白淵族には、馬がいない。
正確には、飼っていない。
山道は狭く、岩場は多い。川を渡ることも珍しくないこの土地では、馬よりも自分の足で歩く方が都合のいい場所が多い。
荷物を運ぶなら闘蛇がいるし、遠くへ出かけるときも闘蛇に乗ればいい。
ただし、誰でも乗れるわけではない。
そのため、白淵族の戦士の多くは徒歩で移動する。
そして、徒歩で戦う。
……。
(……まあ、そうなるよね)
私は、集落の広場を眺めていた。
朝から、戦士たちが訓練をしている。
木の盾を構え、槍を持ち、二人一組で打ち合う。
少し離れた場所では、弓を引く者もいる。
闘蛇の訓練が始まってから、戦士たちの訓練も増えたらしい。
「……闘蛇だけが動けても意味がない」
セイランが言った。
ハクが頷く。
「俺たちも、合わせないといけませんからね」
「そうだ」
セイランは、広場の端に立つ私を見た。
「闘蛇が進めば、歩兵も動く。闘蛇が止まれば、歩兵も止まる。だが、ただ真似をするだけでは駄目だ」
「……守る場所が違う?」
「そうだ」
私は、少しだけ首を傾げた。
(……なるほど)
人間と闘蛇。
同じ場所で戦うなら、互いの邪魔をしないようにしなければならない。
……。
(……大変そう)
私は、静かに身体を伏せた。
◇◇◇
その日の昼。
集落の見張り台から、角笛が鳴った。
ぶおおおお。
いつもの闘蛇笛ではない。
人間にも聞こえる、低い角笛だ。
私は、顔を上げた。
(……ん?)
何かあった?
広場にいた戦士たちが、訓練を止める。
セイランも、見張り台へ目を向けた。
やがて、一人の若い戦士が走ってきた。
「……南の道に、客人です!」
「どこの者だ」
「山の王の使者です!」
……。
(……おお)
山の王。
つまり、楊端和。
私は、少しだけ興味を持った。
◇◇◇
しばらくして、集落の入口に数人の山の民が現れた。
先頭にいたのは、見覚えのある男だった。
大柄な身体。
獣のような鋭い目。
そして、独特の仮面。
……。
(……あ)
バジオウだ。
私は、思わず身体を起こした。
いや。
別に、嬉しいわけではない。
ただ、知っている人が来たので驚いただけだ。
……。
(……相変わらず、かっこいいな)
私は、静かに姿勢を正した。
◇◇◇
「……久しいな」
バジオウが、セイランへ声をかけた。
セイランは、軽く頭を下げた。
「お久しぶりです」
「山の王から、伝言を預かっている」
「……何でしょう」
バジオウは、集落の奥を見た。
「族長に会いたい」
セイランが頷いた。
「案内します」
◇◇◇
族長の家には、トウエンと数人の長老たちが集まっていた。
バジオウは、楊端和からの書簡を差し出した。
族長が、それを受け取る。
しばらく目を通した後、顔を上げた。
「……南の旧道についてか」
「そうだ」
バジオウが答えた。
「山の王は、以前の取り決めを守るつもりだ。ただ、近ごろ南側の山道で、不審な動きがある」
「……不審な動き?」
「複数の部族が、境界近くで動いている」
トウエンが眉をひそめた。
「どこの部族だ」
「まだ分からん」
バジオウは、静かに続けた。
「だが、山の王の使者が通る道にも、見張りが増えている」
族長は、少し考えた。
「……我らの土地に入ってきた者はいるか」
「今のところ、確認されていない」
「ならば、こちらから動く理由はない」
バジオウが頷く。
「山の王も、同じ考えだ」
◇◇◇
「……ただし」
バジオウは、言葉を続けた。
「もし境界で争いが起きれば、南の旧道が巻き込まれる可能性がある」
族長は、静かに目を細めた。
「……なるほど」
「山の王は、白淵族に兵を出せとは言っていない」
「分かっている」
「ただ、互いに状況を知らせ合いたいと考えている」
族長は、しばらく考えた。
やがて、頷いた。
「……それならば、異存はない」
◇◇◇
その頃。
私は、集落の外れで身体を休めていた。
バジオウが来たので、何となく気になって近くにいたのだ。
もちろん、族長の家の中には入れない。
身体が大きすぎる。
……。
(……不便)
私は、日陰に身体を伏せた。
すると、近くから足音がした。
顔を上げる。
バジオウだった。
……。
(……おお)
近い。
相変わらず、雰囲気がある。
私は、少しだけ首を上げた。
バジオウは、私を見た。
しばらくして、ゆっくりと近づいてくる。
「……大きくなったな」
……。
(……え)
そう?
私は、少しだけ嬉しくなった。
バジオウは、私の首筋を眺めた。
「……以前より、落ち着いている」
……。
(……ふふん)
そうでしょう。
最近、色々と経験しましたからね。
私は、静かに身体を伏せた。
◇◇◇
「……訓練を始めたそうだな」
バジオウが言った。
近くにいたセイランが頷く。
「はい。十五頭の闘蛇を集め、騎乗者との連携を確かめています」
「十五頭か」
バジオウは、少しだけ目を細めた。
「……多いな」
「白淵族では、これまで全頭を一度に動かすことはありませんでした」
「……なるほど」
バジオウは、少し考えた。
「山の王の軍でも、異なる部族を一つにまとめるのは容易ではない」
セイランが頷く。
「闘蛇も、似たところがあります」
「……そうか」
バジオウは、私を見た。
「この闘蛇が、中心なのか」
セイランは、少しだけ笑った。
「……まだ、そう言い切れるほどではありません」
……。
(……その通りです)
私は、心の中で頷いた。
いや、別に中心になりたいわけではないし。
◇◇◇
「……見せてもらえるか」
バジオウが言った。
セイランが顔を上げる。
「訓練を、ですか?」
「ああ」
「……構いませんが」
「山の王に伝えるためではない」
バジオウは、少しだけ口元を緩めた。
「個人的に、興味がある」
……。
(……おお)
見学ですか。
私は、少しだけ嬉しくなった。
何しろ、バジオウである。
強い。
かっこいい。
しかも、楊端和の側近。
……。
(……ちょっと、いいところ見せたい)
私は、静かに身体を起こした。
◇◇◇
午後。
訓練場には、十五頭の闘蛇が集まっていた。
バジオウは、少し離れた岩場に立っている。
その隣には、族長とトウエン。
「……始めろ」
セイランの声が響いた。
闘蛇たちが、ゆっくりと動き始める。
最初は、五頭ずつの三組。
それぞれが別の道を進み、途中で合流する。
私は、若い闘蛇たちの先頭にいた。
(……よし)
今日は、少しだけ頑張ろう。
後ろを見る。
足元を見る。
騎乗者の合図を確かめる。
……。
(……いい感じ)
◇◇◇
やがて、合流地点へ着いた。
三つの組が、少しずつ近づく。
ガンの組が、先に到着していた。
私は、少し離れた場所で足を止めた。
若い闘蛇たちも、後ろに並ぶ。
セイランが、合図を出した。
「……進め」
私は、ゆっくりと歩き始めた。
ガンが、こちらを見た。
そして、少しだけ身体を横へ動かした。
道を空けてくれたのだ。
……。
(……おお)
ありがとうございます。
私は、ガンの隣を通った。
その後ろを、若い闘蛇たちが続く。
◇◇◇
「……面白いな」
バジオウが呟いた。
トウエンが顔を向ける。
「何がです?」
「闘蛇同士で、動きを調整している」
「……はい」
「騎乗者の合図だけではないな」
トウエンが頷いた。
「我らも、最近ようやく気づいたことです」
バジオウは、少し考えた。
「……山の王の軍にも、似たものがある」
「……というと?」
「部族ごとに戦い方が違う。だが、互いの動きを理解すれば、言葉がなくとも助け合える」
トウエンは、静かに頷いた。
◇◇◇
そのとき。
訓練場の端で、ハクが小さな角笛を手に取った。
闘蛇笛である。
「……次は、これを試します」
バジオウが首を傾げた。
「……何だ、それは」
「闘蛇にだけ聞こえる笛です」
「……闘蛇にだけ?」
ハクは、少しだけ笑った。
「見ていてください」
そう言って、笛を吹いた。
……。
人間には、何も聞こえない。
しかし。
十五頭の闘蛇が、一斉に顔を上げた。
……。
バジオウは、しばらく動かなかった。
そして、ゆっくりとトウエンを見た。
「……今、何をした?」
ハクが、少し得意げに答えた。
「笛を吹きました」
「……音は?」
「人間には聞こえません」
バジオウは、もう一度、闘蛇たちを見た。
十五頭が、静かに騎乗者の合図を待っている。
……。
「……なるほど」
バジオウは、低く呟いた。
「これは、面白い」
◇◇◇
訓練が終わった後。
バジオウは、セイランと話していた。
「……この笛は、戦場でも使えるだろう」
セイランが頷く。
「ただし、まだ試作段階です」
「分かっている」
バジオウは、闘蛇たちを見た。
「だが、敵に聞こえない合図で獣が動く。それだけで、相手は混乱する」
「……はい」
「ただし、頼りすぎるな」
セイランが顔を上げる。
バジオウは、静かに続けた。
「戦場では、予定通りにいかないことの方が多い」
「……承知しています」
「笛が使えなくなったとき、どう動くか。それも考えておけ」
◇◇◇
夕方。
バジオウたちは、集落を出発することになった。
族長とセイランが見送る。
「……山の王に、よろしくお伝えください」
族長が言った。
バジオウは頷いた。
「伝えよう」
そして、私を見た。
「……また会おう」
……。
(……おお)
また会おう、ですって。
私は、少しだけ嬉しくなった。
いや、かなり嬉しい。
でも、表には出さない。
私は、静かに身体を伏せた。
バジオウは、少しだけ笑ったように見えた。
◇◇◇
夜。
私は、川辺で身体を休めていた。
今日は、なかなか充実した一日だった。
訓練も上手くいった。
ガンとの連携も、少しずつ良くなっている。
そして。
バジオウに、褒められた。
……。
(……ふふふ)
私は、思わず尻尾を揺らした。
近くの若い闘蛇が、不思議そうにこちらを見る。
……。
(……何でもないよ)
私は、静かに目を閉じた。
その頃。
集落の族長の家では、セイランとトウエンが話していた。
「……南の山道が、少し騒がしくなっているようですね」
セイランが言った。
トウエンは、静かに頷いた。
「まだ、我らが動く必要はない」
「……はい」
「だが、備えておくことはできる」
セイランは、少し考えた。
「……訓練を続けます」
トウエンが頷く。
「そうしてくれ」
白淵族の集落には、いつも通りの夜が訪れていた。
だが、山の向こうでは、少しずつ何かが動き始めていた。