ISクロスGS ザ・グレート・ゲーム  【IS世界に横島忠夫を放り込んでみた】   作:監督

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第17話(後)

 

 

 

IS学園の管制室では、誰も座席に座っていなかった。

 

座っていられなかったのだ。

 

メインスクリーンの戦術図の中心に、禍々しい黒い識別点。

 

その内側に、微弱な銀の福音のサイン。

 

周囲を取り囲むように点在する十二機。

 

それらを縛る、無数の赤い線。

 

ゆっくりと閉じていく、捕獲の球。

 

その表示面の端に、唐突に別の情報窓が開いた。 

 

護衛三号機。 

白式。

 

現在位置、国道一三五号線上空。

 

任務、臨海学校避難車列護衛。

 

その横に、赤い警告表示が重なった――緊急離脱要請。

 

行先は、海辺の前線拠点。

 

目的は、織斑千冬救出作戦への臨時投入。

 

「……何ですか、これ」 

 

推移を見守っていたオペレーターのひとりが、信じられないというように声を漏らした。

 

真耶が画面を食い入るように見た。

 

白式の現在軌道は、まだ護衛編隊の上にある。

 

だが、表示された予測線だけが、すでに違っていた。

 

内陸へ向かうバス編隊から離れ、海岸へ戻る線。

 

その先には、前線拠点。

 

さらにその先には、《八咫烏》。

 

誰が指示を出した。

 

誰が伝えた。 

 

その時、管制室の外部回線がひとつ、強制的に開いた。

 

『山田先生』

 

聞き慣れた横島の声だった。 

 

『俺です。勝手をしました』

 

真耶は、息を呑んだ。 

 

『横島先生……』

 

『怒っていいんで、後で思いっきり怒ってください。今は段取り組ませてもらえませんか』

 

相変わらずの軽い声だった。 

 

だが、その軽さの裏に、一歩も引かない意志が張り付いていた。 

 

『《八咫烏》、外からの正規アプローチじゃ抜けません。中の織斑先生の意識を呼び戻す方が早い。そっち寄りの仕事はうちの専門です。試験機、こっちに呼んでます。八咫烏の試験運用で俺が乗る予定だった支援機です。俺と一夏で乗ります。秘匿運用なんで、現場には人を入れません。機体のセットアップは搭載AIに任せました』

 

『生徒を、戦闘に巻き込む気ですか』

 

『はい』

 

真耶が息を詰めた。

 

横島は続けた。

 

『叱るのは後でいいです。先に死なせない方が大事でしょ』

 

真耶は、再びメイン画面を見た。

白式の現在位置。

 

まだ護衛編隊の中にある識別点。

 

けれど、その横には、横島が投げ込んだ進路予測線が表示されている。

 

海辺の前線拠点。

 

そのさらに先の、巨大な黒い識別点。

 

未熟な弟が、最強であるはずの姉のところへ向かおうとしている。

 

教官として、大人として、止めるべきだった。

 

止める理由なら、いくらでもあった。

 

生徒だから。

未熟だから。

本来の作戦要員ではないから。

 

織斑千冬が、それを許すはずがないから。

 

だが、その理由をすべて並べ終わる前に、画面の中の赤い線が一本、また太くなった。

 

十二機のうち一つの識別点が、わずかに高度を落とす。

 

ここで理屈を通せば、千冬は確実に死ぬかもしれなかった。

 

『……支援に回します』 

 

真耶は、奥歯を噛み締めて言った。

 

『接続表示、複座試験機に流します。それと、護衛三号機の離脱認可、こちらから権限上書きで通します。お願いします、横島先生』

 

『どうも』 

 

真耶が指示を飛ばす。

 

管制の公式回線と、横島の出処不明のメンテナンス回線。

 

二本が、海辺の同じ一点へ向かって伸びていく。 

 

その数秒後、戦術図上の白式が、護衛編隊から離れた。

 

海へ。

 

横島の待つ、前線拠点へ。

 

 

 

 

 

 

水平線の向こうから、低空を滑ってくる白い影が見えた。

 

束製、複座試験機。

 

仮称、第七試験機。

 

無人で戦う機体ではない。

 

搭乗者を乗せる地点まで自力で移動できる、ただそれだけの自律搬送機能を持った試験機だった。

 

今もその自律搬送モードで、海面近くを滑るように飛んできている。

 

遠目には、ただの複座型試験機に見えた。

 

だが、近づけばすぐに分かる。

 

戦う機体の形をしていなかった。

 

前部には、専用ISを展開したまま装着できる接続部がある。

 

そこまでは分かる。

 

問題は、その後ろだった。

 

強固な補助骨格。

 

何重もの拘束帯。

 

人を座らせるための椅子というより、空中で人間を落とさないための檻に近い。

 

肩と腰を押さえる骨組み。

 

背中から首元まで伸びる補助具。

 

その周囲に、白い珠のようなものが六つ、等間隔で埋め込まれていた。

 

ISの部品には見えない。

 

だが、ただの飾りでもない。

 

そこだけ、機体の質感から浮いていた。

 

金属でも、樹脂でも、探知器の類でもない。

 

横島が整備棟の奥で時々いじっている白い珠と、同じ気配がした。

 

この機体は、戦闘想定で組まれたものではない。

 

本来の用途は、八咫烏の試験運用に伴走することだった。

 

広域エネルギー供給をはじめとする、八咫烏のおせっかいな機能の数々を、外側から見ながら調整する。

 

そのために横島が空中に滞在できる、シールド付きの足場。

 

それが、この複座試験機の存在意義だった。

 

横島は、正規のIS適合者ではない。

 

通常の手順でISを展開し、専用機として扱える人間ではない。

 

だが、八咫烏の中身には横島の手による技術が組み込まれている。

 

だから八咫烏が空に上がるとき、その中身を維持し、必要があれば外から微調整する作業員が、どうしても要る。

 

それが横島の役回りだった。

 

戦闘用ではない。

 

ただし、同じ系統で組まれている以上、扱い方によっては、八咫烏側の動きを外から少しだけ揺さぶれる。

 

本来なら、それは試験場で、何重もの安全確認を挟みながら使う機能だった。

 

少なくとも、暴走した八咫烏を相手に、実戦空域で叩き起こすようなものではない。

 

まだ、まともな運用実績すらない。

 

調整用の支援機。

 

横島が空中で作業するための足場。

 

完成したばかりの、危なっかしい保険。

 

横島自身も、まさか最初の出番がこんな形になるとは思っていなかった。

 

それが今、海岸へ降りようとしている。

 

機体はゆっくりと高度を下げ、波打ち際から少し内側の砂浜に、無音で着地した。

 

砂が、わずかに巻き上がる。

 

横島は、汗だくのまま天幕を出て、機体に近づいた。

 

後部の補助席が、自律搬送モードの制御を半分だけ解いて、ゆっくり開く。

 

横島は補助フレームに身体を入れ、ベルトに身を委ねた。

 

補助ベルトが何重にも巻きつけられる。

 

耐G装備と呼べるものは最低限――というより、シールドが万が一剥がれた瞬間に、生身の人間が空の彼方へ吹き飛んでいかないための命綱だった。

 

『後部、補助席への搭載確認。横島忠夫。補助席専用登録、照合完了。非標準出力反応、参照値外。安全マージン、推奨範囲外』

 

機体側の音声合成が、無機質に読み上げた。

 

『当機は本来、試験環境外における補助席運用を推奨しません。現在の搭乗条件は安全基準を満たしていません。搭乗を継続しますか』

 

「継続だ」

 

『了解。警告を記録します』

 

「記録だけにしとけ。説教はいらん」

 

『同意事項の再確認を省略します』

 

「いい子だ」

 

AIはそれ以上、冗談には答えなかった。

 

横島が大仰に息を吐いた、そのタイミングで、上空から白式が降りてきた。

 

砂を巻き上げないよう、最後のひと押しで巧みに推進を落とし、ふわりと砂浜に着地する。

 

降りた一夏に向かって、横島は補助フレームに固定されたまま片手を上げた。

 

「一夏」

 

「先生」

 

「来たな」

 

近づいてみると、横島の額には玉のような汗が浮いていた。

 

天幕の中も外も、夏の浜辺の熱気からは逃げられない。シャツの首元は汗で色が変わっている。

 

だが、その汗が暑さだけのものではないことくらいは、一夏にも分かった。

 

「先生、顔色悪いですよ」

 

「冷房なし、扇風機一台で粘ってたからな。お前は涼しい顔してるな」

 

「白式のシールドがありますから」

 

「そりゃ、ずるい」

 

短い軽口だった。

 

いつもの調子に聞こえるのに、いつもの軽さではなかった。

 

横島はもう、後部の補助フレームに固定されている。何重もの拘束帯が、肩と腰と胸を押さえ込んでいた。逃げられないようにしているのではない。空の上で、生身の身体を機体から剥がされないように縛っているのだ。

 

「時間がない。来い」

 

「はい」

横島が後部のスピーカーを親指で示した。

 

「小言は省略させた。必要な警告だけ聞け」

 

『前部接続準備完了。白式との直接接続を開始します』

 

機械音声が、無機質に告げた。

 

冗談用の応答も、余計な確認もなかった。

 

本来なら長くかかる装着確認手順を、緊急用の簡略手順でぎりぎりまで切り詰めているらしい。

 

一夏は白式の装甲を纏った状態のまま、指定された装着位置に身体を滑り込ませた。

 

ガチャン、と装甲同士が短く同期音を立てる。

 

複座機の前部フレームが、白式の外殻を抱え込む形で噛み合った。

 

『前部、適合者搭乗、確認。織斑一夏。白式と接続良好』

 

『後部、補助席搭乗、確認。横島忠夫。補助席専用登録、照合済み。非標準出力反応、参照値外。安全マージン、推奨範囲外』

 

コンソールの表示。

 

前部、適合者搭乗――織斑一夏。

 

後部、補助席搭乗――横島忠夫。

 

一夏の欄は、ほとんどが正常値で埋まっていた。

 

だが、その下に表示された横島の名は違った。

 

補助席専用登録。

 

参照値外。

 

推奨範囲外。

 

赤や黄の警告が、横島の名前の周囲でいくつも明滅している。

 

一夏には、その数値の意味までは分からない。

 

それでも、目の前の男が安全な場所に座っているわけではないことだけは、嫌でも分かった。

 

後部フレームに縛りつけられた横島は、いつものように片手を上げていた。

 

けれど、拘束帯に押さえ込まれた肩が、わずかに上下していた。

 

一夏は、思わず声をかけていた。

 

「先生」

 

「ん」

 

「本当に、大丈夫なんですか」

 

「大丈夫じゃねえよ」

 

横島は、あっさり言った。

 

「だから急ぐ。大丈夫にしてから出てたら、間に合わねえ」

 

一夏は、それ以上何も言えなかった。

 

「礼も心配も後だ。姉ちゃん助けてから、まとめて聞く」

 

「……はい」

 

横島は、後部支援フレームの内側、自分の手の届く範囲に並んだ六つの珠状ユニットの一つに、指を軽く触れた。

 

ユニットが、ふっと一度だけ熱を帯びる。

 

焼かれる前に、手を引く。

 

いかにも手慣れた、儀式のような仕草だった。

 

それから、横島は上着の内側に手をやって、中身を確かめた。

 

最後に隠していた、自分の予備の文珠。

 

数日もすればまた個体化できるとはいえ、千冬に大半を取り上げられている今、簡単には増えない命綱だ。

 

それを、隠したまま、もう一度位置を直す。

 

ユニットがどこまでやってくれるかは分からない。

 

足りない時のための、最後の一個だった。

 

「行くぞ」

 

「はい」

 

『自律搬送モード解除。手動移譲完了。射出シーケンス開始』

 

試験機が、自身の制御権を一夏側へ完全に明け渡したことを、機械音声で告げた。

 

『三、二、一――射出』

 

砂浜から、爆発的な推進が立ち上がる。

 

シールド面で、激しい空気抵抗が弾かれる甲高い音が、装甲を通して短く響いた。

 

巻き上がるのは砂ではなく、シールドに弾かれた熱気の渦だけだった。

 

あっという間に、砂浜は豆粒のような眼下の景色になる。

 

雲の高さが、目の高さに並んだ。

 

戦域の座標データが、視界の隅に赤いマーカーで表示された。

 

一夏は前を見た。

 

姉のいる場所だった。

 

 

 

 

 

 

戦域までの飛行は、永遠のように長くも、一瞬のように短くも感じられた。

 

次々と接続表示が、白式のコンソールへ流れ込んでくる。

 

中心に座す、巨大な黒い識別点。

 

その内側に抱かれた、銀の福音。

 

周囲に散開したまま凍りついた十二機。

 

それらを縫い留める赤い供給ライン。

 

すべてを包む球――捕獲フィールド。

 

その巨大な球の表面を、円環が滑るように徘徊している。

 

そして、中心に灯る、小さな生命反応。

 

千冬だった。

 

「先生」

 

「何だ」

 

「姉さん、生きてますよね」

 

「生きてる」

 

「本当に?」

 

「しつこい」

 

「もう一回だけ」

 

「生きてる」

 

一夏は深く頷いた。

 

それだけでよかった。

背中合わせの後部座席で、横島が支援ユニットの一つに指を載せている気配がした。

 

「いいか、一夏」

 

「はい」

 

「さっき言ったことだけ覚えてろ。お前は姉ちゃんを呼び続ける」

 

「呼び続ける……」

 

「そうだ。途中で警告が鳴っても、八咫烏に止まれと言われても、円環が来ても、黙るな」

 

「先生は?」

 

「道を作る。お前の声が途中で弾かれないように、こっちで八咫烏の理屈をずらす」

 

「道……」

 

「見えるもんじゃない。感じなくてもいい。お前はただ、そこに声を乗せろ」

 

「分かりました」

 

「分かってなくてもいい。止まらなきゃいい」

 

「……はい」

 

「お前の声が、深いところにいる姉ちゃん本人まで届くための道筋だ。普段ならそんな道はない。今は機体が押さえ込んでるから余計にない。だから俺がこじ開ける。お前はその道に乗って、ひたすら声を出すんだ」

 

「分かりました」

 

「分かってない顔だな」

 

「すみません」

 

「それでいい。理屈なんて分かろうとしなくていい。お前が止まれば、こっちも全部止まる。それだけ覚えとけ」

 

「……はい」

 

横島が触れている支援ユニットの表面に、白く小さな文字がぼんやり浮いた。

 

「断」――そう読める。

 

後部の薄暗い空間で、それは控えめに光っていた。

 

「断つのは物理的な線じゃない。命令の繋がりだ」

 

「命令の繋がり?」

 

「あいつは、姉ちゃんと味方を守るために繋いでる。繋いでるからエネルギーを吸う。吸うから味方が落ちる。落ちそうになるから、もっと守ろうとして縛る。悪循環だ」

 

横島は、ユニットの上に指を置いたまま続けた。

 

「その頑固な輪っかを、こっちで何回か断つ。その一瞬の隙間に、お前の声を入れる」

 

「分かりました」

 

「いいか、お前は声を出すこと最優先で考えろ。突っ込むのも、剣で斬るのも、姉ちゃんと話してからだ」

 

「はい」

 

機体は戦域へ突入した。

 

眼下に、規格外の捕獲フィールドの球が見えてくる。

 

光ってはいない。

 

だが、空の景色がそこだけ水あめのように濁って、不自然に歪んで見えた。

 

高密度のエネルギーの薄い膜。

 

その巨大な球の表面を、数枚の大型円環が滑るように回っている。

 

円環の旋回速度は、見た目には重々しく緩やかだ。

 

だが、それぞれの軌道が複雑に直交していて、巨大な球の表面のどこかには必ず一枚が位置している。

 

絶望的なほど隙間がない。

 

いや、隙間はある。

 

一瞬だけ生まれて、すぐに次の円環が滑り込んで穴を埋める。

 

その針の穴を通すしかなかった。

 

《未登録戦力、接近》

 

『未登録扱いかよ』

 

横島がぼやいた。

 

『白式にこいつを無理やり噛ませてるからな。今の八咫烏から見りゃ、味方かどうかも怪しい混ぜ物かもな』

 

《警告。接近を停止せよ》

 

「停止しません」

 

一夏は、自分でも驚くくらい真っ直ぐで、落ち着いた声で言った。

 

「そう、それでいい。あいつに何言われても無視しろ。あれは、お前の知ってる姉ちゃんじゃない」

 

最寄りを飛んでいた円環一枚が、本来の旋回軌道から不意に外れて、複座機の進路へ滑り出した。

 

球の表面を回りながら、こちらの正面に巨大な円の縁を向けてくる。

 

ぶつかれば、シールドを削られて軌道を弾き飛ばされる。

 

避けようがあるとすれば、ひとつ。

 

あの円環が今いる場所と、次の円環が回り込んでくる場所のあいだ。

 

そのわずかな隙間が、唯一の進入口だった。

 

「先生、隙間、左下に出ます」

 

「見えてる。突っ込め」

 

「はい」

 

白式の翼の片側が、短く推進を吹かす。

 

複座機が斜め下へ向かって滑り込む。

 

正面の円環が、こちらに迫った縁を嫌らしい角度で傾けてきた。

 

間に合わない。

 

その瞬間、後部のユニットがひとつ、わずかに脈打った。

 

表面に浮いた「断」の文字が、淡く滲む。

 

円環の動きが、ほんの一拍だけ鈍った。

 

軌道を変えようとした制御が、機体の奥で一瞬だけ途切れたのだ。

 

その生じた一拍で、複座機は円環の鋭い縁の脇をすり抜けた。

 

だが、そこはまだ檻の外だった。

 

目の前には、捕獲フィールドの膜がある。

 

光らない。

 

音もしない。

 

ただ、空の景色だけが水あめのように歪んでいる。

 

そこへ触れた瞬間、複座機は見えない掌で押し返されたように速度を失った。

 

一夏は反射的にスラスターを強める。

 

だが、押し返される。

 

力で押し切れる感触ではなかった。

 

「先生!」

 

「押すな、合わせろ!」

 

横島の声が飛んだ。

 

「破るんじゃない。通れるところに機体を合わせろ!」

 

後部のユニットが、もう一度脈打った。

 

今度は「断」の文字が、先ほどよりも細く、鋭く光った。

 

捕獲フィールドの膜に、ごくわずかな揺らぎが走る。

 

穴が開いたわけではない。

 

壁が消えたわけでもない。

 

ただ、八咫烏が「拒む」と判断するまでの一瞬に、空白が生まれた。

 

横島が作ったのは、その程度の隙間だった。

 

「今!」

 

一夏は機体をねじ込んだ。

 

スラスターを叩きつけるのではない。

 

膜の歪みに沿わせるように、白式の機首をわずかに傾ける。

 

シールドが捕獲フィールドの表面を擦り、…視界の端に警告が走った。

 

奥歯が鳴る。

 

肩が座席に押しつけられる。

 

視界が一瞬だけ白く飛ぶ。

 

それでも、複座機は弾かれなかった。

 

拒絶の判定が戻るよりわずかに早く、機体の先端が膜の内側へ滑り込む。

 

次の瞬間、背後で空気が閉じた。

 

通った。破ったのではない。

 

通されたのだ。

 

膜の内側。

 

巨大な檻の中。

 

纏わりつく空気の感触が、外とは違っていた。

 

肺が潰れそうなくらい、重い。

 

赤い供給ラインが、四方八方に血管のように張り巡らされている。

 

すべては中心の《八咫烏》から伸びている。

 

巨大な蜘蛛の巣の中心に、《八咫烏》自身がいた。

 

その背中から伸びる、世界を拒絶するような黒い羽根の光。

 

その腕に抱かれた、銀の福音。

 

機体の中で眠る、千冬の反応。

 

拘束された十二機のベテランたちは、それぞれの位置で動かない。

 

動けないのだ。

 

誰も撃ってこない。

 

撃てないのだ。

 

だが、沈黙していたわけではなかった。

 

『未登録機、侵入!』

 

『白式だ! 前部に織斑一夏!』

 

『なぜ生徒がここに――』

 

『止めろ、円環が来るぞ!』

 

短い通信が、檻の内側で弾けるように飛び交った。

 

だが、どの声も最後まで続かなかった。

 

彼女たちは動けない。

 

機体は赤い供給ラインに縛られ、シールドは削られ、推進も満足に利かない。

 

警告はできる。

 

だが、手は出せない。

 

ただ、見ているしかなかった。

 

見えない枷で拘束されたまま、ただ一騎駆けで進入してきた複座試験機を、驚愕と焦燥の中で見ている。

 

その無数の視線と、途切れがちな警告の声の中を、一夏は真っ直ぐに進んだ。

 

 

 

 

 

 

「一夏、《八咫烏》本体まで一直線にいけそうか」

 

「右上の円環、戻ってきます」

 

「だろうな。お前の進路に合わせて球面ごと回ってる」

 

檻の内側に入っても、円環の執拗な旋回は続いていた。

 

球の表面を回るのと並行して、進入してきた複座機の位置に合わせて、空間ごと軌道を寄せてくる。

 

球の中心――《八咫烏》に近づけば近づくほど、円環の縁が頭上から降りてきやすい。

 

後部の別のユニットが、薄く脈打った。

 

表面に「退」の文字が、一瞬だけ滲み出る。

 

背後から執拗に追ってきていた円環の動きが、半歩だけ遅れた。

 

力で押し返したのではない。

 

円環の中で、こちらへ近づく理由が一瞬だけ曖昧になったのだ。

 

その不自然な遅れに、銀の福音から漏れ出しているエネルギー翼の揺らぎが重なった。

 

黒い円環の軌道と、白銀の翼からこぼれる光の乱れが、ほんの一瞬だけ干渉する。

 

「一夏、福音の翼の揺らぎに合わせろ。あそこだけ探知が濁ってる」

 

「見えます」

 

複座機が機体を限界まで傾ける。

 

銀の福音の背部から、翼の形をしたエネルギーが半ば崩れたまま広がっている。

 

羽根ではない。

 

影でもない。

 

だが、その光の乱れが、八咫烏の円環制御にわずかな死角を作っていた。

 

一夏はそこへ機体を滑り込ませた。

 

その翼の死角に入った瞬間、円環の探知が一拍だけ途切れた。

 

《八咫烏》本体が、ついに目前に迫った。

千冬の反応は、もう手を伸ばせば届く距離にある。

 

一夏の喉が鳴った。

 

「姉さん」

 

「呼べ」

 

横島が短く言った。

 

「え?」

 

「もっとだ。寝ぼけた姉ちゃんが、うるせえって起きるくらい呼べ」

 

横島が、三つ目のユニットに掌を押し当てた。

 

ユニットの表面で、淡い文字が光る。

 

「こっちは通す。お前は止まるな」

 

「分かりました」

 

白式の周囲で、薄い光が走った。

 

太陽の光にかき消されそうな、目に見えるかどうかぎりぎりの淡い光だった。

 

だが、一夏には、それが何をしているのかまでは分からない。

 

外から見れば、複座機が何らかの支援フィールドを展開しているようにしか見えなかっただろう。

 

「これが、道なんですか」

 

「お前が見るもんじゃない。眠ってる姉ちゃんが拾うんだ」

 

一夏は深く息を吸った。

 

戦場のあらゆる音が遠くなる。

 

機体の警告音も、管制からの呼びかけも、背後の横島の息遣いも、少しだけ遠くなる。

 

目の前にいるのは、漆黒の機体だった。

 

姉そのものではない。

 

だが、その冷たい鋼の中に、姉がいる。

 

物心ついたときから、織斑千冬はいつも前にいた。

 

大きくて、追いつけない背中。

 

危ないから下がっていろ。

 

ここで待っていろ。

 

お前はまだ早い。

 

そう言われるたびに守られる側へ押し戻されて、一夏は何度も歯を食いしばってきた。

 

姉の言葉は、いつだって正しかった。

 

正しくて、それが悔しかった。

 

その、ずっと前を歩いていた人が。

 

今、たった一人で檻の中心に閉じ込められ、動けないまま、それでも部隊を守り続けている。

 

守られてきたのは、いつも自分の方だった。

 

「姉さん」

 

声に出した。

 

通信システムを通した音声ではない。

 

誰に向けてでもない、剥き出しの呼びかけだった。

 

「今度は、俺が迎えに来た」

 

《警告。接近を停止せよ》

 

冷徹なシステム音声が、何の感情もなく遮る。

 

ただの機体のくせに。

 

姉を、閉じ込めているくせに。

 

腹の底が、かっと熱くなった。

 

「うるさいっ!」

 

喉を裂くようにして、声が飛び出した。

 

「姉さんを――返せ!!」

 

命令でもない。

 

懇願でもない。

 

ただ、奪われた家族を取り返しに来た、弟の叫びだった。

 

その声が、横島の張った見えない道を通って、鋼の檻の奥深くへと突き抜けていく。

 

その瞬間、黒い隊長機の中で――その深いところで、何かが確かに動いた。

 

 

 

 

 

 

千冬は、果てしなく暗い場所にいた。

 

冷たい水の底に沈んでいるようだった。

 

そのさらに下、泥の中へ押し込まれているような感覚がある。

 

外の音は遠い。

 

身体は重い。

 

重い、というより、自分の身体がどこにあるのかすら曖昧だった。

 

意識は、ほとんど強制的に落とされている。

 

ただ気を失っているのとは違う。

 

完全に眠らされる寸前で、薄皮一枚だけ、自我が引っかかっている。

 

そんな状態だった。

 

千冬は、ぼんやりとした思考のまま、自分の状態を測った。

 

機体に沈められている。

 

それだけではない。

 

命令系統とは別の、もっと深いところを締めつける力が重なっている。

 

横島が使う文珠の感触だった。

 

こんな深くまで他人に預けられる相手が、横島くらいしかいない。

 

よりにもよって、と思った。

 

だが、削られてはいない。

 

自分が自分でなくなるほど、内側を侵されているわけでもない。

 

ただ、動けなくされている。

 

声を上げることも、手を伸ばすこともできない場所へ、押し込められているだけだ。

 

それだけなら、まだ戻れる。

 

千冬は、そう判断した。

 

抱え込んでいる銀の福音の奥からは、人の呼吸とは違うものが漏れていた。

 

叫びではない。

 

だが、声に近い。

 

獣が喉の奥で爪を立てているような、ひどく荒い気配だった。

 

そのさらに奥に、ごくわずか、細い、人間の反応がある。

 

ナターシャ・ファイルス。

 

まだ消えてはいない。

 

だが、自分よりもずっと深い場所に沈んでいる。

 

それに比べれば、自分は浅瀬だ。

 

押さえ込みは重い。

 

だが、ナターシャほどではない。

 

呼ばれれば、戻れる。

 

そういう距離に、まだ留まっている。

 

千冬は、その認識だけを抱えて、再び沈黙した。

 

自分の腕を動かそうとしても、少しも動かない。

 

代わりに、機体の腕が勝手に最適解を弾き出して動く。

 

止めようとしても、別の命令が先に走って身体を縛りつける。

 

守れ。

 

搭乗者を守れ。

 

味方を守れ。

 

主要保護対象を守れ。

 

脅威を排除せよ。

 

殺すな。

 

逃がすな。

 

近づけるな。

 

離すな。

 

矛盾した命令が、何重にも絡み合っていた。

 

ひとつの結び目を解こうとすれば、別の命令が強く締まる。

 

回線を切ろうとすれば、搭乗者保護が優先されて弾かれる。

 

福音を離せば、ナターシャが死ぬ。

 

十二機を離せば、味方が福音に近づいてしまう。

 

自分が動くのを止めれば、福音を守れない。

 

動き続ければ、部下を縛る。

 

どちらへ進んでも、守るという言葉が人を殺す方向へ転がっていく。

 

その泥の底で、声がした。

 

遠い。

 

ひどく遠い。

 

だが、聞き間違えるはずがない。

 

『姉さん』

 

一夏の声だった。

 

千冬の意識が、わずかに浮いた。

 

まだ、遠い。

 

水の向こうから聞こえるようだった。

 

『今度は、俺が迎えに来た』

 

ばか、と言おうとした。

 

来るな、と言おうとした。

 

その両方が、喉のない場所で引っかかった。

 

来るな。

 

当然だ。

 

ここは戦場だ。

 

一夏が来ていい場所ではない。

 

だが、その声を聞いた瞬間、沈んでいた意識の奥に、ほんのわずかな熱が戻った。

 

弟が呼んでいる。

 

あの一夏が。

 

いつも守る側に置いてきた弟が。

 

自分を、迎えに来たと言っている。

 

『姉さんを――返せ!!』

 

その叫びが、鋼の外側からではなく、もっと深い場所へ届いた。

 

機体の命令ではない。

 

管制の呼びかけでもない。

 

家族の声だった。

 

その声に引かれて、もうひとつ、横から軽薄な声が割り込んできた。

 

『千冬、寝てる場合じゃないぞ』

 

「……横島」

 

『お、返事した』

 

「お前、何をしている」

 

『お節介かな。こっちは男二人で無理やり複座機に乗ってるんだ。絵面最悪だぞ。早く起きて突っ込んでくれ』

 

「……黙れ。後で殴るからな」

 

『お、返事した』

 

「黙れと言っている」

 

『上等。意識あり』

 

千冬は息を吸おうとした。

 

現実の肺は動かない。

 

だが、沈殿していた意識の方が、わずかに浮上した。

 

幾重にも握り潰されていた命令の底に、まだ細い一本が残っている。

 

これは、機体への意志ではない。

 

姉としての意地だ。

 

千冬は、その極細の一本を、精神の力だけで強く掴んだ。

 

 

 

 

一夏は右手に握った雪片の柄を強く握り直していた。

 

目標は、《八咫烏》の背部中枢。

 

千冬自身ではない。

 

福音でもない。

 

狂った命令の連続を縛り直している、一点の支援系統フレーム。

 

握った刃が、わずかに重く感じた。

 

ふと、いつかの姉の言葉が頭をよぎった。

 

――分をわきまえない優しさは、優しさとは言わん。ISに乗る限り、ただ甘いだけの優しさはいずれ、お前自身を殺すことになる。

 

あの時は、厳しすぎる言葉だと思った。

 

優しさにまで、分などあるのかと思った。

 

だが今なら、少しだけ分かる。

 

怖いから動けない。

 

傷つけたくないから踏み込めない。

 

それを優しさと呼んで立ち止まれば、きっと何も守れない。

 

姉を傷つけたくない。

 

それは本当だ。

 

だが、傷つけないことだけを選んで、姉を死なせるわけにはいかない。

 

それは優しさではない、と姉が言っていた。

 

そう思った瞬間だった。

 

『一夏』

 

通信機を通さない声が、頭の中に直接入ってきた。

 

姉だった。

 

『……姉さん』

 

『私を狙え』

 

一夏の手が、わずかに強張った。

 

『隊長機の背部中枢。右上から三番目のフレームだ。そこを斬れ』

 

一夏は、息を呑んだ。

 

分かっていた。

 

分かっていたつもりだった。

 

それでも、姉自身の口からそう言われると、刃の重さが一段増した。

 

『……姉さんに、当たりませんか』

 

『当てるな』

 

『無茶です』

 

『なら、無茶を通せ』

 

横島が、通信の向こうで小さく息を吐いた。

 

『千冬らしいなあ』

 

『黙れ』

 

『はいよ』

 

一夏は、雪片の柄を握り直した。

 

姉は、自分を危険な場所に置きたくない。

 

それは、疑うまでもない。

 

この場に一夏がいることを、本当なら許したくないのだろう。

 

だがその同じ姉が、今は自分に斬れと言っている。

 

遠ざけたい弟に、頼るしかない。

 

守りたい相手に、危険な役目を渡すしかない。

 

無茶苦茶だった。

 

けれど、矛盾ではなかった。

 

一夏は、それを聞き間違えなかった。

 

『分かりました』

 

『……横島』

 

『はいよ』

 

『中から押し返す。合図する』

 

『了解』

 

『一夏。お前は声を出していろ。途中で止めるな』

 

『止めません』

 

後部支援フレームの内側で、ユニットが順に目を覚ました。

 

それぞれの表面に浮かぶのは、白い一文字。

 

「断」

 

「縫」

 

「鎮」

 

「護」

 

四つ並んだ文字。

 

だが、それぞれのユニットは、ほとんど光を発していなかった。

 

ユニット自体が何かを生み出しているわけではない。

 

一夏が姉を呼び続ける。

 

その声に乗っている響きを、各ユニットが拾い、用途ごとに別々の形へ整え直しているだけだ。

 

源は、一夏の声。

 

横島は、その向きを決め、加減を取っているにすぎない。

 

「切って、縫って、鎮めて、守る。順番は俺が決める。お前は呼ぶことだけ続けろ」

 

「先生が間違えないでくださいよ……!」

 

「無茶言うな。俺はこういう本番に強い顔して、だいたい内心びびってるんだぞ」

 

「今それ言いますか」

 

「言っとかないと手が震えるんだよ。お前は呼べ」

 

「……はい!」

 

横島は軽口を叩いていた。

 

だが、その声の奥には、歯を食いしばるような硬さが混じっている。

 

冗談で薄く覆っているだけだ。

 

後部の狭い支援席で、横島もまた、ぎりぎりのところにいた。

 

《八咫烏》が、複座機を排除対象として認識した。

 

黒い羽根の光が揺れる。

 

円環が反応する。

 

赤い供給ラインが、複座機へ向かって伸びる。

 

その全部が、一斉にこちらを潰しに来る。

 

「一夏、呼べ!」

 

「姉さん!」

 

一夏の声が、見えない道を通って伸びる。

 

「姉さん、聞こえますか! 俺です! 一夏です!」

 

「断」

 

横島が低く呟いた。

 

ユニットの文字が、一瞬だけ強く光る。

 

《八咫烏》から伸びかけた赤い供給ラインの一本が、空中でぷつりと途切れた。

 

切られた線は暴れた。

 

すぐに別の線が伸びる。

 

「縫」

 

二つ目のユニットが応える。

 

途切れた命令の隙間に、別の細い道が差し込まれた。

 

一夏の声を通すための道。

 

千冬の意志が戻るための道。

 

「姉さん!」

 

『聞こえている』

 

千冬の声が返った。

 

細い。

 

だが、はっきりしている。

 

『一夏、止めるな』

 

「はい!」

 

《八咫烏》の背部中枢が、黒い羽根の根元で脈打った。

 

そこへ向けて、白式が加速する。

 

円環が、頭上から降りてきた。

 

「右!」

 

横島が叫ぶより早く、一夏は機体を捻っていた。

 

円環の縁が、複座機のすぐ横を掠める。

 

シールドが激しく削られ、視界に警告が走った。

 

「先生!」

 

「まだ保つ!」

 

横島の声が、少し掠れていた。

 

後部支援フレームの警告表示は、赤を通り越して白く瞬いている。

 

一夏は、それを見ないようにした。

 

見れば、足が止まる。

 

止まれば、声も止まる。

 

「姉さん、聞いてください!」

 

一夏は叫んだ。

 

「俺、ずっと悔しかったです! 守られてるだけなのが、ずっと嫌で!」

 

『……余計なことを言うな』

 

「でも、嫌だったわけじゃない!」

 

『言うな』

 

「姉さんがいたから、俺はここにいます! 今言わないと、また怒って誤魔化すでしょう!」

 

横島が、背後で短く笑った。

 

「いいぞ、一夏。もっと言え。千冬が困るやつを言え」

 

『横島、黙れ』

 

「返事が元気で何より」

 

「姉さん!」

 

一夏は、雪片を構えた。

 

「今度は、俺が行きます!」

 

短い沈黙があった。

 

それは、拒絶ではなかった。

 

『……来い、一夏』

 

その声には、叱責も、制止もなかった。

 

ただ、弟を戦場の相手として認めるだけの硬さがあった。

 

『私を、連れて帰ってみせろ』

 

千冬の声が、はっきりとした。

 

その瞬間、《八咫烏》の背部中枢が内側から一拍だけ押し返された。

 

黒い羽根の根元が開く。

 

ほんの一瞬。

 

そこに、白式が飛び込んだ。

 

「断!」

 

横島が叫ぶ。

 

一夏は雪片を振り抜いた。

 

刃が、背部中枢の右上から三番目のフレームを斬る。

 

金属を断つ感触ではなかった。

 

もっと柔らかく、もっと粘るもの。

 

命令の束を、肉ごと切るような嫌な手応え。

 

黒い光が弾けた。

 

《八咫烏》が大きく震える。

 

『ぐっ……!』

 

千冬の声が歪んだ。

 

「姉さん!」

 

『止めるな!』

 

「はい!」

 

「縫!」

 

横島が続けてユニットに手を置く。

 

斬られた命令の断面に、一夏の声を通す細い道が縫い込まれる。

 

千冬の意志が、その道を掴む。

 

《八咫烏》の腕が、銀の福音を抱えたまま、ほんのわずかに緩んだ。

 

「今だ、千冬!」

 

『分かっている!』

 

千冬の意志が内側から立ち上がる。

 

機体の腕が止まる。

 

供給ラインが震える。

 

十二機を縛っていた赤い線が、一本、また一本と細くなっていく。

 

だが、銀の福音の方が暴れた。

 

沈んでいた獣のような反応が、急に浮き上がる。

 

白銀の翼が開きかける。

 

《八咫烏》の腕が、反射的に締まった。

 

千冬が内側から押し返す。

 

一夏が外から支える。

 

横島が後部で、歯を食いしばった。

 

「ちっ、やっぱり福音の方が深いか……!」

 

横島は、上着の内側へ手を入れた。

 

最後に隠していた文珠を取り出す。

 

手のひらの上で、白い珠が淡く光った。

 

「先生、それ」

 

「最後のへそくりだ。千冬には内緒な」

 

『聞こえている』

 

「……聞こえてたか」

 

横島は、苦笑した。

 

「じゃあ、あとで説教だな。生きて戻ったら聞くよ」

 

笑ったまま、文珠を握り込む。

 

「鎮」

 

掌の中で、文字が浮いた。

 

ユニットの方では足りない分を、横島が個人で持っていた最後の一個で補う。

 

文珠が軋み、自分の身を削るように熱を持った。

 

整え直された響きが、複座機の支援フィールドに乗って、銀の福音の胸部装甲へ静かに渡される。

 

派手な射出も、目立つ光線もない。

 

ただ、複座機と福音の間に、ごく短い一本の細い糸が引かれて、すぐに切れる。

 

それだけだった。

 

白銀の装甲の奥で、強大な何かが暴れた。

 

獣のような、凶悪な反応。

 

かつて見た、DDに近い何か。

 

人の形をしているのに、人の範囲から外れかけた反応。

 

だが、その深いところに、細い生命反応が確かにある。

 

ナターシャ・ファイルス。

 

まだ消えていない。

 

「戻すんじゃない」

 

横島が歯を食いしばる。

 

「引きずり戻すには、まだ深すぎる」

 

掌の中の文珠が、軋むように光った。

 

「せめて、沈め」

 

福音の巨大な翼が震えた。

 

暴走して開きかける。

 

千冬が腕力で抱え込む。

 

一夏が装甲越しに支える。

 

横島が後部から、ユニットと掌の文珠を二重に効かせ続ける。

 

千冬が内側から踏みとどまる。

 

一夏が、その名を呼び続ける。

 

横島が、二人の間に張った細い道を、千切れないように押さえ込む。

 

どれか一つでも途切れれば、すべてが落ちる。

 

奇跡というには、あまりに綱渡りだった。

 

「護」のユニットだけが、最後まで弱い光を保ち続けていた。

 

姉と弟の間に張られた声の道を、最後の最後で千切れさせないための囲い。

 

それが、ようやく文字を失って沈黙する。

 

銀の福音の翼が、痙攣を止めて、ゆっくりと畳まれた。

 

《八咫烏》の黒い羽根の光も、最後に弱々しくひと揺れして、完全に消える。

 

空に残っていた円環も、旋回を止めた。

 

ただ落ちたのではない。

 

非常時の保護機構が、遅れて働いた。

 

巨大な輪郭は重力に引かれながら、何層もの光にほどけ、質量を逃がすように速度を殺していく。

 

最後に海面へ触れた時、上がったのは爆発ではなく、白い水煙だけだった。

 

捕獲フィールドが、空気に溶けるように形を失って消え去る。

 

十二機が、長い時間を経て、ついに檻の外へ解放された。

 

『接続解除!』

 

『各機、離脱可能!』

 

『隊長機、制御反応低下!』

 

『銀の福音、活動レベル低下! 搭乗者生命反応、微弱ですが維持!』

 

矢継ぎ早に入る報告の中で、真耶の声が途中で震えた。

 

『織斑先生!』

 

動力を失った《八咫烏》が、空から落ち始めた。

 

気を失った銀の福音を抱えたまま。

 

一夏は反射的に手を伸ばした。

 

位置が悪い。

 

届かない。

 

だが、十二機のうち、最も近くにいた第一班の一機が真っ先に動いた。

 

次に第二班。

 

第三班。

 

さっきまで檻に閉じ込められ、理不尽にエネルギーを吸われ続けていた機体たちが、今度は外から素早く輪を作る。

 

自由落下していく黒い機体と、銀の福音を、自分たちの手で受け止めるために。

 

誰も、指揮官の命令など待たなかった。

 

千冬がすべてを懸けて守った部隊だった。

 

だから、今度は部隊が千冬を受け止めたのだ。

 

複数のシールドが網のように重なり合い、海面ぎりぎりで巨大な質量の落下速度が完全に殺される。

 

凄まじい水柱が上がった。

 

吹き上がる白い飛沫の中で、《八咫烏》が静かに止まる。

 

その腕の中に、銀の福音はまだ確かにあった。

 

装甲は壊れている。

 

完全に沈黙している。

 

だが、命は消えていない。

 

『……真耶ちゃん』

 

横島の声が、通信に戻った。

 

ひどく疲労し、掠れた声だった。

 

『千冬と福音、両方拾える?』

 

真耶は、静まり返った管制室で画面を見た。

 

黒い識別点。

 

銀の反応。

 

ナターシャの生命反応。

 

千冬の生命反応。

 

どれも風前の灯のように弱い。

 

どれも緊急の危険域にある。

 

それでも、決して消えていない。

 

『拾えます』

 

真耶は答えた。

 

安堵で声が震えた。

 

それでも、気丈にはっきりと繰り返した。

 

『両方、拾えます』

 

横島は、心底ほっとしたように長い息を吐いた。

 

『……撃破扱いには、できるよね』

 

少しだけ間を置いて、横島は続けた。

 

『でも、こっちとしては救出だ。失敗じゃない』

 

通信の向こうで、一夏が何かを言おうとした。

 

だが、感情がこみ上げて声にならなかった。

 

海上には、まだ不快な警告音が鳴り響いている。

 

あちこちに壊れた機体が浮いている。

 

傷ついた人間がいる。

 

銀の福音の中で、ナターシャ・ファイルスはまだ目を覚ます気配がない。

 

千冬も、深い眠りから応答しない。

 

それでも、撃墜による結末ではなかった。

 

最悪の破壊でもなかった。

 

十二機は全機残った。

 

《八咫烏》も落ちなかった。

 

銀の福音も、まだそこにある。

 

横島は、後部の狭い支援フレームの中で、掌の上の文珠をしばらく眺めていた。

 

砕けかけたその表面で、「鎮」の文字が、役目を終えたように薄くなっている。

 

それから視線を、支援フレームに並ぶユニットへ移した。

 

他のユニットも、すでに文字を失い、淡い熱だけを残して沈黙していた。

 

完全に救えたわけではない。

 

ただ、誰も死なせなかった。

 

横島は、白く荒れた海を見下ろした。

 

「……上出来だろ」

 

誰に言ったのか、自分でも分からなかった。

 

返事はなかった。

 

ただ、遠くの空で、救助機の力強いローター音が近づいていた。

 

 

 

 

 




繰り返しですが、難産でした…時間かかってしまいました。

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
少しでも「続きが気になる」と思っていただけましたら、お気に入り登録や評価、感想などをいただけると嬉しいです。




余談ですが、別ジャンルで完結済みのウマ娘二次創作も投稿しています。
かなり作風は違いますが、静かな文芸寄りの話がお好きな方は、よろしければどうぞ。
https://syosetu.org/novel/411571/



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