秦と魏が戦を始めるらしい。
昨夜、そんな知らせが集落に届いた。
秦は分かる。魏も、名前くらいは知っている。
けれど、その二つの国が戦うと聞いても、私には何が起こるのかさっぱり分からなかった。
(……魏って、映画に出てきたよね?)
たぶん出てきた。
広い戦場で、大勢の兵士が走っていた気がする。
ただ、どの国の兵士だったのかと聞かれると、自信がない。
映画を観ていた頃の私は、国の名前よりも、登場人物の顔や台詞に夢中だった。
(……まさか、こんなところで困るとは)
人生、何が必要になるか分からないものである。
もっとも、戦の名前を思い出したところで、今の私に何かできるとも思えない。
私は白淵族の闘蛇であって、秦の軍師ではないのだ。
そもそも人間の言葉を話せない。
(……知識があっても、説明できないんですよね)
なかなか致命的な問題だった。
◇◇◇
翌朝、集落はいつもより騒がしかった。
昨日救い出した十七人のために、空いている小屋が開けられ、食事が用意されている。
レンは朝から水桶を運び、トウエンは怪我人の様子を見て回っていた。
「スイ、そこにいてくれよ」
レンが私に声をかける。
「今、こっちを通るから」
私は、ゆっくりと身体を寄せた。
その脇を、荷物を抱えた一族の者たちが通っていく。
(……はいはい、邪魔ですよね)
九メートルの身体は、こういうとき不便である。
大きな荷物なら運べるが、小屋の中へ入って布を敷いたり、料理を作ったりはできない。
下手に手伝おうとすれば、かえって仕事を増やしてしまう。
私は大人しく川辺へ移動した。
◇◇◇
「……おおきい」
背後から、小さな声がした。
振り向くと、昨日助けた女の子が立っていた。
隣にはハクがいる。
「この子、スイに会いたいって」
ハクが笑った。
「ミナっていうんだって」
(……おや)
ミナは私を見上げた。
昨日より少し顔色が良い。
「……おはよう」
私は、ゆっくりと瞬きをした。
ミナはしばらく私を見つめ、それから小さく言った。
「……こわくないね」
(……ありがとうございます)
なかなか嬉しい評価である。
何しろ、私の見た目は巨大な爬虫類だ。
初対面で怖がられないだけでも、十分ありがたい。
「昨日、助けてくれたんだよね」
私は鼻先を少し下げた。
ミナが、おそるおそる手を伸ばす。
小さな手が、私の鱗に触れた。
「……つめたい」
(……水辺の生き物ですので)
ミナが笑った。
つられて、私も尻尾を揺らす。
ばしゃん。
川の水が跳ねた。
「きゃっ!」
(……あ)
しまった。
ハクが声を上げて笑う。
「ほら、嬉しいんだよ」
(……違います)
いや、違わないけど。
ミナは少し驚いたあと、また笑った。
その顔を見て、私はようやく昨日の出来事が終わったような気がした。
少なくとも、この子にとっては。
◇◇◇
昼前、族長の家で話し合いが始まった。
白淵族の族長、セイラン、ハク。
黒角族からはダンとキョウが出席している。
私は家の外に伏せていた。
中へ入れないのは、いつものことだ。
戸口が開いているので、声はよく聞こえる。
「まず、救い出した者たちのことだ」
族長が言った。
「元の村へ帰したいが、同じ連中が残っているかもしれん」
ダンが頷く。
「黒角族から使いを出そう。あの村へ続く道は、我らの方が詳しい」
「助かる」
キョウが続けた。
「村の者たちにも、何が起きたか知らせる必要がある。人を集めていた商人が、まだ出入りしている可能性があるからな」
「では、安全を確かめるまでは白淵族で預かる」
族長が決めた。
私は、そっと目を閉じた。
(……よかった)
助けた人たちを、そのまま危険な場所へ帰すわけにはいかない。
帰る場所が安全かどうか。
それを確かめるところまでが、今回の仕事なのだろう。
「それと、ソウについてだ」
族長の声が続いた。
「何か話したか」
「ほとんど何も」
セイランが答える。
「ただ、道を作る金を出している者が別にいることは認めました」
「名は?」
「まだです」
ダンが低く唸った。
「面倒な男だ」
「口を割らせるだけなら、方法はある」
キョウが言った。
その声が、妙に冷たかった。
(……おや)
私は目を開けた。
「だが、名前だけ聞き出しても意味がない。嘘をつかれれば終わりだ」
「では、どうする」
セイランが尋ねる。
「荷を調べる」
キョウは即答した。
「人を運んでいた以上、食料や水が必要だ。十七人分を用意するには、どこかで買い付けたはずだ」
「なるほど」
「それに、道を切り開いていた者たちへの支払いもある。金を出している者がいるなら、何か残っているだろう」
(……おお)
私は感心した。
この人、顔が良いだけではない。
ちゃんと頭も良い。
……いや、昨日から十分分かっていたけれど。
◇◇◇
話し合いの途中、南の旧道から来た商人が呼ばれた。
昨夜、秦と魏の戦について知らせてくれた男だ。
日に焼けた顔をした、中年の商人だった。
「昨夜の話を、もう少し詳しく聞きたい」
族長が言うと、商人は頷いた。
「南の町で聞いた噂です。秦が魏へ兵を出すと」
「どれほどの戦になる」
セイランが尋ねた。
「正確な数は分かりません。ただ、兵が集められているそうです」
「街道への影響は?」
「大きいでしょうな」
商人は、疲れたように息を吐いた。
「軍が通る道は、商人にとって使いにくくなります。荷を徴発されることもありますし、通行を止められることもある」
キョウが腕を組んだ。
「それで、山を抜ける道を欲しがる者が出る」
「ええ。遠回りでも、通れる道があれば使いたい者はいます」
「……なるほど」
セイランが呟いた。
私は、ようやく話がつながった気がした。
戦が始まる。
街道が使いにくくなる。
だから、別の道が必要になる。
そして、誰かが白淵族と黒角族の目を避けて、新しい道を作ろうとしていた。
(……そういうことか)
もっとも、それだけなら人を縛って運ぶ理由にはならない。
「最近、南の町で人を集めている者がいるそうです」
商人が続けた。
「仕事を求める者に、良い賃金を約束していると」
「何の仕事だ」
「荷運びや道造りだそうです。戦が始まれば、そういう働き手も必要になりますから」
「その者の名は?」
キョウが尋ねた。
商人は首を振った。
「そこまでは。ただ、金払いが良いという話は聞きました」
「……分かった」
キョウは静かに頷いた。
「話を聞かせてくれて助かった」
◇◇◇
商人が帰ったあと、しばらく沈黙が続いた。
やがて族長が口を開く。
「戦のために、人を集めているのかもしれんな」
「可能性はある」
キョウが答えた。
「だが、まだ決めつけるべきではない。人を買う者が、軍と関わっているとは限らん」
「そうだな」
セイランが頷く。
「まずは、分かっていることから調べよう」
族長は少し考えたあと、言った。
「黒角族と協力し、南の道を調べる。白淵族の道を、人を売るために使わせるわけにはいかん」
ダンが力強く頷いた。
「ガク様にも、そう伝えよう」
◇◇◇
話し合いが終わる頃には、日が傾き始めていた。
黒角族の使者たちは、翌朝いったん自分たちの集落へ戻ることになった。
ガクへ報告し、今後の対応を決めるためだ。
キョウも一緒に帰るらしい。
(……あら)
それは少し残念。
私は川辺で身体を休めながら、こっそりため息をついた。
夕方。
そのキョウが、川辺へやってきた。
「……ここにいたか」
私は顔を上げた。
キョウは少し離れた場所に腰を下ろす。
「明日、黒角族へ戻る」
(……知ってます)
「今回のことは、まだ終わっていない。また来ることになるだろう」
(……おお)
それは朗報です。
私は思わず尻尾を揺らした。
キョウが少し笑う。
「……お前は、分かりやすいな」
(……っ)
しまった。
また。
「不思議な獣だ」
キョウは私を見つめた。
「大きくて、強そうなのに、妙に人懐っこい」
(……それは褒め言葉として受け取っていいですか)
私はゆっくりと瞬きをした。
キョウは少し考えたあと、手を伸ばした。
「触れてもいいか?」
(……どうぞ)
私は静かに頭を下げた。
キョウの手が、私の鼻先に触れる。
温かい。
「……綺麗な鱗だな」
(…………)
えっ。
ちょっと。
何ですか、この人。
褒め方が上手すぎません?
私は思わず尻尾を揺らしかけた。
……が、今度は何とか堪えた。
成長した。
たぶん。
「キョウ」
セイランの声がした。
振り向くと、彼が川辺へ歩いてきていた。
「ダンが探している」
「ああ、今行く」
キョウは立ち上がり、私の鼻先を軽く撫でた。
「またな、スイ」
(……はい。またぜひ)
私は静かに首を下げた。
二人が並んで歩いていく。
私は、その後ろ姿を見送った。
(……うん)
やっぱり、顔が良い。
方向性の違う美形が並ぶというのは、なかなか贅沢な光景である。
◇◇◇
翌朝、黒角族の使者たちが出発した。
ダンは族長と短く言葉を交わし、キョウはセイランに手を差し出した。
「次に会うときには、もう少し話が進んでいるといいな」
「ああ」
二人は固く手を握った。
そのあと、キョウが私を見た。
「スイ。また会おう」
(……もちろんです)
私は、できるだけ落ち着いて首を下げた。
落ち着いて。
上品に。
大人の闘蛇らしく。
……そう思ったのだが。
キョウが笑った瞬間、尻尾が勝手に動いた。
ばしゃん。
川の水が大きく跳ねる。
「……スイ」
レンが呆れた声を出した。
(……ごめんなさい)
やっぱり、無理だった。
キョウは声を上げて笑い、ダンとともに山道を下っていった。
◇◇◇
その日の夕方。
私は、川辺でガンと並んで休んでいた。
遠くでは、救い出された人々が一族の者たちと話している。
ミナは、レンからもらった木の実を大切そうに握っていた。
少しずつ、いつもの暮らしが戻り始めている。
けれど、山の外では秦と魏の戦が近づいているらしい。
それがどんな戦なのか、私には分からない。
誰が戦い、誰が勝つのか。
映画で観たことがあるのかさえ、はっきりしない。
ただ、山の外で起きる出来事が、私たちの暮らしに影響することは分かってきた。
(……平和に魚を食べていたいんだけどなあ)
私は、川の水面を眺めた。
小さな魚が、きらりと光って泳いでいく。
思わず鼻先を動かす。
……が、逃げられた。
(……あ)
残念。
私は、ゆっくりと水へ入った。
戦のことも、道のことも、まだ分からないことばかりだ。
それでも、今の私にできることはある。
この川を守ること。
一族の皆を守ること。
そして、明日もちゃんと魚を食べること。
(……最後が一番大事かもしれない)
私は水の中へ潜った。
冷たい水が、身体を包む。
その心地よさに、思わず目を細めた。
山の外の世界は、今日も慌ただしく動いているらしい。
けれど、白淵族の川は。
今のところ、いつもどおり穏やかだった。