ISクロスGS ザ・グレート・ゲーム  【IS世界に横島忠夫を放り込んでみた】   作:監督

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幕間です。

今回はIS学園側ではなく、横島の元いた場所――美神除霊事務所の話になります。

「GS美神」をあまりご存じない方には少し馴染みの薄い場面かもしれませんが、「横島がいなくなった後の、元の居場所」として読んでいただければ幸いです。

なお、本編第18話前編も同時投稿しています。



幕間 彼のいない事務所

 

 

 

 

 朝の美神除霊事務所は、妙に、静かだった。

 

 街の外れ、古めかしい構えの事務所。窓から差し込む朝の光が、宙に舞う埃を、白く照らしていた。

 

 その光の中で、美神令子は、ソファに深く身を沈め、新聞を読んでいた。

 

 長い脚を組み、片手にコーヒー。眉一つ動かさず、紙面をめくる。優雅な、絵になる朝の風景だった。

 

 静かだ。

 

 あまりに、静かだった。

 

 普段なら、この時間は、こうではない。

 

 朝っぱらから、誰かの素っ頓狂な声が響いている。テレビのチャンネルを勝手に変えて怒鳴られる声。新聞の占い欄を覗き込んで、今日のラッキーアイテムがどうだと騒ぐ声。そして、決まって最後には、何か粗相をして、美神に殴り飛ばされる音。

 

 その、騒がしさの主が、いない。

 

「……静かねえ」

 

 美神は、新聞をめくりながら、ぽつりと言った。

 

「清々するわ。朝から、馬鹿の相手をしなくて済むんだもの」

 

 返事は、ない。

 

 いつもなら、ここで「ひでえ!」だの「俺はこの事務所に必要な人材っすよ!」だのと、無駄に元気な反論が飛んでくるはずだった。

 

 それが、ない。

 

 美神は、コーヒーを一口、含んだ。

 

 少しだけ、冷めていた。

 

「美神さん」

 

 奥から、おキヌが、顔を出した。

 

 まだ少し眠そうな、若い娘だった。エプロン姿で、片手に布巾を持っている。住み込みで事務所に居候しながら、GSの修行を積む、いわば美神の助手。歳の離れた、妹のような存在でもあった。

 

「お代わり、いれましょうか」

 

「もらおうかしら」

 

「はい」

 

 おキヌは、頷いて、キッチンへ向かおうとした。

 

 その途中、ふと、足を止める。

 

 部屋の隅。

 

 横島の、机。

 

 書類とも工具ともつかない雑多なものが、積み上がったまま、放置されている。読みかけの安っぽい雑誌。端の折れた領収書。何に使うつもりだったのか分からない護符の切れ端。飲みかけの——もう、とっくに気の抜けた——缶ジュース。そして、縁の欠けた、安物の湯呑み。

 

 すべて、あの日のまま、だった。

 

 おキヌは、布巾を手に、その机へ、近づいた。

 

「あ……ちょっと、拭いておきましょうか。少し、埃も——」

 

「いいわよ」

 

 美神は、新聞から目を上げずに、言った。

 

「あいつに、片づけさせるから。そのままにしといて」

 

 おキヌの手が、止まる。

 

 あいつに、片づけさせる。

 

 おキヌは、ちらりと、美神を見た。

 

 美神は、何食わぬ顔で、新聞をめくっている。自分が、今、何を言ったか、気づいてすらいない、というふうに。

 

 おキヌは、何も言わずに、布巾を引いた。

 

「……はい」

 

 小さく頷いて、キッチンへ向かう。

 

 事務所に、また、静けさが戻った。

 

 新聞の紙が擦れる音だけが、やけに大きく響く。

 

 普段は、この音すら、あの男の騒ぎにかき消されて、聞こえやしなかった。

 

「……ほんとに、静かね」

 

 美神は、もう一度、同じことを言った。

 

 今度は、誰も聞いていないところで。

 

 

 

     ◇

 

 

 

 その日の午後、二人は仕事に出た。

 

 依頼は、解体を控えた古い雑居ビルだった。

 

 駅裏の、再開発から取り残された一角。築四十年は下らないであろう五階建ては、もう何年も前から、まともなテナントが入っていない。何度か買い手はついたものの、そのたびに関係者に不幸が続いた。事故。病。失踪。——いわくつき、として、不動産屋のあいだでは、すっかり有名な物件だった。

 

 ようやく解体が決まり、その前に「祓っておきたい」と、地上げ屋から泣きつかれた。

 

「報酬は弾むそうよ。死人が出る前に、片づけてくれって」

 

 美神は、ビルを見上げて、唇の端を上げた。

 

 値踏みするような目だった。

 

 ビルの窓は、ほとんどが割れている。夕方にはまだ早い時間だというのに、建物の内側だけが、妙に暗かった。入口の自動ドアは壊れたまま半開きになっていて、その隙間から、埃っぽい風が、ゆるく吐き出されている。

 

 美神は、その風を鼻先で受けて、軽く眉を寄せた。

 

「……溜まってるわね」

 

「美神さん」

 

 傍らで、おキヌが、静かに告げた。

 

「三階と、四階。それから、屋上。いえ……建物全体に、薄く広がっています」

 

「雑霊が巣にしてるわね。しかも、数だけは多い」

 

 美神は、肩をすくめた。

 

「まともに一体ずつ相手してたら、日が暮れるわ」

 

「奥のほうに、核みたいなものがあります。たぶん、そこに集まっています。小さい霊が、たくさん」

 

「なら、話は早いわ」

 

 美神は、懐から神通棍を抜いた。

 

 手に馴染んだ武器の感触が、掌に収まる。派手な儀式も、大げさな準備もいらない。こういう場所では、手早く、確実に、淀みの芯を叩く。それが一番安い。依頼人にとっても、美神にとっても。

 

「おキヌちゃん、散らさないで。まとめて縫い止めて」

 

「はい」

 

 二人は、ビルへ足を踏み入れた。

 

 埃と、黴と、饐えた水の匂い。割れた窓から差す西日が、廃墟の廊下を赤く染めている。床には、古いチラシや折れた蛍光灯が散らばっていた。壁紙は浮き、ところどころ黒ずんでいる。人がいなくなってからの年月が、そこらじゅうに積もっていた。

 

 三階へ上がる階段の途中で、壁が、ざわりと揺れた。

 

 染みのような影が、天井から滲み出す。階段の踊り場から、細い腕がいくつも伸びる。扉の隙間、割れた窓、剥がれた壁紙の裏。そこらじゅうから、人の形を失いかけた霊が、ずるずると這い出してきた。

 

 一体一体は、大したことはない。

 

 だが、数が多い。

 

 怨みも、未練も、恐怖も、長い年月のあいだに混ざり合い、どれが誰のものなのかも、もう分からなくなっている。濁った水たまりのような悪意が、廊下いっぱいに広がっていた。

 

「おキヌちゃん」

 

「はい」

 

 おキヌが、一歩、前へ出た。

 

 懐から、一管の笛を取り出す。古びた、けれど手入れの行き届いた、竹の横笛だった。

 

 それを、そっと唇に当てる。

 

 澄んだ音色が、廃墟の廊下に流れ出した。

 

 細く、寂しげな音だった。

 

 けれど、その音は、ただ優しいだけではなかった。廊下に満ちていた霊たちの動きが、ひとつ、またひとつと鈍っていく。這い出した腕が止まる。天井から垂れた影が揺れる。階段を埋めていた気配が、笛の音に引かれるように、少しずつ同じ方へ流れ始める。

 

 おキヌは、霊を祓っているのではない。

 

 散らばった霊たちを、笛の音で束ねていた。

 

 群れの流れを押さえ、逃げ道を塞ぎ、濁った悪意を一か所へ寄せていく。暴れる霊たちは、いつの間にか、廊下の奥へと押し込められていた。

 

「美神さん」

 

「ええ」

 

 美神は、もう神通棍を構えていた。

 

 短く踏み込む。

 

 神通棍の先が、薄闇を裂いた。

 

 一撃。

 

 廊下の奥に押し込められていた霊の群れが、まとめて弾けた。悲鳴にもならない声が、壁の中を走る。黒ずんだ染みが剥がれ落ち、天井に絡みついていた影がほどける。濁っていた空気が、急に軽くなった。

 

 終わったわけではない。

 

 まだ、上の階にいる。

 

 だが、美神は足を止めなかった。

 

「次」

 

「はい」

 

 四階も、屋上も、同じだった。

 

 おキヌが笛で集める。美神が神通棍で叩き祓う。

 

 霊の数は多かった。まともに数えれば、二十や三十では済まなかったかもしれない。廊下の隅から、壊れた給湯室から、錆びた非常階段の裏から、次々と薄い影が滲み出してくる。

 

 だが、個々に名前を問う必要はなかった。

 

 ひとつひとつの未練に付き合う必要もなかった。

 

 このビルに染みつき、絡み合い、もう自分の形すら忘れた霊たちを。

 

 おキヌが、散らさずにまとめる。

 

 美神が、まとめて祓う。

 

 それだけで、仕事は進んでいった。

 

 危なげは、まるでなかった。

 

 最後の一群は、屋上に溜まっていた。

 

 フェンスは錆びつき、床には雨水の乾いた跡が残っている。夕陽を背に、雑霊たちは、黒い霞のように絡まり合っていた。飛び降りた者、追い詰められた者、ただ場所に引き寄せられて形をなくした者。いくつもの気配が一つに溶け、屋上の縁から、ゆらゆらと揺れている。

 

「おキヌちゃん」

 

「はい」

 

 笛が鳴る。

 

 澄んだ音色が、夕暮れの空へ流れていく。

 

 霊たちの黒い霞が、ゆっくりと動きを鈍らせた。逃げようとする影が、音に絡め取られて戻される。落ちようとするものが、落ちる寸前で止まる。おキヌの笛は、屋上に散らばっていた気配を、夕陽の一点へ静かに寄せていった。

 

 美神は、神通棍を肩の高さに構えた。

 

「終わりよ」

 

 振り下ろす。

 

 神通棍の一撃が、夕陽に黒く凝っていたものを、まとめて砕いた。

 

 屋上を満たしていた淀みが、風にほどけていく。黒い霞は、声もなく薄れ、最後には、赤く染まった空と、遠くから聞こえる電車の音だけが残った。

 

 日が傾ききる前に。

 

 ビルは、すっかり静かになった。

 

「……こんなものね」

 

 美神は、屋上の縁に立って、夕暮れの街を見下ろした。

 

 報酬に見合うだけの、それなりに厄介な現場ではあった。霊の数も多い。絡み方も悪い。生半可な者なら、一晩がかりで、それでも取り逃がしただろう。

 

 それを、二人で半日もかけずに片づけてしまった。

 

 危なげなく。

 

 滑らかに。

 

「……早かったですね」

 

 おキヌが、ぽつりと言った。

 

 夕陽に照らされた横顔が、どこか所在なげだった。

 

「あら。早いほうが、いいでしょう。報酬は同じよ」

 

「はい。それは、そうなんですけど……」

 

 おキヌは、言葉を探した。

 

「なんだか……静かで」

 

 美神は、答えなかった。

 

 ただ、夕暮れの街を見ている。

 

 おキヌの言いたいことは、分かっていた。

 

 いつもなら、こうは、いかなかった。

 

 あの男がいれば。

 

 霊の数を見た途端、まず文句を言っただろう。だが、文句を言いながらも、霊波刀はきっちり振るう。おキヌの笛から外れた雑霊を散らし、美神の神通棍が通る道を空けるくらいは、もう、当たり前のようにやってのける。

 

 腕は、上がった。

 

 そのぶん、口も減ればよかったのだが。

 

 祓い終わったあとで、あいつはきっと、得意げに笑ったに違いない。

 

 いやー、今のは俺の活躍、けっこう大きかったんじゃないっすか?

 

 そして、美神に小突かれる。

 

 うるさくて。

 

 軽くて。

 

 手間ばかりかかって。

 

 半日で済む仕事が、まる一日かかったりした。

 

 なのに。

 

「……ほんとに、静かね」

 

 美神は、自分でも気づかぬうちに、そう口にしていた。

 

 手際よく片づいた現場は、いつもよりずっと早く終わった。

 

 そして、いつもより、ずっと静かだった。

 

 うるさい男が一人、欠けただけで。

 

 夕陽が、二人の影を、屋上に長く伸ばしている。

 

 その影の中に、本来あるべき、三つ目の——騒がしい影はなかった。

 

 

 

 

     ◇

 

 

 

 

 事務所に戻るころには、すっかり夜になっていた。

 

 報酬の振り込みを確認し、美神は、ソファに身を沈めた。おキヌが茶を淹れる。

 

 仕事は終わった。

 

 厄介な現場を、半日で。危なげなく。

 

 なのに、美神の機嫌は、どうにも晴れなかった。

 

 茶を一口含んで、美神は、卓上の端末へ目をやった。

 

 事務所の、人工幽霊。

 

 事務所の前の持ち主が遺していった、式神めいた存在だ。

 

 気は利く。事務所の内外で、少しでも妙な動きがあれば、すぐに知らせてくる。

 

 横島が消えたあの瞬間も、人工幽霊は、ちゃんと拾って、記録していた。

 

 拾えなかったのは、美神のほうだ。

 

 あの日、美神は、珍しく、風邪で寝込んでいた。たかが風邪だ。

 

 あの美神令子が、と、自分でも笑ってしまうような。

 

 よりにもよって、その間の悪い一日に、横島は、消えた。

 

 目を覚ましたときには、もう、終わっていた。

 

 あいつは、いなかった。残っていたのは、淡いログだけ。

 

「……ねえ」

 

 美神は、人工幽霊に声をかけた。

 

「あの日のログ。もう一度、出しなさい」

 

 あの日。

 

 横島が、消えた日。

 

 卓上に、淡い光が立ち上がる。

 

 その光が、記録を映し出した。

 

 数日前の、この事務所の、ある一瞬。

 

 横島が、文珠を使った。

 

 それ自体は、別に珍しくもない。あの男は、わりと気軽に文珠を使う。手元の霊力を固めて、ちょっとした足止めや、目くらましに。くだらない思いつきのために使うことさえある。

 

 だから、その記録だけなら、美神も気には留めなかった。

 

 問題は、その直後だった。

 

 文珠が砕け、力が放たれた——その瞬間。

 

 記録に、奇妙な歪みが走っていた。

 

 通常の霊道を通った移動でもない。母が使うような、時空や距離を越える転移でもない。美神の知る、どの理屈にも当てはまらない、ねじれ。空間そのものが、ほんの一瞬、よじれたような——そして、横島の気配が、そのよじれの向こう側へ滑り落ちて、消えた。

 

 記録は、そこで、ぷつりと断たれている。

 

 その先が、ない。

 

 何度、再生しても、同じだった。

 

「……何度見ても、気色が悪いわね」

 

 美神は、眉を寄せた。

 

 文珠を使ったこと自体は、いい。

 

 それは、いつものことだ。

 

 だが、このあとに起きた、これは——何だ。

 

 その時、事務所のドアが開いた。

 

 ノックの音すらなかった。

 

「美神さーん。いらっしゃいますか?」

 

 丁寧な、けれどどこか間延びした声とともに、一人の女性が入ってきた。

 

 百目。

 

 ヒャクメ。

 

 遥か遠くまで見通す千里眼を持つ、女神である。神、とはいうものの、その物腰はひどく柔らかい。おっとりとして、どこか世間ずれしていない。長い付き合いの美神に言わせれば、「格は立派なくせに、中身は天然」だった。

 

「あら。いらっしゃい。早かったわね」

 

「はい。美神さんから、視てほしいものがある、と。それはもう、急いで参りました」

 

 ヒャクメは、にこにこと事務所を見回した。

 

 それから、ふと首を傾げる。

 

「……あら。なんだか、静かですね。いつもの、騒がしい殿方は?」

 

 冗談めかしたヒャクメのその一言で、事務所の空気が、わずかに強張った。

 

「その話をするために、来てもらったの」

 

 美神は、卓上の光——途切れたログを、顎で示した。

 

「これ。横島が消えた、その先。あなたの目で、追えるかしら」

 

「横島さんが……?」

 

 ヒャクメは、ようやく事態を察したらしい。にこやかだった表情が、すっと引き締まる。

 

 卓上の光に向き直った。

 

 ログを視る。

 

 いや、ログの、その先を——横島が滑り落ちた、ねじれの向こうを、視ようとする。

 

 長い沈黙があった。

 

 ヒャクメの穏やかな目が、わずかに見開かれる。遠くを、もっと遠くを、見通そうとする。その視線が、闇を貫いていく。

 

 千里眼。

 

 この世のどこに在ろうと、捜し出せぬものなど、ないはずの力。

 

 なのに。

 

「……あれ」

 

 ヒャクメが、ぽつりと言った。

 

 戸惑った声だった。

 

「……視えません」

 

「視えない?」

 

 美神の眉が上がる。

 

「あなたの目で、よ?」

 

「はい」

 

 ヒャクメは、困ったように眉を下げた。

 

 いつもの、おっとりとした顔に、隠しきれない当惑が滲んでいる。

 

「おかしいですね……。横島さんの気配が、このねじれの向こうへ抜けたことは、分かるのです。確かに、その先へ。でも、その先を視ようとすると……視線が、滑ってしまうのです。手がかりがない。掴もうとしても、するりと抜けて……」

 

「あなたでも?」

 

「私でも、です」

 

 ヒャクメは、自分の言葉が信じられないというように、もう一度、ログの先を視ようとした。

 

 だが、結果は同じらしかった。

 

「……分かりません」

 

 ヒャクメは、ゆっくりと首を振った。

 

「隠されている、というのとも、少し違う気がします。目隠しをされているなら、その目隠しの、向こうを探りようも、あります。けれど、これは……目を向ける先に、手がかりそのものが、ないのです」

 

「手がかりがない?」

 

「はい。何もない、という意味では、ありません。ただ、私の目が辿れる筋道が、そこから先に、続いていない。見るための道が、途中で、途切れているような……」

 

 ヒャクメは、言葉を探して、結局、見つけられなかった。

 

「うまく、言えません。こんなこと、初めてで。横島さんが、どこにいらっしゃるのか。近いのか、遠いのか。それすら掴めません。気配が、ぷつりと途切れて……まるで、私の目の届かないところへ、行ってしまわれたみたいに」

 

「行っちゃった、ね」

 

 美神は、腕を組んだ。

 

「自分の足で、行ったのか。連れていかれたのか。それも、分からない?」

 

「……少なくとも、私には」

 

 ヒャクメは、力なく、首を振った。

 

 美神は、しばらく黙っていた。

 

 ヒャクメは、嘘をつかない。強がりは言うにせよ、能力を誇張もしない。その彼女が、視えない、と言う。

 

 それが、何より不気味だった。

 

「……お役に立てず、申し訳ありません」

 

 ヒャクメは、しゅんと肩を落とした。

 

 格は、美神よりよほど上のはずの神が、叱られた子供のようにしおれている。

 

「謝らなくていいわよ。あなたのせいじゃない」

 

 美神は、軽く手を振った。

 

「厄介な話だわ。よりにもよって、いちばん面倒くさい消え方をして」

 

 軽口だった。

 

 いつもの毒だった。

 

 だが。

 

「……でも、ね」

 

 美神の声が、ほんの少し低くなった。

 

「あいつは、馬鹿だけど。こんな、わけの分からない消え方を、自分から選ぶようなタマじゃないのよ。あなたも知ってるでしょ」

 

 ヒャクメが、美神を見た。

 

「逃げるなら、もっと要領よく逃げるわ。遊ぶなら、もっと分かりやすく遊ぶ。女の子が絡んでるなら、もっと鼻の下を伸ばして、こっちに足跡を残す。——こんな、あたしにも、あなたにも、跡を追えない場所に。自分から飛び込むタマじゃないのよ、あいつは」

 

 美神は、冷めた茶を一口含んだ。

 

「巻き込まれたのよ。間違いなく」

 

「美神さん」

 

 それまで黙って聞いていた、おキヌが、口を開いた。

 

 その声は、美神のような軽口ではなかった。

 

 ただ、素直に、寂しげだった。

 

「横島さんなら……大丈夫ですよね」

 

 おキヌは、横島の机を見た。

 

「あの人、肝心な時だけは、ちゃんと強いですから」

 

「肝心な時以外も、もう少しまともならね」

 

 美神は、目を逸らした。

 

「……まあ。あれでも一応、うちの助手だったんだから」

 

「はい」

 

 おキヌは、小さく頷いた。

 

 その頷きは、自分に言い聞かせるようでもあった。

 

 美神は、立ち上がって、横島の机の方へ歩いていく。

 

 縁の欠けた、安物の湯呑み。読みかけの、くだらない雑誌。気の抜けた、缶ジュース。

 

 美神は、それを見下ろした。

 

 しばらく、何もしなかった。

 

 片づけようとは、しなかった。

 

「……逃げたんなら、殴るわ」

 

 美神は、そう言って、横島の湯呑みを、机の端へ戻した。

 

「巻き込まれたんなら——助けてから、殴る」

 

 軽く、指で弾く。

 

「あの」

 

 ヒャクメが、おずおずと口を開いた。

 

「私、これからも、時々、視てみます。横島さんの行った先。今は駄目でも……いつか、ひょっとしたら、視えるようになるかもしれませんし」

 

「……そう。お願いするわ」

 

 美神は、振り返らずに言った。

 

「見えたら、すぐ知らせて。夜中でも構わないわ。欠勤扱いで減給しすぎたら、あいつ、戻ってきても食えないでしょ」

 

 ヒャクメは、こくりと頷いた。

 

 頷いてから、もう一度だけ、ふと、消えたログのほうへ、視線を向ける。やはり、その先は、視えないのだろう。小さく、息をついた。

 

 視えなかった、という引っかかりは、まだ、彼女の中に、残っているようだった。

 

 事務所に、静けさが戻る。

 

 横島のいない事務所。

 

 数日前まで、当たり前に騒がしかったその場所は、今はただ、夜の中で静まり返っている。

 

 誰も座っていない椅子が、一つ。

 

 いつもの場所に、あるだけだった。

 

 

 

                     

 






ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
少しでも「続きが気になる」と思っていただけましたら、お気に入り登録や評価、感想などをいただけると嬉しいです。




余談ですが、別ジャンルで完結済みのウマ娘二次創作も投稿しています。
かなり作風は違いますが、静かな文芸寄りの話がお好きな方は、よろしければどうぞ。
https://syosetu.org/novel/411571/
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