秦の山奥で闘蛇やってます   作:欄外

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第四十二話 境界に残されたもの

 

山には、道がある。

 

人間が踏み固めた道もあれば、獣が通り続けてできた細い道もある。川に沿って続く道、尾根を越える道、崖の途中を縫うように進む道。

 

そして、ときどき。

 

誰が使っているのか分からない道もある。

 

白淵族の南を通る旧道は、そういう道の一つだった。

 

かつては複数の部族が行き来していたらしいが、今では通る者も少ない。

 

少なくとも、私はそう聞いていた。

 

だから、その朝。

 

見張りの戦士が血のついた荷車を見つけたと聞いたときは、さすがに驚いた。

 

(……え、血?)

 

穏やかじゃないですね。

 

◇◇◇

 

「荷車は一台。引いていた獣は逃げたらしい」

 

集落の広場で、見張りの戦士が報告していた。

 

「積み荷は布と干し肉、それから塩です。争った跡があります」

 

セイランが尋ねる。

 

「人は?」

 

「見つかっていません」

 

「血の量は」

 

「少なくはありません。ただ、荷車から離れた場所にも続いています」

 

トウエンが眉をひそめた。

 

「生きて歩いた可能性があるな」

 

「はい」

 

族長は、しばらく考えた。

 

「旧道は、我らの境界に近い。放置するわけにはいかん」

 

セイランが頷く。

 

「調べてきます」

 

「人数は絞れ。争いに巻き込まれるな」

 

「承知しました」

 

◇◇◇

 

今回、私たちが向かうことになったのは南の旧道だった。

 

セイランとハク、それから歩兵が十人ほど。

 

闘蛇は二頭。

 

私と、ハクの相棒である。

 

ガンは集落に残った。

 

十五頭の訓練が始まって以来、ガンには若い闘蛇たちの様子を見てもらうことが増えている。

 

(……頼りになるおじいちゃん)

 

いや、本人に言ったら怒られそうだけど。

 

私は、背中にセイランを乗せた。

 

ハクも自分の闘蛇に乗る。

 

「今日は訓練じゃないからな」

 

セイランが、私の首筋を軽く叩いた。

 

「無理はするな」

 

(……了解です)

 

私は、静かに歩き始めた。

 

◇◇◇

 

南の旧道は、思ったよりも静かだった。

 

鳥の声。

 

風に揺れる木々。

 

ときどき、遠くで小石が転がる音がする。

 

(……平和そうだけど)

 

私は、周囲を見回した。

 

歩兵たちは、道の左右に分かれて進んでいる。

 

闘蛇の足元には近づかず、互いに位置を確かめながら歩く。

 

昨日までの訓練が、少しは役に立っているらしい。

 

しばらくして、先頭の戦士が手を上げた。

 

「ありました」

 

◇◇◇

 

荷車は、道の脇に倒れていた。

 

片方の車輪が外れ、木箱がいくつか散らばっている。

 

布の包みが破れ、白い塩が地面にこぼれていた。

 

(……もったいない)

 

いや、そこじゃない。

 

私は、荷車の周囲を見た。

 

地面には、複数の足跡がある。

 

人間のもの。

 

それから、何か小さな獣のもの。

 

そして。

 

赤黒く乾いた染み。

 

(……うわ)

 

これは、確かに穏やかじゃない。

 

◇◇◇

 

セイランは、闘蛇から降りた。

 

「足跡を調べろ」

 

歩兵たちが散る。

 

ハクも、地面にしゃがみ込んだ。

 

「少なくとも、四人以上はいたみたいですね」

 

「争った跡か」

 

「はい。荷車の周りで、何度も踏み荒らされています」

 

セイランは、少し離れた場所を見た。

 

「血の跡が続いている」

 

ハクが頷く。

 

「道の外へ向かっていますね」

 

◇◇◇

 

私は、静かに鼻先を下げた。

 

血の匂い。

 

土の匂い。

 

それから、汗の匂い。

 

(……うーん)

 

人間ほど細かく足跡を読めるわけではない。

 

でも、匂いなら少し分かる。

 

私は、ゆっくりと道の脇へ顔を向けた。

 

そこには、背の低い草が生えていた。

 

(……あれ)

 

草の根元に、布の切れ端が引っかかっている。

 

私は、鼻先でそれを軽く押した。

 

セイランが気づいた。

 

「何だ?」

 

彼は、布を拾い上げた。

 

「血がついている」

 

ハクが近づく。

 

「向こうへ逃げたんでしょうか」

 

「調べよう」

 

◇◇◇

 

道を外れると、足場が悪くなった。

 

大きな岩があり、木の根が地面を這っている。

 

私は、慎重に歩いた。

 

(……ここ、通りにくいな)

 

しばらく進むと、小さな沢が見えてきた。

 

水は浅い。

 

しかし、周囲には背の高い草が生えている。

 

(……ん?)

 

私は、足を止めた。

 

何かいる。

 

水の音に混じって、かすかな呼吸音が聞こえた。

 

私は、首を伸ばした。

 

草の陰。

 

岩のそば。

 

そこに、人間が倒れていた。

 

(……いた!)

 

思わずセイランを振り返る。

 

けれど、彼の視線は沢の上流に向いていた。

 

私は短く喉を鳴らし、首を伸ばして草むらに鼻先を向けた。

 

「どうした、スイ」

 

セイランが私の視線を追う。

 

「人だ!」

 

すぐに背から降り、倒れている男へ駆け寄った。

 

戦士たちも後に続く。

 

倒れていたのは、若い男だった。

 

肩から血を流している。

 

意識はあるらしいが、顔色が悪い。

 

「水」

 

男が、かすれた声で言った。

 

ハクが水筒を取り出す。

 

「大丈夫か。ゆっくり飲め」

 

男は、少しだけ水を口にした。

 

◇◇◇

 

「何があった」

 

セイランが尋ねた。

 

男は、しばらく息を整えた。

 

「襲われた」

 

「誰に」

 

「分からない」

 

男は、苦しそうに顔をしかめた。

 

「顔を隠していた。荷を奪おうとして……」

 

「何人いた」

 

「五人、いや、六人かもしれない」

 

セイランは、少し考えた。

 

「ほかに仲間は?」

 

男の表情が変わった。

 

「弟が」

 

「弟?」

 

「一緒にいた。逃げるとき、別れた」

 

(……え)

 

まだ、いるの?

 

◇◇◇

 

「どちらへ逃げた」

 

セイランが尋ねた。

 

男は、震える手で沢の上流を指さした。

 

「あっちへ」

 

ハクが顔を上げた。

 

「探しますか?」

 

セイランは、少し考えた。

 

「二手に分かれる」

 

「はい」

 

「負傷者は、先に集落へ運ぶ。残りは、弟を探す」

 

ハクが頷いた。

 

「分かりました」

 

◇◇◇

 

負傷者は、ハクの闘蛇に乗せることになった。

 

もちろん、一人では乗れない。

 

戦士二人が支え、身体を固定する。

 

ハクが、その前に座った。

 

「ゆっくり戻る」

 

セイランが言った。

 

「無理をするな」

 

「分かってます」

 

ハクは、少しだけ笑った。

 

「スイにも、よろしく」

 

(……はいはい)

 

私は、静かに尻尾を揺らした。

 

◇◇◇

 

残ったのは、私とセイラン、それから歩兵が六人。

 

沢の上流へ向かう。

 

道は、さらに狭くなった。

 

(……ここ、闘蛇が通る道じゃないな)

 

私は、慎重に足を運んだ。

 

ときどき、歩兵たちが先に進み、通れる場所を確かめる。

 

セイランは、私の背から周囲を見渡していた。

 

「無理なら、ここで待て」

 

(……いや、まだ行けます)

 

私は、ゆっくりと進んだ。

 

◇◇◇

 

しばらくして。

 

前方の茂みが、かすかに揺れた。

 

私は、足を止めた。

 

(……ん?)

 

何かいる。

 

私は、耳を澄ませた。

 

人間の足音。

 

それも、一人ではない。

 

(……あれ)

 

ちょっと待って。

 

弟さん?

 

それとも。

 

◇◇◇

 

「止まれ」

 

セイランが、低い声で言った。

 

歩兵たちが、足を止める。

 

茂みの向こうから、男たちが現れた。

 

三人。

 

いずれも、顔の下半分を布で隠している。

 

手には、短い槍や刃物。

 

(……あ)

 

これは。

 

明らかに、怪しい。

 

◇◇◇

 

「何者だ」

 

セイランが尋ねた。

 

男たちは、答えなかった。

 

代わりに、互いの顔を見合わせる。

 

そして。

 

一人が、短く舌打ちした。

 

「闘蛇か」

 

(……はい)

 

闘蛇です。

 

でかいですよ。

 

私は、少しだけ身体を起こした。

 

◇◇◇

 

「荷車を襲ったのは、お前たちか」

 

セイランが尋ねた。

 

男の一人が、笑った。

 

「さあな」

 

「答えろ」

 

「答えたら、どうする」

 

セイランは、静かに槍を構えた。

 

「捕らえる」

 

男たちの表情が変わった。

 

◇◇◇

 

次の瞬間。

 

一人の男が、茂みの奥へ走った。

 

残る二人が、槍を構える。

 

(……え)

 

逃げるの?

 

私は、思わず首を動かした。

 

セイランが、すぐに合図を出す。

 

「追うな!」

 

歩兵たちが、足を止めた。

 

「まず、周囲を確認しろ!」

 

◇◇◇

 

男たちは、こちらを警戒していた。

 

私は、ゆっくりと身体を横へ向けた。

 

(……どうしよう)

 

ここで暴れたら、危ない。

 

道が狭い。

 

歩兵も近い。

 

しかも、セイランが背中にいる。

 

(……うーん)

 

私は、少しだけ考えた。

 

そのとき。

 

茂みの奥から、別の声が聞こえた。

 

「兄ちゃん!」

 

(……え)

 

子どもの声?

 

◇◇◇

 

セイランの表情が変わった。

 

「誰だ!」

 

茂みの向こうで、何かが動く。

 

男たちが、慌てて振り返った。

 

そして。

 

一人の男が、怒鳴った。

 

「黙れ!」

 

(……あ)

 

これは。

 

まずい。

 

◇◇◇

 

私は、静かに身体を低くした。

 

セイランが、私の首筋を軽く叩く。

 

(……分かってる)

 

今は、勝手に動かない。

 

でも。

 

もし、あの子が危険なら。

 

(……どうする?)

 

私は、茂みの奥を見つめた。

 

そのとき。

 

セイランが、低く言った。

 

「スイ」

 

私は、少しだけ首を動かした。

 

「頼む」

 

(……了解)

 

私は、ゆっくりと足を踏み出した。

 

男たちが、後ずさる。

 

その向こう。

 

茂みの陰には、小さな少年がいた。

 

手首を縄で縛られ、地面に座らされている。

 

(……ああ)

 

これは、駄目だ。

 

私は、静かに目を細めた。

 

◇◇◇

 

その頃。

 

集落へ戻る途中のハクは、負傷者を支えながら、何度も後ろを振り返っていた。

 

「大丈夫ですよ」

 

負傷者が、かすれた声で言った。

 

「何が」

 

「あの人たちなら」

 

ハクが、少しだけ笑った。

 

「きっと、助けてくれます」

 

山道の向こうでは、風が木々を揺らしていた。

 

そして。

 

南の旧道で起きた小さな事件は、まだ終わっていなかった。

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