荷車の布の隙間から、小さな手が見えた。
それだけで、谷の空気が変わった。
先ほどまで、道を通すか通さないかという話をしていたはずなのに。
今は、そんなことを言っている場合ではない。
(……子どもがいる)
私は、荷車を見つめた。
布の下で、何かが動く。
こん、こん。
小さな音が、また聞こえた。
「荷を開けろ」
セイランの声は低かった。
ソウは答えない。
「中に人がいるな」
キョウが言うと、ソウは困ったように眉を下げた。
「さて。何かの見間違いでは?」
(いや、手が見えましたけど)
九メートルの闘蛇を相手に、なかなか大胆な嘘をつく人である。
「見間違いかどうか、確かめれば済む」
キョウが荷車へ向かおうとすると、武装した男たちがその前に立ちはだかった。
ダンも槍を構える。
「そこを退け」
「お待ちください」
ソウが両手を広げた。
「彼らは働き口を求めて移動している者たちです。南では人手が足りませんのでね」
「ならば、本人たちに聞こう」
セイランが言った。
「自分の意思で来ているなら、問題ないはずだ」
ソウの口元が、わずかに引きつった。
(……おや)
さっきまであんなに滑らかに喋っていたのに。
都合が悪くなると、人間の口って急に重くなるらしい。
「……仕方ありませんね」
ソウは小さく息を吐いた。
「どうやら、話し合いでは解決しそうにない」
その言葉を合図にしたように、背後の男たちが一斉に武器を構えた。
◇◇◇
「押し通れ!」
ソウの声が谷に響いた。
(……ああ、もう!)
私は前脚を踏みしめた。
できれば穏便に済ませたかった。
本当に。
だが、相手が武器を向けてくるなら話は別だ。
「スイ、ここを守れ!」
セイランが私の首筋を叩く。
私は低く唸り、谷の入口を塞ぐように身体を横たえた。
ぐるるるる……。
槍を構えて駆け寄ってきた男たちが、ぴたりと足を止める。
「な、何だこいつ……!」
(闘蛇です)
さっきから目の前にいたでしょうに。
男の一人が、恐る恐る槍を突き出した。
私は鼻先を引いて穂先を避け、地面を強く踏み鳴らした。
どんっ!
「うわっ!」
男たちが慌てて後ずさる。
(よし。できればそのまま帰ってください)
こちらとしても、無闇に人を傷つけたいわけではない。
何より、目の前の荷車には子どもがいるのだ。
暴れすぎれば、そちらまで巻き込んでしまう。
◇◇◇
セイランとキョウは、荷車の側面へ回り込んでいた。
セイランが槍で相手の剣を弾き、キョウがその隙に踏み込む。
「右!」
キョウの声に、セイランが振り向きざま槍を払った。
背後から迫った男の武器が、地面に落ちる。
「助かった」
「礼は後でいい」
(……何ですか、その連携)
昨日初めて会ったとは思えない。
しかも、二人とも顔が良い。
(戦っている姿まで絵になるとは……)
いや、分かっている。
今は鑑賞会ではない。
ちゃんと仕事します。
◇◇◇
反対側では、ハクがもう一頭の闘蛇とともに荷車の後方を守っていた。
男の一人が、闘蛇の脇をすり抜けようとする。
ぴぃっ。
ハクが笛を吹いた。
闘蛇が顔を上げる。
「前!」
ハクが手で合図すると、闘蛇は道を塞ぐように一歩踏み出した。
男は慌てて引き返す。
(……うん、いい感じ)
笛は、闘蛇に命令を伝える道具ではない。
こちらの注意を引き、次の指示を受け取りやすくするためのものだ。
それでも、こうした混乱の中では十分に役立つ。
(ハク、いいもの作ったなあ)
少し感心していると、別の男が叫んだ。
「獣の目を狙え!」
(……えっ)
それは困る。
非常に困る。
私は反射的に頭を下げた。
槍の穂先が、私の頭上を通り過ぎる。
(危なっ!)
思わず尻尾を大きく振る。
どんっ!
地面を叩いた衝撃に、男たちが尻もちをついた。
(……よし)
直接は叩いていない。
たぶん。
◇◇◇
「スイ!」
セイランの声が飛んだ。
私は顔を向ける。
「荷車を止めろ!」
見ると、混乱に乗じて一台の荷車が動き始めていた。
数人の男が必死に引いている。
(……逃がしませんよ)
私は身体を回し、荷車の進路へ出た。
ごろごろと車輪が近づいてくる。
その前に、どっしりと腰を落とした。
荷車が止まる。
引いていた男たちは、呆然と私を見上げた。
(九メートルの通行止め、再び)
どうですか。
なかなか便利でしょう。
ただし、迂回路はございません。
◇◇◇
そのとき。
荷車の中から、小さな声が聞こえた。
「……助けて」
私は動きを止めた。
布の向こうから、もう一度。
「……お願い……」
子どもの声だった。
私は鼻先を荷車へ寄せ、できるだけ静かに息を吐いた。
(大丈夫)
(もう少しだから)
もちろん、言葉は伝わらない。
それでも、中にいる子が少しでも落ち着いてくれればと思った。
「スイ、そのまま」
駆け寄ってきたセイランが、荷車の布へ手をかける。
「中の者、聞こえるか」
「……はい」
「今から開ける。動かずに待っていろ」
布がめくられた。
中には五人いた。
子どもが二人。若い女性が一人。年配の男が二人。
全員、手首を縄で縛られている。
(……っ)
私は息を呑んだ。
働き口を求めて、自分の意思で移動している?
そんなわけがない。
「キョウ、縄を!」
「ああ」
キョウが素早く縄を切る。
「他にもいるのか」
若い女性が震える声で答えた。
「……隣の荷車にも」
セイランが振り返る。
「ハク! 残りの荷車を開けろ!」
「分かった!」
◇◇◇
二台目、三台目からも人が出てきた。
合わせて十七人。
子どももいれば、老人もいる。
皆、疲れ切った顔をしていた。
白淵族と黒角族の戦士たちは、武器を捨てた男たちを縛り上げ、逃げた者が戻ってこないよう周囲を警戒した。
ソウ本人は、キョウに腕を押さえられている。
「……これはどういうことだ」
キョウが尋ねた。
ソウは、苦笑した。
「商売ですよ」
その瞬間、キョウの表情が変わった。
昨日、私の目を見て笑っていた人と同じとは思えないほど、冷たい顔だった。
「人を縛って運ぶのが、商売か」
「買いたい者がいて、売りたい者がいる。それだけのことでしょう」
「この者たちは、売られることに同意していない」
「世の中、本人の望みどおりになることばかりではありませんよ」
(……うわ)
この人、本当に嫌いだ。
顔立ちは悪くないのに。
(やっぱり顔が良ければ何でも許されるわけじゃない)
キョウがソウの腕をひねり上げる。
「痛っ……!」
「黙れ」
短い一言だった。
(……あ)
ちょっと待って。
今のキョウ、かなり格好よかった。
……いや。
今は本当に、そういう場合ではない。
◇◇◇
救い出された人々に水が配られた。
セイランは、年配の男の前にしゃがんだ。
「どこから連れてこられた」
「……南の村です」
男が村の名を告げると、ダンが顔を上げた。
「その村なら知っている。黒角族の狩猟地を抜けた先だ」
「どうやって捕まった?」
「商人が来て、仕事を紹介すると言ったんです」
男は俯いた。
「最初は、皆、自分の意思でついていきました。でも途中で武器を持った男たちが現れて……」
若い女性が、その先を引き取った。
「逃げようとした人は、殴られました」
その声は、かすかに震えていた。
私は、静かに聞いていた。
(……最悪だ)
仕事を餌に人を集め、途中で自由を奪う。
荷車に詰め込んで、どこかへ運ぶ。
人間が人間を荷物のように扱う光景は、前世の私にとって遠い歴史の話だった。
でも、今は目の前にある。
「どこへ連れていかれる予定だった」
セイランが尋ねた。
男は首を振った。
「分かりません」
すると、若い女性が小さく口を開いた。
「……秦の方へ行くと、聞きました」
(……秦?)
私は顔を上げた。
秦。
その名前なら、よく知っている。
何しろ、前世で観た映画の舞台となった国だ。
ただし。
(秦のどの辺りなんだろう)
映画では、あちこちで戦っていた気がする。
……いや、あちこちというほど覚えていない。
思い出そうとすると、まず俳優さんたちの顔が浮かんでくるのだから困ったものだ。
(まあ、今はそれどころじゃないか)
どこへ連れていかれるつもりだったにせよ、この人たちが望んでいなかったことだけは確かだった。
◇◇◇
「誰に売るつもりだった」
キョウがソウに尋ねた。
「さあ」
「答えろ」
「知らない方が長生きできますよ」
その言葉に、ダンが槍を握り直した。
だが、キョウは動かなかった。
ただ、静かに言った。
「ならば、知るまで聞く」
ソウは、それ以上何も言わなかった。
◇◇◇
夕方までに、捕らえた男たちの人数と、救い出した人々の状態が確認された。
谷で作られていた道は、ひとまず作業を止めさせることになった。
ただし、問題はまだ終わっていない。
誰が道を作らせたのか。
誰が人々を買おうとしていたのか。
そして、なぜ白淵族と黒角族の境界を通ろうとしたのか。
どれも、まだ答えが出ていなかった。
帰り支度が整った頃、小さな女の子が私を見上げた。
「……おおきい」
(……はい)
大きいです。
女の子はしばらく私を見つめ、それから小さな声で言った。
「……ありがとう」
(…………)
私は、ゆっくりと瞬きをした。
何だろう。
胸の奥が、少し温かくなった。
怖がられることの方が多い身体だけれど。
誰かを安心させることも、できるらしい。
◇◇◇
帰り道、キョウが私の隣を歩いていた。
「今日は助かった」
(……いえいえ)
私は静かに首を下げた。
「お前がいなければ、荷車を止めるのは難しかっただろう」
(……もっと褒めていいですよ)
思わず尻尾が揺れる。
すると、キョウが小さく笑った。
「嬉しそうだな」
(……っ)
しまった。
私は慌てて尻尾を止めた。
この身体、表情より尻尾の方が正直なのかもしれない。
「スイ」
今度はセイランが、私の首筋を軽く叩いた。
「よくやった」
(…………)
私は、二人を見比べた。
片や、静かで端正な顔立ち。
片や、涼しげで少し華やかな顔立ち。
(……贅沢)
一日の終わりに、これはなかなかのご褒美ではないだろうか。
◇◇◇
集落に戻った頃には、日が暮れかけていた。
救い出された人々を迎えるため、一族の者たちが慌ただしく動き始める。
水を運ぶ者。食事を用意する者。寝床を整える者。
私は川辺に伏せ、その様子を眺めていた。
ようやく、ひと息つけそうだ。
そう思ったときだった。
南の旧道から戻った別の商人が、族長の家へ向かっていくのが見えた。
「……秦と魏の間で、また大きな戦が始まるらしい」
その声が、夕暮れの集落に響いた。
(……秦と魏?)
私は、少し考えた。
魏。
名前は聞いたことがある。
というか、『キングダム』に出てきた国の一つだったはずだ。
(……どんな戦いだったっけ)
広い平原。大勢の兵士。砂埃。
そんな光景は何となく浮かぶ。
けれど、誰が戦っていたのかは思い出せない。
(……うーん)
映画を観ていたとき、戦場の迫力には圧倒された。
でも、どこの国と戦っているのかを気にするより、登場人物たちのやり取りや俳優さんの表情を追う方が忙しかったのだ。
(……今になって困るとは)
私は、小さく鼻を鳴らした。
ただ、戦の内容は思い出せなくても、一つだけ分かることがある。
秦と魏が戦うなら、大勢の人が動く。
兵士だけでなく、食料や武器を運ぶ人も必要になる。
南の旧道を使いたがる者が現れたのも、無関係ではないのかもしれない。
(……山の外の戦争、か)
私は、遠くの山並みを見つめた。
映画の中では、戦が始まれば物語が大きく動いた。
でも、ここで暮らす私たちにとっては、誰かが勝つことよりも、明日も安心して川で魚を食べられることの方が大切だ。
それなのに。
どうやら、山の外で起きる出来事は、私たちの暮らしにも少しずつ影響し始めているらしかった。