世の中には、知らない方が幸せなことがある。
たとえば、今日の夕飯に使われた魚が、実は昨日の残り物だったとか。
楽しみにしていた果物を、誰かが先に食べてしまったとか。
……いや、後者は知りたい。
犯人を突き止めたい。
(……食べ物の恨みは怖いんですよ)
私は、川底の石に顎を乗せながら、そんなことを考えていた。
もっとも、最近の白淵族で話題になるのは、食べ物のことばかりではない。
秦と魏の戦が終わった。
今度は、秦と趙の間で兵が動いているらしい。
山の外の話は、相変わらず断片的だった。
誰が戦うのか。
どこで戦うのか。
どれほどの兵が集まっているのか。
分かっていることは、ほとんどない。
(……まあ、山の中ですからね)
ここには新聞もなければ、テレビもない。
もちろん、インターネットもない。
情報が届くのは、人が山を越えてきたときだけだ。
それも、正確な話とは限らない。
私は、ゆっくりと目を閉じた。
(……知らないことばっかりだなあ)
◇◇◇
その日の朝。
レンが、珍しく慌てていた。
「スイ! ちょっと来て!」
(……何ですか)
私は、川から顔を上げた。
レンは、息を切らしながら手を振っている。
「若い闘蛇が、餌を食べないんだ!」
(……あら)
それは大変。
私は、ゆっくりと身体を起こした。
◇◇◇
闘蛇たちの飼育地には、若い個体が十頭ほどいる。
まだ身体が小さく、戦いにも乗用にも使われていない。
そのうちの一頭が、岩陰でじっとしていた。
名前は、ナギ。
まだ若い雌の闘蛇だ。
普段は落ち着きがなく、餌の時間になると真っ先に飛びついてくる。
それが今日は、魚を目の前に置かれても動かない。
(……おやおや)
私は、そっと近づいた。
ナギが、こちらを見た。
目に力がない。
「昨日までは普通だったんだけど……」
レンが心配そうに言う。
「今朝になって、急に」
私は、鼻先を近づけた。
ナギの身体から、少し変わった匂いがした。
(……ん?)
私は、もう一度匂いを確かめた。
湿った土。
古い水。
それから、少しだけ腐ったような匂い。
(……これ、何だろう)
◇◇◇
トウエンがやってきた。
「どうだ」
レンが首を振る。
「まだ食べません」
トウエンは、ナギの身体を調べ始めた。
口の中。
腹の辺り。
脚の動き。
「……怪我はないな」
「病気でしょうか」
「分からん」
トウエンは、少し考えた。
「昨日、何を食わせた」
「いつもの魚です」
「どこで捕った」
「……下流の浅瀬です」
私は、顔を上げた。
(……下流?)
そういえば。
昨日、下流の方で変な匂いがした気がする。
私は、ゆっくりと鼻を鳴らした。
トウエンがこちらを見る。
「……何だ、スイ」
私は、川の方へ鼻先を向けた。
「川か?」
私は、もう一度鼻を鳴らした。
トウエンは、しばらく私を見つめていた。
やがて、レンに言った。
「下流の水を見てこい」
◇◇◇
しばらくして。
レンが戻ってきた。
手には、小さな木桶を持っている。
「……変な匂いがします」
トウエンが水を嗅いだ。
眉をひそめる。
「……確かにな」
私は、そっと鼻先を近づけた。
(……これだ)
ナギからした匂いと同じだった。
「上流で何かあったのかもしれん」
トウエンが言った。
「しばらく、この水は使うな」
レンが頷いた。
「はい!」
◇◇◇
その日の午後。
セイランとハクが、川の上流を調べることになった。
もちろん、私も一緒である。
(……最近、調査ばっかりしてません?)
私は、少しだけ不満だった。
いや、別にいいのだ。
山を守るのは大切だし、私も役に立てるなら嬉しい。
ただ。
もう少し、のんびり魚を食べる時間が欲しい。
(……贅沢な悩みですかね)
◇◇◇
川を遡ると、やがて水の流れが細くなってきた。
岩の間を抜ける水。
湿った苔。
木々の根が、川岸を覆っている。
私は、鼻先を水へ近づけた。
(……やっぱり、変な匂い)
セイランが、私の様子に気づく。
「スイ、何か分かるか」
私は、低く唸った。
「……こっちか」
セイランが、川の上流を指した。
私は、ゆっくりと進んだ。
◇◇◇
しばらくして。
川岸に、倒れた木が見えた。
その根元には、土砂が溜まっている。
水が、そこを通るたびに濁っていた。
「……これか?」
ハクが、しゃがみ込む。
「昨日の雨で崩れたのかな」
セイランは、周囲を見渡した。
「いや、もっと前からだろう」
私は、鼻先を近づけた。
(……違う)
土の匂いだけではない。
もっと、嫌な匂いがする。
私は、倒木の向こうへ回り込んだ。
すると。
岩陰に、小さな獣の死骸があった。
水に浸かり、腐り始めている。
(……うわ)
私は、思わず顔を背けた。
「……なるほど」
セイランが、低く呟いた。
「これが原因かもしれん」
ハクが、鼻を押さえる。
「うわ、臭い!」
(……でしょうね)
私は、少し離れた場所へ移動した。
◇◇◇
二人は、死骸を川から引き上げ、土を掘って埋めた。
そのあと、倒木を動かし、水の流れを整える。
私は、大きな枝を運ぶ役目を任された。
(……また力仕事)
まあ、得意ですけど。
私は、枝をくわえて川岸へ運んだ。
何度か繰り返すうちに、水の流れが少しずつ澄んできた。
「……これで様子を見るか」
セイランが言った。
ハクが頷く。
「しばらく、下流の水は使わない方がいいね」
◇◇◇
集落へ戻ると、ナギはまだ岩陰にいた。
けれど、朝より少しだけ顔を上げている。
レンが、新しい水を用意していた。
「スイ、おかえり」
私は、ゆっくりと鼻先を近づけた。
ナギが、私を見た。
そして。
小さく、口を開けた。
(……お?)
レンが、魚を差し出す。
ナギは、少しだけ食べた。
「……食べた!」
レンが嬉しそうに声を上げた。
トウエンも、ほっとしたように息を吐いた。
「まだ安心するな。しばらく様子を見ろ」
「はい!」
私は、静かに瞬きをした。
(……よかった)
◇◇◇
その夜。
私は、川辺で身体を休めていた。
今日も、山の外の戦については新しい知らせがなかった。
秦と趙が戦うらしい。
それ以上のことは、分からない。
でも、白淵族の中では、今日もいろいろなことが起きていた。
若い闘蛇が餌を食べなくなった。
川の水が汚れた。
皆で原因を探し、何とか解決した。
(……こっちの方が、私には大事だな)
私は、ゆっくりと目を閉じた。
山の外の戦は、まだ遠い。
でも、ここで暮らす皆のことは、すぐそばにある。
だから、私は今日も、この山で生きている。
そう思いながら、眠りにつこうとした。
そのとき。
遠くで、足音が聞こえた。
誰かが、集落へ急いで戻ってくる。
「……族長!」
男の声が、夜の静けさを破った。
「南の道から、知らせです!」
私は、ゆっくりと目を開けた。
「秦と趙の軍が、ついにぶつかったそうです!」
(……あら)
どうやら、山の外の戦は。
思っていたよりも、早く動き始めているらしかった。