私には、ひそかに自信を持っていることがある。
泳ぎ。
食欲。
それから、鱗の美しさ。
最後の一つについては異論を認めない。
しかし、最近になって、もう一つ加えてもいいのではないかと思い始めていた。
それは、乗り心地である。
(……いや、これが結構難しいんですよ)
背中に人を乗せて歩く。
言葉にすれば簡単だけれど、実際には気を遣う。
急に止まれば、乗っている人間が前へ投げ出される。
身体を傾けすぎれば、振り落としてしまう。
段差を越えるときだって、勢い任せというわけにはいかない。
私は、セイランとレンを背中に乗せていることが多い。
だから、二人がどのくらいの揺れなら平気なのか、だいたい分かっていた。
(……私、かなり優秀な乗り物では?)
もちろん、乗り物ではない。
そこは大事だ。
「スイ、出るぞ」
セイランの声がした。
私は、ゆっくりと身体を起こした。
今日は少し遠出である。
◇◇◇
楊端和から預かった角蜥を、元の生息地へ帰すことになった。
数日前、山の王から返事が届いたのだ。
角蜥が捕らえられたのは、山界の東にある岩場。
日当たりがよく、低い草の生える斜面で、同じ種類の獣も何匹か確認されていたという。
楊端和は、白淵族の判断を尊重し、元の場所へ戻すことを認めてくれた。
さらに、捕獲に同行していた戦士を案内役として寄越してくれた。
「ここから東へ二日ほどだ」
案内役の男が、地面に簡単な地図を描いた。
「途中に古い獣道がある。闘蛇なら通れるだろう」
セイランは地図を確認し、頷いた。
「分かった」
同行するのは、セイラン、レン、ハク、そして護衛の戦士たち。
闘蛇は三頭。
いつもの顔ぶれである。
白淵族では、複数の闘蛇を連れて山道を移動することは珍しくない。
楊端和との交渉にも、この三頭で向かった。
それぞれの歩幅や癖は、騎乗者たちもよく知っている。
先頭が止まれば後続も止まる。
狭い道では自然に間隔を取る。
急な斜面では、一頭ずつ進む。
そんなことは、今さら教わるまでもなかった。
「角蜥の様子は?」
セイランが尋ねる。
「昨日より落ち着いてるよ」
レンは木箱を確かめながら答えた。
「餌はまだ少ししか食べないけど」
「そうか」
「早く帰してあげたいな」
レンの声には、少しだけ寂しさが混じっていた。
私は、木箱を覗き込んだ。
角蜥が、こちらを睨んでいる。
「シャアッ!」
(……はいはい。お元気で何より)
最後まで愛想のない子である。
◇◇◇
旅は順調だった。
白淵族の川沿いの道を離れ、黒角族の領域を抜ける。
途中、岩場の多い斜面に入ったが、闘蛇たちは問題なく進んだ。
ハクの闘蛇が先頭を歩き、私が続く。
最後尾の闘蛇には、荷物と護衛の戦士が乗っていた。
「こっちの道、前にも通ったよな」
ハクが言った。
「去年の秋だ」
セイランが答える。
「ああ、そうだった。あのときは大雨で、ひどい目に遭った」
「お前が増水した沢へ入ろうとしたからだ」
「渡れると思ったんだよ」
「思うだけなら自由だ」
「……セイラン、お前たまに容赦ないな」
レンが笑った。
私も、喉の奥で小さく音を鳴らした。
(……仲良しですねえ)
こういう旅は、嫌いではない。
知らない景色を見られるし、道中の会話も面白い。
何より、山の空気は気持ちがいい。
◇◇◇
二日目の昼前。
一行は、角蜥が捕らえられた岩場へ到着した。
低い草が生えた斜面。
ところどころに大きな岩があり、その隙間には小さな穴が開いている。
案内役の男が、前方を指さした。
「この辺りだ」
レンは闘蛇から降り、木箱を地面へ置いた。
「……着いたよ」
蓋を開ける。
角蜥は、すぐには出てこなかった。
しばらく鼻先だけを出し、周囲の匂いを嗅いでいる。
それから、ゆっくりと箱の外へ出た。
一歩。
二歩。
そして、突然走り出した。
「わっ!」
レンが驚く。
角蜥は岩の隙間を抜け、斜面を駆け上がった。
飼育場で見せていた落ち着きのない動きとは、まるで違う。
迷いなく岩を越え、草の間へ潜り込む。
やがて、少し高い場所で足を止めた。
「……元気だね」
レンが呟いた。
トウエンの代わりに記録を任されていた彼は、角蜥の姿をじっと見つめていた。
「よかった」
その言葉を聞いて、私も少し安心した。
(……達者でね)
できれば、もう履物は盗まないように。
角蜥は一度だけこちらを振り返った。
「シャアッ!」
(……だから、最後までそれなのね)
レンが笑った。
「元気でね!」
小さな姿は、岩の向こうへ消えていった。
◇◇◇
帰路についたのは、翌朝だった。
角蜥を放した場所から少し離れた沢で一夜を過ごし、白淵族へ戻る。
行きと同じ道を使う予定だったが、前夜に雨が降っていた。
そのため、セイランは一部の道を避けることにした。
「北側の尾根を通る」
「遠回りになるぞ」
ハクが言った。
「沢沿いは崩れやすい」
「……確かに」
案内役も頷いた。
「その方がいいだろう」
山で暮らす者にとって、道を選ぶことは命に関わる。
速さより安全を優先する。
それは、白淵族の戦士たちにとって当たり前の判断だった。
そして、その判断が正しかったことを知るのは、もう少し後のことだった。
◇◇◇
尾根道へ入って、しばらくした頃。
前方から、乾いた音が聞こえた。
カラッ。
小石が転がる音。
私は、足を止めた。
セイランも、すぐに前を見た。
「……止まれ」
ハクが手を上げる。
三頭の闘蛇が、その場で動きを止めた。
次の瞬間。
ガラガラッ!
斜面の上から、拳ほどの石がいくつも落ちてきた。
「落石だ!」
ハクが叫んだ。
「下がれ!」
セイランの声が響く。
私は、ゆっくりと後退した。
背中には、セイランとレンがいる。
急に動けば危ない。
後ろの闘蛇も、すでに距離を取っていた。
落石は、しばらくして止まった。
道の前方には、小さな岩がいくつも散らばっている。
「……危なかったな」
ハクが息を吐いた。
セイランは、斜面を見上げた。
「まだ動くかもしれん。近づくな」
◇◇◇
しばらく様子を見たあと、戦士たちは道の状態を確認した。
大きな崩落ではない。
ただ、通路の一部が石で塞がれていた。
「……これなら、片づけられるな」
ハクが言った。
セイランは頷いた。
「上を見ながら作業するぞ」
闘蛇を使った道の整備は、白淵族の得意分野だった。
大きな石を動かす。
倒木を運ぶ。
人間だけでは難しい作業も、闘蛇の力があれば進められる。
私は、セイランの合図に従い、道を塞ぐ岩へ近づいた。
(……よいしょ)
前脚で岩を押す。
ごろり、と石が動いた。
その間に、ハクたちが小さな石を片づける。
もう一頭の闘蛇は、道の端に転がった倒木を移動させていた。
作業は順調だった。
誰も慌てていない。
役割も決まっている。
この程度の障害なら、白淵族にとって特別なことではなかった。
――だからこそ。
次の出来事は、完全に予想の外だった。
◇◇◇
「……上!」
誰かが叫んだ。
私が顔を上げるより早く、斜面の上で岩が動いた。
先ほどの落石で支えを失っていたのだろう。
人の背丈ほどもある岩が、ゆっくりと傾いた。
そして。
一気に滑り落ちてきた。
「ハク!」
セイランが叫んだ。
ハクは、道の端で小石を片づけていた。
頭上の岩に気づき、身を引こうとする。
だが、足元が悪い。
岩は、まっすぐ彼の方へ向かっていた。
(……危ない!)
私は、反射的に身体を動かしかけた。
けれど、その瞬間。
背中に重みがあることを思い出した。
セイラン。
レン。
二人が乗っている。
ここで勢いよく身体を振れば、二人を振り落とすかもしれない。
私は、一瞬だけ動きを止めた。
その間にも、岩は落ちてくる。
「伏せろ!」
セイランの声。
ハクが地面へ飛び込んだ。
岩が、彼のすぐ横を通り過ぎる。
轟音とともに、道の端へぶつかった。
砕けた石が飛び散った。
「……っ!」
ハクが腕で顔を庇う。
私は、身体を低くして、背中の二人が振られないように踏ん張った。
数瞬後。
ようやく、辺りが静かになった。
◇◇◇
「ハク!」
レンが叫んだ。
セイランは、すぐに私の背から降りた。
ハクは、ゆっくりと起き上がった。
「……大丈夫だ」
「怪我は?」
「擦りむいただけだ」
レンが駆け寄り、腕を確認する。
確かに、深い傷はない。
それを見て、私はようやく息を吐いた。
(……よかった)
本当に。
あと少し遅れていたら。
そう考えると、身体の奥が冷たくなった。
◇◇◇
落石の危険がなくなるまで待ち、一行は別の道を選んで帰ることにした。
途中、休憩を取ったとき。
ハクが、苦笑しながら言った。
「……いやあ、危なかった」
「笑い事ではない」
セイランが答える。
「分かってるよ」
「上を見ていなかったな」
「……ああ」
ハクは、少しだけ表情を引き締めた。
「石を片づける方に気を取られていた」
セイランは頷いた。
「俺もだ」
「……お前も?」
「岩を動かすことに集中していた。上の斜面の変化に気づくのが遅れた」
二人は、しばらく黙っていた。
やがて、レンが口を開いた。
「……スイも、動こうとしてたんだ」
セイランが顔を上げる。
「そうなのか」
「うん。身体が少し動いた。でも、すぐに止まった」
私は、少しだけ目を細めた。
(……見てたのね)
レンは、私の首筋に手を当てた。
「きっと、僕たちが乗ってたからだと思う」
セイランは、しばらく私を見つめていた。
そして、静かに言った。
「……そうか」
◇◇◇
「……難しいな」
ハクが呟いた。
セイランが頷く。
「ああ」
「闘蛇なら、あの岩を止められたかもしれない」
「かもしれん」
「でも、背中に人が乗っていたら、簡単には動けない」
「そうだ」
ハクは、近くで休んでいる闘蛇を見た。
「俺たちは、闘蛇の力を借りている。だが、闘蛇に守ってもらうことばかり考えていても駄目なんだな」
セイランは答えた。
「……闘蛇を危険にさらす判断も、俺たちがしている」
レンは、黙って二人の話を聞いていた。
私は、少しだけ考え込んだ。
(……確かに)
私は、大きい。
力も強い。
普通の岩くらいなら動かせる。
でも、何でもできるわけではない。
背中に人がいれば、動き方は限られる。
それに、私が怪我をしたら。
セイランも、レンも、危険になる。
……。
(……怖いな)
初めて、そう思った。
◇◇◇
白淵族へ戻った翌日。
セイランは、族長とトウエンに道中の出来事を報告した。
角蜥を無事に帰したこと。
帰路で落石に遭ったこと。
ハクが危うく怪我をするところだったこと。
そして、闘蛇たちの動きについて。
「……闘蛇の扱いに問題があったのか」
族長が尋ねた。
セイランは首を横に振った。
「普段の移動や作業に問題はありません」
「では?」
「……突然の危険に対して、俺たちの判断が追いつかなかった」
トウエンが腕を組んだ。
「詳しく聞こう」
セイランは、落石の状況を説明した。
岩が落ちてきた位置。
ハクがいた場所。
闘蛇たちの動き。
そして、私が動きかけて止まったこと。
トウエンは、最後まで黙って聞いていた。
◇◇◇
「……なるほどな」
話を聞き終えたトウエンが言った。
「闘蛇は、十分に訓練されている」
セイランが頷く。
「はい」
「だが、それは山を安全に移動し、荷を運び、人を乗せるための訓練だ」
「……そうです」
「危険が迫ったとき、どう動くか。騎乗者がどう判断するか。そこまでは、十分に教えていない」
族長が、静かに口を開いた。
「……戦うための訓練、ということか」
トウエンは、少し考えた。
「戦うためだけではありません」
「ほう」
「守るための訓練です」
トウエンは、窓の外にいる闘蛇たちを見た。
「闘蛇は強い。ですが、強いからこそ、人間はその力に頼りすぎる」
セイランは、黙って聞いていた。
「危険な場所へ行かせるなら、何をさせ、何をさせないかを決めておく必要があります」
「……なるほど」
「そして、騎乗者自身も、闘蛇を守る技術を身につけなければならない」
◇◇◇
族長は、しばらく考え込んだ。
「……我らは、これまで闘蛇を戦のために育ててこなかった」
「はい」
トウエンが答えた。
「ですが、山で暮らす以上、争いを避けられないこともあります」
「……そうだな」
「そのとき、闘蛇に力を借りるのであれば、今のままで十分とは言えません」
セイランが口を開いた。
「俺も、そう思います」
族長は、彼を見た。
「……どうしたい」
「まずは、騎乗者たちで話し合いたいと思います」
「何をだ」
「闘蛇にできることと、させるべきでないことです」
族長は、ゆっくりと頷いた。
「よいだろう」
◇◇◇
その日の夕方。
飼育場では、セイランとハクがトウエンに呼ばれていた。
レンも一緒だ。
私は、少し離れたところで身体を伏せていた。
「……まず確認したい」
トウエンが言った。
「お前たちは、闘蛇を戦に出したいのか」
セイランは、すぐに答えなかった。
ハクも、少し考え込んだ。
やがて、セイランが口を開いた。
「……積極的に出したいとは思いません」
「そうだろうな」
「ですが、必要になったとき、何もできないのは困ります」
トウエンは頷いた。
「……それでいい」
ハクが尋ねた。
「じゃあ、何から始めるんです?」
トウエンは、少しだけ笑った。
「まずは、お前たち自身の訓練だ」
「……俺たち?」
「そうだ」
トウエンは、闘蛇たちを見た。
「こいつらは、すでに十分な力を持っている」
そして、セイランたちへ視線を戻した。
「その力をどう使うか、判断するのはお前たちだ」
◇◇◇
翌朝。
私は、いつものように川辺で身体を休めていた。
すると、セイランがやってきた。
「スイ」
(……はい)
私は、ゆっくりと目を開けた。
セイランは、私の首筋を軽く叩いた。
「今日は、少し付き合ってもらうぞ」
……。
(……おや)
何でしょう。
お散歩?
遠出?
それとも、魚?
セイランは、少しだけ笑った。
「……俺たちが、もう少し上手くなるためにな」
私は、静かに彼を見つめた。
その言葉の意味は、まだよく分からない。
でも。
セイランが何かを始めようとしていることだけは、分かった。
(……まあ)
付き合ってあげましょう。
あなたが上手くなれば、私も安心だしね。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
朝の光が、鱗の上を滑っていく。
川辺の向こうでは、ハクたちが何やら準備をしていた。
いつもと少し違う一日が、始まろうとしていた。