知らない人が家の前をうろうろしていたら、どうするだろう。
前世の私なら、まず窓から様子を見たと思う。
それでも帰らなければ、鍵を確かめる。
怖そうな相手だったら、外には出ない。
至って普通の対応である。
では、白淵族の場合はどうか。
「まだいるなら、捕まえればいいだろう」
ゴウが言った。
(……うん。そうなるよね)
私は、川辺で魚を食べながら納得した。
こちらの人たちは、窓から様子を見るより先に槍を持つ。
ただし、今回は族長から「手を出すな」と言われている。
相手はまだ、山へ入っていないからだ。
「境の外にいるだけなら、好きにさせておけ」
族長の判断は変わらなかった。
ゴウは不満そうだったけれど、命令には従った。
(……意外と規律正しいんですよね)
白淵族の戦士たちは、気性こそ荒いが、勝手に動く者は少ない。
山での争いは、一人の軽率な行動が一族全体を危険にさらす。
それを、皆よく知っているのだろう。
◇◇◇
翌朝。
私は、セイランとハクに連れられて南の境へ向かった。
今回は見回りのついでだという。
同行する戦士は六人。
闘蛇は私と、ハクの乗る一頭だけだった。
「四人がまだいるか、確かめるだけだ」
セイランが言う。
「近づいてきても、こちらから仕掛けるな」
「分かってるって」
ハクが答えた。
ゴウがいないせいか、今日は少し穏やかな雰囲気である。
(……平和に終わるといいですねえ)
私は、ゆっくりと山道を進んだ。
◇◇◇
南の境は、白淵族と黒角族が見張りを置く山道のさらに外側にある。
大きな岩が二つ並び、その間を細い道が抜けている。
岩には古い傷が刻まれていた。
山の民にとっては、それが境を示す印なのだという。
平地の人間が見ても、ただの傷にしか見えないだろう。
(……知らないと分からない仕組み)
私は、少し感心した。
山の民は、何でも看板に書いて知らせたりしない。
そもそも、よそ者に親切に教える必要がないのだ。
◇◇◇
「……いた」
先を歩いていた戦士が、小さく言った。
岩の向こう。
少し開けた場所に、四人の男がいた。
一人は座り込み、二人は周囲を見張っている。
もう一人は、木の枝を使って地面に何かを描いていた。
(……何してるんだろう)
私は、岩陰からそっと覗いた。
男たちは、商人には見えなかった。
荷物が少なく、衣服は汚れている。
腰には剣を下げていた。
ただ、立派な鎧を着ているわけでもない。
(……兵士、なのかな)
前世の映画で見た兵士たちは、もっと揃った格好をしていた気がする。
もちろん、実際の兵士が全員同じ装備を持っているとは限らない。
私には、判断がつかなかった。
◇◇◇
「……何者だ」
セイランが声をかけた。
四人が、一斉に振り向いた。
そのうち一人が、剣に手をかける。
「動くな」
セイランの声が低くなった。
ハクが、闘蛇の首筋を軽く叩く。
私は、ゆっくりと岩陰から姿を現した。
四人の顔色が変わった。
「……なっ!」
「ば、化け物……!」
(……失礼な)
私は、少しだけ鼻を鳴らした。
ただし、威嚇はしない。
今のところ、相手は何もしていないのだ。
◇◇◇
「ここから先は、我らの山だ」
セイランが言った。
「何をしている」
四人のうち、年長らしい男が一歩前へ出た。
「……道を探している」
「何のために」
「北へ抜けたい」
「なぜだ」
男は、少し迷ったようだった。
やがて、低い声で言った。
「……戦から離れたい」
(……あ)
私は、思わず瞬きをした。
やっぱり。
「どこの者だ」
「趙の南にいた」
「兵か」
男は、答えなかった。
その沈黙が、答えのようなものだった。
◇◇◇
「戦を捨てて逃げてきたのか?」
ハクが尋ねる。
男の一人が、顔を歪めた。
「……俺たちは、もう戦いたくない」
その声には、疲れが滲んでいた。
「何日も歩いた。食い物もない。追っ手が来るかもしれない」
セイランは、黙って聞いていた。
「山を越えれば、逃げられると思った」
「この山を?」
「ああ」
セイランの目が、少し細くなった。
「誰に聞いた」
男は、首を振った。
「……南の町で、山を抜ける道があると聞いた」
(……また、その話か)
私は、心の中でため息をついた。
ソウたちが勝手に作った道。
あの道の噂が、まだ残っているのだろう。
◇◇◇
「その道は、もうない」
セイランが言った。
「ここから先へは入れん」
男たちが、顔を見合わせた。
「……頼む」
年長の男が言った。
「通してくれ。俺たちは、ただ逃げたいだけなんだ」
「駄目だ」
セイランは、即答した。
(……早い)
少しも迷わなかった。
「ここは、お前たちの逃げ道ではない」
男が、唇を噛む。
「……見捨てるのか」
セイランの表情は変わらなかった。
「山へ入れれば、我らの一族が危険にさらされる」
「俺たちは何もしない!」
「それを、どう確かめる」
男は、答えられなかった。
◇◇◇
私は、四人を見つめた。
疲れ切った顔。
汚れた服。
痩せた身体。
確かに、かわいそうだと思う。
でも。
もし、この人たちを通してしまったら。
次は十人。
その次は百人。
戦から逃げる人たちが、山へ押し寄せてくるかもしれない。
(……それは、困る)
白淵族は、大きな国ではない。
山の中で、自分たちの暮らしを守っているだけの一族だ。
誰も彼も助けられるわけではない。
◇◇◇
「……南へ戻れ」
セイランが言った。
「ここから西へ行けば、別の道がある。山へ入らずに抜けられる」
男が、顔を上げた。
「……本当か」
「ああ。ただし、遠回りだ」
「……それでもいい」
セイランは、少し考えたあと、ハクに目を向けた。
「水を渡せ」
ハクが、腰の水袋を一つ外した。
「ほら」
男は、驚いたように受け取った。
「……いいのか」
「ここで倒れられても困るからな」
ハクが、肩をすくめた。
(……なるほど)
親切なのか、冷たいのか。
よく分からない。
でも、白淵族らしい対応だと思った。
◇◇◇
四人は、何度も頭を下げて去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、ハクが呟く。
「……戦って、嫌だな」
セイランが頷く。
「ああ」
「逃げたくなる気持ちは、分からなくもない」
「だが、通せん」
「……分かってるよ」
ハクは、少しだけ息を吐いた。
◇◇◇
帰り道。
私は、セイランを背に乗せながら考えていた。
(……難しいですねえ)
助けたいと思うこと。
実際に助けられること。
その二つは、必ずしも同じではない。
白淵族の人たちは、決して冷たいわけではない。
ただ、自分たちが守れる範囲を知っているのだ。
(……それって、大事なことかもしれない)
私は、ゆっくりと歩いた。
◇◇◇
集落へ戻ると、レンが迎えてくれた。
「おかえり!」
私は、首を下げた。
「何かあった?」
ハクが答える。
「戦から逃げてきた連中がいた」
レンが、少し驚いた顔をした。
「……山へ入ったの?」
「いや。帰した」
「そっか」
レンは、それ以上何も聞かなかった。
◇◇◇
その夜。
私は、川辺で身体を休めていた。
遠くでは、若い闘蛇たちが水を跳ねさせて遊んでいる。
ナギも、すっかり元気になったようだ。
(……よかった)
私は、少しだけ目を細めた。
山の外では、秦と趙が戦っている。
その戦から逃げてきた人たちが、今日、山の境まで来た。
けれど、白淵族は通さなかった。
それが正しいことなのか、私には分からない。
ただ、一つだけ分かる。
ここにいる皆を守るためには、何でも受け入れるわけにはいかないのだ。
(……大変だなあ、山の民も)
私は、静かに息を吐いた。
前世で映画を観ていた頃、山の民は格好いいと思っていた。
強くて、自由で、誰にも従わない。
でも、実際にその中で暮らしてみると、自由でいるためにも、守らなければならないものがたくさんある。
私は、ゆっくりと目を閉じた。
明日も、いつもどおりの朝が来るといい。
そう願いながら、眠りについた。