と穂先が突き立った。
……。
…………。
え?
終わり?
猪は数歩進んだところで崩れ落ち、そのまま動かなくなった。
私は呆然とそれを見つめた。
……いや。
強すぎない?
今の、何?
ほとんど一瞬だったんですけど。
セイランは静かに槍を引き抜いた。
その表情には、何の変化もない。
まるで、道端の小石を拾ったかのような顔である。
……。
怖。
いや、格好良いけど。
格好良いんだけど。
これは確かに、他の闘蛇が怖がるのも分かる気がする。
◇◇◇
「……スイ」
セイランが私の首元に手を置いた。
「お前、平気なのか」
……。
何が?
私は首を傾げた。
セイランは少し考え込むように黙った。
「普通の闘蛇なら、今の気配で暴れている」
なるほど。
確かに、さっきの殺気は凄かった。
だが、私としては。
……まあ、セイランだしなぁ。
という気持ちの方が強い。
怖くないわけではない。
ただ、彼が私を傷つけるつもりではないことは分かっている。
だから、別に暴れる必要もないのだ。
私は小さく喉を鳴らした。
すると、セイランはわずかに目を細めた。
「……そうか」
いや、何が「そうか」なのかは分からないけど。
どうやら納得してくれたらしい。
「もう少し奥へ行くぞ」
……。
え。
まだ行くの?
もう十分じゃない?
猪、一頭仕留めたじゃないですか。
でも、セイランは私の返事など待たずに、前方を見据えていた。
……。
仕方ない。
行きますか。
◇◇◇
それからしばらく、私たちは森の奥へ進んだ。
途中、小さな獣を何匹か見かけたが、セイランは手を出さなかった。
どうやら、狙っている獲物が別にいるらしい。
やがて、開けた場所に出た。
そこには、先ほどの猪よりさらに大きな獣がいた。
……。
…………。
いやいやいや。
何あれ。
大きすぎない?
肩の高さだけでも、人間の背丈を軽く超えている。
身体は分厚い毛皮に覆われ、頭には湾曲した角が二本。
牛に似ているが、牛とは思えないほど凶暴そうな顔をしている。
……。
あの。
セイランさん?
まさかとは思いますが。
あれを狩るつもりですか?
「……いたな」
ですよね。
そうですよね。
嫌な予感はしてました。
セイランは静かに槍を構えた。
そして、再び空気が変わる。
先ほどよりも、さらに鋭い殺気。
私は思わず背筋を伸ばした。
……うわ。
これは確かに怖い。
だが、不思議と逃げたいとは思わなかった。
むしろ、身体の奥が熱くなるような感覚がある。
何だろう。
興奮しているのだろうか。
獣がこちらに気づいた。
低く唸り、地面を蹴る。
来る。
そう思った瞬間、セイランが短く告げた。
「右へ回れ」
了解。
私は身体を傾けた。
だが、獣の動きを見た瞬間、考えを変えた。
……いや。
右じゃない。
あれは、こちらの動きに合わせて突進してくる。
右へ回れば、正面からぶつかることになる。
ならば。
私は一瞬だけ左へ身体を振った。
獣が反応する。
そして、その瞬間。
私は大きく右へ跳んだ。
獣の巨体が、すぐ横を通り過ぎる。
「……!」
背中のセイランが、わずかに息を呑んだ。
だが、すぐに動いた。
槍が閃く。
今度は、獣の肩口を深く切り裂いた。
「グオオオオッ!」
獣が咆哮する。
まだ倒れない。
むしろ、怒り狂っている。
……。
あ、これ。
ちょっとまずいかも。
獣が再びこちらを向いた。
その目は血走り、鼻息が荒い。
セイランが槍を構え直す。
「スイ、次は――」
言い終わる前に、私は動いた。
今度は大きく弧を描くように走る。
獣は私を追いかけようとするが、巨体が邪魔をして方向転換が遅い。
よし。
やっぱり。
あの身体なら、小回りは利かない。
私は速度を落とさず、獣の側面へ回り込んだ。
その瞬間、背中のセイランが身体を低くした。
……あ。
分かった。
ここね。
私は足を踏ん張り、身体を安定させた。
そして。
槍が、獣の首元へ深く突き刺さった。
巨大な身体が揺れる。
一歩。
二歩。
そして、地面に崩れ落ちた。
……。
…………。
勝った。
勝ちましたよ。
すごい。
私たち、すごくない?
私は興奮して尻尾を振った。
「……っ!」
背中のセイランが、わずかに身体を揺らした。
あ。
ごめん。
つい。
◇◇◇
集落へ戻る頃には、日が傾き始めていた。
獲物は、後から来た狩人たちが運んでくれることになった。
私たちは一足先に帰還する。
レンは私たちの姿を見るなり、駆け寄ってきた。
「おかえり! どうだった?」
セイランは私の背中から降りると、短く答えた。
「問題ない」
……。
いや。
問題は結構あったと思いますけど。
巨大な猪とか。
巨大な牛みたいなやつとか。
「スイは大丈夫だった?」
レンが心配そうに私の身体を確認する。
ああ。
優しい。
本当に優しい。
私は鼻先を押しつけた。
「怪我はないみたいだね。良かった」
レンがほっと息をついた。
すると、セイランが静かに言った。
「レン」
「何?」
「こいつは、ただ賢いだけじゃない」
レンが顔を上げる。
「俺の動きを読んでいる。いや、それ以上だ」
「それ以上?」
「ああ」
セイランは私を見た。
「俺が考えるより先に、最善の動きを選ぶことがある」
……。
いや。
そこまで褒められると、ちょっと照れるんですけど。
「まるで、人間と組んで戦っているようだった」
……。
…………。
あ。
それ、結構核心を突いてます。
私は思わず目を逸らした。
レンはしばらく考え込んでいたが、やがて笑った。
「やっぱり、スイは特別なんだね」
ふふん。
まあね。
もっと褒めてもいいのよ。
すると、セイランが私の鼻先に手を置いた。
「……いい相棒だ」
……。
…………。
相棒。
今、相棒って言いました?
私は思わず喉を鳴らした。
すると、セイランはほんの少しだけ笑った。
……ああ。
やっぱり顔が良い。
本当に良い。
そして、何より。
その笑顔を見た時、私は少しだけ嬉しくなった。
単に顔が良いからではない。
……いや、それもあるけど。
この人は、私をただの乗り物として見ていない。
一緒に考え、一緒に動く相手として扱ってくれている。
それが、何だか嬉しかったのだ。
私はそっと鼻先を押しつけた。
セイランは何も言わず、私の鱗を撫でた。
こうして、私たちの初めての狩りは終わった。
ちなみに、その日の夕食。
私はいつもより多めの魚をもらった。
大変、美味しゅうございました。
……。
あれ?
猪のお肉は?
私、結構頑張ったと思うんですけど。