世の中には、知らない方が幸せなことがある。
例えば、楽しみにしていたお菓子のカロリー。
例えば、推しの意外な私生活。
そして、例えば。
自分が他人からどう見えているのか、ということ。
前世の私は、そこそこ人目を気にする人間だった。
服装がおかしくないか。変なことを言っていないか。場の空気を壊していないか。
そんなことを、多少なりとも考えて生きていた。
だが、今は違う。
何しろ私は闘蛇である。
服を着る必要もなければ、化粧をする必要もない。髪型が決まらない朝に悩むことだってない。
実に気楽な生活だ。
……ただし。
自分がどう見えているのかを、まったく気にしなくていいかというと。
どうやら、そうでもないらしい。
◇◇◇
「スイー! ちょっと来て!」
朝。
レンの声に呼ばれて、私は水辺から顔を上げた。
ちょうど朝食を終えたところである。
本日の献立は魚。
昨日も魚。
一昨日も魚。
……。
うむ。
実に安定した食生活である。
たまには違うものも食べたい気がするが、魚は美味しいので問題ない。
私は水から上がり、レンのもとへ向かった。
すると、彼は何やら困った顔をしていた。
「スイ、あの子たちを何とかしてくれない?」
……。
(……あの子たち?)
レンが指差した先を見る。
そこには、三頭の闘蛇がいた。
いずれも若い個体で、まだ身体は小さい。
そして、その三頭が。
一つの桶を囲んでいた。
……。
…………。
(……ん?)
何してるの?
近づいてみる。
桶の中には、魚が入っていた。
……。
…………。
(……ああ)
なるほど。
ご飯ですね。
しかし、三頭は魚を食べようとしない。
ただ、桶を囲んでじっと座っている。
……。
(……何これ)
レンがため息をついた。
「朝からずっとこうなんだよ。餌を置いても食べないし、動かそうとしても動かないし」
……。
…………。
(……ほう)
「スイが来るのを待ってるみたいでさ」
……。
…………。
(……え?)
私?
私は首を傾げた。
すると、三頭の闘蛇が一斉にこちらを向いた。
「グルル」
「ギャウ」
「グルッ」
……。
…………。
(……あら)
何だか、嬉しそうである。
私は試しに、桶へ近づいた。
三頭が道を空ける。
……。
…………。
(……ええと)
これは、あれだろうか。
私が先に食べないと、食事を始めないということ?
……。
(……いやいや)
そんな礼儀正しいこと、誰が教えたの?
私は少し考えた。
そういえば、最近。
群れで餌をもらう時、私が先に食べ始めることが多かった気がする。
……。
…………。
(……あ)
もしかして。
真似してる?
私は桶の魚を一匹くわえた。
すると。
ばくっ。
がつっ。
ばしゃっ。
三頭が一斉に食べ始めた。
……。
…………。
(……ああ、やっぱり)
レンが目を丸くした。
「……本当にスイを待ってたんだ」
……。
(……みたいだね)
私は魚を飲み込みながら頷いた。
レンはしばらく呆然としていたが、やがて笑い出した。
「もう、スイ族は大変だなぁ」
……。
…………。
(……スイ族)
そう。
スイ族である。
先日、レンが何気なく口にしたこの名前。
私は大変気に入っている。
響きが良い。
覚えやすい。
何より、私が族長である。
……。
(……ふふん)
私は少し誇らしくなった。
すると、三頭の闘蛇も胸を張った。
……。
…………。
(……君たち)
本当に何でも真似するね。
◇◇◇
その日の昼前。
集落が少し騒がしくなった。
普段は静かな山の村なのだが、今日は人々が何やら忙しそうに動き回っている。
荷物を運ぶ者。
広場を片づける者。
見張りの交代を確認する者。
……。
(……おや?)
何かあるのだろうか。
私は水辺から顔を出し、様子をうかがった。
すると、レンがやってきた。
「スイ、今日は大人しくしててね」
……。
…………。
(……ん?)
「山の外から、お客さんが来るんだ」
……。
…………。
(……お客さん?)
私は思わず首を上げた。
外から?
白淵族の外から?
……。
(……へえ)
それは、なかなか珍しい。
私が知る限り、この集落に外部の人間が来ることはほとんどない。
そもそも、ここは山奥である。
険しい山道。
深い森。
霧の立ち込める湿地。
普通の人間が、気軽に遊びに来られる場所ではない。
……。
(……どんな人だろう)
私は少しわくわくした。
前世でも、知らない土地へ行くのは好きだった。
旅行先で見たことのない建物を見たり、食べたことのない料理を食べたり。
そういう体験は、なかなか楽しい。
……まあ。
今は旅行どころか、山を下りたことすらないのだけれど。
「スイ?」
レンが私の顔をのぞき込んだ。
「聞いてる?」
……。
…………。
(……はい)
「今日は水辺から出ちゃ駄目だよ」
……。
…………。
(……え?)
何で?
「お客さんがびっくりしちゃうから」
……。
…………。
(……あ)
なるほど。
確かに。
全長九メートルの巨大な爬虫類が突然現れたら、普通は驚く。
……。
(……でも)
(……ちょっと見たいなぁ)
私は未練がましく集落の方を見た。
レンは苦笑いした。
「後で話してあげるから」
……。
…………。
(……むう)
仕方ない。
ここは大人しくしておこう。
私は素直に水へ戻った。
……。
…………。
ただし。
見えないとは言っていない。
◇◇◇
しばらくして。
集落の入口から、数人の男たちが入ってきた。
私は水辺の草むらに身を潜め、そっと様子をうかがった。
……。
(……おお)
外の人だ。
服装が違う。
白淵族の人々は、動きやすい布の衣服を身につけていることが多い。
だが、訪問者たちはもう少し厚手の衣をまとい、腰には革の袋や小さな道具を下げていた。
荷物を背負った者もいる。
どうやら、商人の一行らしい。
……。
(……なるほど)
私は興味深く観察した。
顔立ちも、少し違う。
白淵族の人々は、どこか涼しげで整った顔立ちをしている。
対して、訪問者たちは日に焼け、髭を生やした者も多い。
……。
…………。
(……ふむ)
悪くない。
悪くないのだけれど。
……。
(……やっぱり、うちの一族の方が顔が良いな)
私は満足げに頷いた。
すると、隣にいた闘蛇も頷いた。
……。
…………。
(……君は何に納得したの?)
まあ、いいか。
◇◇◇
商人たちは、族長に挨拶をしていた。
「久しぶりでございます」
先頭の男が頭を下げる。
「山道は変わらず険しいな」
族長が穏やかに答えた。
「ええ。何度通っても慣れません」
商人は苦笑した。
「ですが、こちらの薬草と皮は質が良い。苦労してでも来る価値があります」
……。
(……へえ)
なるほど。
交易というやつですね。
私は少し感心した。
白淵族は山奥で暮らしているが、完全に外界と断絶しているわけではないらしい。
外から必要な物を手に入れ、こちらの産物と交換する。
……。
(……そうだよね)
塩とか。
金属とか。
山の中だけでは手に入りにくいものもあるだろう。
商人たちは荷物を下ろし、中身を広げ始めた。
布。
金属の道具。
小さな器。
そして、何やら文字の書かれた木片。
……。
…………。
(……おお)
私は思わず身を乗り出した。
文字!
文字がある!
これは大きい。
何しろ、今まで私はこの世界の文字をほとんど見たことがなかった。
人間の言葉は不思議と理解できる。
だが、文字となると話は別である。
……。
(……読めるかな)
私は目を凝らした。
しかし、距離が遠い。
しかも、文字が小さい。
……。
…………。
(……見えん)
くっ。
こんなところで、闘蛇の身体が不便になるとは。
私は少しだけ前へ進んだ。
草が揺れる。
……。
…………。
(……あ)
まずい。
私は慌てて身体を低くした。
その時だった。
「……何だ?」
商人の一人が、こちらを見た。
……。
…………。
(……あ)
目が合った。
……。
…………。
(……こんにちは)
私は小さく首を傾げた。
すると。
「うわああああああっ!!」
……。
…………。
(……ええ!?)
男が叫んだ。
周囲の人々が一斉に振り返る。
「な、何だあれは!」
「獣だ!」
「で、でかい!」
……。
…………。
(……あ)
しまった。
見つかった。
◇◇◇
商人たちは、完全に腰を抜かしていた。
いや。
正確には、一人は本当に尻餅をついていた。
……。
(……ごめんなさい)
そんなに驚かせるつもりはなかったのだ。
私はそっと後ずさった。
すると。
「ひっ!」
……。
…………。
(……ええ)
後ろに下がっただけなのに。
そんなに怖い?
……。
…………。
(……まあ)
(……怖いか)
自分の身体を見下ろす。
大きな爪。
硬い鱗。
長い尻尾。
そして、鋭い牙。
……。
…………。
(……うん)
怖いね。
これは怖い。
私だって、前世でこんなのに遭遇したら逃げる。
間違いなく逃げる。
「落ち着け」
族長が静かに言った。
「白淵族の闘蛇だ。こちらから害を加えなければ、襲うことはない」
……。
…………。
(……そうそう)
私は頷いた。
すると。
「う、動いた!」
……。
…………。
(……いや)
動くでしょうよ。
生き物なんだから。
「スイ!」
レンが慌てて駆け寄ってきた。
……。
…………。
(……あ)
怒られる。
「もう! 大人しくしててって言ったでしょ!」
……。
…………。
(……はい)
私は素直に頭を下げた。
すると、商人たちがさらに驚いた。
「……頭を下げた?」
「今のは……」
「人の言葉が分かるのか?」
……。
…………。
(……あ)
まずい。
またやってしまった。
レンは苦笑いしながら、私の頭を撫でた。
「この子は特別なんです。ちょっと賢すぎるくらいで」
……。
…………。
(……ちょっと?)
いやいや。
もっと褒めてもいいのよ?
私は胸を張った。
すると、後ろから。
ざっ。
ざざっ。
……。
…………。
(……ん?)
振り返る。
そこには、何頭もの闘蛇がいた。
……。
…………。
(……あ)
来ちゃった。
私が移動したから、ついてきたらしい。
商人たちの顔色が変わった。
「……増えた」
「……何頭いるんだ」
「……まさか、群れで?」
……。
…………。
(……あちゃー)
これは、まずい。
私は慌てて仲間たちの方を向いた。
そして、低く喉を鳴らした。
「グルル……」
……。
…………。
(……待ってなさい)
すると、闘蛇たちはぴたりと止まった。
……。
…………。
(……よし)
私は満足げに頷いた。
商人たちは、今度こそ言葉を失っていた。
◇◇◇
「……信じられん」
商人の一人が呟いた。
「これほど大きな獣が、人の言葉に従うとは」
……。
…………。
(……まあね)
私は少し得意げになった。
「しかも、群れを動かしている……」
……。
(……ふふん)
「白淵族には、こんなものがいるのか」
……。
…………。
(……もの)
……。
…………。
(……まあ)
間違ってはいない。
でも、ちょっと複雑。
族長は穏やかに笑った。
「山の外では珍しいだろう」
「珍しいどころではありません!」
商人は興奮した様子で言った。
「こんな獣、見たことも聞いたこともない!」
……。
…………。
(……え?)
私は首を傾げた。
聞いたこともない?
闘蛇って、そんなに珍しいの?
……。
(……いや)
(……そういえば)
私は今まで、白淵族の外へ出たことがない。
だから、当然のように闘蛇がいるものだと思っていた。
だが。
もしかして。
この世界では、闘蛇という生き物自体が、ほとんど知られていないのだろうか。
……。
…………。
(……へえ)
それは、少し意外だった。
私は自分の身体を見下ろした。
大きな爪。
長い尻尾。
硬い鱗。
……。
(……なるほど)
つまり、私は。
かなり珍しい生き物らしい。
……。
…………。
(……ふふん)
何だか、ちょっと誇らしい。
すると、レンが私の頭を軽く叩いた。
「スイ、得意げにならないの」
……。
…………。
(……ばれた)
◇◇◇
その日の夕方。
商人たちは、族長と長い話をしていた。
交易のこと。
山道のこと。
そして、山の外のこと。
私は水辺へ戻りながら、その一部を聞いていた。
「……秦の商人が増えております」
……。
…………。
(……ん?)
秦?
私は足を止めた。
「東の道は以前より賑やかになりましたが、兵の動きも多くなりましてな」
……。
…………。
(……秦)
聞き覚えがある。
もちろん、ある。
前世で何度も耳にした名前だ。
中国の歴史。
春秋戦国時代。
そして、後に中華を統一する国。
……。
…………。
(……え)
私はゆっくりと首を上げた。
まさか。
ここ。
本当に、古代中国なの?
……。
…………。
(……いやいや)
落ち着こう。
秦という名前だけで決めつけるのは早い。
そもそも、闘蛇がいる時点で、前世の歴史とは違う世界なのかもしれない。
……。
(……でも)
私は集落の方を振り返った。
古めかしい衣服。
木と石の家。
金属の道具。
そして、秦という国の名前。
……。
…………。
(……うーん)
何だか。
少しずつ、話がつながってきた気がする。
ただ。
一つ、大きな問題があった。
……。
…………。
(……私)
(……中国史、そんなに詳しくないんだよね)
前世で観た歴史ものといえば、映画くらいだ。
しかも、好きだった理由は。
……。
…………。
(……顔)
そう。
顔である。
格好良い俳優さんがたくさん出ていたから、観ていたのだ。
……。
(……いや)
(……もちろん、話も面白かったよ?)
本当である。
ただ、歴史の細かな流れを覚えているかと言われると。
……。
…………。
(……うん)
自信がない。
私は小さく喉を鳴らした。
まあ、いいか。
今すぐ何かが変わるわけでもない。
私は白淵族の闘蛇である。
そして、スイ族の族長でもある。
今日も明日も、ここで暮らしていく。
……。
(……そうそう)
難しいことは、人間の族長に任せておこう。
私は満足げに頷いた。
すると、後ろの闘蛇たちも頷いた。
……。
…………。
(……君たち)
本当に、何でも真似するね。
◇◇◇
夜。
私は水辺で身体を丸めていた。
隣には、いつもの仲間たち。
少し離れた場所では、レンが道具を片づけている。
平和な夜だった。
……。
(……秦、か)
私はぼんやりと考えた。
もし本当に、あの秦なら。
いつか、山の外へ出ることもあるのだろうか。
……。
…………。
(……まあ)
その時は、その時だ。
私は目を閉じた。
今はまだ、ここが好きだ。
レンがいて。
族長がいて。
セイランがいて。
仲間たちがいる。
それだけで、十分である。
……。
…………。
「スイー!」
レンの声がした。
私は顔を上げた。
「明日は、魚を多めに用意しておくからね!」
……。
…………。
(……!!)
魚。
多め。
……。
…………。
(……最高)
やっぱり。
山の外のことなんて、しばらく考えなくてもいい。
私は嬉しくなって、尻尾を振った。
ばしゃん!!
……。
…………。
(……あ)
またやった。
水しぶきが、隣の闘蛇に盛大にかかった。
「ギャウッ!」
……。
…………。
(……ごめん)
私はそっと鼻先を寄せた。
すると、その闘蛇は不満そうに喉を鳴らした。
……。
(……はいはい)
(……明日の魚、一匹あげるから)
……。
…………。
いや。
やっぱり、それは無理。
魚は大事。
非常に大事である。
私はそっと目を逸らした。
どうやら、スイ族の族長というものは。
なかなか、器の大きさを試される役職らしい。