訓練が始まって五日目。
私は、一つの事実に気がついた。
闘蛇という生き物は、思っていた以上に個性が強い。
いや、もちろん知っていた。普段から一緒に暮らしている若い闘蛇たちだって、食いしん坊もいれば、妙に臆病な子もいる。
ただ、年長の闘蛇たちと行動するようになって、その違いがいっそうはっきりしてきたのだ。
例えばガン。
大きな身体に古い傷。どんな道でも落ち着いて歩く、頼れる年長者である。
ただし、頑固だ。
一度進むと決めた道は、多少の障害があっても簡単には変えない。
別の年長の雌は、足元の変化に敏感だった。小さな穴や緩んだ地面を見つけるのが得意で、危ない場所では必ず立ち止まる。
一方、若い闘蛇たちはというと。
(……元気だなあ)
朝からやたらと張り切っている。
昨日の訓練で少し自信がついたらしい。
私の隣にいる一頭など、出発前から尻尾を揺らしている。
(遠足じゃないんだけどね)
もっとも、私も昨日より少し楽しみにしていた。
十五頭で動くことにも慣れてきたし、ガンたちとの距離も縮まっている。
何より、訓練が終われば川でゆっくりできる。
素晴らしい一日ではないか。
……そう思っていた。
◇◇◇
「今日は谷の奥まで進む」
トウエンが、地面に描いた道を指した。
「途中で隊列を三つに分け、別々の道を通らせる。谷の奥で合流し、戻りは一列だ」
ハクが首を傾げる。
「三つに分けるんですか?」
「ああ。十五頭が一列で動くことには、少し慣れてきた。次は、離れた組同士が合流できるかを確かめる」
「合図は?」
「角笛を使う。短く二度で停止、長く一度で集合。ただし、角笛だけを頼りにするな」
トウエンは、戦士たちを見回した。
「谷では音が反響する。聞こえた方向を、そのまま信じるな」
セイランが頷いた。
「合流地点は、あらかじめ決めておく」
「そうだ。音が聞こえなくても、予定の場所へ向かえ」
私は少し離れた場所で、岩の上に顎を載せていた。
(……なるほど)
通信手段が角笛。
なかなか古風である。
いや、時代を考えれば当然なのだけれど。
前世なら無線機でも使うところだろうか。
(……闘蛇用のインカムとか、あったら便利そう)
私の耳に装着できるものがあるかは、さておき。
◇◇◇
三つの組に分かれた私たちは、それぞれ別の道へ進んだ。
私の組には、セイランとハク、それに若い闘蛇が三頭。
レンは今日は飼育場で仕事があるため、同行していない。
少し寂しい。
(……帰ったら撫でてもらおう)
谷へ入ると、空気が変わった。
両側に切り立った岩壁が続き、ところどころに木が生えている。
道幅は広くないが、闘蛇が通るには十分だ。
私は足元を確かめながら進んだ。
後ろの闘蛇たちも、落ち着いてついてくる。
セイランの合図に従い、曲がり角を抜ける。
その先には、少し開けた場所があった。
「ここで一度止まる」
セイランが言った。
私たちは、岩壁のそばで身体を休めた。
遠くから、かすかに角笛の音が聞こえる。
短く、二度。
停止の合図だ。
「ほかの組も、順調そうだな」
ハクが笑った。
セイランは、谷の奥を見つめていた。
「……まだ分からん」
(……慎重ですねえ)
まあ、慎重なのは良いことだ。
私は、近くの岩に身体を寄せた。
ひんやりしていて気持ちがいい。
◇◇◇
最初の異変は、小さな音だった。
ぱらり。
足元に、小石が落ちた。
私は、顔を上げた。
上を見る。
岩壁の途中で、鳥が一斉に飛び立った。
(……ん?)
続いて、もう一度。
ぱらぱら、と石が落ちる。
今度は、少し大きい。
私は、ゆっくりと身体を起こした。
セイランも気づいたらしい。
「……上か」
その瞬間。
谷の奥から、低い音が響いた。
ごご、と地面を擦るような音。
「……落石だ!」
ハクが叫んだ。
◇◇◇
岩壁の一部が崩れた。
大量の土砂ではない。
だが、大きな石がいくつも転がり落ち、谷の道を塞いだ。
私たちがいる場所より、少し奥だ。
「全員、動くな!」
セイランが声を上げる。
私は、足を止めた。
後ろの闘蛇たちも止まる。
岩が転がる音が、谷に反響した。
しばらくして、静けさが戻った。
……。
(……びっくりした)
私は、ゆっくりと息を吐いた。
落石そのものは、私たちの近くまで来なかった。
しかし。
問題は、その先にあった。
◇◇◇
「……道が塞がれたな」
ハクが、岩の向こうを見つめた。
合流地点へ向かう道が、大きな石で塞がれている。
「引き返しますか?」
「……待て」
セイランは、周囲を見回した。
「ほかの組が、向こう側にいる」
そうだった。
谷の奥には、ガンたちの組が向かっている。
別の道を通っているとはいえ、落石の影響を受けているかもしれない。
トウエンのいる組も、まだ合流していない。
「角笛を」
セイランが言った。
ハクが角笛を取り出した。
短く二度。
停止の合図。
谷に、音が響いた。
……しかし。
返事はない。
◇◇◇
「……聞こえなかったのかな」
ハクが呟く。
「反響している」
セイランは、岩壁を見上げた。
「場所によっては、音が届かない」
私は、耳を澄ませた。
……。
(……ん?)
遠くから、何か聞こえる。
角笛ではない。
低い、喉を鳴らすような音。
闘蛇の声だ。
私は、顔を上げた。
(……ガン?)
いや、分からない。
でも、聞き覚えがある。
私は、少しだけ身体を動かした。
セイランが、背の上で姿勢を変える。
「……どうした、スイ」
私は、すぐには動かなかった。
人間の言葉に反応したと思われるのは、避けたい。
ただ、耳を澄ませる。
もう一度。
低い声が響いた。
……。
(……やっぱり)
闘蛇だ。
しかも、少し切迫している。
◇◇◇
「……向こうで何か起きているかもしれん」
セイランが言った。
ハクが頷く。
「でも、この道は通れません」
「別の道を探す」
「……分かりました」
私たちは、いったん来た道を戻ることになった。
谷の途中には、細い獣道がある。
人間なら通れるが、闘蛇には少し狭い。
セイランたちは、その道を確かめに向かった。
私は、ほかの闘蛇たちと待つことになった。
……。
(……うーん)
どうにも落ち着かない。
遠くから聞こえた声。
あれは、何だったのだろう。
私は、岩壁の向こうを見つめた。
◇◇◇
しばらくして、セイランたちが戻ってきた。
「……獣道は使えない」
ハクが言った。
「途中で崖になってます」
セイランは、少し考えた。
「ならば、元の道を戻って別の谷へ回る」
「時間がかかりますね」
「ああ。だが、無理に進むよりはいい」
そのときだった。
遠くから、もう一度、闘蛇の声が響いた。
今度は、はっきりと聞こえた。
低く、長い声。
……。
(……ガンだ)
私は、確信した。
あの声は、ガンだ。
◇◇◇
私は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、岩壁の方へ顔を向けた。
セイランが気づく。
「……スイ?」
私は、すぐには動かない。
ただ、耳を澄ませる。
もう一度、声が聞こえた。
今度は、少し短い。
……。
(……何か、知らせてる?)
ガンは、普段あまり声を出さない。
必要なときだけ、低く喉を鳴らす。
それが、何度も聞こえる。
私は、少し考えた。
……。
(……もしかして)
向こうで、何か起きている。
私は、足元を見た。
岩壁のそばには、細い水路があった。
雨水が流れる場所らしい。
今は水が少ない。
その先は、岩の陰へ続いている。
……。
(……あれ)
これ、通れる?
私は、ゆっくりと水路へ近づいた。
セイランが、背の上で身体を傾けた。
「……何だ?」
私は、鼻先を水路へ向けた。
少し狭い。
でも、私なら通れるかもしれない。
ただし、ほかの闘蛇たちは難しそうだ。
……。
(……うーん)
どうしよう。
◇◇◇
「……スイが、何か見つけたようだ」
ハクが言った。
セイランは、水路を確かめた。
「……確かに、奥へ続いている」
「通れますか?」
「分からん」
セイランは、少し考えた。
「俺が先に確かめる」
そう言って、私の背から降りた。
水路の入り口へ近づき、奥を覗く。
しばらくして、戻ってきた。
「……途中で広くなっている。人なら通れる」
「闘蛇は?」
「スイなら、何とか通れるかもしれん」
……。
(……やっぱり)
私は、少しだけ嬉しくなった。
でも。
無理は禁物。
私は、ゆっくりと水路へ足を入れた。
◇◇◇
水路は、思ったより狭かった。
岩壁が近い。
身体を少し低くし、慎重に進む。
セイランは、私の背から降りたまま、前を歩いている。
ハクは、ほかの闘蛇たちと待機だ。
……。
(……探検ですね)
いや、違う。
今は、そんなことを言っている場合ではない。
私は、慎重に進んだ。
しばらくすると、水路が少し広くなった。
そして。
岩の向こうに、別の谷が見えた。
……。
(……おお)
抜けた。
◇◇◇
谷の向こうには、ガンたちの組がいた。
ただし、様子がおかしい。
一頭の闘蛇が、岩場の端で身体を伏せている。
近くには、騎乗者たちが集まっていた。
ガンは、その闘蛇のそばに立っている。
「……いた!」
セイランが声を上げた。
向こうの戦士たちが振り返る。
「セイラン!」
「何があった!」
「落石で、一頭が足を痛めた!」
……。
(……ああ)
やっぱり。
私は、急いで近づこうとした。
しかし。
ガンが、こちらを見た。
低く、短く喉を鳴らす。
……。
(……止まれ?)
私は、足を止めた。
ガンは、負傷した闘蛇のそばへ戻った。
……。
(……なるほど)
近づきすぎるな、ということか。
私は、少し離れた場所で身体を伏せた。
◇◇◇
「……骨は折れていないと思う」
戦士の一人が言った。
「ただ、足首をひねったらしい」
セイランが、負傷した闘蛇の様子を確かめる。
「歩けるか?」
「少しなら。ただ、長い距離は難しい」
「……そうか」
セイランは、周囲を見回した。
谷の出口は、落石で塞がれている。
別の道へ回るには、かなりの距離がある。
しかも、負傷した闘蛇を連れている。
……。
(……困ったね)
私は、少し考えた。
無理に歩かせれば、怪我が悪化する。
でも、ここに置いていくわけにもいかない。
◇◇◇
そのとき。
ガンが、ゆっくりと動いた。
負傷した闘蛇のそばへ近づき、鼻先を寄せる。
低く喉を鳴らす。
負傷した闘蛇は、少しだけ顔を上げた。
ガンは、そのまま身体を横へ向けた。
まるで、立ち上がるのを待っているようだった。
……。
(……おお)
さすが。
私は、感心した。
でも。
負傷した闘蛇は、なかなか立ち上がれない。
ガンは、急かさず待っている。
……。
(……うーん)
私は、少し考えた。
それから、ゆっくりと近づいた。
ガンが、こちらを見た。
私は、足を止めた。
……。
(……大丈夫)
邪魔はしない。
私は、少し離れた場所で身体を低くした。
そして、負傷した闘蛇の方へ鼻先を向けた。
低く、短く喉を鳴らす。
……。
(……落ち着いて)
伝わるかどうかは、分からない。
でも。
負傷した闘蛇は、少しだけこちらを見た。
私は、動かなかった。
ガンも、動かない。
しばらくして。
負傷した闘蛇は、ゆっくりと身体を起こした。
◇◇◇
「……立った!」
戦士が声を上げた。
セイランが頷く。
「無理をさせるな」
負傷した闘蛇は、少しだけ足を動かした。
痛みはあるようだ。
だが、歩けないわけではない。
ガンが、すぐ隣へ寄り添う。
私は、反対側へ回った。
……。
(……よし)
両側から支える。
ただし、身体を押しつけすぎないように。
負傷した闘蛇が、自分の足で立てる程度に。
……。
(……ゆっくりね)
私は、少しずつ歩き始めた。
ガンも、同じ速度で動いた。
負傷した闘蛇が、一歩。
もう一歩。
……。
(……いける)
◇◇◇
「……すごいな」
セイランが呟いた。
「ガンとスイが、合わせている」
近くの戦士も頷く。
「まるで、前から一緒に動いていたみたいだ」
トウエンがいれば、何と言っただろう。
きっと、何も言わずにじっと観察したに違いない。
◇◇◇
その後、私たちは少しずつ谷を進んだ。
負傷した闘蛇を急がせないように。
足元を確かめながら。
ガンは、前方の道を見ていた。
私は、負傷した闘蛇の様子を見ていた。
どちらかが止まれば、もう一方も止まる。
どちらかが進めば、ゆっくりと続く。
……。
(……なるほど)
ガンは、やっぱりすごい。
経験がある。
判断が早い。
でも。
私にも、できることがある。
ガンが前を見るなら、私は隣を見る。
それでいい。
◇◇◇
夕方。
ようやく集落へ戻ることができた。
負傷した闘蛇は、飼育場で休ませることになった。
幸い、命に関わる怪我ではないらしい。
トウエンは、報告を聞いて深く頷いた。
「……よく無事に戻った」
セイランが答える。
「ガンが落ち着いていたおかげです」
「スイも、よく動いてくれました」
ハクが付け加えた。
トウエンは、私を見た。
「……そうか」
私は、少しだけ首を傾げた。
(……褒められてる?)
まあ、悪い気はしない。
◇◇◇
その夜。
私は、川辺で身体を休めていた。
今日は、さすがに疲れた。
身体も重いし、足も少しだるい。
……。
(……明日は休みがいいなあ)
そんなことを考えていると。
背後から、足音がした。
振り返る。
ガンだった。
……。
(……おや)
こんな時間に、珍しい。
ガンは、私の隣へ来ると、ゆっくりと身体を伏せた。
しばらく、何も起きなかった。
川の音だけが聞こえる。
やがて。
ガンが、低く喉を鳴らした。
私は、少しだけ顔を上げた。
……。
(……何でしょう)
ガンは、こちらを見ない。
ただ、静かに身体を休めている。
私は、少し考えた。
それから、同じように低く喉を鳴らした。
……。
(……お疲れさまでした)
もちろん、言葉が通じたわけではない。
でも。
何となく、伝わった気がした。
ガンは、静かに目を閉じた。
私も、目を閉じる。
川の音が、心地よかった。
今日、私たちは初めて、一緒に誰かを助けた。
それは、訓練で決められた動きではなかった。
誰かに命令されたわけでもない。
ただ、目の前に困っている仲間がいて。
互いに、自分のできることをした。
……。
(……まあ)
こういうのも、悪くない。
私は、ゆっくりと眠りに落ちた。