世の中には、見ているだけで心が潤うものがある。
青い空。澄んだ川。脂の乗った魚。
そして、顔の良い男。
異論は認める。
ただし、最後の一つについては、私の中でかなり優先順位が高い。
前世では、舞台や映画を観ては美しい顔立ちに感動していたものだ。
今世では、そんな娯楽は存在しない。
当然ながら、鏡も写真もない。
つまり、イケメンとの遭遇は完全に運任せ。
しかも私は闘蛇である。
人間の男性と目が合ったところで、恋愛に発展する可能性は限りなく低い。
いや、ゼロだ。
分かっている。
分かっているけれど。
(目の保養くらい、許されてもよくない?)
そんなことを考えていた朝だった。
◇◇◇
南の旧道で起きた襲撃事件から、三日が経っていた。
助け出した兄弟は、今も白淵族の集落に滞在している。
兄の傷は深かったが、幸い命に別状はないらしい。
弟のリクは、兄のそばを離れようとしない。
一方、捕らえた男たちは相変わらず口を閉ざしていた。
黒角族の印が縫い込まれた布についても、拾ったの一点張りだという。
そして今朝。
黒角族から、返事が届いた。
「使者が来るそうだ」
トウエンが、私の身体を洗いながら言った。
レンが顔を上げる。
「黒角族から?」
「ああ。昼過ぎには着くだろう」
「揉めないといいけど」
「揉めさせんために話すんだろうが」
トウエンはそう言って、私の背中に水をかけた。
(まったく、その通り)
とはいえ、相手の部族の印を持った男たちを捕らえているのだ。
穏やかな話し合いになるとは限らない。
私は、川の水をひと口飲んだ。
(……面倒なことにならなきゃいいけど)
◇◇◇
昼過ぎ。
集落の入口に、三人の男が現れた。
先頭にいたのは、以前にも訪れた黒角族の使者、ダンだった。
日に焼けた顔に、鋭い目つき。
相変わらず、いかにも山の戦士という風貌である。
その後ろに、二人。
一人は年配の男。
そして、もう一人。
(……ん?)
私は、思わず首を持ち上げた。
背が高い。
すらりとした体つきに、無駄のない動き。
黒い髪を後ろで束ね、切れ長の目をしている。
鼻筋は通り、顎の線も綺麗だ。
険しい山道を歩いてきたはずなのに、妙に涼しげな顔をしていた。
(……おお)
これは。
(……美形が来た)
久しぶりに、心が潤った。
◇◇◇
「スイ?」
隣にいたレンが、不思議そうに私を見上げた。
「どうしたの?」
私は何でもない顔で、首を下げた。
危ない危ない。
うっかり凝視してしまった。
闘蛇が人間をじっと見つめると、相手は大抵、食べられるのではないかと警戒する。
決して、顔を鑑賞しているとは思ってくれない。
(安心してください。食べません)
(眺めたいだけです)
我ながら、少し怪しい。
◇◇◇
族長の家の前で、ダンが頭を下げた。
「黒角族のダンだ。ガク様の命により参った」
族長が応じる。
「よく来た。まずは中へ」
ダンは頷き、同行者を示した。
「こちらは我らの長老、ロウ。そして、ガク様の甥にあたるキョウだ」
(キョウ)
なるほど。
名前も覚えやすい。
私は、こっそり美形の方を見た。
キョウは、集落の奥に並ぶ闘蛇たちへ視線を向けていた。
初めて見る光景なのだろう。
驚いた様子はある。
しかし、怯えてはいない。
むしろ、興味深そうだった。
そして。
目が合った。
(……あ)
キョウは、わずかに目を細めた。
「……あれが、噂の闘蛇か」
ダンが頷く。
「ああ。あの雌がスイだ」
「随分と落ち着いているな」
「人に慣れている」
キョウは、私を見つめたまま言った。
「綺麗な目をしている」
(…………)
えっ。
今。
何と?
(綺麗な目!?)
ちょっと待って。
そんなこと言われたの、今世で初めてなんですけど。
私は、思わず尻尾を揺らした。
ばしゃん。
近くの水桶が倒れた。
「スイ!」
レンの声が飛ぶ。
(ごめんなさい)
完全に浮かれました。
◇◇◇
話し合いは、族長の家で行われた。
私は外で待機。
当然ながら、九メートルの身体では家に入れない。
しかも、人間たちは私に聞かせるつもりで話しているわけではない。
仕方がないので、私は少し離れた木陰に伏せた。
もっとも、耳はそれなりに良い。
開いた戸口から、会話の一部が聞こえてくる。
「まず、我らの印が使われたことについて、ガク様は不快に思っておられる」
ダンの声だった。
「白淵族を疑っているわけではない。ただ、黒角族の名を騙る者がいるなら、放置はできん」
族長が答える。
「こちらも同じ考えだ。印だけで黒角族の仕業と決めつけるつもりはない」
「感謝する」
そこで、年配の男が口を開いた。
「捕らえた者たちを見せてもらいたい」
ロウという長老だろう。
「構わん。ただし、こちらの立ち会いのもとでだ」
「承知した」
◇◇◇
しばらくして、男たちが外へ連れ出された。
三人とも、手を縛られている。
私を見るなり、一人が顔を引きつらせた。
(……あ、沢に落ちた人)
お元気そうで何より。
男は、私から目を逸らした。
少し傷つく。
いや、怖がられて当然か。
◇◇◇
「顔を上げろ」
ダンが言った。
男たちは、渋々顔を上げる。
ロウが一人ずつ確かめた。
そして、首を振った。
「知らん顔だ」
ダンも同じだった。
「俺も見覚えがない」
最後に、キョウが前へ出た。
彼は男たちの顔を見たあと、足元へ視線を落とした。
「……靴を見せろ」
セイランが眉を動かす。
「靴?」
「ああ」
キョウは、男の足元を指した。
「その編み方は、黒角族のものではない」
男の一人が、反射的に足を引いた。
キョウは続ける。
「黒角族の履物は、踵を二重に編む。岩場で擦り切れやすいからだ。こいつらの靴は、つま先を厚くしている」
「それが何を意味する?」
セイランが尋ねた。
「土の柔らかい場所をよく歩く者の作りだ。少なくとも、我らの山で暮らす者ではない」
(……へえ)
私は、思わず感心した。
顔が良いだけじゃない。
観察力まである。
(……いいですね)
非常にいい。
◇◇◇
「それに」
キョウは、男の革袋から取り出された黒い布を見た。
「この印も、おかしい」
ダンが顔をしかめる。
「どういうことだ」
「角の向きが逆だ」
その場が静かになった。
キョウは布を広げた。
「我らの印は、二本の角が外へ開く。これは内側へ向いている」
ロウが身を乗り出す。
「……確かに」
「遠目には似ているが、黒角族の者なら間違えない」
族長が、ゆっくりと頷いた。
「つまり、何者かが黒角族を装ったと」
「その可能性が高い」
キョウは、布を置いた。
「ただし、誰が何のために作ったのかは、まだ分からない」
◇◇◇
そのときだった。
捕らえられていた男の一人が、突然笑った。
「……くだらねえ」
セイランが振り向く。
「何だと?」
「角がどうとか、靴がどうとか……そんなことを調べて何になる」
男は、口元を歪めた。
「どうせ、もう遅い」
空気が変わった。
キョウが、静かに尋ねた。
「何が遅い?」
男は答えない。
「お前たちは、何をしようとしている」
沈黙。
やがて男は、吐き捨てるように言った。
「山の連中は、いつもそうだ。自分たちの境界ばかり気にしている」
ダンの顔が険しくなる。
「どういう意味だ」
「道なんて、誰のものでもないだろうが」
男は、そう言って口を閉ざした。
◇◇◇
話し合いは、いったん中断された。
男たちは再び別の場所へ連れていかれる。
族長とダンたちは、家の中へ戻った。
私は、木陰で首を傾げた。
(……道は誰のものでもない、か)
確かに、道そのものに名前が書いてあるわけではない。
でも、通る人がいれば、そこには暮らしがある。
白淵族も黒角族も、それぞれの事情があって境界を決めている。
それを無視して好き勝手に通られたら、困る人が出る。
(……うーん)
何だか、単なる盗賊の話ではなさそうだ。
◇◇◇
「スイ」
声がして、私は顔を上げた。
キョウだった。
いつの間にか、家から出てきていたらしい。
彼は少し離れた場所で立ち止まり、私を見上げた。
「近づいてもいいか?」
(……どうぞどうぞ)
もちろん、声には出せない。
私は、身体を動かさずにいた。
キョウは慎重に歩み寄り、私の鼻先から少し離れたところでしゃがんだ。
「大きいな」
(よく言われます)
「それに、思っていたより穏やかだ」
(ありがとうございます)
彼は、私の鱗を興味深そうに見つめた。
「黒角族にも大きな獣はいるが、お前ほどのものはいない」
私は、ゆっくりと瞬きをした。
するとキョウは、小さく笑った。
「……何だ。話を聞いているみたいだな」
(…………)
危ない。
私は、何でもない顔で川の方を向いた。
人間の言葉が分かることは、知られてはいけない。
そう決めている。
キョウは、私の反応を深く追及することなく立ち上がった。
「また会うことがあれば、背に乗ってみたいものだ」
(……え)
それは。
ちょっと。
(大歓迎ですけど!?)
思わず首が動きかけた。
私は、慌てて動きを止めた。
◇◇◇
「キョウ」
セイランの声がした。
彼が、こちらへ歩いてくる。
「族長が呼んでいる」
「ああ、今行く」
キョウは私に軽く手を上げ、セイランの方へ向かった。
二人が並ぶ。
(…………)
私は、思わず見比べた。
セイランは、静かで端正な顔立ち。
キョウは、涼しげで少し華やかな顔立ち。
方向性が違う。
どちらも良い。
(……素晴らしい)
何ということでしょう。
山の中にも、こんな贅沢な景色が存在するとは。
私は、しみじみと目を細めた。
その瞬間。
「スイ、何を見てるの?」
レンが、魚を入れた籠を抱えて現れた。
(……あ)
私は、すぐにレンへ顔を向けた。
もちろん。
魚ですよ。
魚。
「今日は大きいのが獲れたよ」
(最高です)
やはり、顔の良い男と美味しい魚は、人生を豊かにする。
……闘蛇生か。
◇◇◇
夕方。
黒角族の使者たちは、白淵族の集落に一泊することになった。
襲撃事件について、さらに調べる必要があったからだ。
族長は、ダンたちに一つの提案をした。
「明日、旧道を一緒に調べたい」
ダンが頷く。
「我らもそう考えていた」
「捕らえた者たちが、何を隠しているのか。道に何が起きているのか。それを確かめよう」
キョウが口を開いた。
「俺も同行する」
セイランが答える。
「こちらからは、俺が行く」
二人の視線が交わった。
「よろしく頼む」
「ああ」
◇◇◇
その夜。
私は、川辺で身体を休めていた。
近くでは、ガンが静かに眠っている。
空には星が出ていた。
明日は、また南の旧道へ向かうらしい。
面倒なことにならなければいい。
そう思う。
でも。
(……キョウも来るのか)
私は、そっと尻尾を揺らした。
……。
(ちょっと楽しみ)
もちろん、仕事は真面目にしますよ。
その点は、誤解しないでいただきたい。
ただ、目の保養があると、やる気が少し上がるだけである。
◇◇◇
一方、族長の家では、まだ話し合いが続いていた。
「黒角族を装った者が、なぜ旧道で荷を襲ったのか」
セイランが言った。
「ただの盗賊なら、印を持つ必要はありません」
ダンが頷く。
「我らと白淵族を争わせたい者がいるのかもしれん」
キョウは、卓上に置かれた黒い布を見つめた。
「……それだけなら、まだいい」
ロウが顔を上げる。
「どういう意味だ」
キョウは、静かに答えた。
「争わせることが目的ではなく、争っている間に別のことを進めたいのだとしたら?」
部屋に沈黙が落ちた。
南の旧道。
誰のものでもない、と男は言った。
だが、その道を欲しがる者がいるとすれば。
話は変わってくる。
そして翌朝。
白淵族と黒角族は、初めて共同で旧道の調査へ向かうことになった。