「秦と趙の軍が、ぶつかったそうです!」
夜の集落に響いた声を聞いて、私は顔を上げた。
(……あら、始まったんだ)
秦と趙。
ついこの間まで、秦は魏と戦っていたはずだ。
今度は趙らしい。
(……忙しい時代ですねえ)
前世で映画を観ていた頃は、次から次へと戦が起きても、物語だからそんなものだと思っていた。
でも、今は違う。
山の向こうでは、本当に人が戦っている。
そう考えると、少し不思議な気持ちになる。
もっとも。
「……それで?」
族長の声がした。
(……あ)
私は、思わず瞬きをした。
「はっ?」
知らせを持ってきた若い戦士も、少し驚いたようだった。
「秦と趙が、戦を始めたそうです」
「それは聞いた」
族長は、落ち着いた声で続けた。
「南の道に、何か変わりはあるか」
「……いえ。今のところは」
「ならば、見張りを続けろ」
「……はい!」
話は、それで終わった。
(……終わり?)
私は、少し拍子抜けした。
いや、確かにそうだ。
秦と趙が戦ったところで、白淵族が何かするわけではない。
ここは秦の領地ではないし、趙の領地でもない。
山の中で、闘蛇とともに暮らす一族なのだ。
(……そりゃ、そうですよね)
私は、静かに鼻を鳴らした。
◇◇◇
翌朝。
集落は、いつもどおりだった。
レンは闘蛇たちの餌を用意し、トウエンは若い世話役を叱っている。
ハクは、朝から何かを食べながら歩いていた。
「……ハク」
セイランが声をかける。
「何?」
「それは、どこから持ってきた」
「え?」
ハクが手元を見る。
そこには、干した魚があった。
「……あ」
「闘蛇の餌だろう」
「一つくらい、いいじゃん」
「よくない」
(……おや)
私は、思わず顔を上げた。
ちょっと待って。
それ、私たちのご飯ですか?
ハクは、私の視線に気づいた。
「……スイ、そんな顔するなよ」
(……どんな顔ですか)
私は、じっと見つめた。
ハクは、少し気まずそうに笑った。
「……あとで返すから」
(……食べたものをどうやって?)
セイランが、呆れたように息を吐いた。
「レンに謝ってこい」
「はいはい」
(……二回言いましたね)
私は、静かに鼻を鳴らした。
◇◇◇
昼前。
私は、川辺で身体を休めていた。
昨日、餌を食べなくなっていたナギは、少しずつ元気を取り戻している。
今朝は、レンが差し出した魚を自分から食べたそうだ。
(……よかった)
私は、ゆっくりと目を閉じた。
そんなとき。
「スイ!」
レンの声がした。
(……はいはい)
私は、顔を上げた。
レンは、何やら困った顔をしている。
「ちょっと、こっち来てくれないか」
(……また何か?)
私は、身体を起こした。
◇◇◇
連れていかれたのは、闘蛇たちの飼育地だった。
そこには、若い闘蛇が二頭いた。
一頭は、先日体調を崩したナギ。
もう一頭は、同じくらいの大きさの雄だった。
二頭は、互いに距離を取りながら、じっと睨み合っている。
(……あら)
何やら、不穏な空気。
「昨日から、ずっとこうなんだ」
レンが言った。
「餌の場所を取り合ってるみたいで」
(……なるほど)
私は、少しだけ首を傾げた。
若い闘蛇同士の喧嘩。
人間でいうところの、思春期の揉め事だろうか。
……いや、違うかもしれない。
私は、ゆっくりと近づいた。
二頭が、こちらを見る。
私は、低く喉を鳴らした。
ぐるる。
ナギが、少しだけ首を下げる。
もう一頭も、ゆっくりと後ずさった。
(……よしよし)
私は、二頭の間に身体を入れた。
すると。
ナギが、私の尻尾を軽く噛んだ。
(……痛っ!)
私は、思わず振り返った。
ナギは、何事もなかったような顔をしている。
(……ちょっと!)
私は、低く唸った。
ナギが、慌てて離れた。
レンが、声を上げて笑う。
「スイ、怒った!」
(……そりゃ怒りますよ!)
私は、鼻を鳴らした。
◇◇◇
結局、二頭の餌場を少し離すことで、喧嘩は落ち着いた。
レンは、ほっとしたように息を吐いた。
「助かったよ、スイ」
(……どういたしまして)
私は、少しだけ胸を張った。
もっとも、尻尾はまだ少し痛い。
(……最近の若い子は、元気ですねえ)
自分も十分若い気がするけれど。
◇◇◇
その日の午後。
南の道から、黒角族の使いが来た。
ただし、今度は戦の知らせではなかった。
「南の境に、見慣れない者がいた」
族長の家で、使いの男が報告する。
「何人だ」
セイランが尋ねた。
「四人。武器を持っていたが、こちらへ入ろうとはしなかった」
「何をしていた」
「山道を見ていた」
ゴウが、低く唸った。
「……またか」
(……またですか)
私は、思わず顔を上げた。
南の道の事件は、ようやく落ち着いたと思っていたのに。
「ソウの仲間か?」
セイランが尋ねる。
「分からん。ただ、以前の者たちとは違う」
「どう違う」
「服も、持ち物も、平地の商人には見えなかった」
族長が、少しだけ眉をひそめた。
「……戦から逃れてきた者かもしれんな」
「その可能性はある」
使いの男が頷く。
「だが、まだ何も分からん」
族長は、しばらく考えた。
「見張りを増やす必要はない。今いる者たちに、注意だけ伝えろ」
「……よろしいのですか」
「山へ入ってきたわけではない」
族長は、静かに答えた。
「外にいる者まで、いちいち追いかけていてはきりがない」
(……なるほど)
私は、少し感心した。
白淵族は、決して平地の人間に友好的な一族ではない。
けれど、だからといって、見つけた相手に片っ端から喧嘩を売るわけでもない。
自分たちの山へ入ってこない限り、必要以上には関わらない。
それが、この一族のやり方なのだ。
◇◇◇
夕方。
私は、川辺でガンと並んで休んでいた。
少し離れたところでは、セイランとゴウが話している。
「……平地の戦か」
ゴウが、鼻を鳴らした。
「勝手にやっていればいい」
「そうだな」
セイランが頷く。
「だが、山へ逃げ込んでくる者がいれば、話は別だ」
「そのときは追い返すだけだ」
「……ああ」
二人の会話は、それだけだった。
(……実に分かりやすい)
私は、少し笑いたくなった。
秦が勝とうが、趙が勝とうが。
白淵族にとっては、どうでもいいことなのだ。
ただ、自分たちの山を荒らされることだけは許さない。
◇◇◇
その夜。
私は、川の中で身体を休めていた。
冷たい水が、鱗の間を流れていく。
空には、星が出ていた。
山の外では、秦と趙が戦っているらしい。
けれど、この山では、今日もいつもどおりの一日が終わった。
レンが笑い、ハクが怒られ、ナギが私の尻尾を噛んだ。
(……最後のは、余計でしたけど)
私は、静かに目を閉じた。
戦のことは、よく分からない。
誰が勝つのかも、知らない。
でも、ここで暮らす皆のことなら、少しずつ分かるようになってきた。
それで、今は十分だと思う。
私は、ゆっくりと水へ潜った。
山の外の戦は、まだ遠い。
少なくとも、今夜は。