ISクロスGS ザ・グレート・ゲーム 【IS世界に横島忠夫を放り込んでみた】 作:監督
九月の半ばだというのに、空はまだ夏の色を残していた。
抜けるような青の高いところに、薄い雲が刷毛で掃いたように伸びている。陽射しは強い。だが、アスファルトを焼いていた真夏の暴力的な熱は、もうない。風に、わずかに乾いた匂いが混じり始めている。稲の匂いにも、枯れ草の匂いにも似た、夏の終わりの匂いだった。
IS学園は、朝から騒がしかった。
中庭にも、渡り廊下にも、普段は使われない資材が運び込まれている。木材。塗料の缶。丸めた模造紙。脚立。台車に積まれた段ボールの山。それらの間を、制服姿の少女たちが行き交い、声をかけ合い、笑い、ときどき何かを倒しては悲鳴を上げていた。
足場用の単管がぶつかり合う甲高い音。電動ドライバーの唸り。塗料を溶く匂い。誰かが運ぶラジカセから漏れる、調子外れの音楽。そのすべてが入り混じって、学園全体が、一つの大きな生き物のように、浮き足立っている。
学園祭が近い。
二学期に入って最初の、そして数少ない、生徒たちが羽目を外すことを許される行事だった。
ふだんのIS学園は、ただの学校ではない。各国から集められた代表候補生たちの、教育機関であり、研究施設であり、そして対DDの前線基地でもある。生徒たちの自由は、何重もの規則に縛られている。外出は申請制。私物にも制限がある。日々の大半は、訓練と座学に費やされる。
だからこそ、祭りの二日間は、特別だった。
その特別が、もう、すぐそこまで来ている。誰もが、それを肌で感じていた。
「一夏さん、そちらではありませんわ」
凜とした声が、喧騒を縫って飛んできた。
セシリア・オルコットが、丸めた紙——どうやら教室の見取り図らしい——を片手に、てきぱきと指示を出している。金髪を朝の光に揺らし、背筋を伸ばした立ち姿は、ただの教室の飾りつけにも、妙な気品を添えていた。
「装飾用の什器は、窓際ではなく、後方の壁面に。導線を考えなさいな。お客様が入っていらして、最初に目に入る位置に、一番見せたいものを置く。基本ですわ」
「設計図まで引いたのか、これ」
一夏は、抱えた段ボールの上から、その紙を覗き込んだ。教室の見取り図に、几帳面な矢印と、細かい書き込みがびっしりと並んでいる。
「当然ですわ。イギリスのチャリティ・バザーでは、会場設計から客の動線まで、すべて事前に図面へ起こしますの。行き当たりばったりで物を並べるなど、はしたない——」
「はいはい、出たわよイギリス自慢」
横から、凰鈴音が、脚立を肩に担いで通り過ぎた。
「だいたいセシリア、あんた自分はちっとも重いもの持たないじゃない。口と指図ばっかり達者でさ」
「適材適所と申しますの。わたくしは、頭脳労働を担当しておりますのよ」
「ようするにサボりでしょ、それ」
「なんですってぇ?!」
「まあまあ、二人とも」
シャルロット・デュノアが、塗料の缶を両手に提げて、慣れた様子で割って入った。喧嘩の仲裁は、もうすっかり手慣れている。
「喧嘩する元気があるなら、その分こっち手伝ってよ。ペンキ、まだ三缶あるんだから。乾かす時間も考えると、午前のうちに塗っちゃいたいんだよね」
「シャルは本当に働き者だな」
一夏が言うと、シャルは少しはにかんで、塗料の缶を床に下ろした。
「働き者っていうか……誰かがやらないと、進まないから」
その隣で、ラウラ・ボーデヴィッヒが、ハケを握ったまま、塗りかけの板を睨んでいた。彼女は、定規でも当てたように真っ直ぐな線を一本引いて、満足そうに頷く。
「ふむ。塗装も、要は弾道の制御と同じだ。手元がぶれなければ、線は乱れん。呼吸を止め、対象を見据え、一息に引く。射撃の基本だ」
「いや、塗装に弾道は関係ないと思うぞ……」
一夏のつぶやきは、誰にも拾われなかった。
ラウラは、自分の引いた線の出来栄えに、いたく満足しているらしい。次の一本も、やはり眉間に皺を寄せ、息を止めて、真剣な面持ちで引いている。装飾のハケを、まるで狙撃銃のように扱う姿は、傍から見れば、いささか奇妙だった。
「全く、騒がしいな」
最後に、聞き慣れた声が、背後から響いた。
篠ノ之箒だった。竹刀こそ持っていないが、立ち姿には、道場の張り詰めた気配がそのまま残っている。手には、几帳面に折り目をつけた紙の束。
「役割分担表だ。これに沿って動けば、無駄がない。一夏、お前は力仕事の担当だ。重いものは、すべてお前が運ぶ。文句はないな」
「箒も箒でまじめだなあ」
「誰かがやらねば、まとまらん。見ろ、この有様だ」
箒は、騒然とした教室を、ぐるりと指し示した。
確かに、一組の教室は、混沌としていた。波を模した青い布を張ろうとする者、その下で配線を這わせる者、看板に色を塗る者——それぞれが、それぞれの判断で動いている。セシリアの指揮系統は、残念ながらあってないようなものだった。
結局、皆、楽しみたい気持ちが前に出ていた。
この半年で、五人の距離も、ずいぶん変わった。出会った頃の、互いを値踏みするような剣呑さは、もうない。喧嘩のようなやり取りの底に、確かな信頼が透けている。一夏には、いまだに女子の機微はよく分からないが、それでも、この騒がしさが、嫌いではなかった。
「あっ」
その時だった。
天井近くで作業していた誰かの手が滑ったのか、張りかけていた青い布の一端が、はらりと外れた。
布は、波のようにたわみながら、ゆっくりと落ちてくる。その真下にいたのは、塗料の缶を抱えたシャルロットだった。
「シャル!」
一夏は、とっさに段ボールを放り出して、駆け寄った。
布が、シャルロットの頭から、すっぽりと被さる。
「わ、わわっ」
「大丈夫か?!」
一夏が布をめくると、中から、塗料の缶を必死に守る姿勢のシャルロットが現れた。布は被ったが、缶はこぼれていない。とっさに、自分よりペンキを庇ったらしい。
「……ペンキ、無事」
シャルロットが、ほっとしたように言った。
その間の抜けた顔つきに、誰からともなく、笑いが漏れた。
「シャル、自分より塗料かよ」
「だ、だって、こぼしたら、床も汚れるし、塗り直しになるし……」
「もう、相変わらず律儀ねえ」
鈴が、脚立の上から、けらけらと笑う。
「布、ちゃんと留めなさいよ! 誰よ、手ぇ滑らせたの!」
「す、すみませーん」
申し訳なさそうな声が返ってきた。
一夏は、被さった布を引き取って、丁寧に畳み直した。青い、薄い布。光に透かすと、向こうが淡く透けて見える。
「これ、なんの布だ?」
「海ですわ」
セシリアが、当然のように言った。
「海?」
「ええ。窓という窓に、これを張りますの。陽の光が透けて、教室の中が、ちょうど海の底のように染まりますのよ。わたくしの、自信作の演出ですわ」
一夏は、布越しに、窓の外を見た。
九月の、まだ夏の色を残した空が、青い布を通して、いっそう深い青に染まって見えた。
「……へえ」
思わず、感心した声が漏れる。
「だろう、ですわ」
セシリアが、得意げに胸を反らした。
「ねえ、聞いてよ一夏」
布を留め直すのを手伝いながら、鈴が、ふと口を尖らせた。
「うちのクラス、結局この『海の家』になったんだけどさ。本当はね、肝試しがやりたかったの。海でやる、本格的なやつ。砂浜で、夜に」
「肝試し?」
「臨海学校で、やる予定だったんだ。実行委員が、もう計画まで立ててたんだから。なのに——」
鈴は、肩をすくめた。
「流れちゃったでしょ、こないだの。臨海学校」
一夏の手が、布の端で、ほんのわずかに、止まった。
「……ああ」
「だからさ、その分も、ここで取り返すんだって、みんな張り切っちゃって。装飾、かなり気合い入ってるでしょ。よその一年のクラスも、似たようなもんだって」
鈴は、それきり、また別の話題へ移っていった。布の留め方が甘いの、次はどの飾りを吊るすの、と、もう、流れた臨海学校のことなど、すっかり頭の隅に追いやられている。
惜しんでいない。
惜しむより、目の前の祭りの方が、ずっと楽しい。
当然のことだった。
一夏は、何も言わずに、布を留め終えた。それから、放り出した段ボールを拾いに、人混みの中へ戻る。
臨海学校は、中止になった。
一年生の多くにとって、それは「残念だったけれど、仕方のないこと」だ。事故か、天候か、何かのトラブルがあって、実習は途中で打ち切られた——その程度の理解で、誰も深くは追わない。追う理由が、ない。学園からは、それ以上のことは、何も知らされていないのだから。
だが、一夏は、知っている。
あの海で、何があったか。
姉が、どうなったか。
横島という男が、何をしたか。
銀の福音のことも。八咫烏のことも。あの日、海の上に張られた、見えない檻のことも。海面ぎりぎりで止まった、巨大な機体のことも。全部、一夏は、知っている。
知っているのは、一夏だけだ。
級友たちは、流れた臨海学校の「分」を取り返そうと、無邪気に笑っている。海を持ってこようと、紙の魚を吊るし、青い布を張り、はしゃいでいる。
その明るさが、まぶしくて、少しだけ、遠かった。
「織斑くん、こっちの脚立、押さえてもらえる?」
「ああ、いま行く」
一夏は、声のした方へ向かう。
考えても、仕方がない。今、自分にできるのは、目の前の脚立を押さえることだ。姉のことも、地下のことも、ここで口にできることではない。
「そういえば」
ふと、シャルロットが、ハケを止めて、首を傾げた。
「織斑先生、最近見ないね。ホームルームも、代わりの先生が入れ替わりだし。クラス対抗戦のときは、あんなにびしばし仕切ってたのに」
一夏の肩が、わずかに、強張った。
「出張か、少し体調がお悪いのではなくて?」
セシリアが、振り返りながら言う。
「横島先生も、このところ、お姿を見ませんわね。あの方は元々、ふらりといなくなる方ですけれど。最近は、輪をかけて」
「あー、確かに」
鈴が、脚立の上で頷いた。
「あのセクハラ教師もいないわよね。朝の挨拶代わりのナンパもなくて助かるから、誰かがきっちり締めてくれたんだったら、ありがたいけど」
軽い、雑談だった。
誰も、深い意味を込めてはいない。先生の一人や二人、少々姿を見ない日があっても、この学園では珍しくない。出張も多いし、研究にこもることもある。それだけのことだ。
ただ、一夏だけが、その言葉の重さを、知っていた。
千冬は、地下にいる。
横島も、地下にいる。
二人が、どこで、何をしているのか。なぜ、表に出てこられないのか。その理由を、一夏は、知っている。知っていて、何も、言えない。
「……忙しいんじゃないか、二人とも」
ようやく、それだけ返した。
嘘では、ない。
けれど、本当でも、なかった。
「だよねえ」
シャルロットは、あっさりと頷いて、またハケを動かし始めた。
「先生たちも、祭りの準備、大変なのかもね」
それでよかった。
それでいい。
誰も、あの海のことを知らないままでいい。流れた臨海学校を、ただ「残念だった」と惜しむだけで、その先を、知らないままでいい。
それを守るために、姉も、横島も、表に出てこないでいるのだから。
一夏は、次の段ボールを取りに、人混みの中へ、戻っていく。
午前の中庭は、笑い声で満ちている。
紙の魚が、糸に揺れている。青い布が、窓を染めかけている。脚立の上で、誰かが何かを叫び、別の誰かが、それに笑い返している。
その笑い声の届かない場所が、この学園には、ある。
何層もの隔壁を隔てた、地下の、いちばん静かなところに。
一夏は、ふと、足を止めて、廊下の床へ目を落とした。
その下に、姉がいる。
そう思うと、足の裏が、急に、ひどく遠く感じられた。
「一夏ー! 何ぼーっとしてんの! 早くー!」
鈴の声に、一夏は、はっと顔を上げた。
「あ、ああ。悪い、いま行く」
段ボールを抱え直して、一夏は、また、明るい喧騒の中へ、駆け戻っていった。
◇
学園長室は、本館の最上階にあった。
中庭の喧騒は、ここまでは届かない。分厚い扉と、二重の窓ガラスが、祭りの準備のざわめきを、遠い潮騒のように薄めている。聞こえるのは、古い柱時計の、規則正しい振り子の音だけだった。
広い執務机の向こうに、轡木夫人——表向き、IS学園の学園長は座っていた。
老いてなお、背筋の伸びた人だった。白髪をきちんと結い上げ、地味だが、仕立ての良い灰青の服を着ている。その佇まいには、長く人の上に立ってきた者の、隙のない気品があった。机の上には、各国の紋章をあしらった書状が、定規で測ったように、几帳面に揃えて積まれている。
その書状の束は、しかし、ただ積まれているのではなかった。一通一通に、付箋が貼られ、余白には、細かな書き込みがある。反論の草案。代替案。条件付き受諾の線引き。——この一月あまり、夫人が、相手とやり合ってきた、その痕跡だった。
「結局、ここまで、ですか」
夫人は、いちばん上の書状を、指先で、軽く弾いた。
声に、隠しきれない、疲労が滲んでいた。
「二十一カ国会議からの、最終通告です。学園祭の、一般公開。各国視察団の受け入れ。報道各社への、会場開放。——三件、まとめて」
部屋の隅で、轡木が、茶を淹れていた。
学園長室にいてなお、彼は、用務員の上着のままだった。袖口は、わずかにほつれている。湯気の立つ茶碗を二つ、古びた盆に載せて、ゆっくりと運んでくる。
「ふむ」
夫人の前に、茶碗を一つ置き、来客用の椅子に、どっかりと腰を下ろす。
「ずいぶん、粘ったがの」
「粘りました」
夫人は、書状の束へ、目を落とした。
「まず、開催そのものを、見送れないかと。この時期の祭りは、生徒の安全に懸念がある、と。——一蹴されました。安定を、内外に示す好機を、なぜ逃すのか、と」
付箋の一枚を、指でなぞる。
「ならば、せめて、非公開で。生徒だけの、内輪の催しに、と。——これも。それでは、意味がない、と。連中が見たいのは、祭りそのものではなく、祭りに、外を、入れることですから。開かれた学園を、世界に見せること。学園を『開かせること』。それが、向こうの狙いですからね」
「規模は」
「絞ろうとしました。視察団の人数。報道の立ち入り範囲。動線の限定。……いくつかは、通しました。報道は、指定区画のみ。視察団も、人数に、上限を設けさせた。譲れる線は、譲らせた、つもりです」
夫人は、茶に、手を伸ばした。
「ですが、根本は——外を、入れる。それだけは、どうしても、覆せませんでした」
「覆せんよ」
轡木は、茶をすすった。
「断る余地のない書き方を、向こうも、してきておる。要請、という体裁を取って、その実、命令じゃ。中立を、建前にしておる学園が、各国の総意を、真正面から撥ねつければ——それこそ、この島の立場が、危うくなる」
「分かっています。分かった上で、それでも、粘ったのです」
夫人の声に、わずかな、苛立ちがあった。それは、相手にではなく、覆せなかった自分への、ものだった。
「一月、やり合って。譲れる端は、譲らせて。けれど、いちばん譲りたくなかった一点だけは、押し切られました。——外を、入れる。よりにもよって、この時期に」
二人は、しばらく、黙った。
柱時計の振り子が、ことり、ことりと、時を刻む。
「……あれを、抱えてからは」
やがて、轡木が、低く言った。
「出来るだけ閉ざして、守ってきた。地下の存在を知る者を、絞り。世話をする人間すら、限り。横島さんを、その奥に、据えてな。——平時であれば、それで、十分じゃった。誰にも知られず、誰にも手出しさせず、守り続けて、こられた」
「ええ」
「その、閉ざしてきた扉を。今度ばかりは、こちらから、開けねばならん。……皮肉な話よ」
轡木は、茶碗を置いた。
そして、机の引き出しから、小さな桐の箱を取り出す。蓋を開けると、中には、使い込まれた将棋の駒が、整然と並んでいた。
考え事をするとき、この夫婦は、駒を並べる。何十年と続いた、二人の癖だった。
だが、今夜、並べようとしているのは、勝ち負けを競う将棋では、なかった。
ある、一つの局面——迫った祭りの日に、外から、何が、どう攻めてくるか。そして、それを、学園は、受けきれるのか。その想定を、二人で、盤上に、組み立ててみる。轡木が、攻める側を持つ。来るべき脅威の手を読み、容赦なく突く側を。夫人が、受ける側を持つ。学園という陣を、どう守りきるかを、苦慮する側を。
「まずは、外じゃな」
轡木は、攻め方の歩を、一つ、進めた。
「銀の福音の暴走。あの一件以来、連中は、その先を知りたがっておる。暴走した機体は、どこへ消えたのか。搭乗者は、どうなったのか。この学園が、それを抱え込んでいるのではないのか。——藪を、突きに来ておるわけじゃ。祭りという、上品な口実を、ぶら下げてな」
歩が、じり、と、夫人の陣へ、近づく。
「ええ。問題は——どこから、突かれるか、ですわね」
「どこから、ということも、あるまい」
轡木は、攻め方の駒を、また一つ、進めた。
「この学園に、純粋な日本人だけが、おると思うか。教師も、職員も、通信員も——皆、もとを正せば、どこかの国の人間じゃ。建前は、どこにも属さん。じゃが、生まれた国は、消えん。育った土地への義理も、本国に残した家族も、世話になった軍の縁も、消えはせん」
夫人は、黙って、盤を見ている。
「あの夏、海の上で、何が起きたか。それを、間近で見た者が、何人もおる。管制で、通信を捌いた者。現場で、機体を回した者。負傷者を、運んだ者。——その一人一人に、それぞれの、国がある。立場がある。断れぬ、縁がある。本国から、問われれば。世話になった誰かに、頼まれれば。悪気の一つもなく、ほんの一言、漏らすことも、あろう。それが、いくつも重なれば、絵になる。攻め手は、その絵を頼りに、ここまで、踏み込んでくる」
「……責められませんね」
夫人は、ため息をついた。
駒を持つ手が、ふと、止まる。
「あの子たちは、ただ、必死だったでしょうに。千冬さんと共に、あの海で。誰一人、学園を売ろうなどとは、思っていません。それでも——人は、自分の生まれた土地と、無縁では、いられない」
「責められん」
轡木も、静かに、息を吐いた。
「忠義の問題では、ないのじゃ。人が、組織で生きる、ということの。その、ほんの少しの、緩さよ。完全に塞ぐことなど、はなから、できはせん。それを承知で、わしらは、多くの国の子らを、預かってきた」
二人は、しばらく、何も言わなかった。
盤の上で、轡木の攻め駒だけが、じりじりと、夫人の陣へ、迫っている。
「……DDは」
夫人が、ぽつりと言った。
「嘘も、漏れも、ありませんものね」
「そうじゃな」
轡木は、苦く笑った。
「あれは、ただ、来る。腹の内も、生まれた国も、義理もない。——人間ばかりが、こうも、ややこしい。守るべき者の中にこそ、塞ぎようのない隙が、空いておる」
轡木は、攻め方の角を、すっと、開いた。
その筋は、まっすぐ、夫人の玉を、睨んでいた。
「だからこそ、わしが攻め手なら——こう、考える。祭りの日。表に、大きく、暴れてみせる。学園の目を、そちらへ、根こそぎ、引きつける。そうして、手薄になった、いちばん奥を——突く」
「……本来なら」
夫人は、低く、言った。
「こんな局面、迎える前に。盤を、畳むべきでした」
夫人は、受けの駒に、手をかけた。だが、すぐには、打たない。
「閉ざしてしまえば。外を、入れさえしなければ。この攻めは、そもそも、成立しなかった」
「閉ざせば、安全じゃ。門を開け放つよりは、よほどな。盤を、ひっくり返してしまえば、攻め手も、何もできん。じゃが——」
轡木は、攻め方の駒を、もう一つ、進めた。
「閉ざせば、疑われる。何も無いなら、なぜ、閉ざす。やましいことが、あるから、人を入れたくないのではないか。……連中は、そう考える。閉ざすという、その一手そのものが、攻め手にとっては、『この陣の奥に、何かある』という、何よりの答えに、なってしまう…事実として、そうじゃしの」
夫人は、かけていた手を、引いた。
盤を畳む、という受けは——打てない。
それは、二人が、この一月、やり合った末に、突き当たった結論だった。閉ざしたかった。誰よりも、閉ざしたかった。だが、閉ざせば、疑われる。隠していないふりをするために、最も危険なものを抱えたまま、最も無防備な一日を、自らの手で、設えるしか、ない。
「皮肉なものですね」
夫人が、静かに言った。
「学園を守りたい、その一心で、一月も粘って。挙句が、学園を、最も危うくする一日を、こちらから、こしらえる、ですもの」
「だが、受けぬわけには、いかん」
轡木は、攻め方を持ったまま、声の調子を、変えた。
「呑むと、決めた以上はな。お前は、どう、受ける」
問われて、夫人は、盤に、向き直った。
受け方の、顔に、なる。
「まず、表」
夫人は、玉の前に、駒を、厚く、置いた。
「当日の警備は、最高度に。要人警護も、会場の警戒も、いつもの、何倍もの人員を、割きます。正面から来る攻めには——この厚みで、隙を見せません」
「ほう。正面は、固いの」
轡木は、攻め方の角の筋を、つ、と、ずらした。
「では、正面からは、行かん。表で、派手に暴れて、お前の目を、引きつけて——裏へ、回る。正規の手続きで、招いた客の中に、紛れてな。表の駒を、いくら厚くしても、招いた客の顔をした攻め手は、その網を、すり抜ける」
「ええ。表だけでは、そこは、拾いきれません。だから——」
夫人は、玉の、もう一方の脇へ、一枚、駒を、利かせた。
迂回してきた攻め駒の、進路を、断つ位置に。
「その手の、裏から忍び込む類いの相手は。更識家の、お嬢さんに、お願いしてあります」
「楯無くん、か」
「ええ。あの子の、目と、伝手があれば。正規の客に紛れた、不審な気配も、見つけ出せましょう。表の警備網には、決して引っかからない類いの相手をね」
「二つ返事で、引き受けたか」
「『面白そう』と。……まったく、肝の据わった子ですこと」
「ふむ」
轡木は、攻め方の駒を、止めた。
夫人の受けは、通っていた。表を厚く固め、裏は楯無の駒で、迂回路を断つ。
「表は、警備で固める。裏は、楯無くんの目が、見張る。……これも、今日、思いついた手では、ない。あれを抱えてから、ずっと布いてきた守りに——祭りのぶんの、上積みをした。打てる手は、打ってある」
二人は、しばらく、その盤面を、見つめた。
受けの陣形は、できている。攻めが表から来ても、裏から来ても、受け止められる、はずだった。
だが——盤を見つめる夫人の顔は、晴れなかった。
「それでも、ですか」
「ええ。それでも、です」
夫人は、盤の、一点を、見つめていた。
玉の、すぐ後ろ。いちばん、奥。
そこには、本来、置かれているべき駒が——なかった。
「表も、裏も、固めました。けれど、もし。その二段を、すり抜けられたら。いちばん奥の、玉の喉元まで、攻め手が、届いてしまったら。——そこを、受ける駒が、足りません」
「篠ノ之の小娘がおらん。織斑先生は、まだ、動けん。山田くんは、地下の管制と、織斑先生の世話で、手一杯じゃ」
轡木は、攻め方の手を止め、指を、一本ずつ、折るように、数えた。
「本来なら、玉の奥を固めるべき、要の駒が。ことごとく、動けん位置に、ある。あるいは、そもそも、盤上に、おらん」
「篠ノ之博士さえ、いてくだされば」
夫人の声に、苛立ちに近いものが、混じった。
すぐに、自分で、苦笑する。
「……いえ。あの方を、当てにするほうが、どうかしていますね。気まぐれに現れて、気まぐれに消える。そういう方だと、はじめから、分かっているのに」
「分かっておるよ」
轡木も、苦く笑った。
「あの御仁を、守りの勘定に入れた者は、おらん。入れられるものか。——じゃが、な」
轡木は、茶碗を、置いた。
「これだけの、際どい盤面じゃ。当てにしてはならん、と分かっておってなお。……ふらりとでも、現れてくれんものかと。つい、虫のいいことを、思うてしまう」
「ええ。……我ながら、情けない話ですけれど」
夫人は、ため息をついた。
「つかんのじゃろう。連絡が」
「ええ。銀の福音の件で、何か、引っかかることがあるらしいと。横島さんが、それとなく。……肝心なとき、というより。あの方は、もともと、肝心なときに、いる方では、ありませんものね」
二人は、また、黙った。
盤の上。
表は、固い。裏も、見張りがいる。だが、玉の、すぐ後ろ。最奥の、その一点だけが、ぽっかりと、空いている。
「……一つだけ、ある」
やがて、轡木が、言った。
彼の視線は、盤の脇に、ぽつんと、置かれた、一枚の駒に、向いていた。
まだ、どの筋にも、組み込まれていない。持ち駒とも、捨て駒とも、つかぬ。異質な、一枚。
「あの男が、おる」
轡木の声には、迷いが、なかった。
彼は、その一枚を、つまみ上げた。そして、夫人の玉の、すぐ後ろ。あの、空いていた、最奥の一点へ、ことり、と、置いた。
「表を、すり抜けられても。裏を、抜かれても。最後に、この一枚が、玉の前に、立っておる。攻め手が、どれだけ、深く踏み込もうと。この一枚が、おる限りは。地下は、守られる」
「……あなたは、彼を、買いすぎです」
「買うておるさ」
轡木は、穏やかに笑った。
「あれは、買うだけの、値打ちがある男じゃ」
その軽口に、夫人は、笑わなかった。
ただ、盤上の、その一枚を——玉の、すぐ後ろに、たった一つ、置かれた、異質な駒を、見つめていた。
長く連れ添えば、分かる。
夫がこのような物言いをする時、それは、半分、自分に、言い聞かせている。
なぜなら、それは、裏を返せば——いちばん奥の、最後の一点を、あの、たった一枚に、すべて、託している、ということだからだ。
「彼に、もしものことが、あれば」
夫人は、言いかけて、やめた。
「ならんよ」
轡木は、静かに言った。
「あの男は、しぶとい。どこから落としても、起き上がってくる。地獄の底からでも、軽口を叩きながら、這い上がってくる。そういう男じゃ」
それは、屋上から叩き落とされても、血だらけで立ち上がった、あの日のことを言っているようでもあり——もっと別の、もっと重い何かを、言っているようでもあった。
夫人は、それ以上は、問わなかった。
茶は、もう、冷めかけていた。
「……盤は、このままに、しておきましょう」
夫人は、駒を、片づけずに、言った。
玉の後ろに、ただ一枚、置かれた横島の駒。それを、崩さずに。
「続きは、祭りが、無事に終わってから。あの駒が、ちゃんと、役目を果たして。それから、片づけます」
「ああ」
轡木は、頷いた。
「無事に、終わってから、な」
二人とも、その「無事に」という言葉に、どれほどの願いを込めたか——口には、出さなかった。
柱時計の振り子が、変わらぬ速さで、時を刻んでいる。
盤の上では、たった一枚の駒が、玉の後ろで、来るべき攻めを、ただ一人、待ち受けていた。
窓の外では、祭りの準備が、いよいよ、佳境に入っていた。
◇
昼を過ぎると、準備の喧騒は、一段落した。
昼食と休憩のためだ。午前中ずっと動きづめだった生徒たちは、塗料のついた手を洗い、思い思いに散っていく。中庭に残されたのは、組み上がりかけの櫓と、ブルーシートをかけられた資材の山。それから、まだ乾ききらないペンキの、つんとする匂いだけだった。
一夏は、購買で買ったパンを片手に、武道場の裏手へ回った。
人気のない場所だった。
校舎と校舎の隙間。建物の影が、午後の陽射しを、斜めに鋭く切り取っている。日向と日陰の境目が、コンクリートの上に、くっきりとした線を引いていた。その線の、日陰の側に、一夏は腰を下ろす。コンクリートの段差は、まだ昼の熱を残していて、座ると、じんわりと温かかった。
壁の向こうから、剣道の打ち込み稽古の音が、くぐもって聞こえてくる。
竹刀が、面を打つ。
一拍おいて、踏み込みの、床を蹴る音。
また、竹刀が鳴る。
一定の、揺るぎない間隔だった。聞いているだけで、打っている者の集中の深さが、伝わってくる。
一夏は、パンの袋を開けないまま、しばらく、その音を聞いていた。
学園祭は、楽しい。
楽しいはずだった。
級友たちと、飾りつけをして、出し物を考えて、当日を待つ。去年まで、ごく普通の学生だった一夏にとって、それは本来、心の躍る時間のはずだ。
紙の魚を吊るす鈴の、得意げな顔。
塗料を庇って布を被った、シャルロットの、間の抜けた顔。
ハケを狙撃銃みたいに構える、ラウラの、真剣な顔。
どれも、楽しかった。本当に。
なのに、笑い声の輪の中にいると、ときどき、自分だけが、薄いガラスの向こうにいるような気がする。みんなと同じ場所で、同じものを見て、同じように笑っているのに。胸の真ん中だけが、その輪から、半歩、退いている。
それが、後ろめたかった。
みんなが、何も知らずに笑っているのに。
自分だけが、知っているから。
「こんなところに、いたか」
声に、顔を上げる。
篠ノ之箒が、稽古着のまま、立っていた。手ぬぐいを首にかけ、額には、まだ汗が浮いている。打ち込みの音は、彼女のものだったらしい。胴着の胸元が、呼吸に合わせて、わずかに上下していた。
「ちょうど、休憩だ。隣、いいか」
「ああ」
箒は、一夏から少し離れて、同じ段差に腰を下ろした。竹刀を、膝に立てかける。ペットボトルの水を、喉を鳴らして、一口飲んだ。
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
壁の向こうから、別の生徒の打ち込みの音が、続いている。一定の間隔で、竹刀が面を打つ、乾いた音。
「準備、抜けてきたのか」
箒が、前を向いたまま、言った。
「いや。準備の再開前に、ちょっと、一人になりたくて」
「珍しいな。お前が、騒ぎの輪から、自分で外れるとは」
「……そうか?」
「そうだ」
箒は、ペットボトルの蓋を、きゅっと閉めた。
「お前は、放っておけば、いつでも誰かの真ん中にいる。本人は、気づいていないようだがな。集まってくるのだ、お前のところには。人が」
一夏は、苦笑した。
「買いかぶりだよ」
「買いかぶっては、いない」
箒は、まっすぐ前を見ている。日向と日陰の、その境目あたりを。
「だからこそ、分かる。今日のお前は、おかしい。いや、今日も、か」
一夏は、答えなかった。
否定しようとして、できなかった。
箒には、嘘がつけない。子供のころから、ずっと、そうだった。竹刀を交えれば、こちらの迷いも、気の乱れも、すべて、見抜かれてしまう。剣の上で嘘をつけない相手に、言葉で嘘をつけるはずが、なかった。
「実習が、流れたころからだ」
箒は、続けた。
「あの臨海学校が中止になってから、ずっと。お前は、努めて、いつも通りにしていた。笑って、馬鹿を言って、稽古にも出て。傍目には、何も変わらん。——だが、変わった」
一夏は、答えない。
「今朝も、そうだ。飾りつけのとき、織斑先生の話が出た。横島先生の話も。あのとき、お前は——一瞬だけ、手が、止まった。布を留める手が、な。お前は、隠したつもりでいるのだろう。だが、私は、ずっと、見ていた」
「……気づいてたのか」
「気づいていた。お前が、隠そうとしていることも、含めてな」
箒は、まっすぐ前を見たまま、言った。
「お前は、努力家だが、不器用だ。顔に出すまいとすればするほど、剣先に出る。竹刀を合わせれば、すぐに分かる。この、ひと月あまり。お前の打ち込みは、ずっと、どこか、上の空だった」
一夏は、長く、息を吐いた。
それから、ようやく、パンの袋を開けた。けれど、すぐには、食べなかった。
「言えないんだ」
ぽつりと、そう言った。
「言いたくないんじゃない。言えないんだ。これは、俺が、勝手に話していいことじゃない。たくさんの人が、必死で隠してることで……それを守るために、姉さんも、あの先生も、表に出てこないでいる。俺が軽い口で漏らしたら、その人たちの努力が、全部、無駄になる」
「うむ」
「だから、聞かないでくれ、とは言わない。けど、俺からは、言えない。……ごめん」
箒は、しばらく、黙っていた。
それから、ふっと、肩の力を抜くように、息をついた。
「謝るな」
「箒……」
「言えんことの、一つや二つ。誰にでも、ある」
箒は、竹刀を、握り直した。
「私が、知りたいのは。お前が、何を抱えているか、その中身では、ない。お前が、それを、一人で抱えて、潰れかけて、いないか——それだけだ」
一夏は、目を、見開いた。
それから、少し、笑った。
今日、初めて、心から笑えた気がした。
「……潰れてないよ。たぶん」
「たぶん、か」
「うん。たぶん」
「ならば、よし、とは言えんな」
箒は、すっと、立ち上がった。
膝に立てかけていた竹刀を、手に取る。そして、もう一本、稽古着の帯に差していた予備の竹刀を抜いて、一夏へ、放った。
一夏は、慌てて、それを受け取る。
「箒?」
「立て」
箒は、竹刀の先を、一夏へ向けた。
「『たぶん』などという、あやふやな返事をする奴は、信用ならん。本当に潰れていないか、確かめてやる。一本、付き合え」
「えっ、今から?! 服、制服だぞ」
「面も胴も、つけんでいい。寸止めだ。——お前の剣を見れば、お前が、今、どういう状態か、分かる。言葉より、よほど正直だからな、剣は」
一夏は、ため息をついた。
だが、その口元は、わずかに、ゆるんでいた。
「……勝てないって、分かってるんだけどな」
「当たり前だ」
箒は、薄く笑った。
一夏は、立ち上がって、竹刀を構えた。
日陰のコンクリートの上で、二人は、向かい合う。
箒の構えは、ぴたりと、静かだった。竹刀の先が、わずかにも、揺れない。長年、剣に打ち込んできた者の、芯の通った構えだった。
一夏も、構える。
だが、自分でも、分かった。
剣先が、わずかに、泳いでいる。
「——来い」
箒の、短い声。
一夏は、踏み込んだ。
面を、狙う。
だが、その一打は、箒の竹刀に、軽く、いなされた。受け止めるのですらない。流す。一夏の打ち込みの力が、するりと、横へ、逸らされる。体勢を崩しかけた一夏の小手を、箒の竹刀の先が、ぴたり、と、寸前で止めた。
「一本」
「……速い」
「速いのではない。お前が、遅いのだ」
箒は、竹刀を引いて、また構えた。
「迷いが、剣先に出ている。踏み込む前に、心が、半歩、退いている。——もう一本」
一夏は、奥歯を噛んで、また踏み込んだ。
今度は、二の太刀まで、続けた。面、そして、流された勢いのまま、胴。
箒は、その両方を、危なげなく、捌いた。
そして、三たび、一夏の胴の寸前で、竹刀を止める。
「一本」
息が、上がってきた。
汗が、額を伝う。
それでも、一夏は、竹刀を下ろさなかった。何度も、踏み込み、打ち込み、そのたびに、いなされ、止められる。
何本目かの打ち込みのあと。
ふと、一夏の頭に、いつかの姉の言葉が、よぎった。
——分をわきまえない優しさは、優しさとは言わん。ISに乗る限り、ただ甘いだけの優しさはいずれ、お前自身を殺すことになる。
あの時は、ピンと、こなかった。
だが、今は。
痛いほど、ピンとくる。
来るな、と、姉は言った。
来ました、と、自分は、答えた。
「——っ!」
一夏は、これまでで一番、深く、踏み込んだ。
迷いを、振り切るように。
その一打を、箒は、やはり捌いた。だが、今度は、いなしきれなかった。受け止めた竹刀が、わずかに、押される。箒の足が、半歩、下がった。
「……ほう」
箒の目が、わずかに、見開かれた。
二人は、竹刀を合わせたまま、束の間、にらみ合う。
それから、箒は、すっと、力を抜いた。竹刀を、引く。
「そこだ」
「え?」
「今の一打。それが、お前の、本当の力だ」
箒は、竹刀を肩に担いだ。
「迷っていない剣だった。心が、退いていなかった。——なるほど。お前は、潰れては、いないな。むしろ、何かを、決めた顔をしている」
一夏は、肩で息をしながら、自分の竹刀を、見下ろした。
「……決めた、のかな」
「自分で、分からんのか」
「分からない。けど」
一夏は、空を見上げた。
日陰から見上げる九月の空に、トンビが一羽、ゆっくりと、輪を描いている。
「俺さ、あの……流れた実習で、ちょっとだけ、わかったことがあるんだ」
「ほう」
「自分が、どれだけ、無力かってこと」
一夏の声は、自嘲では、なかった。もっと静かな、何かを、確かめるような響きだった。
「守りたい人がいて。その人が、危なくても。俺には、できることが、ほとんどなかった。本当に、ぎりぎりの、ほんの一握りのことしか。あとは全部、誰かに——もっと強い、もっと覚悟のある誰かに、背負ってもらった。俺は、運ばれただけだ。背負われて、連れていかれただけ」
箒は、黙って、聞いている。
「だから、強くなりたい。次は、背負う側に、なれるように」
一夏は、竹刀を、握り直した。
「……なんてな。柄じゃないこと、言った」
「いや」
箒は、首を振った。
その横顔は、いつになく、真剣だった。
「悪くない。お前らしくは、ないが。悪くない」
「どっちだよ」
「両方だ」
箒は、汗を、手ぬぐいで拭った。
「強くなりたいなら、付き合ってやる。今夜も、道場へ来い。準備で鈍った体を、叩き直してやる」
「えー、祭りの前だぞ?」
「祭りの前だからだ。浮ついた体のままでは、いざというとき、動けん」
いざというとき。
箒は、何気なく、言ったのだろう。
だが、その言葉は、一夏の胸に、思いがけず、深く落ちた。
いざというときは、来る。
近いうちに、必ず。
それを、一夏だけが、漠然と——けれど、確かに、予感していた。あの海で一度、味わったものが、もう一度、形を変えて、近づいてきている。そんな、説明のつかない予感が。
「……ああ。行くよ」
一夏は、竹刀を下ろした。
そして、残りのパンを、口に押し込み、ぐっと、伸びをする。
午後の陽射しは、まだ、暖かい。
壁の向こうの打ち込みの音は、いつのまにか、止んでいた。
「行くか。遅れる」
「うむ」
箒は、予備の竹刀を、一夏の手から受け取った。
二人は、並んで、歩き出した。
その背に、祭りの準備の喧騒が、また少しずつ、戻り始めている。
一夏は、歩きながら、もう一度だけ、足元へ、目を落とした。
この、コンクリートの、ずっと下に。
姉が、いる。
立てない脚で、薄暗い部屋に、横たわっている。
待っていろ、と、一夏は、胸の中で、思った。
次は、俺が、背負えるように、なるから。
その思いを、口には、出さなかった。
ただ、握った竹刀の、その柄の感触だけが、いつもより、少しだけ、確かに感じられた。
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かなり作風は違いますが、静かな文芸寄りの話がお好きな方は、よろしければどうぞ。
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