闘蛇に乗っていると、人間は小さく見える。
いや、実際に小さい。
私の身体は頭から尻尾まで九メートルほどあるし、四本の脚も太い。そんな生き物の目線から見れば、人間など簡単に踏み潰せそうな大きさだ。
もちろん、そんなことをするつもりはない。
ただ、最近になって思うのだ。
(……足元って、結構見えないんだよね)
首を動かせば周囲は見渡せる。
けれど、自分の胸元や後ろ脚のすぐそばとなると、話は別だ。
特に、人間が何人も走り回っているとき。
誰がどこにいるのか、いちいち確認するのは難しい。
そして今日。
私は、その問題に真正面から向き合うことになった。
◇◇◇
「闘蛇と歩兵を、同じ場所で動かす」
朝の訓練場で、セイランが言った。
集まっていた戦士たちが、顔を上げる。
今日は闘蛇が五頭。
その周囲には、槍や盾を持った歩兵が三十人ほど集まっていた。
「闘蛇は大きい。力も強い。だが、その大きさは味方にとっても危険になる」
ハクが頷いた。
「下手に近づけば、踏まれますからね」
「そうだ。闘蛇の前を横切るな。足元に入り込むな。後ろへ回るときは、騎乗者に知らせろ」
セイランは、歩兵たちを見回した。
「そして、闘蛇の騎乗者も、歩兵の位置を把握しろ」
……。
(……なるほど)
今日の授業は、交通安全らしい。
私は、少しだけ姿勢を正した。
◇◇◇
最初の訓練は、歩兵が闘蛇の周囲を移動するものだった。
私の背にはセイラン。
周囲には、盾を持った戦士たちが並んでいる。
「……進め」
セイランの合図で、私はゆっくりと歩き始めた。
歩兵たちも、同じ速度で動く。
……。
(……おお)
なかなか壮観。
私の左右を、人間たちが歩いている。
まるで、護衛されているようだ。
(……いや、実際そうなのか)
私は、少しだけ嬉しくなった。
しかし。
すぐに問題が起きた。
◇◇◇
「……止まれ!」
セイランが声を上げた。
私は足を止めた。
前方にいた歩兵の一人が、私の進路を横切ろうとしていたのだ。
「……何をしている」
セイランが尋ねる。
若い戦士は、少し慌てた様子で答えた。
「すみません! 向こう側へ移ろうと思って……」
「闘蛇の前を横切るなと言ったはずだ」
「……はい」
セイランは、少しだけ声を落とした。
「スイが気づかなければ、お前は踏まれていた」
……。
(……怖いこと言わないで)
私は、若い戦士を見た。
彼は、申し訳なさそうに頭を下げた。
……。
(……まあ、怪我がなくてよかった)
◇◇◇
その後、訓練は何度か繰り返された。
歩兵は、闘蛇の左右に一定の距離を保つ。
闘蛇が止まれば、歩兵も止まる。
方向を変えるときは、騎乗者が声をかける。
……。
(……ふむ)
少しずつ、形になってきた。
ただし。
私は、一つ気になることがあった。
歩兵たちは、私の動きを見ている。
でも、私は歩兵全員を見られない。
特に、後ろにいる人間。
どこにいるのか、分からないことがある。
……。
(……うーん)
これ、どうしたらいいんだろう。
◇◇◇
昼前。
トウエンが、訓練場へやってきた。
「……どうだ」
セイランが答える。
「まだ、歩兵が闘蛇の動きに慣れていません」
「そうか」
「ただ、少しずつ改善しています」
トウエンは、しばらく訓練を眺めていた。
そして、言った。
「……闘蛇の後ろにいる歩兵は、どうする」
セイランが顔を上げる。
「……後ろ?」
「闘蛇は、背後を見られん。騎乗者も、常に後ろを見ていられるわけではない」
「……確かに」
「ならば、後ろにいる者が、前へ知らせる必要がある」
ハクが頷いた。
「……声ですか?」
「声でもいい。だが、戦場では聞こえないこともある」
トウエンは、少し考えた。
「旗を使ってみろ」
◇◇◇
午後。
訓練場には、小さな旗が用意された。
赤い旗。
白い旗。
それぞれ、歩兵が持つ。
「赤は停止」
トウエンが説明した。
「白は進行可能。まずは、それだけでいい」
ハクが首を傾げた。
「でも、闘蛇には見えませんよね?」
「騎乗者が見る」
「……ああ、なるほど」
「闘蛇に直接知らせるのではない。騎乗者が周囲を確認し、合図を出す」
セイランが頷いた。
「……分かりました」
◇◇◇
再び、訓練が始まった。
私は、ゆっくりと進む。
左右には歩兵。
後方には、旗を持った戦士がいる。
……。
(……何だか、行列みたい)
しばらくして。
後方で、赤い旗が上がった。
セイランが、それに気づく。
「……止まれ」
私は、足を止めた。
後ろの歩兵たちが、隊列を整える。
やがて、白い旗が上がる。
「……進め」
私は、再び歩き始めた。
……。
(……おお)
便利。
これなら、後ろの様子が分からなくても、安心して進める。
◇◇◇
ところが。
次の訓練で、思わぬ問題が起きた。
後方の歩兵が、赤い旗を上げた。
しかし、セイランは前方を見ていた。
旗に気づかない。
私は、ゆっくりと進み続ける。
……。
(……あれ)
後ろの人たち、止まってない?
私は、少しだけ首を動かした。
しかし、後ろは見えない。
そのとき。
「……セイラン!」
ハクの声が響いた。
セイランが振り返る。
赤い旗が上がっている。
「……止まれ!」
私は、すぐに足を止めた。
……。
(……危なかった)
◇◇◇
「……旗だけでは、足りんな」
トウエンが呟いた。
セイランは、少し考えた。
「声と旗を組み合わせます」
「……それでも、届かない場合は?」
「……」
ハクが口を開いた。
「闘蛇笛は?」
トウエンが顔を上げる。
「……何?」
「歩兵の中に、笛を持つ者を置くんです。何かあったら、闘蛇笛を吹く」
セイランは、少し考えた。
「……闘蛇が気づく」
「はい。騎乗者が気づかなくても、闘蛇が顔を上げれば、異変に気づけます」
トウエンは、静かに頷いた。
「……試す価値はある」
◇◇◇
次の訓練では、後方の歩兵が闘蛇笛を持つことになった。
ただし、笛を吹くのは、本当に危険があるときだけ。
通常の停止や進行は、旗と声で知らせる。
……。
(……なるほど)
緊急用の通知音。
それなら、分かりやすい。
私は、少しだけ納得した。
◇◇◇
訓練が始まった。
私は、ゆっくりと歩く。
左右には歩兵。
後ろには、旗を持った戦士。
そして、闘蛇笛を持つ戦士がいる。
しばらくして。
後方で、赤い旗が上がった。
セイランは、前方を見ている。
気づかない。
……。
(……あ)
その瞬間。
ぴっ。
細い音が聞こえた。
私は、反射的に顔を上げた。
セイランが、私の動きに気づく。
「……どうした?」
私は、すぐには動かない。
ただ、耳を澄ませる。
後ろから、ハクの声が響いた。
「……後方、停止!」
セイランが振り返る。
赤い旗が上がっている。
「……止まれ!」
私は、足を止めた。
◇◇◇
「……使えるな」
トウエンが呟いた。
ハクは、少し得意げだった。
「でしょう?」
セイランが頷く。
「ただし、笛だけで止まらせるのではない。騎乗者が判断する」
「はい」
「闘蛇が反応したら、騎乗者が周囲を確認する。それで十分だ」
トウエンは、少しだけ笑った。
「……これなら、闘蛇笛の役割も明確になる」
◇◇◇
夕方。
訓練が終わると、戦士たちは広場に集まった。
「……今日の訓練で、何が分かった」
セイランが尋ねた。
若い戦士が答える。
「闘蛇の近くでは、勝手に動かないことです」
別の戦士が言った。
「騎乗者だけでは、周囲を全部見られないことです」
ハクが笑った。
「あと、笛は便利だけど、万能じゃないってことですね」
セイランが頷いた。
「……そうだ」
トウエンは、闘蛇たちを見た。
「人間が闘蛇を守り、闘蛇が人間を守る。そのためには、互いに知らせ合う必要がある」
◇◇◇
その夜。
私は、川辺で身体を休めていた。
今日は、なかなか疲れた。
歩く。
止まる。
進む。
また止まる。
……。
(……信号待ちの多い道路みたいだったなあ)
私は、少しだけ笑った。
でも。
今日の訓練は、意味があったと思う。
私は、人間たちを踏みたくない。
人間たちも、私に踏まれたくない。
当然だ。
そして。
お互いに、相手のことを全部見られるわけではない。
だから、知らせ合う。
……。
(……なるほどね)
私は、静かに目を閉じた。
その頃。
族長の家では、セイランとトウエンが、訓練の報告をしていた。
「……闘蛇と歩兵の連携は、まだ始まったばかりです」
セイランが言った。
族長は、静かに頷いた。
「だが、形になり始めているのだな」
「はい」
「……ならば、続けよ」
族長は、少し考えた。
「ただし、忘れるな」
セイランが顔を上げる。
「……何をでしょう」
「我らは、戦うためだけに闘蛇を育ててきたのではない」
セイランは、静かに頷いた。
「……承知しています」
族長は、窓の外を見た。
そこには、夜の闇が広がっている。
白淵族の集落は、静かだった。
だが、その静けさを守るために。
人間と闘蛇は、少しずつ新しい技術を身につけ始めていた。