秦の山奥で闘蛇やってます   作:欄外

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第三十六話 谷に響く声

 

訓練が始まって五日目。

 

私は、一つの事実に気がついた。

 

闘蛇という生き物は、思っていた以上に個性が強い。

 

いや、もちろん知っていた。普段から一緒に暮らしている若い闘蛇たちだって、食いしん坊もいれば、妙に臆病な子もいる。

 

ただ、年長の闘蛇たちと行動するようになって、その違いがいっそうはっきりしてきたのだ。

 

例えばガン。

 

大きな身体に古い傷。どんな道でも落ち着いて歩く、頼れる年長者である。

 

ただし、頑固だ。

 

一度進むと決めた道は、多少の障害があっても簡単には変えない。

 

別の年長の雌は、足元の変化に敏感だった。小さな穴や緩んだ地面を見つけるのが得意で、危ない場所では必ず立ち止まる。

 

一方、若い闘蛇たちはというと。

 

(……元気だなあ)

 

朝からやたらと張り切っている。

 

昨日の訓練で少し自信がついたらしい。

 

私の隣にいる一頭など、出発前から尻尾を揺らしている。

 

(遠足じゃないんだけどね)

 

もっとも、私も昨日より少し楽しみにしていた。

 

十五頭で動くことにも慣れてきたし、ガンたちとの距離も縮まっている。

 

何より、訓練が終われば川でゆっくりできる。

 

素晴らしい一日ではないか。

 

……そう思っていた。

 

◇◇◇

 

「今日は谷の奥まで進む」

 

トウエンが、地面に描いた道を指した。

 

「途中で隊列を三つに分け、別々の道を通らせる。谷の奥で合流し、戻りは一列だ」

 

ハクが首を傾げる。

 

「三つに分けるんですか?」

 

「ああ。十五頭が一列で動くことには、少し慣れてきた。次は、離れた組同士が合流できるかを確かめる」

 

「合図は?」

 

「角笛を使う。短く二度で停止、長く一度で集合。ただし、角笛だけを頼りにするな」

 

トウエンは、戦士たちを見回した。

 

「谷では音が反響する。聞こえた方向を、そのまま信じるな」

 

セイランが頷いた。

 

「合流地点は、あらかじめ決めておく」

 

「そうだ。音が聞こえなくても、予定の場所へ向かえ」

 

私は少し離れた場所で、岩の上に顎を載せていた。

 

(……なるほど)

 

通信手段が角笛。

 

なかなか古風である。

 

いや、時代を考えれば当然なのだけれど。

 

前世なら無線機でも使うところだろうか。

 

(……闘蛇用のインカムとか、あったら便利そう)

 

私の耳に装着できるものがあるかは、さておき。

 

◇◇◇

 

三つの組に分かれた私たちは、それぞれ別の道へ進んだ。

 

私の組には、セイランとハク、それに若い闘蛇が三頭。

 

レンは今日は飼育場で仕事があるため、同行していない。

 

少し寂しい。

 

(……帰ったら撫でてもらおう)

 

谷へ入ると、空気が変わった。

 

両側に切り立った岩壁が続き、ところどころに木が生えている。

 

道幅は広くないが、闘蛇が通るには十分だ。

 

私は足元を確かめながら進んだ。

 

後ろの闘蛇たちも、落ち着いてついてくる。

 

セイランの合図に従い、曲がり角を抜ける。

 

その先には、少し開けた場所があった。

 

「ここで一度止まる」

 

セイランが言った。

 

私たちは、岩壁のそばで身体を休めた。

 

遠くから、かすかに角笛の音が聞こえる。

 

短く、二度。

 

停止の合図だ。

 

「ほかの組も、順調そうだな」

 

ハクが笑った。

 

セイランは、谷の奥を見つめていた。

 

「……まだ分からん」

 

(……慎重ですねえ)

 

まあ、慎重なのは良いことだ。

 

私は、近くの岩に身体を寄せた。

 

ひんやりしていて気持ちがいい。

 

◇◇◇

 

最初の異変は、小さな音だった。

 

ぱらり。

 

足元に、小石が落ちた。

 

私は、顔を上げた。

 

上を見る。

 

岩壁の途中で、鳥が一斉に飛び立った。

 

(……ん?)

 

続いて、もう一度。

 

ぱらぱら、と石が落ちる。

 

今度は、少し大きい。

 

私は、ゆっくりと身体を起こした。

 

セイランも気づいたらしい。

 

「……上か」

 

その瞬間。

 

谷の奥から、低い音が響いた。

 

ごご、と地面を擦るような音。

 

「……落石だ!」

 

ハクが叫んだ。

 

◇◇◇

 

岩壁の一部が崩れた。

 

大量の土砂ではない。

 

だが、大きな石がいくつも転がり落ち、谷の道を塞いだ。

 

私たちがいる場所より、少し奥だ。

 

「全員、動くな!」

 

セイランが声を上げる。

 

私は、足を止めた。

 

後ろの闘蛇たちも止まる。

 

岩が転がる音が、谷に反響した。

 

しばらくして、静けさが戻った。

 

……。

 

(……びっくりした)

 

私は、ゆっくりと息を吐いた。

 

落石そのものは、私たちの近くまで来なかった。

 

しかし。

 

問題は、その先にあった。

 

◇◇◇

 

「……道が塞がれたな」

 

ハクが、岩の向こうを見つめた。

 

合流地点へ向かう道が、大きな石で塞がれている。

 

「引き返しますか?」

 

「……待て」

 

セイランは、周囲を見回した。

 

「ほかの組が、向こう側にいる」

 

そうだった。

 

谷の奥には、ガンたちの組が向かっている。

 

別の道を通っているとはいえ、落石の影響を受けているかもしれない。

 

トウエンのいる組も、まだ合流していない。

 

「角笛を」

 

セイランが言った。

 

ハクが角笛を取り出した。

 

短く二度。

 

停止の合図。

 

谷に、音が響いた。

 

……しかし。

 

返事はない。

 

◇◇◇

 

「……聞こえなかったのかな」

 

ハクが呟く。

 

「反響している」

 

セイランは、岩壁を見上げた。

 

「場所によっては、音が届かない」

 

私は、耳を澄ませた。

 

……。

 

(……ん?)

 

遠くから、何か聞こえる。

 

角笛ではない。

 

低い、喉を鳴らすような音。

 

闘蛇の声だ。

 

私は、顔を上げた。

 

(……ガン?)

 

いや、分からない。

 

でも、聞き覚えがある。

 

私は、少しだけ身体を動かした。

 

セイランが、背の上で姿勢を変える。

 

「……どうした、スイ」

 

私は、すぐには動かなかった。

 

人間の言葉に反応したと思われるのは、避けたい。

 

ただ、耳を澄ませる。

 

もう一度。

 

低い声が響いた。

 

……。

 

(……やっぱり)

 

闘蛇だ。

 

しかも、少し切迫している。

 

◇◇◇

 

「……向こうで何か起きているかもしれん」

 

セイランが言った。

 

ハクが頷く。

 

「でも、この道は通れません」

 

「別の道を探す」

 

「……分かりました」

 

私たちは、いったん来た道を戻ることになった。

 

谷の途中には、細い獣道がある。

 

人間なら通れるが、闘蛇には少し狭い。

 

セイランたちは、その道を確かめに向かった。

 

私は、ほかの闘蛇たちと待つことになった。

 

……。

 

(……うーん)

 

どうにも落ち着かない。

 

遠くから聞こえた声。

 

あれは、何だったのだろう。

 

私は、岩壁の向こうを見つめた。

 

◇◇◇

 

しばらくして、セイランたちが戻ってきた。

 

「……獣道は使えない」

 

ハクが言った。

 

「途中で崖になってます」

 

セイランは、少し考えた。

 

「ならば、元の道を戻って別の谷へ回る」

 

「時間がかかりますね」

 

「ああ。だが、無理に進むよりはいい」

 

そのときだった。

 

遠くから、もう一度、闘蛇の声が響いた。

 

今度は、はっきりと聞こえた。

 

低く、長い声。

 

……。

 

(……ガンだ)

 

私は、確信した。

 

あの声は、ガンだ。

 

◇◇◇

 

私は、ゆっくりと立ち上がった。

 

そして、岩壁の方へ顔を向けた。

 

セイランが気づく。

 

「……スイ?」

 

私は、すぐには動かない。

 

ただ、耳を澄ませる。

 

もう一度、声が聞こえた。

 

今度は、少し短い。

 

……。

 

(……何か、知らせてる?)

 

ガンは、普段あまり声を出さない。

 

必要なときだけ、低く喉を鳴らす。

 

それが、何度も聞こえる。

 

私は、少し考えた。

 

……。

 

(……もしかして)

 

向こうで、何か起きている。

 

私は、足元を見た。

 

岩壁のそばには、細い水路があった。

 

雨水が流れる場所らしい。

 

今は水が少ない。

 

その先は、岩の陰へ続いている。

 

……。

 

(……あれ)

 

これ、通れる?

 

私は、ゆっくりと水路へ近づいた。

 

セイランが、背の上で身体を傾けた。

 

「……何だ?」

 

私は、鼻先を水路へ向けた。

 

少し狭い。

 

でも、私なら通れるかもしれない。

 

ただし、ほかの闘蛇たちは難しそうだ。

 

……。

 

(……うーん)

 

どうしよう。

 

◇◇◇

 

「……スイが、何か見つけたようだ」

 

ハクが言った。

 

セイランは、水路を確かめた。

 

「……確かに、奥へ続いている」

 

「通れますか?」

 

「分からん」

 

セイランは、少し考えた。

 

「俺が先に確かめる」

 

そう言って、私の背から降りた。

 

水路の入り口へ近づき、奥を覗く。

 

しばらくして、戻ってきた。

 

「……途中で広くなっている。人なら通れる」

 

「闘蛇は?」

 

「スイなら、何とか通れるかもしれん」

 

……。

 

(……やっぱり)

 

私は、少しだけ嬉しくなった。

 

でも。

 

無理は禁物。

 

私は、ゆっくりと水路へ足を入れた。

 

◇◇◇

 

水路は、思ったより狭かった。

 

岩壁が近い。

 

身体を少し低くし、慎重に進む。

 

セイランは、私の背から降りたまま、前を歩いている。

 

ハクは、ほかの闘蛇たちと待機だ。

 

……。

 

(……探検ですね)

 

いや、違う。

 

今は、そんなことを言っている場合ではない。

 

私は、慎重に進んだ。

 

しばらくすると、水路が少し広くなった。

 

そして。

 

岩の向こうに、別の谷が見えた。

 

……。

 

(……おお)

 

抜けた。

 

◇◇◇

 

谷の向こうには、ガンたちの組がいた。

 

ただし、様子がおかしい。

 

一頭の闘蛇が、岩場の端で身体を伏せている。

 

近くには、騎乗者たちが集まっていた。

 

ガンは、その闘蛇のそばに立っている。

 

「……いた!」

 

セイランが声を上げた。

 

向こうの戦士たちが振り返る。

 

「セイラン!」

 

「何があった!」

 

「落石で、一頭が足を痛めた!」

 

……。

 

(……ああ)

 

やっぱり。

 

私は、急いで近づこうとした。

 

しかし。

 

ガンが、こちらを見た。

 

低く、短く喉を鳴らす。

 

……。

 

(……止まれ?)

 

私は、足を止めた。

 

ガンは、負傷した闘蛇のそばへ戻った。

 

……。

 

(……なるほど)

 

近づきすぎるな、ということか。

 

私は、少し離れた場所で身体を伏せた。

 

◇◇◇

 

「……骨は折れていないと思う」

 

戦士の一人が言った。

 

「ただ、足首をひねったらしい」

 

セイランが、負傷した闘蛇の様子を確かめる。

 

「歩けるか?」

 

「少しなら。ただ、長い距離は難しい」

 

「……そうか」

 

セイランは、周囲を見回した。

 

谷の出口は、落石で塞がれている。

 

別の道へ回るには、かなりの距離がある。

 

しかも、負傷した闘蛇を連れている。

 

……。

 

(……困ったね)

 

私は、少し考えた。

 

無理に歩かせれば、怪我が悪化する。

 

でも、ここに置いていくわけにもいかない。

 

◇◇◇

 

そのとき。

 

ガンが、ゆっくりと動いた。

 

負傷した闘蛇のそばへ近づき、鼻先を寄せる。

 

低く喉を鳴らす。

 

負傷した闘蛇は、少しだけ顔を上げた。

 

ガンは、そのまま身体を横へ向けた。

 

まるで、立ち上がるのを待っているようだった。

 

……。

 

(……おお)

 

さすが。

 

私は、感心した。

 

でも。

 

負傷した闘蛇は、なかなか立ち上がれない。

 

ガンは、急かさず待っている。

 

……。

 

(……うーん)

 

私は、少し考えた。

 

それから、ゆっくりと近づいた。

 

ガンが、こちらを見た。

 

私は、足を止めた。

 

……。

 

(……大丈夫)

 

邪魔はしない。

 

私は、少し離れた場所で身体を低くした。

 

そして、負傷した闘蛇の方へ鼻先を向けた。

 

低く、短く喉を鳴らす。

 

……。

 

(……落ち着いて)

 

伝わるかどうかは、分からない。

 

でも。

 

負傷した闘蛇は、少しだけこちらを見た。

 

私は、動かなかった。

 

ガンも、動かない。

 

しばらくして。

 

負傷した闘蛇は、ゆっくりと身体を起こした。

 

◇◇◇

 

「……立った!」

 

戦士が声を上げた。

 

セイランが頷く。

 

「無理をさせるな」

 

負傷した闘蛇は、少しだけ足を動かした。

 

痛みはあるようだ。

 

だが、歩けないわけではない。

 

ガンが、すぐ隣へ寄り添う。

 

私は、反対側へ回った。

 

……。

 

(……よし)

 

両側から支える。

 

ただし、身体を押しつけすぎないように。

 

負傷した闘蛇が、自分の足で立てる程度に。

 

……。

 

(……ゆっくりね)

 

私は、少しずつ歩き始めた。

 

ガンも、同じ速度で動いた。

 

負傷した闘蛇が、一歩。

 

もう一歩。

 

……。

 

(……いける)

 

◇◇◇

 

「……すごいな」

 

セイランが呟いた。

 

「ガンとスイが、合わせている」

 

近くの戦士も頷く。

 

「まるで、前から一緒に動いていたみたいだ」

 

トウエンがいれば、何と言っただろう。

 

きっと、何も言わずにじっと観察したに違いない。

 

◇◇◇

 

その後、私たちは少しずつ谷を進んだ。

 

負傷した闘蛇を急がせないように。

 

足元を確かめながら。

 

ガンは、前方の道を見ていた。

 

私は、負傷した闘蛇の様子を見ていた。

 

どちらかが止まれば、もう一方も止まる。

 

どちらかが進めば、ゆっくりと続く。

 

……。

 

(……なるほど)

 

ガンは、やっぱりすごい。

 

経験がある。

 

判断が早い。

 

でも。

 

私にも、できることがある。

 

ガンが前を見るなら、私は隣を見る。

 

それでいい。

 

◇◇◇

 

夕方。

 

ようやく集落へ戻ることができた。

 

負傷した闘蛇は、飼育場で休ませることになった。

 

幸い、命に関わる怪我ではないらしい。

 

トウエンは、報告を聞いて深く頷いた。

 

「……よく無事に戻った」

 

セイランが答える。

 

「ガンが落ち着いていたおかげです」

 

「スイも、よく動いてくれました」

 

ハクが付け加えた。

 

トウエンは、私を見た。

 

「……そうか」

 

私は、少しだけ首を傾げた。

 

(……褒められてる?)

 

まあ、悪い気はしない。

 

◇◇◇

 

その夜。

 

私は、川辺で身体を休めていた。

 

今日は、さすがに疲れた。

 

身体も重いし、足も少しだるい。

 

……。

 

(……明日は休みがいいなあ)

 

そんなことを考えていると。

 

背後から、足音がした。

 

振り返る。

 

ガンだった。

 

……。

 

(……おや)

 

こんな時間に、珍しい。

 

ガンは、私の隣へ来ると、ゆっくりと身体を伏せた。

 

しばらく、何も起きなかった。

 

川の音だけが聞こえる。

 

やがて。

 

ガンが、低く喉を鳴らした。

 

私は、少しだけ顔を上げた。

 

……。

 

(……何でしょう)

 

ガンは、こちらを見ない。

 

ただ、静かに身体を休めている。

 

私は、少し考えた。

 

それから、同じように低く喉を鳴らした。

 

……。

 

(……お疲れさまでした)

 

もちろん、言葉が通じたわけではない。

 

でも。

 

何となく、伝わった気がした。

 

ガンは、静かに目を閉じた。

 

私も、目を閉じる。

 

川の音が、心地よかった。

 

今日、私たちは初めて、一緒に誰かを助けた。

 

それは、訓練で決められた動きではなかった。

 

誰かに命令されたわけでもない。

 

ただ、目の前に困っている仲間がいて。

 

互いに、自分のできることをした。

 

……。

 

(……まあ)

 

こういうのも、悪くない。

 

私は、ゆっくりと眠りに落ちた。

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