白淵族は、優しい一族だと思う。
少なくとも、私はそう思っている。
レンは毎日世話をしてくれるし、ハクはよく笑う。セイランだって無愛想に見えるけれど、私が怪我をすれば誰よりも早く駆けつけてくれる。
だから、つい忘れそうになるのだ。
この人たちが、山の民であることを。
そして、山の民にとって、よそ者は必ずしも歓迎すべき客ではないということを。
◇◇◇
「なぜ、まだ集落に置いている」
朝から、族長の家に怒鳴り声が響いていた。
声の主は、白淵族の年長の戦士、ゴウ。
腕には古い傷がいくつもあり、片耳が少し欠けている。若い頃、山を荒らした別の部族との争いで負った傷だと聞いたことがある。
普段から口数が多い人ではない。
だからこそ、怒鳴り声には迫力があった。
「十七人だぞ。食わせるだけでも負担になる。それに、あの者たちは集落への道を見た」
「目隠しはしていた」
セイランが答える。
「道筋は分からん」
「一度見たものは忘れん。川の位置、山の形、獣の声。覚える者は覚える」
(……あ)
私は、思わず顔を上げた。
そこまで考えていなかった。
昨日助けた人たちは、皆、疲れ切っていた。
だから、まずは休ませることが大切だと思っていた。
でも、白淵族にとっては別の問題もある。
この集落には、闘蛇がいる。
五十頭もの闘蛇が暮らしている。
もし、その存在が平地に広まれば。
(……確かに、まずい)
「それでも、怪我人を山へ放り出すわけにはいかん」
セイランの声がした。
ゴウが鼻を鳴らす。
「情けをかけるなとは言っておらん。だが、情けと油断は違う」
族長が、静かに頷いた。
「ゴウの言うことにも理がある」
(……おお)
私は少し驚いた。
てっきり、ゴウが怒られて終わるのかと思っていた。
けれど、族長はそうしなかった。
「救い出した者たちは、南の見張り小屋へ移す。怪我人には手当てを続けるが、集落の奥へは入れん」
「……分かりました」
セイランが頷いた。
ゴウも、それ以上は何も言わなかった。
◇◇◇
その日の昼。
私は、レンと一緒に川辺にいた。
レンは私の鱗を洗いながら、朝の話し合いについて教えてくれた。
「ゴウは、昔からああなんだ」
(……そうなんですね)
「でも、間違ったことを言ってるわけじゃない」
レンは、少し考えてから続けた。
「俺たちは山で生きてる。山を知らない者が入ってくれば、それだけで危険になることもあるんだ」
私は、ゆっくりと瞬きをした。
白淵族が平地の民とあまり関わらないのも、そういう理由があるのだろう。
必要な薬や金属の道具を手に入れるため、限られた相手と取引することはある。
けれど、平地の商人が自由に集落へ出入りすることはない。
取引場所も決まっていて、闘蛇の飼育地へ近づけることは決してない。
(……そりゃそうだよね)
もし、平地の人間が闘蛇を見つけたら。
珍しい獣として捕まえようとする者が出るかもしれない。
戦に利用しようとする者だっているだろう。
(……絶対、嫌だ)
私は、思わず鼻を鳴らした。
「どうした?」
レンが顔を上げる。
私は、何でもないというように首を振った。
レンは笑った。
「変なやつ」
(……よく言われます)
◇◇◇
午後。
南の見張り小屋へ移ることになった人々が、荷物をまとめていた。
ミナも、その中にいた。
私は少し離れた場所から見送っていた。
「……スイ!」
ミナが私に気づいた。
小さな手を振る。
私は、ゆっくりと頭を下げた。
ミナは駆け寄ろうとしたが、近くにいた戦士が静かに止めた。
「そこまでだ」
「……え?」
「闘蛇には、勝手に近づくな」
声は厳しかった。
ミナは驚いて足を止めた。
(……あ)
私は、少し胸が痛んだ。
昨日は、触ってもいいと言ってくれたのに。
でも、よく考えれば、あれはハクが一緒にいたからだ。
闘蛇は、白淵族にとって大切な存在。
誰でも自由に触れていいわけではない。
ミナは、しょんぼりと俯いた。
私は、ゆっくりと首を伸ばした。
戦士の方を見る。
それから、ミナを見る。
(……少しだけ、いいですか)
もちろん、言葉は通じない。
けれど、戦士は私の様子を見て、少しだけ眉をひそめた。
「……お前も甘いな」
(……すみません)
戦士は、ため息をついた。
「ハクが来るまで待て」
ミナが顔を上げた。
「……うん!」
◇◇◇
しばらくして、ハクがやってきた。
「どうした?」
事情を聞くと、ハクは苦笑した。
「まあ、スイなら大丈夫だろうけど」
戦士が睨む。
「お前が責任を持て」
「分かってるよ」
ハクはミナの手を取り、私の前へ連れてきた。
「ほら、ゆっくりな」
ミナの小さな手が、私の鼻先に触れる。
「……ありがとう」
(……こちらこそ)
私は、ゆっくりと瞬きをした。
ミナは、少しだけ笑った。
それから、ハクに連れられて皆のところへ戻っていった。
◇◇◇
夕方。
南の道から、黒角族の使いが戻ってきた。
ダンたちが出発してから、まだ一日しか経っていない。
それなのに、使いの男はかなり急いできたらしく、肩で息をしていた。
「族長に知らせがある!」
セイランが、すぐに駆け寄る。
「何があった」
「ソウの荷車に、印があった」
「印?」
「荷車の底に焼き付けられていた。黒角族の者が見つけた」
男は、布に包んだ木片を取り出した。
そこには、小さな印が刻まれていた。
円の中に、三本の線。
私は、首を傾げた。
(……何のマーク?)
セイランが眉をひそめる。
「見たことがない」
「黒角族でも分からなかった。だが、ガク様は心当たりがあるらしい」
「何だ」
使いの男は、声を落とした。
「……南の商人たちが使う印だそうだ」
◇◇◇
その夜。
族長の家で、再び話し合いが行われた。
私は、いつものように外で聞いていた。
「南の商人か」
族長が呟く。
「ガクは、何と言っている」
使いの男が答えた。
「その印を使う者たちは、最近、山の外で勢力を広げているそうです」
「商人の集まりか」
「はい。ただし、普通の商いだけではないとも」
セイランが腕を組む。
「人を売ることも、か」
「その可能性があります」
族長は、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「……道を閉じる」
「南の旧道もですか」
「いや。旧道は、これまでどおり黒角族との取り決めに従う。閉じるのは、勝手に切り開かれた新しい道だ」
セイランが頷いた。
「分かりました」
「ただし、しばらく見張りを増やす。黒角族にも伝えろ」
◇◇◇
私は、静かに息を吐いた。
(……ようやく、一区切りかな)
もちろん、ソウの背後にいる者が誰なのかは、まだ分からない。
でも、少なくとも、白淵族の山を勝手に通ることはできなくなった。
それだけでも、大きな前進だと思う。
◇◇◇
翌朝。
私は、川辺でガンと並んで休んでいた。
ガンは、相変わらず落ち着いている。
私が隣でごろごろ動いても、気にする様子はない。
(……大人だなあ)
私は、少し羨ましくなった。
九メートルにもなったのに、どうも落ち着きが足りない。
そんなことを考えていると、セイランがやってきた。
「スイ」
私は、顔を上げた。
セイランは、私の首筋に手を置いた。
「しばらく、南の道を見回ることになった」
(……またですか)
「今度は、山の奥まで調べる」
私は、ゆっくりと瞬きをした。
「お前にも、来てもらう」
(……了解)
私は、静かに身体を起こした。
山の外では、秦と魏の戦が近づいている。
山の中では、知らない者たちが道を作ろうとしていた。
そして、白淵族は。
そのどちらにも、簡単に踏み込ませるつもりはないらしい。
(……まあ、当然ですよね)
ここは、私たちの山なのだから。
私は、セイランの後ろについて歩き始めた。
そのとき、ふと気づいた。
昨日まで、山の外の戦なんて、自分には関係ないと思っていた。
でも。
もし、その戦のせいで、また誰かがこの山へ入り込んでくるのなら。
(……関係ない、では済まないのかも)
私は、遠くの山並みを見つめた。
その向こうで、何が起きているのか。
まだ、何も分からない。
けれど、少なくとも一つだけは決めている。
この山を、勝手に荒らさせるつもりはない。
それが、私の暮らす場所なのだから。