秦の山奥で闘蛇やってます   作:欄外

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第二十九話 珍獣一匹、騒動二つ

 

世の中には、見た目で損をする生き物がいる。

 

例えば、蛇。

 

毒がなくても怖がられるし、人間に危害を加えるつもりがなくても追い払われる。

 

逆に、見た目で得をする生き物もいる。

 

丸い目。

 

小さな身体。

 

ふわふわの毛。

 

それだけで、多少の悪さは許されてしまう。

 

……。

 

(……不公平では?)

 

私は、飼育場の隅を走り回る角蜥を見つめていた。

 

あの子、昨日も餌箱をひっくり返した。

 

今朝は水桶を倒した。

 

そして、つい先ほど。

 

レンの履物を片方、どこかへ持っていった。

 

それなのに。

 

「元気になってよかったねえ」

 

レンが笑っている。

 

……。

 

(……甘い!)

 

甘すぎる!

 

私が同じことをしたら、絶対に怒られる。

 

いや、九メートルの私が水桶を倒したら、被害の規模が違うけれど。

 

それはそれ。

 

これはこれである。

 

◇◇◇

 

角蜥が白淵族へやってきて、十日ほどが過ぎた。

 

最初は人が近づくだけで威嚇していたが、最近は少し落ち着いてきた。

 

もっとも、慣れたというより、ここが安全だと分かっただけらしい。

 

人の手から餌を食べることはない。

 

近づきすぎれば噛みつこうとする。

 

逃げ道があれば、迷わず逃げる。

 

それでも、最初の頃に比べれば大きな進歩だった。

 

「角蜥って、案外賢いんだね」

 

レンが言った。

 

トウエンは、木箱の留め具を確認しながら答えた。

 

「賢いから逃げるんだ。閉じ込められていると分かっている」

 

「……なるほど」

 

「お前も、可愛いからといって油断するな」

 

「分かってるよ」

 

トウエンは、レンの足元を見た。

 

「履物は?」

 

「……探してる」

 

「分かっていないな」

 

私は、思わず喉を鳴らした。

 

(……ふふ)

 

お父さん、厳しい。

 

◇◇◇

 

問題が起きたのは、その日の昼過ぎだった。

 

飼育場の外から、男の怒鳴り声が聞こえた。

 

「トウエンはいるか!」

 

やってきたのは、白淵族の狩人だった。

 

名をジンという。

 

四十を少し過ぎたくらいの、日に焼けた男だ。

 

彼は、片手に破れた革袋を持っていた。

 

「お前のところで預かっている獣だがな」

 

トウエンが顔を上げる。

 

「角蜥か」

 

「ああ。昨日、俺の干し草を荒らした」

 

「……干し草?」

 

「そうだ。冬に備えて集めていたものだ」

 

レンが首を傾げた。

 

「でも、昨日は飼育場から出してないよ?」

 

ジンは、革袋を地面へ置いた。

 

「なら、あの足跡は何だ」

 

袋には、小さな爪の跡が残っていた。

 

……。

 

(……あら)

 

私は、少しだけ顔を近づけた。

 

確かに、角蜥の足に似ている。

 

でも。

 

(……昨日?)

 

あの子、ずっと飼育場にいなかったっけ。

 

少なくとも、私が見ていた間は。

 

トウエンは、袋を手に取った。

 

「……被害はこれだけか」

 

「干し草も食われた。小屋の戸も傷ついている」

 

「分かった。見に行こう」

 

◇◇◇

 

ジンの小屋は、集落の外れにあった。

 

狩りに使う道具や、家畜の餌を保管する場所だ。

 

私たちが着くと、確かに戸の下に引っかき傷があった。

 

干し草も、一部が散らばっている。

 

レンがしゃがみ込んだ。

 

「……角蜥かな」

 

トウエンは、すぐには答えなかった。

 

地面の跡を調べ、戸の傷を見て、それから周囲を歩いた。

 

「……違うな」

 

「え?」

 

ジンが眉を寄せた。

 

「何が違う」

 

「爪の間隔だ」

 

トウエンは、地面を指さした。

 

「角蜥は前脚の指が長い。こいつは短い」

 

「……別の獣だと?」

 

「おそらくな」

 

……。

 

(……おお)

 

さすが専門家。

 

私は、少し感心した。

 

ジンは、納得しきれない顔だった。

 

「だが、似た獣だろう」

 

「そうだな」

 

「なら、あれが仲間を呼んだんじゃないのか」

 

……。

 

(……ええ?)

 

呼ぶ?

 

どうやって?

 

角蜥、そんな能力あるの?

 

私は、思わず顔を上げた。

 

レンも困ったように笑った。

 

「ジンさん、それはさすがに……」

 

「分からんだろう。山の東から来た獣なんだ」

 

トウエンは、静かに答えた。

 

「分からんからこそ、調べるんだ」

 

◇◇◇

 

結局、ジンの小屋を荒らした獣の正体は、その場では分からなかった。

 

ただし、角蜥が犯人だと決まったわけでもない。

 

トウエンは、夜の間に見張りを置くことにした。

 

そして、角蜥の木箱も改めて確認した。

 

「……外へ出た形跡はないな」

 

レンが言った。

 

「そうだな」

 

トウエンは頷いた。

 

「だが、今後はもっと気をつけよう」

 

……。

 

(……そうですね)

 

私は、静かに思った。

 

知らない生き物を預かるというのは、こういうことなのだろう。

 

何かが起きたとき、まず疑われる。

 

本当に悪いことをしたかどうかは、後回しになる。

 

◇◇◇

 

その夜。

 

私は、飼育場の近くで身体を休めていた。

 

角蜥は、木箱の中で丸くなっている。

 

昼間の騒ぎなど、まるで知らない様子だった。

 

……。

 

(……気楽なものね)

 

私は、少しだけ羨ましくなった。

 

すると、レンがやってきた。

 

「スイ、まだ起きてたの?」

 

(……まあね)

 

私は、ゆっくりと瞬きをした。

 

レンは、角蜥の木箱を見た。

 

「……あの子、悪いことしてないといいな」

 

……。

 

(……うん)

 

私も、そう思う。

 

レンは、少しだけ困ったように笑った。

 

「知らない子だから、怖いって思う人もいるんだろうね」

 

……。

 

(……そうだね)

 

私は、静かに角蜥を見つめた。

 

この子は、ここへ来たくて来たわけではない。

 

山の王に捕まり、木箱に入れられ、知らない土地へ運ばれてきた。

 

そして今は、知らない人間たちに囲まれている。

 

……。

 

(……大変だ)

 

考えてみれば。

 

私も、最初は似たようなものだった。

 

◇◇◇

 

翌朝。

 

ジンの小屋を見張っていた戦士が戻ってきた。

 

「……いたぞ」

 

トウエンが顔を上げた。

 

「何がだ」

 

「小屋を荒らしていた獣だ」

 

「捕まえたのか」

 

「ああ」

 

戦士は、布袋を差し出した。

 

中には、小さな獣が入っていた。

 

丸い身体。

 

短い脚。

 

尖った鼻。

 

……。

 

(……あら)

 

可愛い。

 

私は、思わず顔を近づけた。

 

戦士が慌てて言った。

 

「おい、食うなよ!」

 

……。

 

(……食べませんよ!)

 

失礼な。

 

私は、少しだけ不満だった。

 

◇◇◇

 

トウエンは、獣を見て頷いた。

 

「……やはり、山鼠か」

 

「山鼠?」

 

レンが尋ねた。

 

「ああ。干し草や木の実を好む。冬が近づくと、集落へ入り込むことがある」

 

ジンも、その場にいた。

 

彼は、しばらく山鼠を見つめていた。

 

そして、ぽつりと言った。

 

「……角蜥じゃなかったのか」

 

「そうだ」

 

トウエンが答えた。

 

ジンは、少しだけ頭を掻いた。

 

「……悪かったな」

 

レンが笑った。

 

「角蜥に言ってあげてよ」

 

「……獣に謝ってどうする」

 

「でも、疑われたんだよ?」

 

ジンは、少し考えた。

 

そして、角蜥の木箱へ向かった。

 

……。

 

(……おお)

 

本当に謝るの?

 

私は、興味津々だった。

 

◇◇◇

 

ジンは、木箱の前でしゃがみ込んだ。

 

中の角蜥は、彼を見つめている。

 

「……お前じゃなかったらしいな」

 

角蜥は、動かない。

 

「……悪かった」

 

……。

 

(……おお)

 

謝った。

 

私は、少し感動した。

 

ところが。

 

「シャアッ!」

 

角蜥は、勢いよく威嚇した。

 

ジンが飛び退く。

 

「……こいつ!」

 

レンが笑い出した。

 

トウエンも、口元を緩めた。

 

私は、喉の奥で小さく音を鳴らした。

 

(……ふふふ)

 

許してもらえなかったらしい。

 

◇◇◇

 

騒ぎは、それで終わるはずだった。

 

しかし、もう一つ問題が残っていた。

 

「……ところで」

 

族長が、トウエンに尋ねた。

 

「角蜥は、いつまで預かるつもりだ」

 

トウエンは、少し考えた。

 

「まだ決めておりません」

 

「山の王へ返すのか」

 

「それも、相談が必要でしょう」

 

族長は頷いた。

 

「……そうだな」

 

そして、静かに続けた。

 

「我らは、闘蛇を育てる一族だ。だが、すべての獣を引き受けられるわけではない」

 

……。

 

(……あ)

 

私は、少しだけ耳を動かした。

 

確かに。

 

楊端和が珍しい獣を見つけるたびに送ってきたら、飼育場は大変なことになる。

 

トウエンも、レンも、忙しい。

 

闘蛇たちの世話だってある。

 

……。

 

(……それは困る)

 

私の魚の量が減るかもしれない。

 

いや。

 

そこ?

 

◇◇◇

 

「……山の王には、こちらから伝えましょう」

 

トウエンが言った。

 

「珍しい獣を預かることはできます。ですが、今後は事前に相談していただきたい」

 

族長は頷いた。

 

「それがよい」

 

「それから、角蜥については、もう少し観察を続けたいと思います」

 

「理由は?」

 

「……まだ、分からないことが多いので」

 

トウエンは、少しだけ笑った。

 

「知らないまま返すのも、惜しいでしょう」

 

……。

 

(……おお)

 

研究者の顔だ。

 

私は、少し感心した。

 

◇◇◇

 

数日後。

 

楊端和のもとへ、使者が送られた。

 

角蜥は元気に暮らしていること。

 

餌や習性について、少しずつ分かってきたこと。

 

そして、今後珍しい獣を預ける場合は、事前に相談してほしいこと。

 

……。

 

(……苦情?)

 

いや。

 

お願い?

 

まあ、どちらでもいいか。

 

◇◇◇

 

その日の夕方。

 

私は、川辺で身体を休めていた。

 

レンが、隣に座っている。

 

「……スイ」

 

(……はい)

 

「知らないものを受け入れるって、難しいね」

 

……。

 

(……そうだね)

 

私は、静かに思った。

 

角蜥は、何も悪いことをしていなかった。

 

でも、知らない獣だから疑われた。

 

一方で、トウエンたちは、知らない獣だからこそ調べようとした。

 

同じ「知らない」でも。

 

そこから先の行動は、ずいぶん違う。

 

……。

 

(……面白いなぁ)

 

私は、少しだけ考え込んだ。

 

前世でも、似たようなことがあった気がする。

 

知らない人。

 

知らない文化。

 

知らない考え方。

 

それを怖がる人もいれば、面白がる人もいる。

 

どちらが正しいかは、簡単には決められない。

 

でも。

 

少なくとも、知らないというだけで決めつけるのは、少しもったいない。

 

……。

 

(……そう思う)

 

私は、ゆっくりと目を閉じた。

 

◇◇◇

 

その夜。

 

角蜥は、木箱の中で眠っていた。

 

私は、少し離れた場所で身体を伏せていた。

 

月明かりが、飼育場を照らしている。

 

……。

 

(……ねえ)

 

私は、心の中で角蜥に話しかけた。

 

あなたも、大変ね。

 

知らない土地へ来て。

 

知らない人たちに囲まれて。

 

でも。

 

ここは、悪い場所じゃないよ。

 

レンは優しいし。

 

トウエンは頼りになるし。

 

セイランは、ちょっと無口だけど。

 

……。

 

(……まあ)

 

私もいるしね。

 

私は、静かに目を閉じた。

 

角蜥が、小さく身体を動かした。

 

そして、また眠った。

 

……。

 

(……おやすみ)

 

明日も、きっと。

 

何か面白いことが起きるのだろう。

 

ただし。

 

できれば。

 

レンの履物は、もう盗まないでほしい。

 

あれ、まだ片方しか見つかっていないので。

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