私にも、小さい頃があった。
今でこそ全長九メートル。立派な牙に頑丈な鱗を備えた、堂々たる闘蛇である。
だが、そんな私にも、可愛らしい赤ちゃん時代というものが存在したのだ。
……まあ、当時から牙は生えていたけれど。
ちなみに、私が初めてこの世界で目を覚ました時の感想は、今でもよく覚えている。
(……暗い)
これだった。
◇◇◇
目を開けたつもりだった。
だが、何も見えない。
周囲は真っ暗で、身体は妙に窮屈だった。
(……何これ)
(布団?)
いや、違う。
何だか硬い。
しかも、全身が湿っている。
寝汗にしては、少々ひどすぎるのではないだろうか。
私は身体を動かそうとした。
すると、頭の上で何かが軋んだ。
ぴしり。
……ん?
ぴし、ぴし。
(……え?)
何かが割れている。
それも、すぐ近くで。
私は慌てて身体をよじった。
ぱきん。
突然、頭の上から光が差し込んだ。
眩しい。
ものすごく眩しい。
私は思わず目を閉じた。
そして、次の瞬間。
ずるり、と身体が滑った。
「ギャッ!」
……。
…………。
今の声、何?
私は目を開けた。
そこには、見知らぬ景色が広がっていた。
湿った土。
積み重ねられた藁。
木で組まれた天井。
そして、目の前には、割れた大きな殻。
……殻?
(……卵?)
私は恐る恐る、自分の身体を見下ろした。
鱗。
短い四本の足。
そして、細長い尻尾。
……。
…………。
(……は?)
いやいやいや。
待って。
ちょっと待って。
何これ。
私の身体、どうなってるの?
私は前足を持ち上げた。
小さな爪がついている。
動かしてみる。
動く。
もう一度。
やっぱり動く。
(……え?)
(私、トカゲになってない?)
いや、トカゲにしては身体が長い。
ワニ?
それとも、何かの恐竜?
そもそも、ここはどこ?
私は周囲を見回した。
どう見ても病院ではない。
というか、そもそも日本ですらなさそうだ。
……。
…………。
(……もしかして)
(転生ってやつ?)
前世では、小説や漫画をそれなりに読んでいた。
だから、そういう話があることは知っている。
だが。
(普通、転生するなら人間じゃないの!?)
いや、もちろん人外転生というジャンルもある。
あるけど!
(せめて猫とか!)
(犬とか!)
(何でよりによって、こんな……!)
私はもう一度、自分の身体を見下ろした。
鱗。
爪。
尻尾。
……。
(……まあ)
(ちょっと格好良いかもしれないけど)
我ながら、切り替えは早い方である。
◇◇◇
「……あっ!」
突然、声がした。
私はびくりと身体を震わせた。
顔を上げると、そこには一人の少年が立っていた。
年齢は十歳くらいだろうか。
長い黒髪を後ろで結び、大きな瞳を輝かせている。
……。
…………。
(……可愛い)
いや。
ちょっと待って。
何この子。
めちゃくちゃ可愛いんですけど。
少年は私を見るなり、ぱっと笑顔になった。
「生まれた!」
……。
あれ?
言葉が分かる。
いや、何語なのかは分からない。
少なくとも日本語ではない気がする。
でも、意味は理解できる。
不思議だ。
そんなことを考えている間に、少年は私の前にしゃがみ込んだ。
「よかったぁ。なかなか出てこないから、心配したんだよ」
……。
…………。
(天使?)
何この子。
顔が良い上に、優しい。
最高では?
少年はそっと手を伸ばした。
私は反射的に身を引いた。
すると、少年はすぐに手を止めた。
「あ、ごめん。怖かった?」
……。
…………。
(優しい!!)
何この子!
めちゃくちゃ優しいじゃん!
私は思わず、もう一度少年に近づいた。
少年は驚いたように目を丸くした。
「……あれ?」
私は鼻先を差し出した。
ほら。
撫でてもいいのよ。
少年は少し迷ってから、そっと私の頭に触れた。
温かい。
……。
ああ。
何だか、安心する。
「……ふふ」
少年が笑った。
「変わった子だね」
……。
いや。
あなたもなかなかですよ。
こんな謎の生き物を、いきなり撫でられるんですから。
「ねえ、君の名前、何にしようか」
……。
名前?
そういえば、今の私には名前がない。
前世の名前は覚えている。
だが、ここでそれを名乗ることはできない。
そもそも、声が出ない。
いや、声は出るのだが。
「ギャウ」
……。
…………。
(……何この鳴き声)
可愛くない。
全然可愛くない。
少年はそんな私を見て、楽しそうに笑った。
「元気だね」
いや、元気というか。
ちょっとショックを受けているんですけど。
少年はしばらく考え込んでいた。
そして、ふと思いついたように言った。
「……スイ」
……。
(スイ?)
「水が好きな一族の子だから、スイ。どうかな?」
……。
…………。
(……いいじゃん)
短くて、呼びやすい。
しかも、何となく可愛い。
私は嬉しくなって、尻尾を振った。
ぱしん。
……。
…………。
何かに当たった。
振り返ると、割れた卵の殻が飛んでいた。
少年は一瞬ぽかんとした後、声を上げて笑った。
「あはは! 気に入ってくれた?」
……。
はい。
大変、気に入りました。
こうして私は、スイという名前をもらった。
そして、この少年こそが。
後に私の飼育担当となる、レンである。
◇◇◇
ちなみに、生まれたばかりの闘蛇というのは、思っていた以上に小さい。
いや、人間の赤ん坊よりは大きい。
だが、成体と比べれば随分と可愛らしいものだ。
当時の私は、頭から尻尾の先まで一メートルほど。
大きめの犬くらいのサイズだった。
……。
犬。
そう考えると、ちょっと親近感が湧く。
もっとも、犬と違って牙があるし、爪も鋭い。
しかも、食べるものが違う。
「スイ、お腹すいた?」
レンがそう言って、小さな魚を差し出した。
……。
…………。
(……生魚?)
いや。
ちょっと待って。
私、前世では普通に人間だったんですよ。
生魚を丸ごと食べる習慣なんてないんですけど。
しかも、頭つき。
内臓つき。
……。
(……無理では?)
私は顔を背けた。
すると、レンが困ったように首を傾げた。
「あれ? 食べないの?」
いや。
食べたい気持ちはあるんですよ。
何しろ、お腹は空いている。
ものすごく空いている。
でも、これはちょっと。
……。
ぐう。
腹が鳴った。
……。
…………。
(……背に腹は代えられない)
私は恐る恐る口を開けた。
魚を咥える。
……。
…………。
(……あれ?)
うまい。
いや。
うまいぞ、これ。
何だろう。
前世で食べた刺身とは違う。
だが、身体が求めていた味というか。
とにかく、美味しい。
私は夢中で魚を飲み込んだ。
「わっ!」
レンが驚いた。
「食べた!」
……。
いや。
そりゃ食べますよ。
美味しいですし。
「よかったぁ!」
レンは心底嬉しそうに笑った。
……。
…………。
(……可愛い)
何この子。
魚を食べただけで、こんなに喜んでくれるの?
私は思わず尻尾を振った。
ぱしん。
また何かに当たった。
「あっ!」
レンの声が響く。
振り返ると、魚の入った桶が倒れていた。
……。
…………。
(……ごめん)
どうやら、私の尻尾は思っていた以上に危険らしい。
◇◇◇
それからしばらく、私はレンと一緒に過ごした。
彼は毎日、私のところへやってきた。
餌をくれる。
身体を洗ってくれる。
寝床を整えてくれる。
そして、何より。
たくさん話しかけてくれた。
「今日はね、族長に褒められたんだ」
へえ。
よかったじゃない。
「でも、父さんにはまだまだだって言われた」
あら。
厳しいお父さんなのね。
「早く一人前の闘蛇飼いになりたいなぁ」
……。
…………。
(……そっか)
この子、まだ見習いなんだ。
私はレンの横顔を見つめた。
小さな手。
まだ幼さの残る顔。
それでも、私の世話をする時はいつも真剣だった。
餌の量を考え、体調を気にし、少しでも様子がおかしいと心配する。
……。
(……いい子だなぁ)
本当に、いい子だ。
私はそっと鼻先を押しつけた。
「わっ!」
レンが驚いた。
だが、すぐに笑った。
「どうしたの、スイ?」
……。
何でもないよ。
ただ。
ちょっと、ありがとうって思っただけ。
もちろん、そんな言葉は伝わらない。
でも、レンは嬉しそうに私の頭を撫でてくれた。
それで十分だった。
◇◇◇
ところで。
この頃の私は、まだ知らなかった。
白淵族がどんな一族なのか。
この山の外に、どんな世界が広がっているのか。
そして、自分が生まれた場所が、どんな時代に存在しているのかも。
ただ一つ、確かなことがあった。
ここには、私を大切にしてくれる人がいる。
そして、その人は。
とびきり顔が良い。
……。
うむ。
悪くない転生先である。
いや、むしろ。
大当たりではなかろうか。
私はレンの膝に頭を乗せ、満足げに目を閉じた。
「……スイ、重いよ」
……。
…………。
(……ごめん)
まだ一メートルしかないのに。
どうやら私は、すでに少々重かったらしい。