秦の山奥で闘蛇やってます   作:欄外

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第五十二話 山に届かぬ声

 

世の中には、知らない方が幸せなことがある。

 

たとえば、今日の夕飯に使われた魚が、実は昨日の残り物だったとか。

 

楽しみにしていた果物を、誰かが先に食べてしまったとか。

 

……いや、後者は知りたい。

 

犯人を突き止めたい。

 

(……食べ物の恨みは怖いんですよ)

 

私は、川底の石に顎を乗せながら、そんなことを考えていた。

 

もっとも、最近の白淵族で話題になるのは、食べ物のことばかりではない。

 

秦と魏の戦が終わった。

 

今度は、秦と趙の間で兵が動いているらしい。

 

山の外の話は、相変わらず断片的だった。

 

誰が戦うのか。

 

どこで戦うのか。

 

どれほどの兵が集まっているのか。

 

分かっていることは、ほとんどない。

 

(……まあ、山の中ですからね)

 

ここには新聞もなければ、テレビもない。

 

もちろん、インターネットもない。

 

情報が届くのは、人が山を越えてきたときだけだ。

 

それも、正確な話とは限らない。

 

私は、ゆっくりと目を閉じた。

 

(……知らないことばっかりだなあ)

 

◇◇◇

 

その日の朝。

 

レンが、珍しく慌てていた。

 

「スイ! ちょっと来て!」

 

(……何ですか)

 

私は、川から顔を上げた。

 

レンは、息を切らしながら手を振っている。

 

「若い闘蛇が、餌を食べないんだ!」

 

(……あら)

 

それは大変。

 

私は、ゆっくりと身体を起こした。

 

◇◇◇

 

闘蛇たちの飼育地には、若い個体が十頭ほどいる。

 

まだ身体が小さく、戦いにも乗用にも使われていない。

 

そのうちの一頭が、岩陰でじっとしていた。

 

名前は、ナギ。

 

まだ若い雌の闘蛇だ。

 

普段は落ち着きがなく、餌の時間になると真っ先に飛びついてくる。

 

それが今日は、魚を目の前に置かれても動かない。

 

(……おやおや)

 

私は、そっと近づいた。

 

ナギが、こちらを見た。

 

目に力がない。

 

「昨日までは普通だったんだけど……」

 

レンが心配そうに言う。

 

「今朝になって、急に」

 

私は、鼻先を近づけた。

 

ナギの身体から、少し変わった匂いがした。

 

(……ん?)

 

私は、もう一度匂いを確かめた。

 

湿った土。

 

古い水。

 

それから、少しだけ腐ったような匂い。

 

(……これ、何だろう)

 

◇◇◇

 

トウエンがやってきた。

 

「どうだ」

 

レンが首を振る。

 

「まだ食べません」

 

トウエンは、ナギの身体を調べ始めた。

 

口の中。

 

腹の辺り。

 

脚の動き。

 

「……怪我はないな」

 

「病気でしょうか」

 

「分からん」

 

トウエンは、少し考えた。

 

「昨日、何を食わせた」

 

「いつもの魚です」

 

「どこで捕った」

 

「……下流の浅瀬です」

 

私は、顔を上げた。

 

(……下流?)

 

そういえば。

 

昨日、下流の方で変な匂いがした気がする。

 

私は、ゆっくりと鼻を鳴らした。

 

トウエンがこちらを見る。

 

「……何だ、スイ」

 

私は、川の方へ鼻先を向けた。

 

「川か?」

 

私は、もう一度鼻を鳴らした。

 

トウエンは、しばらく私を見つめていた。

 

やがて、レンに言った。

 

「下流の水を見てこい」

 

◇◇◇

 

しばらくして。

 

レンが戻ってきた。

 

手には、小さな木桶を持っている。

 

「……変な匂いがします」

 

トウエンが水を嗅いだ。

 

眉をひそめる。

 

「……確かにな」

 

私は、そっと鼻先を近づけた。

 

(……これだ)

 

ナギからした匂いと同じだった。

 

「上流で何かあったのかもしれん」

 

トウエンが言った。

 

「しばらく、この水は使うな」

 

レンが頷いた。

 

「はい!」

 

◇◇◇

 

その日の午後。

 

セイランとハクが、川の上流を調べることになった。

 

もちろん、私も一緒である。

 

(……最近、調査ばっかりしてません?)

 

私は、少しだけ不満だった。

 

いや、別にいいのだ。

 

山を守るのは大切だし、私も役に立てるなら嬉しい。

 

ただ。

 

もう少し、のんびり魚を食べる時間が欲しい。

 

(……贅沢な悩みですかね)

 

◇◇◇

 

川を遡ると、やがて水の流れが細くなってきた。

 

岩の間を抜ける水。

 

湿った苔。

 

木々の根が、川岸を覆っている。

 

私は、鼻先を水へ近づけた。

 

(……やっぱり、変な匂い)

 

セイランが、私の様子に気づく。

 

「スイ、何か分かるか」

 

私は、低く唸った。

 

「……こっちか」

 

セイランが、川の上流を指した。

 

私は、ゆっくりと進んだ。

 

◇◇◇

 

しばらくして。

 

川岸に、倒れた木が見えた。

 

その根元には、土砂が溜まっている。

 

水が、そこを通るたびに濁っていた。

 

「……これか?」

 

ハクが、しゃがみ込む。

 

「昨日の雨で崩れたのかな」

 

セイランは、周囲を見渡した。

 

「いや、もっと前からだろう」

 

私は、鼻先を近づけた。

 

(……違う)

 

土の匂いだけではない。

 

もっと、嫌な匂いがする。

 

私は、倒木の向こうへ回り込んだ。

 

すると。

 

岩陰に、小さな獣の死骸があった。

 

水に浸かり、腐り始めている。

 

(……うわ)

 

私は、思わず顔を背けた。

 

「……なるほど」

 

セイランが、低く呟いた。

 

「これが原因かもしれん」

 

ハクが、鼻を押さえる。

 

「うわ、臭い!」

 

(……でしょうね)

 

私は、少し離れた場所へ移動した。

 

◇◇◇

 

二人は、死骸を川から引き上げ、土を掘って埋めた。

 

そのあと、倒木を動かし、水の流れを整える。

 

私は、大きな枝を運ぶ役目を任された。

 

(……また力仕事)

 

まあ、得意ですけど。

 

私は、枝をくわえて川岸へ運んだ。

 

何度か繰り返すうちに、水の流れが少しずつ澄んできた。

 

「……これで様子を見るか」

 

セイランが言った。

 

ハクが頷く。

 

「しばらく、下流の水は使わない方がいいね」

 

◇◇◇

 

集落へ戻ると、ナギはまだ岩陰にいた。

 

けれど、朝より少しだけ顔を上げている。

 

レンが、新しい水を用意していた。

 

「スイ、おかえり」

 

私は、ゆっくりと鼻先を近づけた。

 

ナギが、私を見た。

 

そして。

 

小さく、口を開けた。

 

(……お?)

 

レンが、魚を差し出す。

 

ナギは、少しだけ食べた。

 

「……食べた!」

 

レンが嬉しそうに声を上げた。

 

トウエンも、ほっとしたように息を吐いた。

 

「まだ安心するな。しばらく様子を見ろ」

 

「はい!」

 

私は、静かに瞬きをした。

 

(……よかった)

 

◇◇◇

 

その夜。

 

私は、川辺で身体を休めていた。

 

今日も、山の外の戦については新しい知らせがなかった。

 

秦と趙が戦うらしい。

 

それ以上のことは、分からない。

 

でも、白淵族の中では、今日もいろいろなことが起きていた。

 

若い闘蛇が餌を食べなくなった。

 

川の水が汚れた。

 

皆で原因を探し、何とか解決した。

 

(……こっちの方が、私には大事だな)

 

私は、ゆっくりと目を閉じた。

 

山の外の戦は、まだ遠い。

 

でも、ここで暮らす皆のことは、すぐそばにある。

 

だから、私は今日も、この山で生きている。

 

そう思いながら、眠りにつこうとした。

 

そのとき。

 

遠くで、足音が聞こえた。

 

誰かが、集落へ急いで戻ってくる。

 

「……族長!」

 

男の声が、夜の静けさを破った。

 

「南の道から、知らせです!」

 

私は、ゆっくりと目を開けた。

 

「秦と趙の軍が、ついにぶつかったそうです!」

 

(……あら)

 

どうやら、山の外の戦は。

 

思っていたよりも、早く動き始めているらしかった。

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