山には、道がある。
人間が踏み固めた道もあれば、獣が通り続けてできた細い道もある。川に沿って続く道、尾根を越える道、崖の途中を縫うように進む道。
そして、ときどき。
誰が使っているのか分からない道もある。
白淵族の南を通る旧道は、そういう道の一つだった。
かつては複数の部族が行き来していたらしいが、今では通る者も少ない。
少なくとも、私はそう聞いていた。
だから、その朝。
見張りの戦士が血のついた荷車を見つけたと聞いたときは、さすがに驚いた。
(……え、血?)
穏やかじゃないですね。
◇◇◇
「荷車は一台。引いていた獣は逃げたらしい」
集落の広場で、見張りの戦士が報告していた。
「積み荷は布と干し肉、それから塩です。争った跡があります」
セイランが尋ねる。
「人は?」
「見つかっていません」
「血の量は」
「少なくはありません。ただ、荷車から離れた場所にも続いています」
トウエンが眉をひそめた。
「生きて歩いた可能性があるな」
「はい」
族長は、しばらく考えた。
「旧道は、我らの境界に近い。放置するわけにはいかん」
セイランが頷く。
「調べてきます」
「人数は絞れ。争いに巻き込まれるな」
「承知しました」
◇◇◇
今回、私たちが向かうことになったのは南の旧道だった。
セイランとハク、それから歩兵が十人ほど。
闘蛇は二頭。
私と、ハクの相棒である。
ガンは集落に残った。
十五頭の訓練が始まって以来、ガンには若い闘蛇たちの様子を見てもらうことが増えている。
(……頼りになるおじいちゃん)
いや、本人に言ったら怒られそうだけど。
私は、背中にセイランを乗せた。
ハクも自分の闘蛇に乗る。
「今日は訓練じゃないからな」
セイランが、私の首筋を軽く叩いた。
「無理はするな」
(……了解です)
私は、静かに歩き始めた。
◇◇◇
南の旧道は、思ったよりも静かだった。
鳥の声。
風に揺れる木々。
ときどき、遠くで小石が転がる音がする。
(……平和そうだけど)
私は、周囲を見回した。
歩兵たちは、道の左右に分かれて進んでいる。
闘蛇の足元には近づかず、互いに位置を確かめながら歩く。
昨日までの訓練が、少しは役に立っているらしい。
しばらくして、先頭の戦士が手を上げた。
「ありました」
◇◇◇
荷車は、道の脇に倒れていた。
片方の車輪が外れ、木箱がいくつか散らばっている。
布の包みが破れ、白い塩が地面にこぼれていた。
(……もったいない)
いや、そこじゃない。
私は、荷車の周囲を見た。
地面には、複数の足跡がある。
人間のもの。
それから、何か小さな獣のもの。
そして。
赤黒く乾いた染み。
(……うわ)
これは、確かに穏やかじゃない。
◇◇◇
セイランは、闘蛇から降りた。
「足跡を調べろ」
歩兵たちが散る。
ハクも、地面にしゃがみ込んだ。
「少なくとも、四人以上はいたみたいですね」
「争った跡か」
「はい。荷車の周りで、何度も踏み荒らされています」
セイランは、少し離れた場所を見た。
「血の跡が続いている」
ハクが頷く。
「道の外へ向かっていますね」
◇◇◇
私は、静かに鼻先を下げた。
血の匂い。
土の匂い。
それから、汗の匂い。
(……うーん)
人間ほど細かく足跡を読めるわけではない。
でも、匂いなら少し分かる。
私は、ゆっくりと道の脇へ顔を向けた。
そこには、背の低い草が生えていた。
(……あれ)
草の根元に、布の切れ端が引っかかっている。
私は、鼻先でそれを軽く押した。
セイランが気づいた。
「何だ?」
彼は、布を拾い上げた。
「血がついている」
ハクが近づく。
「向こうへ逃げたんでしょうか」
「調べよう」
◇◇◇
道を外れると、足場が悪くなった。
大きな岩があり、木の根が地面を這っている。
私は、慎重に歩いた。
(……ここ、通りにくいな)
しばらく進むと、小さな沢が見えてきた。
水は浅い。
しかし、周囲には背の高い草が生えている。
(……ん?)
私は、足を止めた。
何かいる。
水の音に混じって、かすかな呼吸音が聞こえた。
私は、首を伸ばした。
草の陰。
岩のそば。
そこに、人間が倒れていた。
(……いた!)
思わずセイランを振り返る。
けれど、彼の視線は沢の上流に向いていた。
私は短く喉を鳴らし、首を伸ばして草むらに鼻先を向けた。
「どうした、スイ」
セイランが私の視線を追う。
「人だ!」
すぐに背から降り、倒れている男へ駆け寄った。
戦士たちも後に続く。
倒れていたのは、若い男だった。
肩から血を流している。
意識はあるらしいが、顔色が悪い。
「水」
男が、かすれた声で言った。
ハクが水筒を取り出す。
「大丈夫か。ゆっくり飲め」
男は、少しだけ水を口にした。
◇◇◇
「何があった」
セイランが尋ねた。
男は、しばらく息を整えた。
「襲われた」
「誰に」
「分からない」
男は、苦しそうに顔をしかめた。
「顔を隠していた。荷を奪おうとして……」
「何人いた」
「五人、いや、六人かもしれない」
セイランは、少し考えた。
「ほかに仲間は?」
男の表情が変わった。
「弟が」
「弟?」
「一緒にいた。逃げるとき、別れた」
(……え)
まだ、いるの?
◇◇◇
「どちらへ逃げた」
セイランが尋ねた。
男は、震える手で沢の上流を指さした。
「あっちへ」
ハクが顔を上げた。
「探しますか?」
セイランは、少し考えた。
「二手に分かれる」
「はい」
「負傷者は、先に集落へ運ぶ。残りは、弟を探す」
ハクが頷いた。
「分かりました」
◇◇◇
負傷者は、ハクの闘蛇に乗せることになった。
もちろん、一人では乗れない。
戦士二人が支え、身体を固定する。
ハクが、その前に座った。
「ゆっくり戻る」
セイランが言った。
「無理をするな」
「分かってます」
ハクは、少しだけ笑った。
「スイにも、よろしく」
(……はいはい)
私は、静かに尻尾を揺らした。
◇◇◇
残ったのは、私とセイラン、それから歩兵が六人。
沢の上流へ向かう。
道は、さらに狭くなった。
(……ここ、闘蛇が通る道じゃないな)
私は、慎重に足を運んだ。
ときどき、歩兵たちが先に進み、通れる場所を確かめる。
セイランは、私の背から周囲を見渡していた。
「無理なら、ここで待て」
(……いや、まだ行けます)
私は、ゆっくりと進んだ。
◇◇◇
しばらくして。
前方の茂みが、かすかに揺れた。
私は、足を止めた。
(……ん?)
何かいる。
私は、耳を澄ませた。
人間の足音。
それも、一人ではない。
(……あれ)
ちょっと待って。
弟さん?
それとも。
◇◇◇
「止まれ」
セイランが、低い声で言った。
歩兵たちが、足を止める。
茂みの向こうから、男たちが現れた。
三人。
いずれも、顔の下半分を布で隠している。
手には、短い槍や刃物。
(……あ)
これは。
明らかに、怪しい。
◇◇◇
「何者だ」
セイランが尋ねた。
男たちは、答えなかった。
代わりに、互いの顔を見合わせる。
そして。
一人が、短く舌打ちした。
「闘蛇か」
(……はい)
闘蛇です。
でかいですよ。
私は、少しだけ身体を起こした。
◇◇◇
「荷車を襲ったのは、お前たちか」
セイランが尋ねた。
男の一人が、笑った。
「さあな」
「答えろ」
「答えたら、どうする」
セイランは、静かに槍を構えた。
「捕らえる」
男たちの表情が変わった。
◇◇◇
次の瞬間。
一人の男が、茂みの奥へ走った。
残る二人が、槍を構える。
(……え)
逃げるの?
私は、思わず首を動かした。
セイランが、すぐに合図を出す。
「追うな!」
歩兵たちが、足を止めた。
「まず、周囲を確認しろ!」
◇◇◇
男たちは、こちらを警戒していた。
私は、ゆっくりと身体を横へ向けた。
(……どうしよう)
ここで暴れたら、危ない。
道が狭い。
歩兵も近い。
しかも、セイランが背中にいる。
(……うーん)
私は、少しだけ考えた。
そのとき。
茂みの奥から、別の声が聞こえた。
「兄ちゃん!」
(……え)
子どもの声?
◇◇◇
セイランの表情が変わった。
「誰だ!」
茂みの向こうで、何かが動く。
男たちが、慌てて振り返った。
そして。
一人の男が、怒鳴った。
「黙れ!」
(……あ)
これは。
まずい。
◇◇◇
私は、静かに身体を低くした。
セイランが、私の首筋を軽く叩く。
(……分かってる)
今は、勝手に動かない。
でも。
もし、あの子が危険なら。
(……どうする?)
私は、茂みの奥を見つめた。
そのとき。
セイランが、低く言った。
「スイ」
私は、少しだけ首を動かした。
「頼む」
(……了解)
私は、ゆっくりと足を踏み出した。
男たちが、後ずさる。
その向こう。
茂みの陰には、小さな少年がいた。
手首を縄で縛られ、地面に座らされている。
(……ああ)
これは、駄目だ。
私は、静かに目を細めた。
◇◇◇
その頃。
集落へ戻る途中のハクは、負傷者を支えながら、何度も後ろを振り返っていた。
「大丈夫ですよ」
負傷者が、かすれた声で言った。
「何が」
「あの人たちなら」
ハクが、少しだけ笑った。
「きっと、助けてくれます」
山道の向こうでは、風が木々を揺らしていた。
そして。
南の旧道で起きた小さな事件は、まだ終わっていなかった。