世の中には、見た目で損をする生き物がいる。
例えば、蛇。
毒がなくても怖がられるし、人間に危害を加えるつもりがなくても追い払われる。
逆に、見た目で得をする生き物もいる。
丸い目。
小さな身体。
ふわふわの毛。
それだけで、多少の悪さは許されてしまう。
……。
(……不公平では?)
私は、飼育場の隅を走り回る角蜥を見つめていた。
あの子、昨日も餌箱をひっくり返した。
今朝は水桶を倒した。
そして、つい先ほど。
レンの履物を片方、どこかへ持っていった。
それなのに。
「元気になってよかったねえ」
レンが笑っている。
……。
(……甘い!)
甘すぎる!
私が同じことをしたら、絶対に怒られる。
いや、九メートルの私が水桶を倒したら、被害の規模が違うけれど。
それはそれ。
これはこれである。
◇◇◇
角蜥が白淵族へやってきて、十日ほどが過ぎた。
最初は人が近づくだけで威嚇していたが、最近は少し落ち着いてきた。
もっとも、慣れたというより、ここが安全だと分かっただけらしい。
人の手から餌を食べることはない。
近づきすぎれば噛みつこうとする。
逃げ道があれば、迷わず逃げる。
それでも、最初の頃に比べれば大きな進歩だった。
「角蜥って、案外賢いんだね」
レンが言った。
トウエンは、木箱の留め具を確認しながら答えた。
「賢いから逃げるんだ。閉じ込められていると分かっている」
「……なるほど」
「お前も、可愛いからといって油断するな」
「分かってるよ」
トウエンは、レンの足元を見た。
「履物は?」
「……探してる」
「分かっていないな」
私は、思わず喉を鳴らした。
(……ふふ)
お父さん、厳しい。
◇◇◇
問題が起きたのは、その日の昼過ぎだった。
飼育場の外から、男の怒鳴り声が聞こえた。
「トウエンはいるか!」
やってきたのは、白淵族の狩人だった。
名をジンという。
四十を少し過ぎたくらいの、日に焼けた男だ。
彼は、片手に破れた革袋を持っていた。
「お前のところで預かっている獣だがな」
トウエンが顔を上げる。
「角蜥か」
「ああ。昨日、俺の干し草を荒らした」
「……干し草?」
「そうだ。冬に備えて集めていたものだ」
レンが首を傾げた。
「でも、昨日は飼育場から出してないよ?」
ジンは、革袋を地面へ置いた。
「なら、あの足跡は何だ」
袋には、小さな爪の跡が残っていた。
……。
(……あら)
私は、少しだけ顔を近づけた。
確かに、角蜥の足に似ている。
でも。
(……昨日?)
あの子、ずっと飼育場にいなかったっけ。
少なくとも、私が見ていた間は。
トウエンは、袋を手に取った。
「……被害はこれだけか」
「干し草も食われた。小屋の戸も傷ついている」
「分かった。見に行こう」
◇◇◇
ジンの小屋は、集落の外れにあった。
狩りに使う道具や、家畜の餌を保管する場所だ。
私たちが着くと、確かに戸の下に引っかき傷があった。
干し草も、一部が散らばっている。
レンがしゃがみ込んだ。
「……角蜥かな」
トウエンは、すぐには答えなかった。
地面の跡を調べ、戸の傷を見て、それから周囲を歩いた。
「……違うな」
「え?」
ジンが眉を寄せた。
「何が違う」
「爪の間隔だ」
トウエンは、地面を指さした。
「角蜥は前脚の指が長い。こいつは短い」
「……別の獣だと?」
「おそらくな」
……。
(……おお)
さすが専門家。
私は、少し感心した。
ジンは、納得しきれない顔だった。
「だが、似た獣だろう」
「そうだな」
「なら、あれが仲間を呼んだんじゃないのか」
……。
(……ええ?)
呼ぶ?
どうやって?
角蜥、そんな能力あるの?
私は、思わず顔を上げた。
レンも困ったように笑った。
「ジンさん、それはさすがに……」
「分からんだろう。山の東から来た獣なんだ」
トウエンは、静かに答えた。
「分からんからこそ、調べるんだ」
◇◇◇
結局、ジンの小屋を荒らした獣の正体は、その場では分からなかった。
ただし、角蜥が犯人だと決まったわけでもない。
トウエンは、夜の間に見張りを置くことにした。
そして、角蜥の木箱も改めて確認した。
「……外へ出た形跡はないな」
レンが言った。
「そうだな」
トウエンは頷いた。
「だが、今後はもっと気をつけよう」
……。
(……そうですね)
私は、静かに思った。
知らない生き物を預かるというのは、こういうことなのだろう。
何かが起きたとき、まず疑われる。
本当に悪いことをしたかどうかは、後回しになる。
◇◇◇
その夜。
私は、飼育場の近くで身体を休めていた。
角蜥は、木箱の中で丸くなっている。
昼間の騒ぎなど、まるで知らない様子だった。
……。
(……気楽なものね)
私は、少しだけ羨ましくなった。
すると、レンがやってきた。
「スイ、まだ起きてたの?」
(……まあね)
私は、ゆっくりと瞬きをした。
レンは、角蜥の木箱を見た。
「……あの子、悪いことしてないといいな」
……。
(……うん)
私も、そう思う。
レンは、少しだけ困ったように笑った。
「知らない子だから、怖いって思う人もいるんだろうね」
……。
(……そうだね)
私は、静かに角蜥を見つめた。
この子は、ここへ来たくて来たわけではない。
山の王に捕まり、木箱に入れられ、知らない土地へ運ばれてきた。
そして今は、知らない人間たちに囲まれている。
……。
(……大変だ)
考えてみれば。
私も、最初は似たようなものだった。
◇◇◇
翌朝。
ジンの小屋を見張っていた戦士が戻ってきた。
「……いたぞ」
トウエンが顔を上げた。
「何がだ」
「小屋を荒らしていた獣だ」
「捕まえたのか」
「ああ」
戦士は、布袋を差し出した。
中には、小さな獣が入っていた。
丸い身体。
短い脚。
尖った鼻。
……。
(……あら)
可愛い。
私は、思わず顔を近づけた。
戦士が慌てて言った。
「おい、食うなよ!」
……。
(……食べませんよ!)
失礼な。
私は、少しだけ不満だった。
◇◇◇
トウエンは、獣を見て頷いた。
「……やはり、山鼠か」
「山鼠?」
レンが尋ねた。
「ああ。干し草や木の実を好む。冬が近づくと、集落へ入り込むことがある」
ジンも、その場にいた。
彼は、しばらく山鼠を見つめていた。
そして、ぽつりと言った。
「……角蜥じゃなかったのか」
「そうだ」
トウエンが答えた。
ジンは、少しだけ頭を掻いた。
「……悪かったな」
レンが笑った。
「角蜥に言ってあげてよ」
「……獣に謝ってどうする」
「でも、疑われたんだよ?」
ジンは、少し考えた。
そして、角蜥の木箱へ向かった。
……。
(……おお)
本当に謝るの?
私は、興味津々だった。
◇◇◇
ジンは、木箱の前でしゃがみ込んだ。
中の角蜥は、彼を見つめている。
「……お前じゃなかったらしいな」
角蜥は、動かない。
「……悪かった」
……。
(……おお)
謝った。
私は、少し感動した。
ところが。
「シャアッ!」
角蜥は、勢いよく威嚇した。
ジンが飛び退く。
「……こいつ!」
レンが笑い出した。
トウエンも、口元を緩めた。
私は、喉の奥で小さく音を鳴らした。
(……ふふふ)
許してもらえなかったらしい。
◇◇◇
騒ぎは、それで終わるはずだった。
しかし、もう一つ問題が残っていた。
「……ところで」
族長が、トウエンに尋ねた。
「角蜥は、いつまで預かるつもりだ」
トウエンは、少し考えた。
「まだ決めておりません」
「山の王へ返すのか」
「それも、相談が必要でしょう」
族長は頷いた。
「……そうだな」
そして、静かに続けた。
「我らは、闘蛇を育てる一族だ。だが、すべての獣を引き受けられるわけではない」
……。
(……あ)
私は、少しだけ耳を動かした。
確かに。
楊端和が珍しい獣を見つけるたびに送ってきたら、飼育場は大変なことになる。
トウエンも、レンも、忙しい。
闘蛇たちの世話だってある。
……。
(……それは困る)
私の魚の量が減るかもしれない。
いや。
そこ?
◇◇◇
「……山の王には、こちらから伝えましょう」
トウエンが言った。
「珍しい獣を預かることはできます。ですが、今後は事前に相談していただきたい」
族長は頷いた。
「それがよい」
「それから、角蜥については、もう少し観察を続けたいと思います」
「理由は?」
「……まだ、分からないことが多いので」
トウエンは、少しだけ笑った。
「知らないまま返すのも、惜しいでしょう」
……。
(……おお)
研究者の顔だ。
私は、少し感心した。
◇◇◇
数日後。
楊端和のもとへ、使者が送られた。
角蜥は元気に暮らしていること。
餌や習性について、少しずつ分かってきたこと。
そして、今後珍しい獣を預ける場合は、事前に相談してほしいこと。
……。
(……苦情?)
いや。
お願い?
まあ、どちらでもいいか。
◇◇◇
その日の夕方。
私は、川辺で身体を休めていた。
レンが、隣に座っている。
「……スイ」
(……はい)
「知らないものを受け入れるって、難しいね」
……。
(……そうだね)
私は、静かに思った。
角蜥は、何も悪いことをしていなかった。
でも、知らない獣だから疑われた。
一方で、トウエンたちは、知らない獣だからこそ調べようとした。
同じ「知らない」でも。
そこから先の行動は、ずいぶん違う。
……。
(……面白いなぁ)
私は、少しだけ考え込んだ。
前世でも、似たようなことがあった気がする。
知らない人。
知らない文化。
知らない考え方。
それを怖がる人もいれば、面白がる人もいる。
どちらが正しいかは、簡単には決められない。
でも。
少なくとも、知らないというだけで決めつけるのは、少しもったいない。
……。
(……そう思う)
私は、ゆっくりと目を閉じた。
◇◇◇
その夜。
角蜥は、木箱の中で眠っていた。
私は、少し離れた場所で身体を伏せていた。
月明かりが、飼育場を照らしている。
……。
(……ねえ)
私は、心の中で角蜥に話しかけた。
あなたも、大変ね。
知らない土地へ来て。
知らない人たちに囲まれて。
でも。
ここは、悪い場所じゃないよ。
レンは優しいし。
トウエンは頼りになるし。
セイランは、ちょっと無口だけど。
……。
(……まあ)
私もいるしね。
私は、静かに目を閉じた。
角蜥が、小さく身体を動かした。
そして、また眠った。
……。
(……おやすみ)
明日も、きっと。
何か面白いことが起きるのだろう。
ただし。
できれば。
レンの履物は、もう盗まないでほしい。
あれ、まだ片方しか見つかっていないので。