秦の山奥で闘蛇やってます   作:欄外

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第三十七話 背に預かる命

 

翌朝、私はいつもより遅く目を覚ました。

 

川辺には朝日が差し込み、濡れた石がきらきらと光っている。近くでは若い闘蛇たちが水を飲み、少し離れた場所ではレンが桶を抱えて歩いていた。

 

(……平和だ)

 

昨日は大変だった。

 

落石に、通れなくなった道に、怪我をした仲間。訓練に出かけたはずが、すっかり救助活動になってしまった。

 

幸い、負傷した闘蛇は大事には至らなかったらしい。

 

レンによれば、しばらく休めばまた歩けるようになるという。

 

(……よかった、よかった)

 

私は大きく伸びをした。

 

さて、今日は何をしよう。

 

川で泳ぐのもいいし、日向ぼっこも捨てがたい。

 

「スイ」

 

聞き慣れた声がした。

 

セイランである。

 

(……あ)

 

嫌な予感。

 

「今日は少し、付き合ってもらうぞ」

 

……。

 

(休日という概念を導入しませんか?)

 

◇◇◇

 

訓練場に着くと、すでにトウエンとハクが待っていた。

 

ただ、いつもとは様子が違う。

 

闘蛇は私とガン、それからもう二頭だけ。十五頭全員を集める訓練ではないらしい。

 

その代わり、地面には木の棒や藁束が置かれ、少し離れた場所には人の背丈ほどの木枠が立てられていた。

 

「昨日の報告を聞いて、考えを改めた」

 

トウエンが言った。

 

「これまでの訓練では、闘蛇同士の連携を中心に見てきた。だが、実際に危険が起きれば、それだけでは足りん」

 

ハクが頷く。

 

「乗っている人間も、危ないですからね」

 

「そうだ。闘蛇が無事でも、騎乗者が落ちれば意味がない。逆も同じだ」

 

セイランは黙って木枠を見ていた。

 

「……昨日の谷でも、落石がもう少し近ければ、俺たちが負傷していた」

 

「だから今日は、騎乗者を守る動きを確かめる」

 

私は地面に置かれた藁束を眺めた。

 

(……なるほど)

 

どうやら、少し物騒な授業が始まるらしい。

 

◇◇◇

 

最初の訓練は単純だった。

 

私の背にはセイランが乗り、少し離れた場所でハクが木の棒を持って立っている。

 

もちろん、本当に殴るわけではない。

 

ハクが棒を振り上げる。

 

それを見たセイランが、私に停止の合図を出す。

 

私は足を止めた。

 

「次は、右へ」

 

合図に従い、身体を横へ動かす。

 

「よし」

 

……。

 

(簡単ですね)

 

ところが、三度目で問題が起きた。

 

ハクが棒を振り上げた瞬間、私は反射的に身体を低くした。

 

頭の上を何かが通るのは、あまり好きではない。

 

実際には届かない距離だと分かっていても、身体が勝手に動いてしまう。

 

「うおっ!」

 

背中でセイランの身体が揺れた。

 

すぐに姿勢を立て直したものの、危うく前へ投げ出されるところだった。

 

「……止めろ」

 

セイランが合図を出した。

 

私はその場に伏せた。

 

(……あれ)

 

もしかして、失敗?

 

◇◇◇

 

「今のは、スイが悪いわけではない」

 

トウエンが言った。

 

「危険を避けようとするのは当然だ。だが、背に人を乗せているとき、急に身体を沈めれば騎乗者は振り落とされる」

 

セイランが頷いた。

 

「俺も、合図が遅れた」

 

「そうだ。お前が先に危険を見つけていれば、スイに別の動きを選ばせられたかもしれん」

 

ハクが木の棒を肩に担いだ。

 

「闘蛇だけじゃなく、乗ってる側も鍛えないといけないってことですね」

 

「ようやく分かったか」

 

「いや、分かってましたよ!」

 

トウエンは返事をせず、次の準備を始めた。

 

……。

 

(……ハク、頑張れ)

 

私は、少しだけ同情した。

 

◇◇◇

 

その後、何度か同じ動きを繰り返した。

 

棒が振り上げられる。

 

セイランが合図を出す。

 

私は、急に身体を沈めるのではなく、少し斜めに下がる。

 

最初はぎこちなかったが、何度か繰り返すうちに、セイランの重心が動くのを感じ取れるようになった。

 

背中に乗る人間の体重は、私にとって決して重くない。

 

けれど、重さと危険は別の話だ。

 

(……そうか)

 

私は、ふと思った。

 

前世、人間だった頃。

 

馬に乗った経験は、ほとんどない。

 

でも、乗り物が急に動けば身体が揺れることくらいは知っている。

 

自転車でも、車でも、急ブレーキは怖い。

 

まして、今の私は生き物だ。

 

道路を走る車と違って、足元の石一つで身体の動きが変わる。

 

(……安全運転、大事)

 

私は、少し慎重に足を運んだ。

 

◇◇◇

 

次に訓練を受けたのはガンだった。

 

ガンの背には、年長の戦士が乗っている。

 

二人は長い付き合いらしく、合図も少ない。

 

ハクが棒を振り上げると、ガンはわずかに身体を傾け、無駄のない動きで距離を取った。

 

騎乗者の姿勢は、ほとんど崩れない。

 

(……うまい)

 

私は素直に感心した。

 

ガンは大きく動かない。

 

必要な分だけ動き、それ以上は動かない。

 

まるで、自分の背に何が乗っているのか、常に分かっているようだった。

 

「……さすがだな」

 

セイランが呟いた。

 

トウエンも頷く。

 

「ガンは、昔から騎乗者を落とさない」

 

「経験の差か」

 

「それもある。だが、ガンは人間の動きをよく見ている」

 

私は、ガンの背中を眺めた。

 

(……なるほどねえ)

 

昨日は、私がガンを助けたと思っていた。

 

でも、こうして見ると、まだまだ教わることが多い。

 

◇◇◇

 

昼を過ぎると、訓練は少し難しくなった。

 

今度は、木枠の向こうから藁束を転がす。

 

闘蛇は、それを避けながら騎乗者を守る。

 

藁束は軽く、当たっても怪我をするようなものではない。

 

ただし、突然転がってくると、少し驚く。

 

一頭目の闘蛇は、横へ大きく跳ねた。

 

騎乗者が慌てて身体を伏せる。

 

二頭目は、藁束を避けようとして後ろへ下がり、別の木枠に尻尾をぶつけた。

 

「……止めろ!」

 

トウエンの声が飛ぶ。

 

幸い、怪我はなかった。

 

しかし、訓練場の空気が少し変わった。

 

「思ったより難しいですね」

 

ハクが言った。

 

「当然だ」

 

トウエンは、転がった藁束を拾い上げた。

 

「危険を避けるだけなら、それぞれできる。だが、背に人を乗せ、周囲に仲間がいるとなれば話は別だ」

 

セイランが私の首筋を軽く叩いた。

 

「……次は、俺たちだ」

 

(……はいはい)

 

私は、ゆっくりと立ち上がった。

 

◇◇◇

 

最初の藁束は、右から転がってきた。

 

私は左へ動く。

 

セイランの身体が、少しだけ傾いた。

 

問題なし。

 

次は、左から。

 

今度は右へ。

 

これも問題なし。

 

(……いい感じ)

 

三つ目。

 

藁束は、正面から転がってきた。

 

私は、右へ避けようとした。

 

そのとき。

 

視界の端に、もう一頭の闘蛇が見えた。

 

別の訓練を終え、少し離れた場所で休んでいた個体だ。

 

右へ動けば、近づきすぎる。

 

(……あ)

 

私は、足を止めた。

 

正面には藁束。

 

右には仲間。

 

左には木枠。

 

ほんの一瞬、迷った。

 

「スイ、下がれ!」

 

セイランの合図が伝わる。

 

私は後ろへ一歩下がった。

 

藁束が、目の前を転がっていく。

 

……。

 

(……おお)

 

なるほど。

 

後ろがあった。

 

◇◇◇

 

「……今のはよかった」

 

トウエンが言った。

 

「スイが周囲を見て、セイランが逃げ道を示した」

 

ハクが笑う。

 

「二人とも、少しずつ慣れてきましたね」

 

セイランは、私の首筋を撫でた。

 

「……よく止まった」

 

(……ふふん)

 

褒められた。

 

しかも、セイランに。

 

これは、なかなか嬉しい。

 

私は、思わず尻尾を揺らした。

 

「……機嫌がいいな」

 

セイランが小さく笑った。

 

……。

 

(……見抜かれた)

 

◇◇◇

 

訓練が終わった頃、ガンが私のそばへ近づいてきた。

 

今日も、特に何かをするわけではない。

 

ただ、隣に立っている。

 

私は、少しだけ顔を上げた。

 

ガンは、私を一度見た。

 

それから、ゆっくりと身体を傾けた。

 

……。

 

(……ん?)

 

何だろう。

 

ガンは、もう一度同じ動きをした。

 

身体を少しだけ横へ傾け、足を動かす。

 

先ほどの訓練で見せた、無駄のない回避動作だ。

 

(……あ)

 

私は、少し考えた。

 

もしかして。

 

教えてくれている?

 

私は、同じように身体を傾けてみた。

 

……が。

 

思ったより難しい。

 

体格も足の長さも違うため、同じ動きをしているつもりでも、少し不格好になってしまう。

 

ガンは、じっと見ていた。

 

そして、もう一度動いた。

 

今度は、少しゆっくり。

 

(……なるほど)

 

私は、足の置き方を変えた。

 

身体を大きく動かすのではなく、重心だけを移す。

 

すると、さっきより滑らかに動けた。

 

……。

 

(……おお)

 

できた。

 

ガンは、低く喉を鳴らした。

 

私は、思わず同じように鳴き返した。

 

◇◇◇

 

「……何をしてるんだ?」

 

ハクが、少し離れた場所から尋ねた。

 

レンは、いつの間にか訓練場へ来ていた。

 

「……遊んでるのかな」

 

「ガンが?」

 

「うん」

 

ハクは、ガンを見た。

 

そして、首を傾げた。

 

「……あいつ、そんなことするんだな」

 

トウエンは、二頭の様子を眺めていた。

 

「……遊びではないかもしれんぞ」

 

「え?」

 

「闘蛇は、互いの動きを見て覚えることがある」

 

セイランが、私たちを見た。

 

「……教えているのか」

 

「そう見えるな」

 

トウエンは、静かに笑った。

 

「面白いことになってきた」

 

◇◇◇

 

夕方。

 

私は、川辺へ戻っていた。

 

今日は、身体より頭が疲れた気がする。

 

危険を避ける。

 

背に乗る人間を守る。

 

周囲の仲間にも気を配る。

 

……。

 

(……やること、多いなあ)

 

私は、ゆっくりと水へ入った。

 

ひんやりとした感触が、疲れた身体に心地いい。

 

しばらくすると、若い闘蛇たちが近づいてきた。

 

一頭が、私の隣へ並ぶ。

 

そして。

 

突然、身体を少しだけ横へ傾けた。

 

……。

 

(……ん?)

 

見覚えのある動きだった。

 

今日、ガンに教わったものだ。

 

私は、少し驚いた。

 

どうやら、訓練場で私たちの様子を見ていたらしい。

 

もう一頭も、同じように身体を動かした。

 

……。

 

(……ちょっと待って)

 

私が教わったことを、今度はこの子たちが真似している?

 

私は、少し考えた。

 

それから、もう一度、ゆっくりと身体を傾けてみた。

 

若い闘蛇たちが、それに続く。

 

一頭は上手にできた。

 

もう一頭は、少しバランスを崩した。

 

(……あらら)

 

私は、近づいて鼻先を寄せた。

 

怪我はないようだ。

 

よかった。

 

ふと、昼間のガンを思い出した。

 

何度も、ゆっくり動きを見せてくれたこと。

 

私がうまくできるまで、待っていてくれたこと。

 

(……そうか)

 

教えるというのは、こういうことなのかもしれない。

 

自分ができることを、相手にもできるようにする。

 

それは、ただ先頭を歩くこととは少し違う。

 

私は、もう一度身体を傾けた。

 

今度は、さっきよりゆっくり。

 

若い闘蛇たちが、慎重に真似をする。

 

(……うん)

 

悪くない。

 

少し離れた岩場では、ガンがこちらを見ていた。

 

私は、その視線に気づかなかった。

 

ただ、目の前の若い闘蛇たちが転ばないように、足元を見ていた。

 

やがてガンは、ゆっくりと身体を伏せた。

 

今日、自分が教えた動きを、若い雌がさらに別の闘蛇へ伝えている。

 

それは、白淵族の闘蛇たちが、これまであまり見せなかった光景だった。

 

群れの中で、経験が受け継がれていく。

 

そして、その中心にいるのは、あの若い雌だった。

 

ガンは、低く喉を鳴らした。

 

川辺には、夕暮れの光が差し込んでいた。

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