秦の山奥で闘蛇やってます   作:欄外

33 / 44
第三十一話 食べない理由

 

食欲がない。

 

前世では、そんな日もあった。

 

仕事が忙しかったり、暑さで疲れていたり、単純に食べすぎた翌日だったり。

 

けれど、今の私にはほとんど縁のない言葉である。

 

何しろ、闘蛇だ。

 

身体が大きい。

 

よく動く。

 

当然、よく食べる。

 

だからこそ。

 

(……食べないって、結構心配なんですけど)

 

私は、木箱の前に置かれた葉を見つめていた。

 

昨日の朝に置かれたものだ。

 

ほとんど減っていない。

 

箱の奥では、角蜥が丸くなっている。

 

「……今日も食べてないね」

 

レンが呟いた。

 

その声は、いつもより少し低かった。

 

◇◇◇

 

異変に最初に気づいたのは、レンだった。

 

三日前の朝。

 

いつものように餌を持っていくと、角蜥が木箱から出てこなかった。

 

普段なら、レンが近づくだけで顔を出す。

 

餌を持っていると分かれば、少し離れたところまで寄ってくるようにもなっていた。

 

それが、その日は動かなかった。

 

「眠いのかな」

 

レンはそう言って、餌を置いた。

 

翌朝。

 

葉は、半分ほど残っていた。

 

そして三日目。

 

ほとんど手つかずになった。

 

「父さん、ちょっと見てほしい」

 

呼ばれたトウエンは、角蜥を無理に引っ張り出すことはしなかった。

 

木箱の横にしゃがみ、しばらく様子を観察した。

 

「……水は飲んでいるか」

 

「昨日は飲んだと思う。水桶が少し減っていたから」

 

「糞は?」

 

「一昨日から見てない」

 

「そうか」

 

トウエンは、箱の奥を覗き込んだ。

 

角蜥は目を開けている。

 

呼吸も乱れていない。

 

ただ、いつものように威嚇することもなかった。

 

「……病気かな」

 

レンが尋ねる。

 

「まだ分からん」

 

「でも、食べないんだよ」

 

「だから調べる」

 

トウエンは立ち上がった。

 

「まず、餌を変えてみよう」

 

◇◇◇

 

その日の昼。

 

飼育場には、ちょっとした葉っぱの見本市ができていた。

 

柔らかい若葉。

 

少し厚みのある葉。

 

山の斜面で採れる草。

 

川辺に生える植物。

 

レンが一つずつ、角蜥の前に置いていく。

 

「これは?」

 

無反応。

 

「じゃあ、こっち」

 

無反応。

 

「……これも駄目か」

 

私は、その様子を横から眺めていた。

 

(……グルメになった?)

 

いや、そんな冗談を言っている場合ではない。

 

食べないというのは、明らかにおかしい。

 

角蜥は、少し前まで元気に走り回っていた。

 

レンの履物を隠し、水桶を倒し、木箱の留め具を引っかいていた。

 

あの小さな身体のどこにそんな力があるのかと、感心するくらいだったのに。

 

今は、ほとんど動かない。

 

私は、そっと鼻先を近づけた。

 

角蜥が目を動かす。

 

「シャ……」

 

かすれた声がした。

 

(……あら)

 

いつもの威勢はどうしたの。

 

私に喧嘩を売っていた頃のあなたは、もっと元気だったでしょう。

 

「スイ、少し離れていて」

 

レンが優しく言った。

 

「怖がらせたくないから」

 

私は、おとなしく身体を引いた。

 

……別に、言われた意味が分かったからではない。

 

たまたま、そうしたかっただけである。

 

たぶん。

 

◇◇◇

 

夕方になると、トウエンは飼育場の若い世話係を呼んだ。

 

「角蜥が来てからの記録を持ってきてくれ」

 

白淵族には、獣の様子を書き留める習慣がある。

 

文字を扱える者は限られているため、簡単な印や絵を使うことも多い。

 

いつ餌を食べたか。

 

どのくらい水を飲んだか。

 

怪我をしていないか。

 

闘蛇の場合は、鱗の状態や動き方まで記録する。

 

角蜥についても、レンが毎日書き残していた。

 

「……最初の十日は、葉をよく食べていたな」

 

トウエンが言う。

 

「うん」

 

「その後、食べる量が増えている」

 

「慣れてきたからだと思ってた」

 

「それから急に減った」

 

レンは頷いた。

 

トウエンは、記録を指で追った。

 

「……木箱を引っかく回数が増えたのは、いつからだ」

 

「えっと……」

 

レンが覗き込む。

 

「五日前くらいかな」

 

「食べなくなる前か」

 

「……そうだね」

 

二人は、しばらく黙っていた。

 

「父さん、外に出たがってるのかな」

 

「その可能性はある」

 

「じゃあ、少し歩かせてみる?」

 

「そうだな。ただし、逃げない場所でだ」

 

◇◇◇

 

翌朝。

 

飼育場の一角に、角蜥のための囲いが作られた。

 

背の低い木柵。

 

地面には土と石。

 

日陰になるよう、枝も置かれている。

 

闘蛇たちの運動場に比べれば、ずいぶん小さい。

 

それでも、木箱よりは広い。

 

「よし」

 

レンが、慎重に角蜥を移した。

 

角蜥は、しばらく動かなかった。

 

やがて、ゆっくりと頭を上げる。

 

一歩。

 

二歩。

 

そして。

 

急に走り出した。

 

「わっ!」

 

レンが驚く。

 

角蜥は囲いの端まで駆け、木柵に前脚をかけた。

 

ガリガリと爪を立てる。

 

反対側へ走る。

 

また木柵を引っかく。

 

「……元気じゃないか」

 

様子を見に来ていたハクが言った。

 

「そう見えるね」

 

レンは、少し困った顔をした。

 

角蜥は、囲いの中を何度も往復している。

 

途中で葉を置いてみたが、見向きもしなかった。

 

「……餌より外に出たいのかな」

 

ハクが言う。

 

トウエンは答えず、角蜥を見ていた。

 

やがて、木柵に手をかけた。

 

「レン。今日はここまでだ」

 

「もう?」

 

「ああ」

 

「でも、まだ走り回ってるよ」

 

「……走りたいのか、出られずにいるのか。そこを見誤るな」

 

レンは、はっとした顔になった。

 

◇◇◇

 

その夜。

 

私は、飼育場の外で眠っていた。

 

いや、正確には眠ろうとしていた。

 

カリ。

 

カリカリ。

 

……。

 

(……また?)

 

角蜥が木箱を引っかいている。

 

昼間あれだけ走ったのに、まだ元気らしい。

 

カリカリ。

 

カリ。

 

……。

 

(……眠れない)

 

私は、片目を開けた。

 

角蜥は、箱の中で同じ場所を引っかいていた。

 

木箱の端。

 

外へ通じる隙間。

 

そこに鼻先を押しつけている。

 

……。

 

(……そんなに出たいの)

 

私は、少し考えた。

 

この子は、山の東から来た。

 

楊端和が見つけ、白淵族へ送ってきた。

 

ここでは餌ももらえる。

 

水もある。

 

雨風もしのげる。

 

少なくとも、命の危険は少ないはずだ。

 

でも。

 

(……それで満足とは限らないか)

 

私は、川の方へ目を向けた。

 

もし、私が水のない場所へ連れていかれたら。

 

餌は十分。

 

寝床も安全。

 

世話をしてくれる人も優しい。

 

それでも、川へ入りたくなるだろう。

 

泳ぎたい。

 

水の流れを感じたい。

 

魚を追いかけたい。

 

……。

 

(……うん)

 

絶対に嫌だ。

 

そんな生活。

 

◇◇◇

 

翌朝。

 

レンは、少し疲れた顔をしていた。

 

「……あんまり眠れなかった」

 

トウエンが、湯を入れた器を差し出す。

 

「角蜥か」

 

「うん。ずっと木箱を引っかいてた」

 

「そうか」

 

「父さん」

 

レンは、器を両手で持ったまま尋ねた。

 

「……このまま飼っていて、いいのかな」

 

トウエンは、すぐには答えなかった。

 

「どうしてそう思う」

 

「餌も食べないし、ずっと外へ出たがってる」

 

「そうだな」

 

「僕たちは、元気になってほしくて世話をしてるのに……」

 

レンは、少し言葉を探した。

 

「……元気になるほど、ここから出たくなるみたいで」

 

トウエンは、静かに頷いた。

 

「いいところに気づいたな」

 

「……そうかな」

 

「ああ」

 

トウエンは、飼育場の方を見た。

 

「獣を育てるとき、何が必要かを考えるのは大事だ」

 

「うん」

 

「だが、何を与えれば満足するかは、獣によって違う」

 

レンは、黙って聞いていた。

 

「闘蛇には、闘蛇の暮らしがある。角蜥には、角蜥の暮らしがある」

 

「……うん」

 

「我らが知っているのは、まだほんの一部だ」

 

◇◇◇

 

昼過ぎ。

 

トウエンは族長のもとを訪れた。

 

レンも同行した。

 

私は、少し離れた場所で身体を休めていた。

 

もちろん、話を聞くためではない。

 

日陰が気持ちよかったからである。

 

「……角蜥の様子が変わりました」

 

トウエンが報告した。

 

「病気か」

 

族長が尋ねる。

 

「その可能性もあります。ただ、食欲が落ちる前から、外へ出ようとする動きが増えています」

 

「……飼育が合わぬということか」

 

「まだ断定できません」

 

トウエンは、少し考えてから続けた。

 

「ですが、あの獣が本来どのような場所で暮らしているのか、我らは知りません」

 

族長は頷いた。

 

「山の王に尋ねるか」

 

「はい。捕獲した場所や、そのときの様子を知りたいのです」

 

「……なるほど」

 

「できれば、同じ獣がほかにもいたのかも」

 

族長は、しばらく考え込んだ。

 

「分かった。使者を出そう」

 

◇◇◇

 

その日の夕方。

 

レンは、角蜥の木箱を掃除していた。

 

角蜥は、相変わらず奥で丸くなっている。

 

「……ねえ」

 

レンが、小さく話しかけた。

 

「君は、どこから来たんだろうね」

 

角蜥は、答えない。

 

「どんなところに住んでたのかな」

 

……。

 

(……山の東、らしいですよ)

 

私は、心の中で答えた。

 

もちろん、それ以上は知らない。

 

「……帰りたいのかな」

 

レンは、少しだけ笑った。

 

「そうだったら、ちゃんと考えないとね」

 

……。

 

(……うん)

 

私は、静かに目を閉じた。

 

レンは、優しい。

 

でも、その優しさは、何でも手元に置いておくことではないのだろう。

 

◇◇◇

 

翌日。

 

族長の命で、楊端和のもとへ使者が出発した。

 

角蜥の食欲が落ちていること。

 

木箱から出ようとする動きが増えていること。

 

そして、捕獲した場所と、その周辺の環境について詳しく知りたいこと。

 

返事が届くまでには、しばらく時間がかかる。

 

その間も、トウエンとレンは観察を続けることになった。

 

「……もし、山へ帰すことになったら」

 

レンが言った。

 

「寂しくなるなあ」

 

トウエンは、道具を片づけながら答えた。

 

「まだ決まっていない」

 

「分かってるよ」

 

「だが」

 

トウエンは、少しだけ表情を緩めた。

 

「帰すことになったとしても、お前が世話をしたことは無駄にならん」

 

レンは、父親を見た。

 

「……うん」

 

◇◇◇

 

夜。

 

角蜥は、また木箱を引っかいていた。

 

カリ。

 

カリカリ。

 

私は、近くで身体を伏せていた。

 

……。

 

(……元気になってほしいな)

 

私は、そう思った。

 

でも。

 

元気になることと、ここにいること。

 

それは、同じではないのかもしれない。

 

前世の私は、動物園が好きだった。

 

珍しい生き物を見られるのは楽しかったし、飼育員の仕事にも興味があった。

 

けれど、自分が巨大な獣になってみると。

 

少しだけ、違うことも考えるようになった。

 

安全な場所にいること。

 

好きな場所にいること。

 

どちらも、大事なのだ。

 

……。

 

(……難しいね)

 

私は、角蜥を見つめた。

 

木箱の中で、小さな爪が動いている。

 

カリ。

 

カリカリ。

 

その音を聞きながら、私は静かに考えていた。

 

あの子が本当に望んでいるものは、何なのだろう。

 

そして。

 

それを、私たちは見つけてあげられるのだろうか。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。