子育てというものは、大変らしい。
前世の私は子供を育てた経験がないので、詳しいことは分からない。
ただ、世の中のお父さんお母さんが毎日苦労していることくらいは知っている。
食事を用意して、身体を洗って、危ないことをしないように見守って。
しかも、子供というのは大抵、大人の思い通りには動かないものだ。
……さて。
ここで一つ、問題です。
もし、その子供が。
鋭い牙と爪を持ち、身体が大きくなると九メートルにも達する肉食動物だったら?
……。
…………。
考えただけで恐ろしい。
ちなみに、現在の私は。
その恐ろしい子供の一匹である。
◇◇◇
「スイー! どこ行ったー!」
遠くからレンの声が聞こえた。
……。
…………。
(……まずい)
私は慌てて身体を低くした。
目の前には、大きな岩。
その陰に隠れれば、きっと見つからないはずだ。
……いや、別に悪いことをしているわけではない。
ちょっと。
ほんのちょっとだけ。
散歩に出ただけである。
「スイー!」
……。
…………。
(……ごめん、レン)
でも、仕方ないじゃない。
だって、気になったんだもの。
◇◇◇
私がこの世界に生まれてから、しばらくの時間が経った。
最初は一メートルほどだった身体も、今では随分と大きくなった。
まだ成体には遠いけれど、そこらの犬よりはよほど迫力がある。
そして、何より。
足が速くなった。
これがもう、楽しくて仕方ない。
前世では、運動なんて積極的にする方ではなかった。
走るくらいなら、家で映画を観ていたい。
そんな人間だった。
だが、今は違う。
地面を蹴れば、身体がぐんと前へ進む。
尻尾でバランスを取りながら、木々の間を駆け抜ける。
水に飛び込めば、するすると泳げる。
……。
(……楽しい!)
これはもう、仕方ない。
身体が動くのだから、動かしたくなる。
人間だって、新しい靴を買ったら歩きたくなるでしょう?
それと同じである。
……たぶん。
そんなわけで、私は今日も元気に散歩していた。
ただし、レンには内緒で。
◇◇◇
「……ギャウ?」
岩陰から、妙な声が聞こえた。
……。
…………。
(……ん?)
私はそっと顔を出した。
そこには、小さな闘蛇が一匹いた。
私より少し小さい。
鱗の色も、私より薄い。
そして何より、ものすごく困った顔をしている。
……いや。
闘蛇に表情があるのかと言われると、少々難しいのだけれど。
少なくとも、私にはそう見えた。
「ギャウ……」
小さな闘蛇は、情けない声を上げた。
私は首を傾げた。
(……どうしたの?)
近づいてみる。
すると、理由が分かった。
尻尾が、木の根に挟まっている。
……。
…………。
(……あらまあ)
どうやら、無理に通ろうとして引っかかったらしい。
しかも、暴れたせいで余計に絡まっている。
……。
(……落ち着きなさいな)
私は短く喉を鳴らした。
小さな闘蛇がこちらを見る。
そして、さらに暴れ始めた。
……。
…………。
(……いや、だから)
(暴れると余計に抜けなくなるって)
私は少し考えた。
言葉で説明できれば簡単なのだが、残念ながらそうはいかない。
仕方ない。
実力行使である。
私は小さな闘蛇の横に回り、鼻先で身体を押さえた。
「ギャッ!」
(はいはい、落ち着いて)
もう一度、短く喉を鳴らす。
今度は少し低い声で。
すると、不思議なことに。
小さな闘蛇は、ぴたりと動きを止めた。
……。
…………。
(……お?)
私はそっと鼻先を離した。
闘蛇は動かない。
ただ、じっとこちらを見ている。
……。
(……いい子)
私は木の根に挟まった尻尾を確認した。
少し持ち上げれば抜けそうだ。
私は前足で根を押さえ、鼻先で尻尾を押し出した。
ずるり。
抜けた。
「ギャウ!」
小さな闘蛇が嬉しそうに鳴いた。
……。
(……よかったねぇ)
私は満足げに喉を鳴らした。
すると。
小さな闘蛇が、私の後ろについてきた。
……。
…………。
(……ん?)
私は一歩進んだ。
闘蛇も一歩進む。
止まる。
向こうも止まる。
……。
(……何これ)
(懐かれた?)
まあ、いいか。
私は再び歩き出した。
すると、当然のように小さな闘蛇もついてきた。
……。
…………。
(……可愛い)
何だろう。
ちょっと嬉しい。
こうして私は、生まれて初めて。
闘蛇の子分を手に入れた。
……いや。
子分というより、弟か妹だろうか。
どちらでもいいけれど。
◇◇◇
「スイー!」
……。
…………。
(……あ)
忘れてた。
レン。
私は慌てて顔を上げた。
声のする方を見ると、少年がこちらへ走ってくるところだった。
……。
(……あちゃー)
見つかってしまった。
レンは私の前まで来ると、両手を膝につき、荒い息を整えた。
「……もう!」
……。
…………。
(……はい)
「勝手に出ていっちゃ駄目だって、言ったでしょ!」
……。
…………。
(……はい、すみません)
私はそっと頭を下げた。
すると、レンが目を丸くした。
「……あれ?」
……。
(……ん?)
「もしかして、分かってる?」
……。
…………。
(……まあ、一応)
私はもう一度、頭を下げた。
レンはしばらく私を見つめていた。
そして、ふっと笑った。
「……本当に、変わった子だなぁ」
……。
…………。
(……それ、よく言われます)
レンは私の頭を撫でた。
「でも、心配したんだからね」
……。
(……ごめんね)
私はそっと鼻先を押しつけた。
すると、レンは安心したように笑った。
「……もう、仕方ないなぁ」
……。
…………。
(……天使)
本当に、この子は天使なのではなかろうか。
そんなことを考えていると、レンが私の後ろを見た。
「……あれ?」
……。
…………。
(……あ)
そうだった。
小さい子、連れてきちゃった。
レンは目を丸くした。
「その子、どうしたの?」
……。
…………。
(……拾いました)
いや。
拾ったというのは、少々語弊がある。
助けたら、ついてきたのだ。
レンは小さな闘蛇を見つめた。
そして、何かに気づいたように声を上げた。
「あっ! この子、探してた子だ!」
……。
…………。
(……え?)
「朝から姿が見えなくて、みんなで探してたんだよ!」
……。
(……なるほど)
どうやら、この子も脱走組だったらしい。
類は友を呼ぶ。
いや、違うか。
レンはほっと息をついた。
「よかったぁ……二匹とも無事で」
……。
…………。
(……ごめん)
何だか、ものすごく申し訳なくなってきた。
私はもう一度、頭を下げた。
すると、隣の小さな闘蛇も。
ぺこり。
……。
…………。
(……え?)
レンも固まった。
「……今、真似した?」
……。
…………。
(……したね)
私が顔を上げる。
小さな闘蛇も顔を上げる。
私が首を傾げる。
小さな闘蛇も首を傾げる。
……。
…………。
(……何これ)
(可愛すぎない?)
レンはしばらく呆然としていたが、やがて笑い出した。
「あはは! スイ、先生みたいだね!」
……。
…………。
(……先生)
なるほど。
悪くない響きである。
こうして私は、闘蛇界の教育者として第一歩を踏み出した。
……。
いや、別に目指していたわけではないのだけれど。
◇◇◇
その日の夕方。
私はレンに連れられて、集落の中心へ向かった。
普段は闘蛇たちのいる水辺で過ごしているため、人間の暮らす場所へ来ることはあまりない。
だが、今日は少し事情が違った。
「父さんに報告しないと」
レンがそう言ったのだ。
……。
(……父さん?)
そういえば、レンのお父さんにはまだ会ったことがない。
どんな人なのだろう。
やっぱり美形なのかな。
……。
(……楽しみ)
私は上機嫌で尻尾を振った。
「スイ、あんまり振り回さないでね」
……。
…………。
(……はい)
どうやら、私の尻尾はすっかり危険物扱いされているらしい。
まあ、実際危険なのだけれど。
集落には、木と石で作られた家々が並んでいた。
屋根は草で葺かれ、軒先には干した魚や薬草が吊るされている。
人々は麻のような布で作られた衣服をまとい、腰には小さな刃物を下げていた。
……。
…………。
(……ん?)
私はふと、足を止めた。
この景色。
どこかで見たことがあるような気がする。
いや、もちろん初めて見る場所だ。
だが。
(……これ、何か)
(古代中国っぽくない?)
前世で観た歴史映画。
そこで見たような衣服や建物に、どことなく似ている。
もちろん、そっくりというわけではない。
むしろ、もっと素朴で、山奥の集落らしい雰囲気だ。
だが、何となく。
……。
(……まさかね)
私は首を振った。
いやいや。
転生しただけでも十分おかしいのに、さらに古代中国ですか?
そんな偶然、ある?
……。
…………。
(……いや)
(そもそも闘蛇になってる時点で、何でもありか)
私は小さく喉を鳴らした。
「スイ?」
レンが振り返る。
「どうしたの?」
……。
…………。
(……何でもない)
私は再び歩き出した。
この時の私は、まだ知らなかった。
この山の向こうに、秦という国があることも。
そこに、後に始皇帝と呼ばれる王がいることも。
そして。
自分がいつか、その国の戦場へ向かうことになるなんて。
……まあ。
そんなことよりも、今は。
(……レンのお父さん、顔が良いといいなぁ)
そちらの方が、よほど重要な問題だったのである。