秦の山奥で闘蛇やってます   作:欄外

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第三十二話 守るための技術

 

私には、ひそかに自信を持っていることがある。

 

泳ぎ。

 

食欲。

 

それから、鱗の美しさ。

 

最後の一つについては異論を認めない。

 

しかし、最近になって、もう一つ加えてもいいのではないかと思い始めていた。

 

それは、乗り心地である。

 

(……いや、これが結構難しいんですよ)

 

背中に人を乗せて歩く。

 

言葉にすれば簡単だけれど、実際には気を遣う。

 

急に止まれば、乗っている人間が前へ投げ出される。

 

身体を傾けすぎれば、振り落としてしまう。

 

段差を越えるときだって、勢い任せというわけにはいかない。

 

私は、セイランとレンを背中に乗せていることが多い。

 

だから、二人がどのくらいの揺れなら平気なのか、だいたい分かっていた。

 

(……私、かなり優秀な乗り物では?)

 

もちろん、乗り物ではない。

 

そこは大事だ。

 

「スイ、出るぞ」

 

セイランの声がした。

 

私は、ゆっくりと身体を起こした。

 

今日は少し遠出である。

 

◇◇◇

 

楊端和から預かった角蜥を、元の生息地へ帰すことになった。

 

数日前、山の王から返事が届いたのだ。

 

角蜥が捕らえられたのは、山界の東にある岩場。

 

日当たりがよく、低い草の生える斜面で、同じ種類の獣も何匹か確認されていたという。

 

楊端和は、白淵族の判断を尊重し、元の場所へ戻すことを認めてくれた。

 

さらに、捕獲に同行していた戦士を案内役として寄越してくれた。

 

「ここから東へ二日ほどだ」

 

案内役の男が、地面に簡単な地図を描いた。

 

「途中に古い獣道がある。闘蛇なら通れるだろう」

 

セイランは地図を確認し、頷いた。

 

「分かった」

 

同行するのは、セイラン、レン、ハク、そして護衛の戦士たち。

 

闘蛇は三頭。

 

いつもの顔ぶれである。

 

白淵族では、複数の闘蛇を連れて山道を移動することは珍しくない。

 

楊端和との交渉にも、この三頭で向かった。

 

それぞれの歩幅や癖は、騎乗者たちもよく知っている。

 

先頭が止まれば後続も止まる。

 

狭い道では自然に間隔を取る。

 

急な斜面では、一頭ずつ進む。

 

そんなことは、今さら教わるまでもなかった。

 

「角蜥の様子は?」

 

セイランが尋ねる。

 

「昨日より落ち着いてるよ」

 

レンは木箱を確かめながら答えた。

 

「餌はまだ少ししか食べないけど」

 

「そうか」

 

「早く帰してあげたいな」

 

レンの声には、少しだけ寂しさが混じっていた。

 

私は、木箱を覗き込んだ。

 

角蜥が、こちらを睨んでいる。

 

「シャアッ!」

 

(……はいはい。お元気で何より)

 

最後まで愛想のない子である。

 

◇◇◇

 

旅は順調だった。

 

白淵族の川沿いの道を離れ、黒角族の領域を抜ける。

 

途中、岩場の多い斜面に入ったが、闘蛇たちは問題なく進んだ。

 

ハクの闘蛇が先頭を歩き、私が続く。

 

最後尾の闘蛇には、荷物と護衛の戦士が乗っていた。

 

「こっちの道、前にも通ったよな」

 

ハクが言った。

 

「去年の秋だ」

 

セイランが答える。

 

「ああ、そうだった。あのときは大雨で、ひどい目に遭った」

 

「お前が増水した沢へ入ろうとしたからだ」

 

「渡れると思ったんだよ」

 

「思うだけなら自由だ」

 

「……セイラン、お前たまに容赦ないな」

 

レンが笑った。

 

私も、喉の奥で小さく音を鳴らした。

 

(……仲良しですねえ)

 

こういう旅は、嫌いではない。

 

知らない景色を見られるし、道中の会話も面白い。

 

何より、山の空気は気持ちがいい。

 

◇◇◇

 

二日目の昼前。

 

一行は、角蜥が捕らえられた岩場へ到着した。

 

低い草が生えた斜面。

 

ところどころに大きな岩があり、その隙間には小さな穴が開いている。

 

案内役の男が、前方を指さした。

 

「この辺りだ」

 

レンは闘蛇から降り、木箱を地面へ置いた。

 

「……着いたよ」

 

蓋を開ける。

 

角蜥は、すぐには出てこなかった。

 

しばらく鼻先だけを出し、周囲の匂いを嗅いでいる。

 

それから、ゆっくりと箱の外へ出た。

 

一歩。

 

二歩。

 

そして、突然走り出した。

 

「わっ!」

 

レンが驚く。

 

角蜥は岩の隙間を抜け、斜面を駆け上がった。

 

飼育場で見せていた落ち着きのない動きとは、まるで違う。

 

迷いなく岩を越え、草の間へ潜り込む。

 

やがて、少し高い場所で足を止めた。

 

「……元気だね」

 

レンが呟いた。

 

トウエンの代わりに記録を任されていた彼は、角蜥の姿をじっと見つめていた。

 

「よかった」

 

その言葉を聞いて、私も少し安心した。

 

(……達者でね)

 

できれば、もう履物は盗まないように。

 

角蜥は一度だけこちらを振り返った。

 

「シャアッ!」

 

(……だから、最後までそれなのね)

 

レンが笑った。

 

「元気でね!」

 

小さな姿は、岩の向こうへ消えていった。

 

◇◇◇

 

帰路についたのは、翌朝だった。

 

角蜥を放した場所から少し離れた沢で一夜を過ごし、白淵族へ戻る。

 

行きと同じ道を使う予定だったが、前夜に雨が降っていた。

 

そのため、セイランは一部の道を避けることにした。

 

「北側の尾根を通る」

 

「遠回りになるぞ」

 

ハクが言った。

 

「沢沿いは崩れやすい」

 

「……確かに」

 

案内役も頷いた。

 

「その方がいいだろう」

 

山で暮らす者にとって、道を選ぶことは命に関わる。

 

速さより安全を優先する。

 

それは、白淵族の戦士たちにとって当たり前の判断だった。

 

そして、その判断が正しかったことを知るのは、もう少し後のことだった。

 

◇◇◇

 

尾根道へ入って、しばらくした頃。

 

前方から、乾いた音が聞こえた。

 

カラッ。

 

小石が転がる音。

 

私は、足を止めた。

 

セイランも、すぐに前を見た。

 

「……止まれ」

 

ハクが手を上げる。

 

三頭の闘蛇が、その場で動きを止めた。

 

次の瞬間。

 

ガラガラッ!

 

斜面の上から、拳ほどの石がいくつも落ちてきた。

 

「落石だ!」

 

ハクが叫んだ。

 

「下がれ!」

 

セイランの声が響く。

 

私は、ゆっくりと後退した。

 

背中には、セイランとレンがいる。

 

急に動けば危ない。

 

後ろの闘蛇も、すでに距離を取っていた。

 

落石は、しばらくして止まった。

 

道の前方には、小さな岩がいくつも散らばっている。

 

「……危なかったな」

 

ハクが息を吐いた。

 

セイランは、斜面を見上げた。

 

「まだ動くかもしれん。近づくな」

 

◇◇◇

 

しばらく様子を見たあと、戦士たちは道の状態を確認した。

 

大きな崩落ではない。

 

ただ、通路の一部が石で塞がれていた。

 

「……これなら、片づけられるな」

 

ハクが言った。

 

セイランは頷いた。

 

「上を見ながら作業するぞ」

 

闘蛇を使った道の整備は、白淵族の得意分野だった。

 

大きな石を動かす。

 

倒木を運ぶ。

 

人間だけでは難しい作業も、闘蛇の力があれば進められる。

 

私は、セイランの合図に従い、道を塞ぐ岩へ近づいた。

 

(……よいしょ)

 

前脚で岩を押す。

 

ごろり、と石が動いた。

 

その間に、ハクたちが小さな石を片づける。

 

もう一頭の闘蛇は、道の端に転がった倒木を移動させていた。

 

作業は順調だった。

 

誰も慌てていない。

 

役割も決まっている。

 

この程度の障害なら、白淵族にとって特別なことではなかった。

 

――だからこそ。

 

次の出来事は、完全に予想の外だった。

 

◇◇◇

 

「……上!」

 

誰かが叫んだ。

 

私が顔を上げるより早く、斜面の上で岩が動いた。

 

先ほどの落石で支えを失っていたのだろう。

 

人の背丈ほどもある岩が、ゆっくりと傾いた。

 

そして。

 

一気に滑り落ちてきた。

 

「ハク!」

 

セイランが叫んだ。

 

ハクは、道の端で小石を片づけていた。

 

頭上の岩に気づき、身を引こうとする。

 

だが、足元が悪い。

 

岩は、まっすぐ彼の方へ向かっていた。

 

(……危ない!)

 

私は、反射的に身体を動かしかけた。

 

けれど、その瞬間。

 

背中に重みがあることを思い出した。

 

セイラン。

 

レン。

 

二人が乗っている。

 

ここで勢いよく身体を振れば、二人を振り落とすかもしれない。

 

私は、一瞬だけ動きを止めた。

 

その間にも、岩は落ちてくる。

 

「伏せろ!」

 

セイランの声。

 

ハクが地面へ飛び込んだ。

 

岩が、彼のすぐ横を通り過ぎる。

 

轟音とともに、道の端へぶつかった。

 

砕けた石が飛び散った。

 

「……っ!」

 

ハクが腕で顔を庇う。

 

私は、身体を低くして、背中の二人が振られないように踏ん張った。

 

数瞬後。

 

ようやく、辺りが静かになった。

 

◇◇◇

 

「ハク!」

 

レンが叫んだ。

 

セイランは、すぐに私の背から降りた。

 

ハクは、ゆっくりと起き上がった。

 

「……大丈夫だ」

 

「怪我は?」

 

「擦りむいただけだ」

 

レンが駆け寄り、腕を確認する。

 

確かに、深い傷はない。

 

それを見て、私はようやく息を吐いた。

 

(……よかった)

 

本当に。

 

あと少し遅れていたら。

 

そう考えると、身体の奥が冷たくなった。

 

◇◇◇

 

落石の危険がなくなるまで待ち、一行は別の道を選んで帰ることにした。

 

途中、休憩を取ったとき。

 

ハクが、苦笑しながら言った。

 

「……いやあ、危なかった」

 

「笑い事ではない」

 

セイランが答える。

 

「分かってるよ」

 

「上を見ていなかったな」

 

「……ああ」

 

ハクは、少しだけ表情を引き締めた。

 

「石を片づける方に気を取られていた」

 

セイランは頷いた。

 

「俺もだ」

 

「……お前も?」

 

「岩を動かすことに集中していた。上の斜面の変化に気づくのが遅れた」

 

二人は、しばらく黙っていた。

 

やがて、レンが口を開いた。

 

「……スイも、動こうとしてたんだ」

 

セイランが顔を上げる。

 

「そうなのか」

 

「うん。身体が少し動いた。でも、すぐに止まった」

 

私は、少しだけ目を細めた。

 

(……見てたのね)

 

レンは、私の首筋に手を当てた。

 

「きっと、僕たちが乗ってたからだと思う」

 

セイランは、しばらく私を見つめていた。

 

そして、静かに言った。

 

「……そうか」

 

◇◇◇

 

「……難しいな」

 

ハクが呟いた。

 

セイランが頷く。

 

「ああ」

 

「闘蛇なら、あの岩を止められたかもしれない」

 

「かもしれん」

 

「でも、背中に人が乗っていたら、簡単には動けない」

 

「そうだ」

 

ハクは、近くで休んでいる闘蛇を見た。

 

「俺たちは、闘蛇の力を借りている。だが、闘蛇に守ってもらうことばかり考えていても駄目なんだな」

 

セイランは答えた。

 

「……闘蛇を危険にさらす判断も、俺たちがしている」

 

レンは、黙って二人の話を聞いていた。

 

私は、少しだけ考え込んだ。

 

(……確かに)

 

私は、大きい。

 

力も強い。

 

普通の岩くらいなら動かせる。

 

でも、何でもできるわけではない。

 

背中に人がいれば、動き方は限られる。

 

それに、私が怪我をしたら。

 

セイランも、レンも、危険になる。

 

……。

 

(……怖いな)

 

初めて、そう思った。

 

◇◇◇

 

白淵族へ戻った翌日。

 

セイランは、族長とトウエンに道中の出来事を報告した。

 

角蜥を無事に帰したこと。

 

帰路で落石に遭ったこと。

 

ハクが危うく怪我をするところだったこと。

 

そして、闘蛇たちの動きについて。

 

「……闘蛇の扱いに問題があったのか」

 

族長が尋ねた。

 

セイランは首を横に振った。

 

「普段の移動や作業に問題はありません」

 

「では?」

 

「……突然の危険に対して、俺たちの判断が追いつかなかった」

 

トウエンが腕を組んだ。

 

「詳しく聞こう」

 

セイランは、落石の状況を説明した。

 

岩が落ちてきた位置。

 

ハクがいた場所。

 

闘蛇たちの動き。

 

そして、私が動きかけて止まったこと。

 

トウエンは、最後まで黙って聞いていた。

 

◇◇◇

 

「……なるほどな」

 

話を聞き終えたトウエンが言った。

 

「闘蛇は、十分に訓練されている」

 

セイランが頷く。

 

「はい」

 

「だが、それは山を安全に移動し、荷を運び、人を乗せるための訓練だ」

 

「……そうです」

 

「危険が迫ったとき、どう動くか。騎乗者がどう判断するか。そこまでは、十分に教えていない」

 

族長が、静かに口を開いた。

 

「……戦うための訓練、ということか」

 

トウエンは、少し考えた。

 

「戦うためだけではありません」

 

「ほう」

 

「守るための訓練です」

 

トウエンは、窓の外にいる闘蛇たちを見た。

 

「闘蛇は強い。ですが、強いからこそ、人間はその力に頼りすぎる」

 

セイランは、黙って聞いていた。

 

「危険な場所へ行かせるなら、何をさせ、何をさせないかを決めておく必要があります」

 

「……なるほど」

 

「そして、騎乗者自身も、闘蛇を守る技術を身につけなければならない」

 

◇◇◇

 

族長は、しばらく考え込んだ。

 

「……我らは、これまで闘蛇を戦のために育ててこなかった」

 

「はい」

 

トウエンが答えた。

 

「ですが、山で暮らす以上、争いを避けられないこともあります」

 

「……そうだな」

 

「そのとき、闘蛇に力を借りるのであれば、今のままで十分とは言えません」

 

セイランが口を開いた。

 

「俺も、そう思います」

 

族長は、彼を見た。

 

「……どうしたい」

 

「まずは、騎乗者たちで話し合いたいと思います」

 

「何をだ」

 

「闘蛇にできることと、させるべきでないことです」

 

族長は、ゆっくりと頷いた。

 

「よいだろう」

 

◇◇◇

 

その日の夕方。

 

飼育場では、セイランとハクがトウエンに呼ばれていた。

 

レンも一緒だ。

 

私は、少し離れたところで身体を伏せていた。

 

「……まず確認したい」

 

トウエンが言った。

 

「お前たちは、闘蛇を戦に出したいのか」

 

セイランは、すぐに答えなかった。

 

ハクも、少し考え込んだ。

 

やがて、セイランが口を開いた。

 

「……積極的に出したいとは思いません」

 

「そうだろうな」

 

「ですが、必要になったとき、何もできないのは困ります」

 

トウエンは頷いた。

 

「……それでいい」

 

ハクが尋ねた。

 

「じゃあ、何から始めるんです?」

 

トウエンは、少しだけ笑った。

 

「まずは、お前たち自身の訓練だ」

 

「……俺たち?」

 

「そうだ」

 

トウエンは、闘蛇たちを見た。

 

「こいつらは、すでに十分な力を持っている」

 

そして、セイランたちへ視線を戻した。

 

「その力をどう使うか、判断するのはお前たちだ」

 

◇◇◇

 

翌朝。

 

私は、いつものように川辺で身体を休めていた。

 

すると、セイランがやってきた。

 

「スイ」

 

(……はい)

 

私は、ゆっくりと目を開けた。

 

セイランは、私の首筋を軽く叩いた。

 

「今日は、少し付き合ってもらうぞ」

 

……。

 

(……おや)

 

何でしょう。

 

お散歩?

 

遠出?

 

それとも、魚?

 

セイランは、少しだけ笑った。

 

「……俺たちが、もう少し上手くなるためにな」

 

私は、静かに彼を見つめた。

 

その言葉の意味は、まだよく分からない。

 

でも。

 

セイランが何かを始めようとしていることだけは、分かった。

 

(……まあ)

 

付き合ってあげましょう。

 

あなたが上手くなれば、私も安心だしね。

 

私は、ゆっくりと立ち上がった。

 

朝の光が、鱗の上を滑っていく。

 

川辺の向こうでは、ハクたちが何やら準備をしていた。

 

いつもと少し違う一日が、始まろうとしていた。

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