食欲がない。
前世では、そんな日もあった。
仕事が忙しかったり、暑さで疲れていたり、単純に食べすぎた翌日だったり。
けれど、今の私にはほとんど縁のない言葉である。
何しろ、闘蛇だ。
身体が大きい。
よく動く。
当然、よく食べる。
だからこそ。
(……食べないって、結構心配なんですけど)
私は、木箱の前に置かれた葉を見つめていた。
昨日の朝に置かれたものだ。
ほとんど減っていない。
箱の奥では、角蜥が丸くなっている。
「……今日も食べてないね」
レンが呟いた。
その声は、いつもより少し低かった。
◇◇◇
異変に最初に気づいたのは、レンだった。
三日前の朝。
いつものように餌を持っていくと、角蜥が木箱から出てこなかった。
普段なら、レンが近づくだけで顔を出す。
餌を持っていると分かれば、少し離れたところまで寄ってくるようにもなっていた。
それが、その日は動かなかった。
「眠いのかな」
レンはそう言って、餌を置いた。
翌朝。
葉は、半分ほど残っていた。
そして三日目。
ほとんど手つかずになった。
「父さん、ちょっと見てほしい」
呼ばれたトウエンは、角蜥を無理に引っ張り出すことはしなかった。
木箱の横にしゃがみ、しばらく様子を観察した。
「……水は飲んでいるか」
「昨日は飲んだと思う。水桶が少し減っていたから」
「糞は?」
「一昨日から見てない」
「そうか」
トウエンは、箱の奥を覗き込んだ。
角蜥は目を開けている。
呼吸も乱れていない。
ただ、いつものように威嚇することもなかった。
「……病気かな」
レンが尋ねる。
「まだ分からん」
「でも、食べないんだよ」
「だから調べる」
トウエンは立ち上がった。
「まず、餌を変えてみよう」
◇◇◇
その日の昼。
飼育場には、ちょっとした葉っぱの見本市ができていた。
柔らかい若葉。
少し厚みのある葉。
山の斜面で採れる草。
川辺に生える植物。
レンが一つずつ、角蜥の前に置いていく。
「これは?」
無反応。
「じゃあ、こっち」
無反応。
「……これも駄目か」
私は、その様子を横から眺めていた。
(……グルメになった?)
いや、そんな冗談を言っている場合ではない。
食べないというのは、明らかにおかしい。
角蜥は、少し前まで元気に走り回っていた。
レンの履物を隠し、水桶を倒し、木箱の留め具を引っかいていた。
あの小さな身体のどこにそんな力があるのかと、感心するくらいだったのに。
今は、ほとんど動かない。
私は、そっと鼻先を近づけた。
角蜥が目を動かす。
「シャ……」
かすれた声がした。
(……あら)
いつもの威勢はどうしたの。
私に喧嘩を売っていた頃のあなたは、もっと元気だったでしょう。
「スイ、少し離れていて」
レンが優しく言った。
「怖がらせたくないから」
私は、おとなしく身体を引いた。
……別に、言われた意味が分かったからではない。
たまたま、そうしたかっただけである。
たぶん。
◇◇◇
夕方になると、トウエンは飼育場の若い世話係を呼んだ。
「角蜥が来てからの記録を持ってきてくれ」
白淵族には、獣の様子を書き留める習慣がある。
文字を扱える者は限られているため、簡単な印や絵を使うことも多い。
いつ餌を食べたか。
どのくらい水を飲んだか。
怪我をしていないか。
闘蛇の場合は、鱗の状態や動き方まで記録する。
角蜥についても、レンが毎日書き残していた。
「……最初の十日は、葉をよく食べていたな」
トウエンが言う。
「うん」
「その後、食べる量が増えている」
「慣れてきたからだと思ってた」
「それから急に減った」
レンは頷いた。
トウエンは、記録を指で追った。
「……木箱を引っかく回数が増えたのは、いつからだ」
「えっと……」
レンが覗き込む。
「五日前くらいかな」
「食べなくなる前か」
「……そうだね」
二人は、しばらく黙っていた。
「父さん、外に出たがってるのかな」
「その可能性はある」
「じゃあ、少し歩かせてみる?」
「そうだな。ただし、逃げない場所でだ」
◇◇◇
翌朝。
飼育場の一角に、角蜥のための囲いが作られた。
背の低い木柵。
地面には土と石。
日陰になるよう、枝も置かれている。
闘蛇たちの運動場に比べれば、ずいぶん小さい。
それでも、木箱よりは広い。
「よし」
レンが、慎重に角蜥を移した。
角蜥は、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと頭を上げる。
一歩。
二歩。
そして。
急に走り出した。
「わっ!」
レンが驚く。
角蜥は囲いの端まで駆け、木柵に前脚をかけた。
ガリガリと爪を立てる。
反対側へ走る。
また木柵を引っかく。
「……元気じゃないか」
様子を見に来ていたハクが言った。
「そう見えるね」
レンは、少し困った顔をした。
角蜥は、囲いの中を何度も往復している。
途中で葉を置いてみたが、見向きもしなかった。
「……餌より外に出たいのかな」
ハクが言う。
トウエンは答えず、角蜥を見ていた。
やがて、木柵に手をかけた。
「レン。今日はここまでだ」
「もう?」
「ああ」
「でも、まだ走り回ってるよ」
「……走りたいのか、出られずにいるのか。そこを見誤るな」
レンは、はっとした顔になった。
◇◇◇
その夜。
私は、飼育場の外で眠っていた。
いや、正確には眠ろうとしていた。
カリ。
カリカリ。
……。
(……また?)
角蜥が木箱を引っかいている。
昼間あれだけ走ったのに、まだ元気らしい。
カリカリ。
カリ。
……。
(……眠れない)
私は、片目を開けた。
角蜥は、箱の中で同じ場所を引っかいていた。
木箱の端。
外へ通じる隙間。
そこに鼻先を押しつけている。
……。
(……そんなに出たいの)
私は、少し考えた。
この子は、山の東から来た。
楊端和が見つけ、白淵族へ送ってきた。
ここでは餌ももらえる。
水もある。
雨風もしのげる。
少なくとも、命の危険は少ないはずだ。
でも。
(……それで満足とは限らないか)
私は、川の方へ目を向けた。
もし、私が水のない場所へ連れていかれたら。
餌は十分。
寝床も安全。
世話をしてくれる人も優しい。
それでも、川へ入りたくなるだろう。
泳ぎたい。
水の流れを感じたい。
魚を追いかけたい。
……。
(……うん)
絶対に嫌だ。
そんな生活。
◇◇◇
翌朝。
レンは、少し疲れた顔をしていた。
「……あんまり眠れなかった」
トウエンが、湯を入れた器を差し出す。
「角蜥か」
「うん。ずっと木箱を引っかいてた」
「そうか」
「父さん」
レンは、器を両手で持ったまま尋ねた。
「……このまま飼っていて、いいのかな」
トウエンは、すぐには答えなかった。
「どうしてそう思う」
「餌も食べないし、ずっと外へ出たがってる」
「そうだな」
「僕たちは、元気になってほしくて世話をしてるのに……」
レンは、少し言葉を探した。
「……元気になるほど、ここから出たくなるみたいで」
トウエンは、静かに頷いた。
「いいところに気づいたな」
「……そうかな」
「ああ」
トウエンは、飼育場の方を見た。
「獣を育てるとき、何が必要かを考えるのは大事だ」
「うん」
「だが、何を与えれば満足するかは、獣によって違う」
レンは、黙って聞いていた。
「闘蛇には、闘蛇の暮らしがある。角蜥には、角蜥の暮らしがある」
「……うん」
「我らが知っているのは、まだほんの一部だ」
◇◇◇
昼過ぎ。
トウエンは族長のもとを訪れた。
レンも同行した。
私は、少し離れた場所で身体を休めていた。
もちろん、話を聞くためではない。
日陰が気持ちよかったからである。
「……角蜥の様子が変わりました」
トウエンが報告した。
「病気か」
族長が尋ねる。
「その可能性もあります。ただ、食欲が落ちる前から、外へ出ようとする動きが増えています」
「……飼育が合わぬということか」
「まだ断定できません」
トウエンは、少し考えてから続けた。
「ですが、あの獣が本来どのような場所で暮らしているのか、我らは知りません」
族長は頷いた。
「山の王に尋ねるか」
「はい。捕獲した場所や、そのときの様子を知りたいのです」
「……なるほど」
「できれば、同じ獣がほかにもいたのかも」
族長は、しばらく考え込んだ。
「分かった。使者を出そう」
◇◇◇
その日の夕方。
レンは、角蜥の木箱を掃除していた。
角蜥は、相変わらず奥で丸くなっている。
「……ねえ」
レンが、小さく話しかけた。
「君は、どこから来たんだろうね」
角蜥は、答えない。
「どんなところに住んでたのかな」
……。
(……山の東、らしいですよ)
私は、心の中で答えた。
もちろん、それ以上は知らない。
「……帰りたいのかな」
レンは、少しだけ笑った。
「そうだったら、ちゃんと考えないとね」
……。
(……うん)
私は、静かに目を閉じた。
レンは、優しい。
でも、その優しさは、何でも手元に置いておくことではないのだろう。
◇◇◇
翌日。
族長の命で、楊端和のもとへ使者が出発した。
角蜥の食欲が落ちていること。
木箱から出ようとする動きが増えていること。
そして、捕獲した場所と、その周辺の環境について詳しく知りたいこと。
返事が届くまでには、しばらく時間がかかる。
その間も、トウエンとレンは観察を続けることになった。
「……もし、山へ帰すことになったら」
レンが言った。
「寂しくなるなあ」
トウエンは、道具を片づけながら答えた。
「まだ決まっていない」
「分かってるよ」
「だが」
トウエンは、少しだけ表情を緩めた。
「帰すことになったとしても、お前が世話をしたことは無駄にならん」
レンは、父親を見た。
「……うん」
◇◇◇
夜。
角蜥は、また木箱を引っかいていた。
カリ。
カリカリ。
私は、近くで身体を伏せていた。
……。
(……元気になってほしいな)
私は、そう思った。
でも。
元気になることと、ここにいること。
それは、同じではないのかもしれない。
前世の私は、動物園が好きだった。
珍しい生き物を見られるのは楽しかったし、飼育員の仕事にも興味があった。
けれど、自分が巨大な獣になってみると。
少しだけ、違うことも考えるようになった。
安全な場所にいること。
好きな場所にいること。
どちらも、大事なのだ。
……。
(……難しいね)
私は、角蜥を見つめた。
木箱の中で、小さな爪が動いている。
カリ。
カリカリ。
その音を聞きながら、私は静かに考えていた。
あの子が本当に望んでいるものは、何なのだろう。
そして。
それを、私たちは見つけてあげられるのだろうか。