秦の山奥で闘蛇やってます   作:欄外

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第四十四話 黒角族の使者

 

世の中には、見ているだけで心が潤うものがある。

 

青い空。澄んだ川。脂の乗った魚。

 

そして、顔の良い男。

 

異論は認める。

 

ただし、最後の一つについては、私の中でかなり優先順位が高い。

 

前世では、舞台や映画を観ては美しい顔立ちに感動していたものだ。

 

今世では、そんな娯楽は存在しない。

 

当然ながら、鏡も写真もない。

 

つまり、イケメンとの遭遇は完全に運任せ。

 

しかも私は闘蛇である。

 

人間の男性と目が合ったところで、恋愛に発展する可能性は限りなく低い。

 

いや、ゼロだ。

 

分かっている。

 

分かっているけれど。

 

(目の保養くらい、許されてもよくない?)

 

そんなことを考えていた朝だった。

 

◇◇◇

 

南の旧道で起きた襲撃事件から、三日が経っていた。

 

助け出した兄弟は、今も白淵族の集落に滞在している。

 

兄の傷は深かったが、幸い命に別状はないらしい。

 

弟のリクは、兄のそばを離れようとしない。

 

一方、捕らえた男たちは相変わらず口を閉ざしていた。

 

黒角族の印が縫い込まれた布についても、拾ったの一点張りだという。

 

そして今朝。

 

黒角族から、返事が届いた。

 

「使者が来るそうだ」

 

トウエンが、私の身体を洗いながら言った。

 

レンが顔を上げる。

 

「黒角族から?」

 

「ああ。昼過ぎには着くだろう」

 

「揉めないといいけど」

 

「揉めさせんために話すんだろうが」

 

トウエンはそう言って、私の背中に水をかけた。

 

(まったく、その通り)

 

とはいえ、相手の部族の印を持った男たちを捕らえているのだ。

 

穏やかな話し合いになるとは限らない。

 

私は、川の水をひと口飲んだ。

 

(……面倒なことにならなきゃいいけど)

 

◇◇◇

 

昼過ぎ。

 

集落の入口に、三人の男が現れた。

 

先頭にいたのは、以前にも訪れた黒角族の使者、ダンだった。

 

日に焼けた顔に、鋭い目つき。

 

相変わらず、いかにも山の戦士という風貌である。

 

その後ろに、二人。

 

一人は年配の男。

 

そして、もう一人。

 

(……ん?)

 

私は、思わず首を持ち上げた。

 

背が高い。

 

すらりとした体つきに、無駄のない動き。

 

黒い髪を後ろで束ね、切れ長の目をしている。

 

鼻筋は通り、顎の線も綺麗だ。

 

険しい山道を歩いてきたはずなのに、妙に涼しげな顔をしていた。

 

(……おお)

 

これは。

 

(……美形が来た)

 

久しぶりに、心が潤った。

 

◇◇◇

 

「スイ?」

 

隣にいたレンが、不思議そうに私を見上げた。

 

「どうしたの?」

 

私は何でもない顔で、首を下げた。

 

危ない危ない。

 

うっかり凝視してしまった。

 

闘蛇が人間をじっと見つめると、相手は大抵、食べられるのではないかと警戒する。

 

決して、顔を鑑賞しているとは思ってくれない。

 

(安心してください。食べません)

 

(眺めたいだけです)

 

我ながら、少し怪しい。

 

◇◇◇

 

族長の家の前で、ダンが頭を下げた。

 

「黒角族のダンだ。ガク様の命により参った」

 

族長が応じる。

 

「よく来た。まずは中へ」

 

ダンは頷き、同行者を示した。

 

「こちらは我らの長老、ロウ。そして、ガク様の甥にあたるキョウだ」

 

(キョウ)

 

なるほど。

 

名前も覚えやすい。

 

私は、こっそり美形の方を見た。

 

キョウは、集落の奥に並ぶ闘蛇たちへ視線を向けていた。

 

初めて見る光景なのだろう。

 

驚いた様子はある。

 

しかし、怯えてはいない。

 

むしろ、興味深そうだった。

 

そして。

 

目が合った。

 

(……あ)

 

キョウは、わずかに目を細めた。

 

「……あれが、噂の闘蛇か」

 

ダンが頷く。

 

「ああ。あの雌がスイだ」

 

「随分と落ち着いているな」

 

「人に慣れている」

 

キョウは、私を見つめたまま言った。

 

「綺麗な目をしている」

 

(…………)

 

えっ。

 

今。

 

何と?

 

(綺麗な目!?)

 

ちょっと待って。

 

そんなこと言われたの、今世で初めてなんですけど。

 

私は、思わず尻尾を揺らした。

 

ばしゃん。

 

近くの水桶が倒れた。

 

「スイ!」

 

レンの声が飛ぶ。

 

(ごめんなさい)

 

完全に浮かれました。

 

◇◇◇

 

話し合いは、族長の家で行われた。

 

私は外で待機。

 

当然ながら、九メートルの身体では家に入れない。

 

しかも、人間たちは私に聞かせるつもりで話しているわけではない。

 

仕方がないので、私は少し離れた木陰に伏せた。

 

もっとも、耳はそれなりに良い。

 

開いた戸口から、会話の一部が聞こえてくる。

 

「まず、我らの印が使われたことについて、ガク様は不快に思っておられる」

 

ダンの声だった。

 

「白淵族を疑っているわけではない。ただ、黒角族の名を騙る者がいるなら、放置はできん」

 

族長が答える。

 

「こちらも同じ考えだ。印だけで黒角族の仕業と決めつけるつもりはない」

 

「感謝する」

 

そこで、年配の男が口を開いた。

 

「捕らえた者たちを見せてもらいたい」

 

ロウという長老だろう。

 

「構わん。ただし、こちらの立ち会いのもとでだ」

 

「承知した」

 

◇◇◇

 

しばらくして、男たちが外へ連れ出された。

 

三人とも、手を縛られている。

 

私を見るなり、一人が顔を引きつらせた。

 

(……あ、沢に落ちた人)

 

お元気そうで何より。

 

男は、私から目を逸らした。

 

少し傷つく。

 

いや、怖がられて当然か。

 

◇◇◇

 

「顔を上げろ」

 

ダンが言った。

 

男たちは、渋々顔を上げる。

 

ロウが一人ずつ確かめた。

 

そして、首を振った。

 

「知らん顔だ」

 

ダンも同じだった。

 

「俺も見覚えがない」

 

最後に、キョウが前へ出た。

 

彼は男たちの顔を見たあと、足元へ視線を落とした。

 

「……靴を見せろ」

 

セイランが眉を動かす。

 

「靴?」

 

「ああ」

 

キョウは、男の足元を指した。

 

「その編み方は、黒角族のものではない」

 

男の一人が、反射的に足を引いた。

 

キョウは続ける。

 

「黒角族の履物は、踵を二重に編む。岩場で擦り切れやすいからだ。こいつらの靴は、つま先を厚くしている」

 

「それが何を意味する?」

 

セイランが尋ねた。

 

「土の柔らかい場所をよく歩く者の作りだ。少なくとも、我らの山で暮らす者ではない」

 

(……へえ)

 

私は、思わず感心した。

 

顔が良いだけじゃない。

 

観察力まである。

 

(……いいですね)

 

非常にいい。

 

◇◇◇

 

「それに」

 

キョウは、男の革袋から取り出された黒い布を見た。

 

「この印も、おかしい」

 

ダンが顔をしかめる。

 

「どういうことだ」

 

「角の向きが逆だ」

 

その場が静かになった。

 

キョウは布を広げた。

 

「我らの印は、二本の角が外へ開く。これは内側へ向いている」

 

ロウが身を乗り出す。

 

「……確かに」

 

「遠目には似ているが、黒角族の者なら間違えない」

 

族長が、ゆっくりと頷いた。

 

「つまり、何者かが黒角族を装ったと」

 

「その可能性が高い」

 

キョウは、布を置いた。

 

「ただし、誰が何のために作ったのかは、まだ分からない」

 

◇◇◇

 

そのときだった。

 

捕らえられていた男の一人が、突然笑った。

 

「……くだらねえ」

 

セイランが振り向く。

 

「何だと?」

 

「角がどうとか、靴がどうとか……そんなことを調べて何になる」

 

男は、口元を歪めた。

 

「どうせ、もう遅い」

 

空気が変わった。

 

キョウが、静かに尋ねた。

 

「何が遅い?」

 

男は答えない。

 

「お前たちは、何をしようとしている」

 

沈黙。

 

やがて男は、吐き捨てるように言った。

 

「山の連中は、いつもそうだ。自分たちの境界ばかり気にしている」

 

ダンの顔が険しくなる。

 

「どういう意味だ」

 

「道なんて、誰のものでもないだろうが」

 

男は、そう言って口を閉ざした。

 

◇◇◇

 

話し合いは、いったん中断された。

 

男たちは再び別の場所へ連れていかれる。

 

族長とダンたちは、家の中へ戻った。

 

私は、木陰で首を傾げた。

 

(……道は誰のものでもない、か)

 

確かに、道そのものに名前が書いてあるわけではない。

 

でも、通る人がいれば、そこには暮らしがある。

 

白淵族も黒角族も、それぞれの事情があって境界を決めている。

 

それを無視して好き勝手に通られたら、困る人が出る。

 

(……うーん)

 

何だか、単なる盗賊の話ではなさそうだ。

 

◇◇◇

 

「スイ」

 

声がして、私は顔を上げた。

 

キョウだった。

 

いつの間にか、家から出てきていたらしい。

 

彼は少し離れた場所で立ち止まり、私を見上げた。

 

「近づいてもいいか?」

 

(……どうぞどうぞ)

 

もちろん、声には出せない。

 

私は、身体を動かさずにいた。

 

キョウは慎重に歩み寄り、私の鼻先から少し離れたところでしゃがんだ。

 

「大きいな」

 

(よく言われます)

 

「それに、思っていたより穏やかだ」

 

(ありがとうございます)

 

彼は、私の鱗を興味深そうに見つめた。

 

「黒角族にも大きな獣はいるが、お前ほどのものはいない」

 

私は、ゆっくりと瞬きをした。

 

するとキョウは、小さく笑った。

 

「……何だ。話を聞いているみたいだな」

 

(…………)

 

危ない。

 

私は、何でもない顔で川の方を向いた。

 

人間の言葉が分かることは、知られてはいけない。

 

そう決めている。

 

キョウは、私の反応を深く追及することなく立ち上がった。

 

「また会うことがあれば、背に乗ってみたいものだ」

 

(……え)

 

それは。

 

ちょっと。

 

(大歓迎ですけど!?)

 

思わず首が動きかけた。

 

私は、慌てて動きを止めた。

 

◇◇◇

 

「キョウ」

 

セイランの声がした。

 

彼が、こちらへ歩いてくる。

 

「族長が呼んでいる」

 

「ああ、今行く」

 

キョウは私に軽く手を上げ、セイランの方へ向かった。

 

二人が並ぶ。

 

(…………)

 

私は、思わず見比べた。

 

セイランは、静かで端正な顔立ち。

 

キョウは、涼しげで少し華やかな顔立ち。

 

方向性が違う。

 

どちらも良い。

 

(……素晴らしい)

 

何ということでしょう。

 

山の中にも、こんな贅沢な景色が存在するとは。

 

私は、しみじみと目を細めた。

 

その瞬間。

 

「スイ、何を見てるの?」

 

レンが、魚を入れた籠を抱えて現れた。

 

(……あ)

 

私は、すぐにレンへ顔を向けた。

 

もちろん。

 

魚ですよ。

 

魚。

 

「今日は大きいのが獲れたよ」

 

(最高です)

 

やはり、顔の良い男と美味しい魚は、人生を豊かにする。

 

……闘蛇生か。

 

◇◇◇

 

夕方。

 

黒角族の使者たちは、白淵族の集落に一泊することになった。

 

襲撃事件について、さらに調べる必要があったからだ。

 

族長は、ダンたちに一つの提案をした。

 

「明日、旧道を一緒に調べたい」

 

ダンが頷く。

 

「我らもそう考えていた」

 

「捕らえた者たちが、何を隠しているのか。道に何が起きているのか。それを確かめよう」

 

キョウが口を開いた。

 

「俺も同行する」

 

セイランが答える。

 

「こちらからは、俺が行く」

 

二人の視線が交わった。

 

「よろしく頼む」

 

「ああ」

 

◇◇◇

 

その夜。

 

私は、川辺で身体を休めていた。

 

近くでは、ガンが静かに眠っている。

 

空には星が出ていた。

 

明日は、また南の旧道へ向かうらしい。

 

面倒なことにならなければいい。

 

そう思う。

 

でも。

 

(……キョウも来るのか)

 

私は、そっと尻尾を揺らした。

 

……。

 

(ちょっと楽しみ)

 

もちろん、仕事は真面目にしますよ。

 

その点は、誤解しないでいただきたい。

 

ただ、目の保養があると、やる気が少し上がるだけである。

 

◇◇◇

 

一方、族長の家では、まだ話し合いが続いていた。

 

「黒角族を装った者が、なぜ旧道で荷を襲ったのか」

 

セイランが言った。

 

「ただの盗賊なら、印を持つ必要はありません」

 

ダンが頷く。

 

「我らと白淵族を争わせたい者がいるのかもしれん」

 

キョウは、卓上に置かれた黒い布を見つめた。

 

「……それだけなら、まだいい」

 

ロウが顔を上げる。

 

「どういう意味だ」

 

キョウは、静かに答えた。

 

「争わせることが目的ではなく、争っている間に別のことを進めたいのだとしたら?」

 

部屋に沈黙が落ちた。

 

南の旧道。

 

誰のものでもない、と男は言った。

 

だが、その道を欲しがる者がいるとすれば。

 

話は変わってくる。

 

そして翌朝。

 

白淵族と黒角族は、初めて共同で旧道の調査へ向かうことになった。

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