戦争というものは、遠くで起きているうちは、どこか他人事である。
前世の私もそうだった。
ニュースで遠い国の争いを見て、大変だなあと思う。
でも、翌日には仕事へ行き、帰りにスーパーで買い物をして、週末の予定を考えていた。
それが悪いことだとは思わない。
人間、自分の生活を送るだけでも結構忙しいのだ。
ただし。
今の私は、スーパーへ行けない。
仕事もない。
週末の予定もない。
あるのは川と魚と、山の中で暮らす一族だけ。
(……いや、十分幸せなんですけどね)
私は、水面から鼻先だけを出して考えた。
問題は、その幸せが、山の外の事情に左右されるらしいということだ。
◇◇◇
南の道を塞いでから、十日ほどが過ぎた。
ソウに捕らえられていた十七人は、黒角族の者たちが安全を確かめたうえで、数人ずつ故郷へ送り届けている。
ミナも、三日前に帰っていった。
別れ際、あの子は私に手を振ってくれた。
私は尻尾を振り返した。
今度は水を跳ねさせなかった。
(……成長しました)
ちなみにレンには、「たまたまだろ」と言われた。
失礼な。
一方、ソウの背後にいた商人たちについては、黒角族が南の町で調べを進めている。
荷車に刻まれていた印は、複数の商人が使う荷印の一つだったらしい。
ただ、その印を使っていた者たちは、ソウが捕らえられたと知るや、倉庫を引き払って姿を消したという。
逃げ足の速いことである。
(……悪いことをする人って、そういうところだけ優秀ですよね)
それでも、黒角族は諦めなかった。
残された帳面と、ソウが持っていた荷の記録を照らし合わせ、金の流れを調べているそうだ。
白淵族も、南の道の見張りを増やしていた。
事件そのものは、ようやく落ち着き始めている。
そんな頃だった。
山の外から、新しい知らせが届いたのは。
◇◇◇
「秦が勝った?」
ハクの声が、広場に響いた。
私は、魚をくわえたまま顔を上げた。
広場には、黒角族から来た使者が立っていた。
ダンだ。
その隣には、キョウの姿もある。
(……おや)
魚を落としかけた。
危ない。
食べ物を粗末にしてはいけない。
私は急いで飲み込んだ。
「魏との戦だ」
ダンが言った。
「秦軍が勝ったと、南の町で騒ぎになっている」
「もう終わったのか?」
ハクが尋ねる。
「その戦については、そう聞いている。ただ、秦と魏の争いがすべて終わったわけではないだろう」
「誰が勝ったんだ?」
「秦の将軍、麃公という男だそうだ」
(……ひょうこう?)
私は首を傾げた。
聞いたことがあるような、ないような。
漢字を見せられたら、たぶん読めない。
前世で映画を観ていた頃の私は、戦の名前も将軍の名前も、ほとんど覚えようとしていなかった。
(……だって、登場人物が多すぎるんですよ)
言い訳である。
でも、本当に多かったのだ。
秦だけでも大勢いるのに、敵の国にも将軍がいる。
そのうえ、皆さん鎧を着ている。
顔の良い人は覚えられても、戦の経緯までは覚えられない。
……いや。
顔の良い人を優先して覚えていたことが、今になって響いているだけかもしれない。
◇◇◇
「勝ったなら、道も元に戻るのか?」
ハクが聞いた。
キョウは首を振った。
「すぐには戻らないだろう」
「どうして?」
「兵が動けば、食料も武器も動く。戦が終わったからといって、翌日から何もなかったことにはならん」
キョウは地面にしゃがみ、小石を三つ並べた。
「秦の軍が進んだ道には、荷を運ぶ者が集まる。傷ついた兵も帰る。奪われた荷を補おうとする商人も出る」
小石を一つ、横へ動かす。
「その間、別の道を使おうとする者もいる」
「……つまり、まだ山に来るかもしれないってことか」
「そういうことだ」
(……なるほど)
私は、少し感心した。
戦が終われば、全部元どおり。
そんな単純な話ではないらしい。
考えてみれば当然だ。
戦場で勝ったからといって、壊れた道やなくなった食料が勝手に戻ってくるわけではない。
(……後片付けの方が大変だったりするんでしょうね)
前世でも、イベントが終わったあとの撤収作業は大変だった。
……いや、戦争とイベントを一緒にするのは、さすがに失礼か。
◇◇◇
その日の午後、族長の家で話し合いが開かれた。
今回は、黒角族のガクから正式な知らせも届いていた。
南の町で、ソウの仲間と見られる商人が捕らえられたという。
「ようやく見つかったか」
ゴウが腕を組んだ。
「いや、見つかったのは一人だけだ」
キョウが答える。
「帳面を管理していた男らしい。金を出していた者は、まだ分からん」
「そいつは何と?」
「ソウへ人を集めるよう指示したことは認めた。だが、捕らえた人々を誰に売るつもりだったかは、知らないと言っている」
「本当か?」
「分からん」
キョウは、あっさりと答えた。
「ただ、帳面には支払いの記録が残っていた」
セイランが顔を上げる。
「道を作るための金か」
「ああ。それと、荷車を用意するための金だ」
キョウは、小さな木札を取り出した。
「黒角族の印を偽って使った者たちへの支払いも、同じ帳面にあった」
部屋の空気が変わった。
「……やはり、同じ連中だったか」
セイランが低く言う。
キョウは頷いた。
「山の道を自由に使うため、我ら二つの部族を争わせようとしたのだろう」
(……うわあ)
私は、思わず鼻を鳴らした。
そこまでやるのか。
黒角族の名を騙った男たち。
勝手に作られた道。
人を縛って運ぶ荷車。
全部が、一つにつながった。
もちろん、背後にいる者の正体までは分からない。
けれど、少なくとも今回の事件が、偶然重なったものではないことは確かだった。
◇◇◇
「ガク様は、どうするつもりだ」
族長が尋ねた。
「南の町へ、これ以上深入りするつもりはない」
キョウが答える。
「山の外の商人同士の争いまで、我らが引き受ける必要はないからな」
「……もっともだ」
「ただし、再び山へ入ろうとするなら話は別だ」
その声が、少し低くなった。
「黒角族の名を使ったことも、忘れてはいない」
ゴウが笑った。
「それでこそ山の民だ」
(……怖い怖い)
私は、心の中で呟いた。
でも、少し安心もした。
この人たちは、必要以上に外の世界へ関わろうとはしない。
ただ、自分たちの山を荒らされることだけは許さない。
白淵族も黒角族も、そこは同じなのだ。
◇◇◇
話し合いが終わったあと。
私は、川辺で身体を休めていた。
すると、キョウがやってきた。
「スイ」
(……はい!)
私は、勢いよく顔を上げた。
……上げすぎた。
キョウが少し驚いた顔をした。
(……失礼しました)
私は、ゆっくりと頭を下げ直した。
キョウは笑った。
「相変わらずだな」
(……何がでしょうか)
「お前を見ていると、退屈しない」
(……それは、褒め言葉ですか?)
私は、少しだけ首を傾げた。
キョウは私の鼻先を見つめた。
「……本当に、よく人の顔を見るな」
(……そりゃあ、見ますよ)
特に、あなたの顔は。
……とは、もちろん言えない。
私は、静かに瞬きをした。
キョウは、少し考えてから言った。
「白淵族の者たちは、お前をただの獣とは思っていないようだな」
(……え)
私は、思わず動きを止めた。
「言葉を理解しているように見える、と言う者もいる」
(……えええ)
ちょっと待って。
それは困る。
私は、慌てて視線を逸らした。
キョウが、声を上げて笑った。
「……冗談だ」
(……っ!)
この人!
性格が悪い!
いや、顔は良いけど!
キョウは、私の鼻先を軽く撫でた。
「安心しろ。賢い獣だということくらい、誰でも分かる」
(……本当に?)
私は、そっと目を細めた。
キョウは、何でもないように笑っている。
……うん。
この人、やっぱり少し怖い。
◇◇◇
夕方。
黒角族の使者たちは、集落を発った。
今度は、セイランとキョウが長く話し込むこともなかった。
事件について、必要なことはすでに決まっていたからだ。
白淵族と黒角族は、南の道をそれぞれ見張る。
勝手に作られた道は、使わせない。
そして、互いの名を騙る者が現れたときには、まず知らせ合う。
単純な取り決めだった。
でも、私は思う。
たぶん、こういうことが大切なのだ。
知らない相手を、いきなり信用する必要はない。
ただ、確かめることはできる。
話を聞くこともできる。
それでも敵だと分かったなら、そのときは戦えばいい。
(……まあ、私はできれば戦いたくないですけど)
魚を食べている方が、ずっと楽しい。
◇◇◇
それから、さらに数日が過ぎた。
南の道は静かだった。
見張りの戦士たちが、時折、山の外の様子を知らせてくる。
秦と魏の戦は、秦が勝ったらしい。
その話は、少しずつ山の民の間にも広まっていった。
けれど、白淵族の暮らしが大きく変わることはなかった。
朝になれば、レンが闘蛇たちの世話をする。
トウエンが若い者を叱る。
ハクが余計なことを言って、セイランに睨まれる。
私は川で魚を捕る。
いつもどおりの日々。
(……やっぱり、これが一番)
私は、満足して目を閉じた。
そんなある日。
南の見張りから戻った戦士が、族長に報告した。
「……趙の方でも、兵が動いているそうです」
「趙?」
族長が顔を上げる。
「秦との境に、兵が集まっていると」
私は、水面から顔を上げた。
(……今度は趙?)
秦と魏が戦ったと思ったら、次は趙。
本当に、忙しい時代である。
前世で映画を観ていた頃は、次から次へと戦が起きても、物語だからそんなものだと思っていた。
でも、今は違う。
その一つひとつが、誰かの暮らしを変えている。
(……大変だなあ)
私は、静かに息を吐いた。
山の外で、また新しい戦が始まろうとしているらしい。
その知らせが、いつか私たちの暮らしにも届くのか。
今の私には、まだ分からなかった。