ISクロスGS ザ・グレート・ゲーム 【IS世界に横島忠夫を放り込んでみた】 作:監督
IS学園の管制室では、誰も座席に座っていなかった。
座っていられなかったのだ。
メインスクリーンの戦術図の中心に、禍々しい黒い識別点。
その内側に、微弱な銀の福音のサイン。
周囲を取り囲むように点在する十二機。
それらを縛る、無数の赤い線。
ゆっくりと閉じていく、捕獲の球。
その表示面の端に、唐突に別の情報窓が開いた。
護衛三号機。
白式。
現在位置、国道一三五号線上空。
任務、臨海学校避難車列護衛。
その横に、赤い警告表示が重なった――緊急離脱要請。
行先は、海辺の前線拠点。
目的は、織斑千冬救出作戦への臨時投入。
「……何ですか、これ」
推移を見守っていたオペレーターのひとりが、信じられないというように声を漏らした。
真耶が画面を食い入るように見た。
白式の現在軌道は、まだ護衛編隊の上にある。
だが、表示された予測線だけが、すでに違っていた。
内陸へ向かうバス編隊から離れ、海岸へ戻る線。
その先には、前線拠点。
さらにその先には、《八咫烏》。
誰が指示を出した。
誰が伝えた。
その時、管制室の外部回線がひとつ、強制的に開いた。
『山田先生』
聞き慣れた横島の声だった。
『俺です。勝手をしました』
真耶は、息を呑んだ。
『横島先生……』
『怒っていいんで、後で思いっきり怒ってください。今は段取り組ませてもらえませんか』
相変わらずの軽い声だった。
だが、その軽さの裏に、一歩も引かない意志が張り付いていた。
『《八咫烏》、外からの正規アプローチじゃ抜けません。中の織斑先生の意識を呼び戻す方が早い。そっち寄りの仕事はうちの専門です。試験機、こっちに呼んでます。八咫烏の試験運用で俺が乗る予定だった支援機です。俺と一夏で乗ります。秘匿運用なんで、現場には人を入れません。機体のセットアップは搭載AIに任せました』
『生徒を、戦闘に巻き込む気ですか』
『はい』
真耶が息を詰めた。
横島は続けた。
『叱るのは後でいいです。先に死なせない方が大事でしょ』
真耶は、再びメイン画面を見た。
白式の現在位置。
まだ護衛編隊の中にある識別点。
けれど、その横には、横島が投げ込んだ進路予測線が表示されている。
海辺の前線拠点。
そのさらに先の、巨大な黒い識別点。
未熟な弟が、最強であるはずの姉のところへ向かおうとしている。
教官として、大人として、止めるべきだった。
止める理由なら、いくらでもあった。
生徒だから。
未熟だから。
本来の作戦要員ではないから。
織斑千冬が、それを許すはずがないから。
だが、その理由をすべて並べ終わる前に、画面の中の赤い線が一本、また太くなった。
十二機のうち一つの識別点が、わずかに高度を落とす。
ここで理屈を通せば、千冬は確実に死ぬかもしれなかった。
『……支援に回します』
真耶は、奥歯を噛み締めて言った。
『接続表示、複座試験機に流します。それと、護衛三号機の離脱認可、こちらから権限上書きで通します。お願いします、横島先生』
『どうも』
真耶が指示を飛ばす。
管制の公式回線と、横島の出処不明のメンテナンス回線。
二本が、海辺の同じ一点へ向かって伸びていく。
その数秒後、戦術図上の白式が、護衛編隊から離れた。
海へ。
横島の待つ、前線拠点へ。
◇
水平線の向こうから、低空を滑ってくる白い影が見えた。
束製、複座試験機。
仮称、第七試験機。
無人で戦う機体ではない。
搭乗者を乗せる地点まで自力で移動できる、ただそれだけの自律搬送機能を持った試験機だった。
今もその自律搬送モードで、海面近くを滑るように飛んできている。
遠目には、ただの複座型試験機に見えた。
だが、近づけばすぐに分かる。
戦う機体の形をしていなかった。
前部には、専用ISを展開したまま装着できる接続部がある。
そこまでは分かる。
問題は、その後ろだった。
強固な補助骨格。
何重もの拘束帯。
人を座らせるための椅子というより、空中で人間を落とさないための檻に近い。
肩と腰を押さえる骨組み。
背中から首元まで伸びる補助具。
その周囲に、白い珠のようなものが六つ、等間隔で埋め込まれていた。
ISの部品には見えない。
だが、ただの飾りでもない。
そこだけ、機体の質感から浮いていた。
金属でも、樹脂でも、探知器の類でもない。
横島が整備棟の奥で時々いじっている白い珠と、同じ気配がした。
この機体は、戦闘想定で組まれたものではない。
本来の用途は、八咫烏の試験運用に伴走することだった。
広域エネルギー供給をはじめとする、八咫烏のおせっかいな機能の数々を、外側から見ながら調整する。
そのために横島が空中に滞在できる、シールド付きの足場。
それが、この複座試験機の存在意義だった。
横島は、正規のIS適合者ではない。
通常の手順でISを展開し、専用機として扱える人間ではない。
だが、八咫烏の中身には横島の手による技術が組み込まれている。
だから八咫烏が空に上がるとき、その中身を維持し、必要があれば外から微調整する作業員が、どうしても要る。
それが横島の役回りだった。
戦闘用ではない。
ただし、同じ系統で組まれている以上、扱い方によっては、八咫烏側の動きを外から少しだけ揺さぶれる。
本来なら、それは試験場で、何重もの安全確認を挟みながら使う機能だった。
少なくとも、暴走した八咫烏を相手に、実戦空域で叩き起こすようなものではない。
まだ、まともな運用実績すらない。
調整用の支援機。
横島が空中で作業するための足場。
完成したばかりの、危なっかしい保険。
横島自身も、まさか最初の出番がこんな形になるとは思っていなかった。
それが今、海岸へ降りようとしている。
機体はゆっくりと高度を下げ、波打ち際から少し内側の砂浜に、無音で着地した。
砂が、わずかに巻き上がる。
横島は、汗だくのまま天幕を出て、機体に近づいた。
後部の補助席が、自律搬送モードの制御を半分だけ解いて、ゆっくり開く。
横島は補助フレームに身体を入れ、ベルトに身を委ねた。
補助ベルトが何重にも巻きつけられる。
耐G装備と呼べるものは最低限――というより、シールドが万が一剥がれた瞬間に、生身の人間が空の彼方へ吹き飛んでいかないための命綱だった。
『後部、補助席への搭載確認。横島忠夫。補助席専用登録、照合完了。非標準出力反応、参照値外。安全マージン、推奨範囲外』
機体側の音声合成が、無機質に読み上げた。
『当機は本来、試験環境外における補助席運用を推奨しません。現在の搭乗条件は安全基準を満たしていません。搭乗を継続しますか』
「継続だ」
『了解。警告を記録します』
「記録だけにしとけ。説教はいらん」
『同意事項の再確認を省略します』
「いい子だ」
AIはそれ以上、冗談には答えなかった。
横島が大仰に息を吐いた、そのタイミングで、上空から白式が降りてきた。
砂を巻き上げないよう、最後のひと押しで巧みに推進を落とし、ふわりと砂浜に着地する。
降りた一夏に向かって、横島は補助フレームに固定されたまま片手を上げた。
「一夏」
「先生」
「来たな」
近づいてみると、横島の額には玉のような汗が浮いていた。
天幕の中も外も、夏の浜辺の熱気からは逃げられない。シャツの首元は汗で色が変わっている。
だが、その汗が暑さだけのものではないことくらいは、一夏にも分かった。
「先生、顔色悪いですよ」
「冷房なし、扇風機一台で粘ってたからな。お前は涼しい顔してるな」
「白式のシールドがありますから」
「そりゃ、ずるい」
短い軽口だった。
いつもの調子に聞こえるのに、いつもの軽さではなかった。
横島はもう、後部の補助フレームに固定されている。何重もの拘束帯が、肩と腰と胸を押さえ込んでいた。逃げられないようにしているのではない。空の上で、生身の身体を機体から剥がされないように縛っているのだ。
「時間がない。来い」
「はい」
横島が後部のスピーカーを親指で示した。
「小言は省略させた。必要な警告だけ聞け」
『前部接続準備完了。白式との直接接続を開始します』
機械音声が、無機質に告げた。
冗談用の応答も、余計な確認もなかった。
本来なら長くかかる装着確認手順を、緊急用の簡略手順でぎりぎりまで切り詰めているらしい。
一夏は白式の装甲を纏った状態のまま、指定された装着位置に身体を滑り込ませた。
ガチャン、と装甲同士が短く同期音を立てる。
複座機の前部フレームが、白式の外殻を抱え込む形で噛み合った。
『前部、適合者搭乗、確認。織斑一夏。白式と接続良好』
『後部、補助席搭乗、確認。横島忠夫。補助席専用登録、照合済み。非標準出力反応、参照値外。安全マージン、推奨範囲外』
コンソールの表示。
前部、適合者搭乗――織斑一夏。
後部、補助席搭乗――横島忠夫。
一夏の欄は、ほとんどが正常値で埋まっていた。
だが、その下に表示された横島の名は違った。
補助席専用登録。
参照値外。
推奨範囲外。
赤や黄の警告が、横島の名前の周囲でいくつも明滅している。
一夏には、その数値の意味までは分からない。
それでも、目の前の男が安全な場所に座っているわけではないことだけは、嫌でも分かった。
後部フレームに縛りつけられた横島は、いつものように片手を上げていた。
けれど、拘束帯に押さえ込まれた肩が、わずかに上下していた。
一夏は、思わず声をかけていた。
「先生」
「ん」
「本当に、大丈夫なんですか」
「大丈夫じゃねえよ」
横島は、あっさり言った。
「だから急ぐ。大丈夫にしてから出てたら、間に合わねえ」
一夏は、それ以上何も言えなかった。
「礼も心配も後だ。姉ちゃん助けてから、まとめて聞く」
「……はい」
横島は、後部支援フレームの内側、自分の手の届く範囲に並んだ六つの珠状ユニットの一つに、指を軽く触れた。
ユニットが、ふっと一度だけ熱を帯びる。
焼かれる前に、手を引く。
いかにも手慣れた、儀式のような仕草だった。
それから、横島は上着の内側に手をやって、中身を確かめた。
最後に隠していた、自分の予備の文珠。
数日もすればまた個体化できるとはいえ、千冬に大半を取り上げられている今、簡単には増えない命綱だ。
それを、隠したまま、もう一度位置を直す。
ユニットがどこまでやってくれるかは分からない。
足りない時のための、最後の一個だった。
「行くぞ」
「はい」
『自律搬送モード解除。手動移譲完了。射出シーケンス開始』
試験機が、自身の制御権を一夏側へ完全に明け渡したことを、機械音声で告げた。
『三、二、一――射出』
砂浜から、爆発的な推進が立ち上がる。
シールド面で、激しい空気抵抗が弾かれる甲高い音が、装甲を通して短く響いた。
巻き上がるのは砂ではなく、シールドに弾かれた熱気の渦だけだった。
あっという間に、砂浜は豆粒のような眼下の景色になる。
雲の高さが、目の高さに並んだ。
戦域の座標データが、視界の隅に赤いマーカーで表示された。
一夏は前を見た。
姉のいる場所だった。
◇
戦域までの飛行は、永遠のように長くも、一瞬のように短くも感じられた。
次々と接続表示が、白式のコンソールへ流れ込んでくる。
中心に座す、巨大な黒い識別点。
その内側に抱かれた、銀の福音。
周囲に散開したまま凍りついた十二機。
それらを縫い留める赤い供給ライン。
すべてを包む球――捕獲フィールド。
その巨大な球の表面を、円環が滑るように徘徊している。
そして、中心に灯る、小さな生命反応。
千冬だった。
「先生」
「何だ」
「姉さん、生きてますよね」
「生きてる」
「本当に?」
「しつこい」
「もう一回だけ」
「生きてる」
一夏は深く頷いた。
それだけでよかった。
背中合わせの後部座席で、横島が支援ユニットの一つに指を載せている気配がした。
「いいか、一夏」
「はい」
「さっき言ったことだけ覚えてろ。お前は姉ちゃんを呼び続ける」
「呼び続ける……」
「そうだ。途中で警告が鳴っても、八咫烏に止まれと言われても、円環が来ても、黙るな」
「先生は?」
「道を作る。お前の声が途中で弾かれないように、こっちで八咫烏の理屈をずらす」
「道……」
「見えるもんじゃない。感じなくてもいい。お前はただ、そこに声を乗せろ」
「分かりました」
「分かってなくてもいい。止まらなきゃいい」
「……はい」
「お前の声が、深いところにいる姉ちゃん本人まで届くための道筋だ。普段ならそんな道はない。今は機体が押さえ込んでるから余計にない。だから俺がこじ開ける。お前はその道に乗って、ひたすら声を出すんだ」
「分かりました」
「分かってない顔だな」
「すみません」
「それでいい。理屈なんて分かろうとしなくていい。お前が止まれば、こっちも全部止まる。それだけ覚えとけ」
「……はい」
横島が触れている支援ユニットの表面に、白く小さな文字がぼんやり浮いた。
「断」――そう読める。
後部の薄暗い空間で、それは控えめに光っていた。
「断つのは物理的な線じゃない。命令の繋がりだ」
「命令の繋がり?」
「あいつは、姉ちゃんと味方を守るために繋いでる。繋いでるからエネルギーを吸う。吸うから味方が落ちる。落ちそうになるから、もっと守ろうとして縛る。悪循環だ」
横島は、ユニットの上に指を置いたまま続けた。
「その頑固な輪っかを、こっちで何回か断つ。その一瞬の隙間に、お前の声を入れる」
「分かりました」
「いいか、お前は声を出すこと最優先で考えろ。突っ込むのも、剣で斬るのも、姉ちゃんと話してからだ」
「はい」
機体は戦域へ突入した。
眼下に、規格外の捕獲フィールドの球が見えてくる。
光ってはいない。
だが、空の景色がそこだけ水あめのように濁って、不自然に歪んで見えた。
高密度のエネルギーの薄い膜。
その巨大な球の表面を、数枚の大型円環が滑るように回っている。
円環の旋回速度は、見た目には重々しく緩やかだ。
だが、それぞれの軌道が複雑に直交していて、巨大な球の表面のどこかには必ず一枚が位置している。
絶望的なほど隙間がない。
いや、隙間はある。
一瞬だけ生まれて、すぐに次の円環が滑り込んで穴を埋める。
その針の穴を通すしかなかった。
《未登録戦力、接近》
『未登録扱いかよ』
横島がぼやいた。
『白式にこいつを無理やり噛ませてるからな。今の八咫烏から見りゃ、味方かどうかも怪しい混ぜ物かもな』
《警告。接近を停止せよ》
「停止しません」
一夏は、自分でも驚くくらい真っ直ぐで、落ち着いた声で言った。
「そう、それでいい。あいつに何言われても無視しろ。あれは、お前の知ってる姉ちゃんじゃない」
最寄りを飛んでいた円環一枚が、本来の旋回軌道から不意に外れて、複座機の進路へ滑り出した。
球の表面を回りながら、こちらの正面に巨大な円の縁を向けてくる。
ぶつかれば、シールドを削られて軌道を弾き飛ばされる。
避けようがあるとすれば、ひとつ。
あの円環が今いる場所と、次の円環が回り込んでくる場所のあいだ。
そのわずかな隙間が、唯一の進入口だった。
「先生、隙間、左下に出ます」
「見えてる。突っ込め」
「はい」
白式の翼の片側が、短く推進を吹かす。
複座機が斜め下へ向かって滑り込む。
正面の円環が、こちらに迫った縁を嫌らしい角度で傾けてきた。
間に合わない。
その瞬間、後部のユニットがひとつ、わずかに脈打った。
表面に浮いた「断」の文字が、淡く滲む。
円環の動きが、ほんの一拍だけ鈍った。
軌道を変えようとした制御が、機体の奥で一瞬だけ途切れたのだ。
その生じた一拍で、複座機は円環の鋭い縁の脇をすり抜けた。
だが、そこはまだ檻の外だった。
目の前には、捕獲フィールドの膜がある。
光らない。
音もしない。
ただ、空の景色だけが水あめのように歪んでいる。
そこへ触れた瞬間、複座機は見えない掌で押し返されたように速度を失った。
一夏は反射的にスラスターを強める。
だが、押し返される。
力で押し切れる感触ではなかった。
「先生!」
「押すな、合わせろ!」
横島の声が飛んだ。
「破るんじゃない。通れるところに機体を合わせろ!」
後部のユニットが、もう一度脈打った。
今度は「断」の文字が、先ほどよりも細く、鋭く光った。
捕獲フィールドの膜に、ごくわずかな揺らぎが走る。
穴が開いたわけではない。
壁が消えたわけでもない。
ただ、八咫烏が「拒む」と判断するまでの一瞬に、空白が生まれた。
横島が作ったのは、その程度の隙間だった。
「今!」
一夏は機体をねじ込んだ。
スラスターを叩きつけるのではない。
膜の歪みに沿わせるように、白式の機首をわずかに傾ける。
シールドが捕獲フィールドの表面を擦り、…視界の端に警告が走った。
奥歯が鳴る。
肩が座席に押しつけられる。
視界が一瞬だけ白く飛ぶ。
それでも、複座機は弾かれなかった。
拒絶の判定が戻るよりわずかに早く、機体の先端が膜の内側へ滑り込む。
次の瞬間、背後で空気が閉じた。
通った。破ったのではない。
通されたのだ。
膜の内側。
巨大な檻の中。
纏わりつく空気の感触が、外とは違っていた。
肺が潰れそうなくらい、重い。
赤い供給ラインが、四方八方に血管のように張り巡らされている。
すべては中心の《八咫烏》から伸びている。
巨大な蜘蛛の巣の中心に、《八咫烏》自身がいた。
その背中から伸びる、世界を拒絶するような黒い羽根の光。
その腕に抱かれた、銀の福音。
機体の中で眠る、千冬の反応。
拘束された十二機のベテランたちは、それぞれの位置で動かない。
動けないのだ。
誰も撃ってこない。
撃てないのだ。
だが、沈黙していたわけではなかった。
『未登録機、侵入!』
『白式だ! 前部に織斑一夏!』
『なぜ生徒がここに――』
『止めろ、円環が来るぞ!』
短い通信が、檻の内側で弾けるように飛び交った。
だが、どの声も最後まで続かなかった。
彼女たちは動けない。
機体は赤い供給ラインに縛られ、シールドは削られ、推進も満足に利かない。
警告はできる。
だが、手は出せない。
ただ、見ているしかなかった。
見えない枷で拘束されたまま、ただ一騎駆けで進入してきた複座試験機を、驚愕と焦燥の中で見ている。
その無数の視線と、途切れがちな警告の声の中を、一夏は真っ直ぐに進んだ。
◇
「一夏、《八咫烏》本体まで一直線にいけそうか」
「右上の円環、戻ってきます」
「だろうな。お前の進路に合わせて球面ごと回ってる」
檻の内側に入っても、円環の執拗な旋回は続いていた。
球の表面を回るのと並行して、進入してきた複座機の位置に合わせて、空間ごと軌道を寄せてくる。
球の中心――《八咫烏》に近づけば近づくほど、円環の縁が頭上から降りてきやすい。
後部の別のユニットが、薄く脈打った。
表面に「退」の文字が、一瞬だけ滲み出る。
背後から執拗に追ってきていた円環の動きが、半歩だけ遅れた。
力で押し返したのではない。
円環の中で、こちらへ近づく理由が一瞬だけ曖昧になったのだ。
その不自然な遅れに、銀の福音から漏れ出しているエネルギー翼の揺らぎが重なった。
黒い円環の軌道と、白銀の翼からこぼれる光の乱れが、ほんの一瞬だけ干渉する。
「一夏、福音の翼の揺らぎに合わせろ。あそこだけ探知が濁ってる」
「見えます」
複座機が機体を限界まで傾ける。
銀の福音の背部から、翼の形をしたエネルギーが半ば崩れたまま広がっている。
羽根ではない。
影でもない。
だが、その光の乱れが、八咫烏の円環制御にわずかな死角を作っていた。
一夏はそこへ機体を滑り込ませた。
その翼の死角に入った瞬間、円環の探知が一拍だけ途切れた。
《八咫烏》本体が、ついに目前に迫った。
千冬の反応は、もう手を伸ばせば届く距離にある。
一夏の喉が鳴った。
「姉さん」
「呼べ」
横島が短く言った。
「え?」
「もっとだ。寝ぼけた姉ちゃんが、うるせえって起きるくらい呼べ」
横島が、三つ目のユニットに掌を押し当てた。
ユニットの表面で、淡い文字が光る。
「こっちは通す。お前は止まるな」
「分かりました」
白式の周囲で、薄い光が走った。
太陽の光にかき消されそうな、目に見えるかどうかぎりぎりの淡い光だった。
だが、一夏には、それが何をしているのかまでは分からない。
外から見れば、複座機が何らかの支援フィールドを展開しているようにしか見えなかっただろう。
「これが、道なんですか」
「お前が見るもんじゃない。眠ってる姉ちゃんが拾うんだ」
一夏は深く息を吸った。
戦場のあらゆる音が遠くなる。
機体の警告音も、管制からの呼びかけも、背後の横島の息遣いも、少しだけ遠くなる。
目の前にいるのは、漆黒の機体だった。
姉そのものではない。
だが、その冷たい鋼の中に、姉がいる。
物心ついたときから、織斑千冬はいつも前にいた。
大きくて、追いつけない背中。
危ないから下がっていろ。
ここで待っていろ。
お前はまだ早い。
そう言われるたびに守られる側へ押し戻されて、一夏は何度も歯を食いしばってきた。
姉の言葉は、いつだって正しかった。
正しくて、それが悔しかった。
その、ずっと前を歩いていた人が。
今、たった一人で檻の中心に閉じ込められ、動けないまま、それでも部隊を守り続けている。
守られてきたのは、いつも自分の方だった。
「姉さん」
声に出した。
通信システムを通した音声ではない。
誰に向けてでもない、剥き出しの呼びかけだった。
「今度は、俺が迎えに来た」
《警告。接近を停止せよ》
冷徹なシステム音声が、何の感情もなく遮る。
ただの機体のくせに。
姉を、閉じ込めているくせに。
腹の底が、かっと熱くなった。
「うるさいっ!」
喉を裂くようにして、声が飛び出した。
「姉さんを――返せ!!」
命令でもない。
懇願でもない。
ただ、奪われた家族を取り返しに来た、弟の叫びだった。
その声が、横島の張った見えない道を通って、鋼の檻の奥深くへと突き抜けていく。
その瞬間、黒い隊長機の中で――その深いところで、何かが確かに動いた。
◇
千冬は、果てしなく暗い場所にいた。
冷たい水の底に沈んでいるようだった。
そのさらに下、泥の中へ押し込まれているような感覚がある。
外の音は遠い。
身体は重い。
重い、というより、自分の身体がどこにあるのかすら曖昧だった。
意識は、ほとんど強制的に落とされている。
ただ気を失っているのとは違う。
完全に眠らされる寸前で、薄皮一枚だけ、自我が引っかかっている。
そんな状態だった。
千冬は、ぼんやりとした思考のまま、自分の状態を測った。
機体に沈められている。
それだけではない。
命令系統とは別の、もっと深いところを締めつける力が重なっている。
横島が使う文珠の感触だった。
こんな深くまで他人に預けられる相手が、横島くらいしかいない。
よりにもよって、と思った。
だが、削られてはいない。
自分が自分でなくなるほど、内側を侵されているわけでもない。
ただ、動けなくされている。
声を上げることも、手を伸ばすこともできない場所へ、押し込められているだけだ。
それだけなら、まだ戻れる。
千冬は、そう判断した。
抱え込んでいる銀の福音の奥からは、人の呼吸とは違うものが漏れていた。
叫びではない。
だが、声に近い。
獣が喉の奥で爪を立てているような、ひどく荒い気配だった。
そのさらに奥に、ごくわずか、細い、人間の反応がある。
ナターシャ・ファイルス。
まだ消えてはいない。
だが、自分よりもずっと深い場所に沈んでいる。
それに比べれば、自分は浅瀬だ。
押さえ込みは重い。
だが、ナターシャほどではない。
呼ばれれば、戻れる。
そういう距離に、まだ留まっている。
千冬は、その認識だけを抱えて、再び沈黙した。
自分の腕を動かそうとしても、少しも動かない。
代わりに、機体の腕が勝手に最適解を弾き出して動く。
止めようとしても、別の命令が先に走って身体を縛りつける。
守れ。
搭乗者を守れ。
味方を守れ。
主要保護対象を守れ。
脅威を排除せよ。
殺すな。
逃がすな。
近づけるな。
離すな。
矛盾した命令が、何重にも絡み合っていた。
ひとつの結び目を解こうとすれば、別の命令が強く締まる。
回線を切ろうとすれば、搭乗者保護が優先されて弾かれる。
福音を離せば、ナターシャが死ぬ。
十二機を離せば、味方が福音に近づいてしまう。
自分が動くのを止めれば、福音を守れない。
動き続ければ、部下を縛る。
どちらへ進んでも、守るという言葉が人を殺す方向へ転がっていく。
その泥の底で、声がした。
遠い。
ひどく遠い。
だが、聞き間違えるはずがない。
『姉さん』
一夏の声だった。
千冬の意識が、わずかに浮いた。
まだ、遠い。
水の向こうから聞こえるようだった。
『今度は、俺が迎えに来た』
ばか、と言おうとした。
来るな、と言おうとした。
その両方が、喉のない場所で引っかかった。
来るな。
当然だ。
ここは戦場だ。
一夏が来ていい場所ではない。
だが、その声を聞いた瞬間、沈んでいた意識の奥に、ほんのわずかな熱が戻った。
弟が呼んでいる。
あの一夏が。
いつも守る側に置いてきた弟が。
自分を、迎えに来たと言っている。
『姉さんを――返せ!!』
その叫びが、鋼の外側からではなく、もっと深い場所へ届いた。
機体の命令ではない。
管制の呼びかけでもない。
家族の声だった。
その声に引かれて、もうひとつ、横から軽薄な声が割り込んできた。
『千冬、寝てる場合じゃないぞ』
「……横島」
『お、返事した』
「お前、何をしている」
『お節介かな。こっちは男二人で無理やり複座機に乗ってるんだ。絵面最悪だぞ。早く起きて突っ込んでくれ』
「……黙れ。後で殴るからな」
『お、返事した』
「黙れと言っている」
『上等。意識あり』
千冬は息を吸おうとした。
現実の肺は動かない。
だが、沈殿していた意識の方が、わずかに浮上した。
幾重にも握り潰されていた命令の底に、まだ細い一本が残っている。
これは、機体への意志ではない。
姉としての意地だ。
千冬は、その極細の一本を、精神の力だけで強く掴んだ。
◇
一夏は右手に握った雪片の柄を強く握り直していた。
目標は、《八咫烏》の背部中枢。
千冬自身ではない。
福音でもない。
狂った命令の連続を縛り直している、一点の支援系統フレーム。
握った刃が、わずかに重く感じた。
ふと、いつかの姉の言葉が頭をよぎった。
――分をわきまえない優しさは、優しさとは言わん。ISに乗る限り、ただ甘いだけの優しさはいずれ、お前自身を殺すことになる。
あの時は、厳しすぎる言葉だと思った。
優しさにまで、分などあるのかと思った。
だが今なら、少しだけ分かる。
怖いから動けない。
傷つけたくないから踏み込めない。
それを優しさと呼んで立ち止まれば、きっと何も守れない。
姉を傷つけたくない。
それは本当だ。
だが、傷つけないことだけを選んで、姉を死なせるわけにはいかない。
それは優しさではない、と姉が言っていた。
そう思った瞬間だった。
『一夏』
通信機を通さない声が、頭の中に直接入ってきた。
姉だった。
『……姉さん』
『私を狙え』
一夏の手が、わずかに強張った。
『隊長機の背部中枢。右上から三番目のフレームだ。そこを斬れ』
一夏は、息を呑んだ。
分かっていた。
分かっていたつもりだった。
それでも、姉自身の口からそう言われると、刃の重さが一段増した。
『……姉さんに、当たりませんか』
『当てるな』
『無茶です』
『なら、無茶を通せ』
横島が、通信の向こうで小さく息を吐いた。
『千冬らしいなあ』
『黙れ』
『はいよ』
一夏は、雪片の柄を握り直した。
姉は、自分を危険な場所に置きたくない。
それは、疑うまでもない。
この場に一夏がいることを、本当なら許したくないのだろう。
だがその同じ姉が、今は自分に斬れと言っている。
遠ざけたい弟に、頼るしかない。
守りたい相手に、危険な役目を渡すしかない。
無茶苦茶だった。
けれど、矛盾ではなかった。
一夏は、それを聞き間違えなかった。
『分かりました』
『……横島』
『はいよ』
『中から押し返す。合図する』
『了解』
『一夏。お前は声を出していろ。途中で止めるな』
『止めません』
後部支援フレームの内側で、ユニットが順に目を覚ました。
それぞれの表面に浮かぶのは、白い一文字。
「断」
「縫」
「鎮」
「護」
四つ並んだ文字。
だが、それぞれのユニットは、ほとんど光を発していなかった。
ユニット自体が何かを生み出しているわけではない。
一夏が姉を呼び続ける。
その声に乗っている響きを、各ユニットが拾い、用途ごとに別々の形へ整え直しているだけだ。
源は、一夏の声。
横島は、その向きを決め、加減を取っているにすぎない。
「切って、縫って、鎮めて、守る。順番は俺が決める。お前は呼ぶことだけ続けろ」
「先生が間違えないでくださいよ……!」
「無茶言うな。俺はこういう本番に強い顔して、だいたい内心びびってるんだぞ」
「今それ言いますか」
「言っとかないと手が震えるんだよ。お前は呼べ」
「……はい!」
横島は軽口を叩いていた。
だが、その声の奥には、歯を食いしばるような硬さが混じっている。
冗談で薄く覆っているだけだ。
後部の狭い支援席で、横島もまた、ぎりぎりのところにいた。
《八咫烏》が、複座機を排除対象として認識した。
黒い羽根の光が揺れる。
円環が反応する。
赤い供給ラインが、複座機へ向かって伸びる。
その全部が、一斉にこちらを潰しに来る。
「一夏、呼べ!」
「姉さん!」
一夏の声が、見えない道を通って伸びる。
「姉さん、聞こえますか! 俺です! 一夏です!」
「断」
横島が低く呟いた。
ユニットの文字が、一瞬だけ強く光る。
《八咫烏》から伸びかけた赤い供給ラインの一本が、空中でぷつりと途切れた。
切られた線は暴れた。
すぐに別の線が伸びる。
「縫」
二つ目のユニットが応える。
途切れた命令の隙間に、別の細い道が差し込まれた。
一夏の声を通すための道。
千冬の意志が戻るための道。
「姉さん!」
『聞こえている』
千冬の声が返った。
細い。
だが、はっきりしている。
『一夏、止めるな』
「はい!」
《八咫烏》の背部中枢が、黒い羽根の根元で脈打った。
そこへ向けて、白式が加速する。
円環が、頭上から降りてきた。
「右!」
横島が叫ぶより早く、一夏は機体を捻っていた。
円環の縁が、複座機のすぐ横を掠める。
シールドが激しく削られ、視界に警告が走った。
「先生!」
「まだ保つ!」
横島の声が、少し掠れていた。
後部支援フレームの警告表示は、赤を通り越して白く瞬いている。
一夏は、それを見ないようにした。
見れば、足が止まる。
止まれば、声も止まる。
「姉さん、聞いてください!」
一夏は叫んだ。
「俺、ずっと悔しかったです! 守られてるだけなのが、ずっと嫌で!」
『……余計なことを言うな』
「でも、嫌だったわけじゃない!」
『言うな』
「姉さんがいたから、俺はここにいます! 今言わないと、また怒って誤魔化すでしょう!」
横島が、背後で短く笑った。
「いいぞ、一夏。もっと言え。千冬が困るやつを言え」
『横島、黙れ』
「返事が元気で何より」
「姉さん!」
一夏は、雪片を構えた。
「今度は、俺が行きます!」
短い沈黙があった。
それは、拒絶ではなかった。
『……来い、一夏』
その声には、叱責も、制止もなかった。
ただ、弟を戦場の相手として認めるだけの硬さがあった。
『私を、連れて帰ってみせろ』
千冬の声が、はっきりとした。
その瞬間、《八咫烏》の背部中枢が内側から一拍だけ押し返された。
黒い羽根の根元が開く。
ほんの一瞬。
そこに、白式が飛び込んだ。
「断!」
横島が叫ぶ。
一夏は雪片を振り抜いた。
刃が、背部中枢の右上から三番目のフレームを斬る。
金属を断つ感触ではなかった。
もっと柔らかく、もっと粘るもの。
命令の束を、肉ごと切るような嫌な手応え。
黒い光が弾けた。
《八咫烏》が大きく震える。
『ぐっ……!』
千冬の声が歪んだ。
「姉さん!」
『止めるな!』
「はい!」
「縫!」
横島が続けてユニットに手を置く。
斬られた命令の断面に、一夏の声を通す細い道が縫い込まれる。
千冬の意志が、その道を掴む。
《八咫烏》の腕が、銀の福音を抱えたまま、ほんのわずかに緩んだ。
「今だ、千冬!」
『分かっている!』
千冬の意志が内側から立ち上がる。
機体の腕が止まる。
供給ラインが震える。
十二機を縛っていた赤い線が、一本、また一本と細くなっていく。
だが、銀の福音の方が暴れた。
沈んでいた獣のような反応が、急に浮き上がる。
白銀の翼が開きかける。
《八咫烏》の腕が、反射的に締まった。
千冬が内側から押し返す。
一夏が外から支える。
横島が後部で、歯を食いしばった。
「ちっ、やっぱり福音の方が深いか……!」
横島は、上着の内側へ手を入れた。
最後に隠していた文珠を取り出す。
手のひらの上で、白い珠が淡く光った。
「先生、それ」
「最後のへそくりだ。千冬には内緒な」
『聞こえている』
「……聞こえてたか」
横島は、苦笑した。
「じゃあ、あとで説教だな。生きて戻ったら聞くよ」
笑ったまま、文珠を握り込む。
「鎮」
掌の中で、文字が浮いた。
ユニットの方では足りない分を、横島が個人で持っていた最後の一個で補う。
文珠が軋み、自分の身を削るように熱を持った。
整え直された響きが、複座機の支援フィールドに乗って、銀の福音の胸部装甲へ静かに渡される。
派手な射出も、目立つ光線もない。
ただ、複座機と福音の間に、ごく短い一本の細い糸が引かれて、すぐに切れる。
それだけだった。
白銀の装甲の奥で、強大な何かが暴れた。
獣のような、凶悪な反応。
かつて見た、DDに近い何か。
人の形をしているのに、人の範囲から外れかけた反応。
だが、その深いところに、細い生命反応が確かにある。
ナターシャ・ファイルス。
まだ消えていない。
「戻すんじゃない」
横島が歯を食いしばる。
「引きずり戻すには、まだ深すぎる」
掌の中の文珠が、軋むように光った。
「せめて、沈め」
福音の巨大な翼が震えた。
暴走して開きかける。
千冬が腕力で抱え込む。
一夏が装甲越しに支える。
横島が後部から、ユニットと掌の文珠を二重に効かせ続ける。
千冬が内側から踏みとどまる。
一夏が、その名を呼び続ける。
横島が、二人の間に張った細い道を、千切れないように押さえ込む。
どれか一つでも途切れれば、すべてが落ちる。
奇跡というには、あまりに綱渡りだった。
「護」のユニットだけが、最後まで弱い光を保ち続けていた。
姉と弟の間に張られた声の道を、最後の最後で千切れさせないための囲い。
それが、ようやく文字を失って沈黙する。
銀の福音の翼が、痙攣を止めて、ゆっくりと畳まれた。
《八咫烏》の黒い羽根の光も、最後に弱々しくひと揺れして、完全に消える。
空に残っていた円環も、旋回を止めた。
ただ落ちたのではない。
非常時の保護機構が、遅れて働いた。
巨大な輪郭は重力に引かれながら、何層もの光にほどけ、質量を逃がすように速度を殺していく。
最後に海面へ触れた時、上がったのは爆発ではなく、白い水煙だけだった。
捕獲フィールドが、空気に溶けるように形を失って消え去る。
十二機が、長い時間を経て、ついに檻の外へ解放された。
『接続解除!』
『各機、離脱可能!』
『隊長機、制御反応低下!』
『銀の福音、活動レベル低下! 搭乗者生命反応、微弱ですが維持!』
矢継ぎ早に入る報告の中で、真耶の声が途中で震えた。
『織斑先生!』
動力を失った《八咫烏》が、空から落ち始めた。
気を失った銀の福音を抱えたまま。
一夏は反射的に手を伸ばした。
位置が悪い。
届かない。
だが、十二機のうち、最も近くにいた第一班の一機が真っ先に動いた。
次に第二班。
第三班。
さっきまで檻に閉じ込められ、理不尽にエネルギーを吸われ続けていた機体たちが、今度は外から素早く輪を作る。
自由落下していく黒い機体と、銀の福音を、自分たちの手で受け止めるために。
誰も、指揮官の命令など待たなかった。
千冬がすべてを懸けて守った部隊だった。
だから、今度は部隊が千冬を受け止めたのだ。
複数のシールドが網のように重なり合い、海面ぎりぎりで巨大な質量の落下速度が完全に殺される。
凄まじい水柱が上がった。
吹き上がる白い飛沫の中で、《八咫烏》が静かに止まる。
その腕の中に、銀の福音はまだ確かにあった。
装甲は壊れている。
完全に沈黙している。
だが、命は消えていない。
『……真耶ちゃん』
横島の声が、通信に戻った。
ひどく疲労し、掠れた声だった。
『千冬と福音、両方拾える?』
真耶は、静まり返った管制室で画面を見た。
黒い識別点。
銀の反応。
ナターシャの生命反応。
千冬の生命反応。
どれも風前の灯のように弱い。
どれも緊急の危険域にある。
それでも、決して消えていない。
『拾えます』
真耶は答えた。
安堵で声が震えた。
それでも、気丈にはっきりと繰り返した。
『両方、拾えます』
横島は、心底ほっとしたように長い息を吐いた。
『……撃破扱いには、できるよね』
少しだけ間を置いて、横島は続けた。
『でも、こっちとしては救出だ。失敗じゃない』
通信の向こうで、一夏が何かを言おうとした。
だが、感情がこみ上げて声にならなかった。
海上には、まだ不快な警告音が鳴り響いている。
あちこちに壊れた機体が浮いている。
傷ついた人間がいる。
銀の福音の中で、ナターシャ・ファイルスはまだ目を覚ます気配がない。
千冬も、深い眠りから応答しない。
それでも、撃墜による結末ではなかった。
最悪の破壊でもなかった。
十二機は全機残った。
《八咫烏》も落ちなかった。
銀の福音も、まだそこにある。
横島は、後部の狭い支援フレームの中で、掌の上の文珠をしばらく眺めていた。
砕けかけたその表面で、「鎮」の文字が、役目を終えたように薄くなっている。
それから視線を、支援フレームに並ぶユニットへ移した。
他のユニットも、すでに文字を失い、淡い熱だけを残して沈黙していた。
完全に救えたわけではない。
ただ、誰も死なせなかった。
横島は、白く荒れた海を見下ろした。
「……上出来だろ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
返事はなかった。
ただ、遠くの空で、救助機の力強いローター音が近づいていた。
繰り返しですが、難産でした…時間かかってしまいました。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
少しでも「続きが気になる」と思っていただけましたら、お気に入り登録や評価、感想などをいただけると嬉しいです。
余談ですが、別ジャンルで完結済みのウマ娘二次創作も投稿しています。
かなり作風は違いますが、静かな文芸寄りの話がお好きな方は、よろしければどうぞ。
https://syosetu.org/novel/411571/