秦の山奥で闘蛇やってます   作:欄外

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第五十一話 戦の知らせは山を越える

 

戦争というものは、遠くで起きているうちは、どこか他人事である。

 

前世の私もそうだった。

 

ニュースで遠い国の争いを見て、大変だなあと思う。

 

でも、翌日には仕事へ行き、帰りにスーパーで買い物をして、週末の予定を考えていた。

 

それが悪いことだとは思わない。

 

人間、自分の生活を送るだけでも結構忙しいのだ。

 

ただし。

 

今の私は、スーパーへ行けない。

 

仕事もない。

 

週末の予定もない。

 

あるのは川と魚と、山の中で暮らす一族だけ。

 

(……いや、十分幸せなんですけどね)

 

私は、水面から鼻先だけを出して考えた。

 

問題は、その幸せが、山の外の事情に左右されるらしいということだ。

 

◇◇◇

 

南の道を塞いでから、十日ほどが過ぎた。

 

ソウに捕らえられていた十七人は、黒角族の者たちが安全を確かめたうえで、数人ずつ故郷へ送り届けている。

 

ミナも、三日前に帰っていった。

 

別れ際、あの子は私に手を振ってくれた。

 

私は尻尾を振り返した。

 

今度は水を跳ねさせなかった。

 

(……成長しました)

 

ちなみにレンには、「たまたまだろ」と言われた。

 

失礼な。

 

一方、ソウの背後にいた商人たちについては、黒角族が南の町で調べを進めている。

 

荷車に刻まれていた印は、複数の商人が使う荷印の一つだったらしい。

 

ただ、その印を使っていた者たちは、ソウが捕らえられたと知るや、倉庫を引き払って姿を消したという。

 

逃げ足の速いことである。

 

(……悪いことをする人って、そういうところだけ優秀ですよね)

 

それでも、黒角族は諦めなかった。

 

残された帳面と、ソウが持っていた荷の記録を照らし合わせ、金の流れを調べているそうだ。

 

白淵族も、南の道の見張りを増やしていた。

 

事件そのものは、ようやく落ち着き始めている。

 

そんな頃だった。

 

山の外から、新しい知らせが届いたのは。

 

◇◇◇

 

「秦が勝った?」

 

ハクの声が、広場に響いた。

 

私は、魚をくわえたまま顔を上げた。

 

広場には、黒角族から来た使者が立っていた。

 

ダンだ。

 

その隣には、キョウの姿もある。

 

(……おや)

 

魚を落としかけた。

 

危ない。

 

食べ物を粗末にしてはいけない。

 

私は急いで飲み込んだ。

 

「魏との戦だ」

 

ダンが言った。

 

「秦軍が勝ったと、南の町で騒ぎになっている」

 

「もう終わったのか?」

 

ハクが尋ねる。

 

「その戦については、そう聞いている。ただ、秦と魏の争いがすべて終わったわけではないだろう」

 

「誰が勝ったんだ?」

 

「秦の将軍、麃公という男だそうだ」

 

(……ひょうこう?)

 

私は首を傾げた。

 

聞いたことがあるような、ないような。

 

漢字を見せられたら、たぶん読めない。

 

前世で映画を観ていた頃の私は、戦の名前も将軍の名前も、ほとんど覚えようとしていなかった。

 

(……だって、登場人物が多すぎるんですよ)

 

言い訳である。

 

でも、本当に多かったのだ。

 

秦だけでも大勢いるのに、敵の国にも将軍がいる。

 

そのうえ、皆さん鎧を着ている。

 

顔の良い人は覚えられても、戦の経緯までは覚えられない。

 

……いや。

 

顔の良い人を優先して覚えていたことが、今になって響いているだけかもしれない。

 

◇◇◇

 

「勝ったなら、道も元に戻るのか?」

 

ハクが聞いた。

 

キョウは首を振った。

 

「すぐには戻らないだろう」

 

「どうして?」

 

「兵が動けば、食料も武器も動く。戦が終わったからといって、翌日から何もなかったことにはならん」

 

キョウは地面にしゃがみ、小石を三つ並べた。

 

「秦の軍が進んだ道には、荷を運ぶ者が集まる。傷ついた兵も帰る。奪われた荷を補おうとする商人も出る」

 

小石を一つ、横へ動かす。

 

「その間、別の道を使おうとする者もいる」

 

「……つまり、まだ山に来るかもしれないってことか」

 

「そういうことだ」

 

(……なるほど)

 

私は、少し感心した。

 

戦が終われば、全部元どおり。

 

そんな単純な話ではないらしい。

 

考えてみれば当然だ。

 

戦場で勝ったからといって、壊れた道やなくなった食料が勝手に戻ってくるわけではない。

 

(……後片付けの方が大変だったりするんでしょうね)

 

前世でも、イベントが終わったあとの撤収作業は大変だった。

 

……いや、戦争とイベントを一緒にするのは、さすがに失礼か。

 

◇◇◇

 

その日の午後、族長の家で話し合いが開かれた。

 

今回は、黒角族のガクから正式な知らせも届いていた。

 

南の町で、ソウの仲間と見られる商人が捕らえられたという。

 

「ようやく見つかったか」

 

ゴウが腕を組んだ。

 

「いや、見つかったのは一人だけだ」

 

キョウが答える。

 

「帳面を管理していた男らしい。金を出していた者は、まだ分からん」

 

「そいつは何と?」

 

「ソウへ人を集めるよう指示したことは認めた。だが、捕らえた人々を誰に売るつもりだったかは、知らないと言っている」

 

「本当か?」

 

「分からん」

 

キョウは、あっさりと答えた。

 

「ただ、帳面には支払いの記録が残っていた」

 

セイランが顔を上げる。

 

「道を作るための金か」

 

「ああ。それと、荷車を用意するための金だ」

 

キョウは、小さな木札を取り出した。

 

「黒角族の印を偽って使った者たちへの支払いも、同じ帳面にあった」

 

部屋の空気が変わった。

 

「……やはり、同じ連中だったか」

 

セイランが低く言う。

 

キョウは頷いた。

 

「山の道を自由に使うため、我ら二つの部族を争わせようとしたのだろう」

 

(……うわあ)

 

私は、思わず鼻を鳴らした。

 

そこまでやるのか。

 

黒角族の名を騙った男たち。

 

勝手に作られた道。

 

人を縛って運ぶ荷車。

 

全部が、一つにつながった。

 

もちろん、背後にいる者の正体までは分からない。

 

けれど、少なくとも今回の事件が、偶然重なったものではないことは確かだった。

 

◇◇◇

 

「ガク様は、どうするつもりだ」

 

族長が尋ねた。

 

「南の町へ、これ以上深入りするつもりはない」

 

キョウが答える。

 

「山の外の商人同士の争いまで、我らが引き受ける必要はないからな」

 

「……もっともだ」

 

「ただし、再び山へ入ろうとするなら話は別だ」

 

その声が、少し低くなった。

 

「黒角族の名を使ったことも、忘れてはいない」

 

ゴウが笑った。

 

「それでこそ山の民だ」

 

(……怖い怖い)

 

私は、心の中で呟いた。

 

でも、少し安心もした。

 

この人たちは、必要以上に外の世界へ関わろうとはしない。

 

ただ、自分たちの山を荒らされることだけは許さない。

 

白淵族も黒角族も、そこは同じなのだ。

 

◇◇◇

 

話し合いが終わったあと。

 

私は、川辺で身体を休めていた。

 

すると、キョウがやってきた。

 

「スイ」

 

(……はい!)

 

私は、勢いよく顔を上げた。

 

……上げすぎた。

 

キョウが少し驚いた顔をした。

 

(……失礼しました)

 

私は、ゆっくりと頭を下げ直した。

 

キョウは笑った。

 

「相変わらずだな」

 

(……何がでしょうか)

 

「お前を見ていると、退屈しない」

 

(……それは、褒め言葉ですか?)

 

私は、少しだけ首を傾げた。

 

キョウは私の鼻先を見つめた。

 

「……本当に、よく人の顔を見るな」

 

(……そりゃあ、見ますよ)

 

特に、あなたの顔は。

 

……とは、もちろん言えない。

 

私は、静かに瞬きをした。

 

キョウは、少し考えてから言った。

 

「白淵族の者たちは、お前をただの獣とは思っていないようだな」

 

(……え)

 

私は、思わず動きを止めた。

 

「言葉を理解しているように見える、と言う者もいる」

 

(……えええ)

 

ちょっと待って。

 

それは困る。

 

私は、慌てて視線を逸らした。

 

キョウが、声を上げて笑った。

 

「……冗談だ」

 

(……っ!)

 

この人!

 

性格が悪い!

 

いや、顔は良いけど!

 

キョウは、私の鼻先を軽く撫でた。

 

「安心しろ。賢い獣だということくらい、誰でも分かる」

 

(……本当に?)

 

私は、そっと目を細めた。

 

キョウは、何でもないように笑っている。

 

……うん。

 

この人、やっぱり少し怖い。

 

◇◇◇

 

夕方。

 

黒角族の使者たちは、集落を発った。

 

今度は、セイランとキョウが長く話し込むこともなかった。

 

事件について、必要なことはすでに決まっていたからだ。

 

白淵族と黒角族は、南の道をそれぞれ見張る。

 

勝手に作られた道は、使わせない。

 

そして、互いの名を騙る者が現れたときには、まず知らせ合う。

 

単純な取り決めだった。

 

でも、私は思う。

 

たぶん、こういうことが大切なのだ。

 

知らない相手を、いきなり信用する必要はない。

 

ただ、確かめることはできる。

 

話を聞くこともできる。

 

それでも敵だと分かったなら、そのときは戦えばいい。

 

(……まあ、私はできれば戦いたくないですけど)

 

魚を食べている方が、ずっと楽しい。

 

◇◇◇

 

それから、さらに数日が過ぎた。

 

南の道は静かだった。

 

見張りの戦士たちが、時折、山の外の様子を知らせてくる。

 

秦と魏の戦は、秦が勝ったらしい。

 

その話は、少しずつ山の民の間にも広まっていった。

 

けれど、白淵族の暮らしが大きく変わることはなかった。

 

朝になれば、レンが闘蛇たちの世話をする。

 

トウエンが若い者を叱る。

 

ハクが余計なことを言って、セイランに睨まれる。

 

私は川で魚を捕る。

 

いつもどおりの日々。

 

(……やっぱり、これが一番)

 

私は、満足して目を閉じた。

 

そんなある日。

 

南の見張りから戻った戦士が、族長に報告した。

 

「……趙の方でも、兵が動いているそうです」

 

「趙?」

 

族長が顔を上げる。

 

「秦との境に、兵が集まっていると」

 

私は、水面から顔を上げた。

 

(……今度は趙?)

 

秦と魏が戦ったと思ったら、次は趙。

 

本当に、忙しい時代である。

 

前世で映画を観ていた頃は、次から次へと戦が起きても、物語だからそんなものだと思っていた。

 

でも、今は違う。

 

その一つひとつが、誰かの暮らしを変えている。

 

(……大変だなあ)

 

私は、静かに息を吐いた。

 

山の外で、また新しい戦が始まろうとしているらしい。

 

その知らせが、いつか私たちの暮らしにも届くのか。

 

今の私には、まだ分からなかった。

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