翌朝、私はいつもより遅く目を覚ました。
川辺には朝日が差し込み、濡れた石がきらきらと光っている。近くでは若い闘蛇たちが水を飲み、少し離れた場所ではレンが桶を抱えて歩いていた。
(……平和だ)
昨日は大変だった。
落石に、通れなくなった道に、怪我をした仲間。訓練に出かけたはずが、すっかり救助活動になってしまった。
幸い、負傷した闘蛇は大事には至らなかったらしい。
レンによれば、しばらく休めばまた歩けるようになるという。
(……よかった、よかった)
私は大きく伸びをした。
さて、今日は何をしよう。
川で泳ぐのもいいし、日向ぼっこも捨てがたい。
「スイ」
聞き慣れた声がした。
セイランである。
(……あ)
嫌な予感。
「今日は少し、付き合ってもらうぞ」
……。
(休日という概念を導入しませんか?)
◇◇◇
訓練場に着くと、すでにトウエンとハクが待っていた。
ただ、いつもとは様子が違う。
闘蛇は私とガン、それからもう二頭だけ。十五頭全員を集める訓練ではないらしい。
その代わり、地面には木の棒や藁束が置かれ、少し離れた場所には人の背丈ほどの木枠が立てられていた。
「昨日の報告を聞いて、考えを改めた」
トウエンが言った。
「これまでの訓練では、闘蛇同士の連携を中心に見てきた。だが、実際に危険が起きれば、それだけでは足りん」
ハクが頷く。
「乗っている人間も、危ないですからね」
「そうだ。闘蛇が無事でも、騎乗者が落ちれば意味がない。逆も同じだ」
セイランは黙って木枠を見ていた。
「……昨日の谷でも、落石がもう少し近ければ、俺たちが負傷していた」
「だから今日は、騎乗者を守る動きを確かめる」
私は地面に置かれた藁束を眺めた。
(……なるほど)
どうやら、少し物騒な授業が始まるらしい。
◇◇◇
最初の訓練は単純だった。
私の背にはセイランが乗り、少し離れた場所でハクが木の棒を持って立っている。
もちろん、本当に殴るわけではない。
ハクが棒を振り上げる。
それを見たセイランが、私に停止の合図を出す。
私は足を止めた。
「次は、右へ」
合図に従い、身体を横へ動かす。
「よし」
……。
(簡単ですね)
ところが、三度目で問題が起きた。
ハクが棒を振り上げた瞬間、私は反射的に身体を低くした。
頭の上を何かが通るのは、あまり好きではない。
実際には届かない距離だと分かっていても、身体が勝手に動いてしまう。
「うおっ!」
背中でセイランの身体が揺れた。
すぐに姿勢を立て直したものの、危うく前へ投げ出されるところだった。
「……止めろ」
セイランが合図を出した。
私はその場に伏せた。
(……あれ)
もしかして、失敗?
◇◇◇
「今のは、スイが悪いわけではない」
トウエンが言った。
「危険を避けようとするのは当然だ。だが、背に人を乗せているとき、急に身体を沈めれば騎乗者は振り落とされる」
セイランが頷いた。
「俺も、合図が遅れた」
「そうだ。お前が先に危険を見つけていれば、スイに別の動きを選ばせられたかもしれん」
ハクが木の棒を肩に担いだ。
「闘蛇だけじゃなく、乗ってる側も鍛えないといけないってことですね」
「ようやく分かったか」
「いや、分かってましたよ!」
トウエンは返事をせず、次の準備を始めた。
……。
(……ハク、頑張れ)
私は、少しだけ同情した。
◇◇◇
その後、何度か同じ動きを繰り返した。
棒が振り上げられる。
セイランが合図を出す。
私は、急に身体を沈めるのではなく、少し斜めに下がる。
最初はぎこちなかったが、何度か繰り返すうちに、セイランの重心が動くのを感じ取れるようになった。
背中に乗る人間の体重は、私にとって決して重くない。
けれど、重さと危険は別の話だ。
(……そうか)
私は、ふと思った。
前世、人間だった頃。
馬に乗った経験は、ほとんどない。
でも、乗り物が急に動けば身体が揺れることくらいは知っている。
自転車でも、車でも、急ブレーキは怖い。
まして、今の私は生き物だ。
道路を走る車と違って、足元の石一つで身体の動きが変わる。
(……安全運転、大事)
私は、少し慎重に足を運んだ。
◇◇◇
次に訓練を受けたのはガンだった。
ガンの背には、年長の戦士が乗っている。
二人は長い付き合いらしく、合図も少ない。
ハクが棒を振り上げると、ガンはわずかに身体を傾け、無駄のない動きで距離を取った。
騎乗者の姿勢は、ほとんど崩れない。
(……うまい)
私は素直に感心した。
ガンは大きく動かない。
必要な分だけ動き、それ以上は動かない。
まるで、自分の背に何が乗っているのか、常に分かっているようだった。
「……さすがだな」
セイランが呟いた。
トウエンも頷く。
「ガンは、昔から騎乗者を落とさない」
「経験の差か」
「それもある。だが、ガンは人間の動きをよく見ている」
私は、ガンの背中を眺めた。
(……なるほどねえ)
昨日は、私がガンを助けたと思っていた。
でも、こうして見ると、まだまだ教わることが多い。
◇◇◇
昼を過ぎると、訓練は少し難しくなった。
今度は、木枠の向こうから藁束を転がす。
闘蛇は、それを避けながら騎乗者を守る。
藁束は軽く、当たっても怪我をするようなものではない。
ただし、突然転がってくると、少し驚く。
一頭目の闘蛇は、横へ大きく跳ねた。
騎乗者が慌てて身体を伏せる。
二頭目は、藁束を避けようとして後ろへ下がり、別の木枠に尻尾をぶつけた。
「……止めろ!」
トウエンの声が飛ぶ。
幸い、怪我はなかった。
しかし、訓練場の空気が少し変わった。
「思ったより難しいですね」
ハクが言った。
「当然だ」
トウエンは、転がった藁束を拾い上げた。
「危険を避けるだけなら、それぞれできる。だが、背に人を乗せ、周囲に仲間がいるとなれば話は別だ」
セイランが私の首筋を軽く叩いた。
「……次は、俺たちだ」
(……はいはい)
私は、ゆっくりと立ち上がった。
◇◇◇
最初の藁束は、右から転がってきた。
私は左へ動く。
セイランの身体が、少しだけ傾いた。
問題なし。
次は、左から。
今度は右へ。
これも問題なし。
(……いい感じ)
三つ目。
藁束は、正面から転がってきた。
私は、右へ避けようとした。
そのとき。
視界の端に、もう一頭の闘蛇が見えた。
別の訓練を終え、少し離れた場所で休んでいた個体だ。
右へ動けば、近づきすぎる。
(……あ)
私は、足を止めた。
正面には藁束。
右には仲間。
左には木枠。
ほんの一瞬、迷った。
「スイ、下がれ!」
セイランの合図が伝わる。
私は後ろへ一歩下がった。
藁束が、目の前を転がっていく。
……。
(……おお)
なるほど。
後ろがあった。
◇◇◇
「……今のはよかった」
トウエンが言った。
「スイが周囲を見て、セイランが逃げ道を示した」
ハクが笑う。
「二人とも、少しずつ慣れてきましたね」
セイランは、私の首筋を撫でた。
「……よく止まった」
(……ふふん)
褒められた。
しかも、セイランに。
これは、なかなか嬉しい。
私は、思わず尻尾を揺らした。
「……機嫌がいいな」
セイランが小さく笑った。
……。
(……見抜かれた)
◇◇◇
訓練が終わった頃、ガンが私のそばへ近づいてきた。
今日も、特に何かをするわけではない。
ただ、隣に立っている。
私は、少しだけ顔を上げた。
ガンは、私を一度見た。
それから、ゆっくりと身体を傾けた。
……。
(……ん?)
何だろう。
ガンは、もう一度同じ動きをした。
身体を少しだけ横へ傾け、足を動かす。
先ほどの訓練で見せた、無駄のない回避動作だ。
(……あ)
私は、少し考えた。
もしかして。
教えてくれている?
私は、同じように身体を傾けてみた。
……が。
思ったより難しい。
体格も足の長さも違うため、同じ動きをしているつもりでも、少し不格好になってしまう。
ガンは、じっと見ていた。
そして、もう一度動いた。
今度は、少しゆっくり。
(……なるほど)
私は、足の置き方を変えた。
身体を大きく動かすのではなく、重心だけを移す。
すると、さっきより滑らかに動けた。
……。
(……おお)
できた。
ガンは、低く喉を鳴らした。
私は、思わず同じように鳴き返した。
◇◇◇
「……何をしてるんだ?」
ハクが、少し離れた場所から尋ねた。
レンは、いつの間にか訓練場へ来ていた。
「……遊んでるのかな」
「ガンが?」
「うん」
ハクは、ガンを見た。
そして、首を傾げた。
「……あいつ、そんなことするんだな」
トウエンは、二頭の様子を眺めていた。
「……遊びではないかもしれんぞ」
「え?」
「闘蛇は、互いの動きを見て覚えることがある」
セイランが、私たちを見た。
「……教えているのか」
「そう見えるな」
トウエンは、静かに笑った。
「面白いことになってきた」
◇◇◇
夕方。
私は、川辺へ戻っていた。
今日は、身体より頭が疲れた気がする。
危険を避ける。
背に乗る人間を守る。
周囲の仲間にも気を配る。
……。
(……やること、多いなあ)
私は、ゆっくりと水へ入った。
ひんやりとした感触が、疲れた身体に心地いい。
しばらくすると、若い闘蛇たちが近づいてきた。
一頭が、私の隣へ並ぶ。
そして。
突然、身体を少しだけ横へ傾けた。
……。
(……ん?)
見覚えのある動きだった。
今日、ガンに教わったものだ。
私は、少し驚いた。
どうやら、訓練場で私たちの様子を見ていたらしい。
もう一頭も、同じように身体を動かした。
……。
(……ちょっと待って)
私が教わったことを、今度はこの子たちが真似している?
私は、少し考えた。
それから、もう一度、ゆっくりと身体を傾けてみた。
若い闘蛇たちが、それに続く。
一頭は上手にできた。
もう一頭は、少しバランスを崩した。
(……あらら)
私は、近づいて鼻先を寄せた。
怪我はないようだ。
よかった。
ふと、昼間のガンを思い出した。
何度も、ゆっくり動きを見せてくれたこと。
私がうまくできるまで、待っていてくれたこと。
(……そうか)
教えるというのは、こういうことなのかもしれない。
自分ができることを、相手にもできるようにする。
それは、ただ先頭を歩くこととは少し違う。
私は、もう一度身体を傾けた。
今度は、さっきよりゆっくり。
若い闘蛇たちが、慎重に真似をする。
(……うん)
悪くない。
少し離れた岩場では、ガンがこちらを見ていた。
私は、その視線に気づかなかった。
ただ、目の前の若い闘蛇たちが転ばないように、足元を見ていた。
やがてガンは、ゆっくりと身体を伏せた。
今日、自分が教えた動きを、若い雌がさらに別の闘蛇へ伝えている。
それは、白淵族の闘蛇たちが、これまであまり見せなかった光景だった。
群れの中で、経験が受け継がれていく。
そして、その中心にいるのは、あの若い雌だった。
ガンは、低く喉を鳴らした。
川辺には、夕暮れの光が差し込んでいた。