白淵族の飼育場には、妙なものが増え始めていた。
木の棒。縄。藁束。大きさの違う角笛。
そして、なぜか山ほどの削り屑。
(……工房でも始めるんですか?)
私は、川辺からその様子を眺めていた。
訓練が始まって以来、人間たちは何かと忙しそうだ。特にトウエンは、毎日のように戦士たちと話し合っている。
昨日など、レンまで呼ばれて、闘蛇の耳の位置や首の動きについて尋ねられていた。
「父さん、どうしてそんなこと聞くの?」
「闘蛇が何を見て、何を聞いているか、我らはまだ十分に知らん」
「ずっと飼ってきたのに?」
「ずっと飼ってきたから、知っているつもりになっていたのかもしれんな」
なかなか耳の痛い話である。
……私にも耳はあるけれど。
◇◇◇
「今までのやり方では、間に合わん」
その日の朝、トウエンは戦士たちを集めて言った。
「騎乗者が一頭ずつ動かすだけでは、十五頭が同時に危険へ対処するのは難しい。先日の谷でも、角笛が届かず、互いの位置が分からなくなった」
ハクが頷いた。
「でも、普通の角笛なら、敵にも聞こえますよね」
「敵がいる場合は、そうだ」
「それに、山では反響します。どこから鳴ったのか分からなくなることもありますし」
セイランは腕を組んだ。
「音の意味を決めても、闘蛇が理解できなければ役に立たん」
「だから、まずは反応を確かめる」
トウエンは、足元に並べられた角笛を指さした。
「音の高さや長さを変え、どの合図に闘蛇が反応しやすいか調べる」
……。
(……なるほど)
実験ですね。
私は、少しだけ興味を持った。
◇◇◇
最初の角笛は、普通のものだった。
ぶおおおお。
谷に、低い音が響く。
闘蛇たちは、一斉に顔を上げた。
……が。
すぐに興味を失った。
(……いつもの音だしね)
二つ目は、少し高い音だった。
ぷおー。
一頭の若い闘蛇が、首を傾げる。
三つ目。
ぴいいい。
今度は、何頭かが顔を上げた。
「……高い音の方が反応するな」
ハクが言った。
レンも頷く。
「でも、慣れてないだけかもしれないよ」
「そうだな」
トウエンは、角笛を置いた。
「繰り返して確かめる必要がある」
私は、少し感心した。
(……ちゃんと実験してる)
思いつきで終わらせないところが、さすがトウエンである。
◇◇◇
昼を過ぎる頃には、闘蛇たちも少し飽き始めていた。
何度も音を聞かされているうちに、最初ほど反応しなくなってきたのだ。
私も、岩の上で身体を伏せていた。
(……眠い)
角笛の音は、嫌いではない。
ただ、何度も聞くと、さすがに退屈する。
近くでは、レンが水を運んでいた。
「スイ、もう少しだからね」
(……はいはい)
私は、尻尾を一度だけ揺らした。
そのとき。
工房の方から、ハクが妙なものを持ってきた。
細長い角笛だった。
普通の角笛より、ずっと小さい。
先端には、小さな穴が開いている。
「トウエンさん、これ、どうです?」
「何だ、それは」
「昨日、細い音を出そうとして削ったやつです」
「……ずいぶん削ったな」
「ちょっとやりすぎました」
ハクは、苦笑した。
「でも、せっかくなので試してみようかと」
トウエンは、しばらく角笛を眺めた。
「……吹いてみろ」
◇◇◇
ハクが、角笛を口に当てた。
大きく息を吸う。
そして、吹いた。
……。
人間たちは、黙っていた。
ハクが、もう一度吹く。
……。
「……鳴らないな」
セイランが言った。
ハクは、角笛を見つめた。
「おかしいな。息は通ってるんですけど」
レンが首を傾げる。
「穴が小さすぎるんじゃない?」
「やっぱり削りすぎたか……」
……。
(……え?)
私は、ゆっくりと顔を上げた。
いや。
待って。
今、鳴ったよね?
すごく細い音が。
私は、周囲を見回した。
すると。
近くにいた若い闘蛇たちが、全員こちらを見ていた。
いや、違う。
私を見ているわけではない。
ハクの方を見ている。
……。
(……あれ?)
さらに。
少し離れた場所にいたガンまで、顔を上げていた。
……。
(……えええ?)
◇◇◇
「……やっぱり駄目か」
ハクが、角笛を下ろした。
「もう少し穴を広げてみます」
「待て」
トウエンが言った。
ハクが顔を上げる。
「何です?」
トウエンは、闘蛇たちを見ていた。
「……もう一度吹け」
「え?」
「いいから」
ハクは、少し不思議そうに角笛を口へ当てた。
そして、吹いた。
……。
(……ぴぃぃぃ)
聞こえた。
今度も、はっきりと。
そして。
十五頭の闘蛇が、一斉に顔を上げた。
……。
(……うわ)
壮観。
というか、ちょっと怖い。
◇◇◇
「……今の、見ました?」
ハクが呟いた。
レンは、目を丸くしていた。
「みんな、同時に……」
セイランも、闘蛇たちを見つめている。
「……音が聞こえているのか?」
トウエンは、角笛を手に取った。
自分でも吹いてみる。
……。
(……ぴぃぃ)
私は、思わず顔を上げた。
ほかの闘蛇たちも、同じように反応した。
……。
(……ちょっと待って)
これ。
もしかして。
(……犬笛じゃん!)
◇◇◇
私は、前世の記憶を探った。
犬笛。
人間には聞こえない高い音を出し、犬に合図を送る道具。
もちろん、犬にしか聞こえないというわけではない。
動物によって、聞こえる音の範囲が違うのだ。
……。
(……なるほど)
闘蛇も、人間とは聞こえる音が違うのかもしれない。
私は、少し興奮した。
いや、だって。
これ、すごくない?
人間には聞こえない。
でも、闘蛇には聞こえる。
……。
(……秘密の通信手段!)
私は、思わず尻尾を揺らした。
すると、隣の若い闘蛇も尻尾を揺らした。
……。
(……いや、そこは真似しなくていい)
◇◇◇
「……本当に聞こえているのか」
ハクが、もう一度角笛を吹いた。
十五頭の闘蛇が、また顔を上げた。
「……すごい」
レンが呟いた。
トウエンは、少し考えた。
「……偶然かもしれん」
「でも、三回とも反応しましたよ」
「だからこそ、確かめる」
トウエンは、ハクから角笛を受け取った。
「今度は、吹くふりだけしてみろ」
ハクが、角笛を口へ当てる。
息は吹かない。
……。
闘蛇たちは、動かなかった。
「……なるほど」
トウエンが呟いた。
「次は、見えない場所で吹け」
ハクは、岩の陰へ回った。
そして、角笛を吹いた。
……。
(……ぴぃぃ)
私は、顔を上げた。
ほかの闘蛇たちも、同じように反応した。
……。
(……はい、確定)
これは、聞こえてますね。
◇◇◇
「……面白いな」
セイランが言った。
トウエンは、角笛を見つめていた。
「闘蛇は、我らに聞こえない音を聞き取れるらしい」
ハクが笑う。
「じゃあ、これで指示が出せるんじゃないですか?」
「……すぐには無理だ」
トウエンは首を横に振った。
「今は、音に反応しているだけだ。意味を理解しているわけではない」
「でも、覚えさせれば?」
「可能性はある」
セイランが口を開いた。
「ただし、騎乗者の安全を考える必要がある」
「……安全?」
「闘蛇が角笛だけで急に動けば、背に乗る者が振り落とされる」
ハクは、少し考えた。
「……確かに」
「だから、角笛で直接動かすのではなく、注意を向けさせる合図にする」
トウエンが言った。
「その後の動きは、騎乗者が指示する」
セイランが頷いた。
「それなら使える」
◇◇◇
その日の夕方。
私たちは、もう一度角笛の音を聞かされた。
今度は、短く一度。
……。
(……ぴっ)
私は、顔を上げた。
続いて、短く二度。
……。
(……ぴっ、ぴっ)
今度は、少しだけ首を傾げた。
……。
(……何ですか、これ)
人間たちは、何やら真剣に相談している。
「短く一度で注目」
「二度で停止、というのはどうだ?」
「まだ動かすのは危険だ。まずは一度の合図だけにしよう」
「なるほど」
私は、静かに身体を伏せた。
……。
(……まあ)
新しいおもちゃができたらしい。
いや。
おもちゃではないのかもしれない。
人間たちは、あの小さな角笛を見つめている。
何だか、少し嬉しそうだった。
◇◇◇
夜。
私は、川辺で身体を休めていた。
今日は、妙な一日だった。
人間には聞こえない音。
闘蛇だけが聞き取れる角笛。
……。
(……犬笛かあ)
前世では、特別珍しいものではなかった。
でも、この世界では違う。
誰も知らなかった。
闘蛇たち自身だって、あんな音を聞いたのは初めてだろう。
私は、少し考えた。
もし、あの音でみんなが同じ合図を受け取れるなら。
離れた場所にいても、同じことを知ることができる。
危険を知らせることもできる。
……。
(……便利そう)
ただし。
私は、昼間の訓練を思い出した。
急に動けば、背中のセイランが危ない。
ほかの闘蛇たちだって、驚いて動くかもしれない。
……。
(……まあ、そこは練習かな)
私は、静かに目を閉じた。
その頃。
飼育場の工房では、トウエンが小さな角笛を手に取っていた。
「……闘蛇笛、か」
まだ、ただの試作品だ。
音が届く距離も分からない。
闘蛇たちが、どこまで意味を覚えられるのかも分からない。
だが。
トウエンは、少しだけ笑った。
白淵族が長年育ててきた闘蛇たちには、まだ知らないことがある。
そして、それを知ることで、守れる命が増えるかもしれない。
小さな角笛は、灯火の下で静かに光っていた。