ISクロスGS ザ・グレート・ゲーム  【IS世界に横島忠夫を放り込んでみた】   作:監督

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後編は、明日投稿します


18話(前) 学園祭!

 

 

 

 

 九月の半ばだというのに、空はまだ夏の色を残していた。

 

 抜けるような青の高いところに、薄い雲が刷毛で掃いたように伸びている。陽射しは強い。だが、アスファルトを焼いていた真夏の暴力的な熱は、もうない。風に、わずかに乾いた匂いが混じり始めている。稲の匂いにも、枯れ草の匂いにも似た、夏の終わりの匂いだった。

 

 IS学園は、朝から騒がしかった。

 

 中庭にも、渡り廊下にも、普段は使われない資材が運び込まれている。木材。塗料の缶。丸めた模造紙。脚立。台車に積まれた段ボールの山。それらの間を、制服姿の少女たちが行き交い、声をかけ合い、笑い、ときどき何かを倒しては悲鳴を上げていた。

 

 足場用の単管がぶつかり合う甲高い音。電動ドライバーの唸り。塗料を溶く匂い。誰かが運ぶラジカセから漏れる、調子外れの音楽。そのすべてが入り混じって、学園全体が、一つの大きな生き物のように、浮き足立っている。

 

 学園祭が近い。

 

 二学期に入って最初の、そして数少ない、生徒たちが羽目を外すことを許される行事だった。

 

 ふだんのIS学園は、ただの学校ではない。各国から集められた代表候補生たちの、教育機関であり、研究施設であり、そして対DDの前線基地でもある。生徒たちの自由は、何重もの規則に縛られている。外出は申請制。私物にも制限がある。日々の大半は、訓練と座学に費やされる。

 

 だからこそ、祭りの二日間は、特別だった。

 

 その特別が、もう、すぐそこまで来ている。誰もが、それを肌で感じていた。

 

「一夏さん、そちらではありませんわ」

 

 凜とした声が、喧騒を縫って飛んできた。

 

 セシリア・オルコットが、丸めた紙——どうやら教室の見取り図らしい——を片手に、てきぱきと指示を出している。金髪を朝の光に揺らし、背筋を伸ばした立ち姿は、ただの教室の飾りつけにも、妙な気品を添えていた。

 

「装飾用の什器は、窓際ではなく、後方の壁面に。導線を考えなさいな。お客様が入っていらして、最初に目に入る位置に、一番見せたいものを置く。基本ですわ」

 

「設計図まで引いたのか、これ」

 

 一夏は、抱えた段ボールの上から、その紙を覗き込んだ。教室の見取り図に、几帳面な矢印と、細かい書き込みがびっしりと並んでいる。

 

「当然ですわ。イギリスのチャリティ・バザーでは、会場設計から客の動線まで、すべて事前に図面へ起こしますの。行き当たりばったりで物を並べるなど、はしたない——」

 

「はいはい、出たわよイギリス自慢」

 

 横から、凰鈴音が、脚立を肩に担いで通り過ぎた。

 

「だいたいセシリア、あんた自分はちっとも重いもの持たないじゃない。口と指図ばっかり達者でさ」

 

「適材適所と申しますの。わたくしは、頭脳労働を担当しておりますのよ」

 

「ようするにサボりでしょ、それ」

 

「なんですってぇ?!」

 

「まあまあ、二人とも」

 

 シャルロット・デュノアが、塗料の缶を両手に提げて、慣れた様子で割って入った。喧嘩の仲裁は、もうすっかり手慣れている。

 

「喧嘩する元気があるなら、その分こっち手伝ってよ。ペンキ、まだ三缶あるんだから。乾かす時間も考えると、午前のうちに塗っちゃいたいんだよね」

 

「シャルは本当に働き者だな」

 

 一夏が言うと、シャルは少しはにかんで、塗料の缶を床に下ろした。

 

「働き者っていうか……誰かがやらないと、進まないから」

 

 その隣で、ラウラ・ボーデヴィッヒが、ハケを握ったまま、塗りかけの板を睨んでいた。彼女は、定規でも当てたように真っ直ぐな線を一本引いて、満足そうに頷く。

 

「ふむ。塗装も、要は弾道の制御と同じだ。手元がぶれなければ、線は乱れん。呼吸を止め、対象を見据え、一息に引く。射撃の基本だ」

 

「いや、塗装に弾道は関係ないと思うぞ……」

 

 一夏のつぶやきは、誰にも拾われなかった。

 

 ラウラは、自分の引いた線の出来栄えに、いたく満足しているらしい。次の一本も、やはり眉間に皺を寄せ、息を止めて、真剣な面持ちで引いている。装飾のハケを、まるで狙撃銃のように扱う姿は、傍から見れば、いささか奇妙だった。

 

「全く、騒がしいな」

 

 最後に、聞き慣れた声が、背後から響いた。

 

 篠ノ之箒だった。竹刀こそ持っていないが、立ち姿には、道場の張り詰めた気配がそのまま残っている。手には、几帳面に折り目をつけた紙の束。

 

「役割分担表だ。これに沿って動けば、無駄がない。一夏、お前は力仕事の担当だ。重いものは、すべてお前が運ぶ。文句はないな」

 

「箒も箒でまじめだなあ」

 

「誰かがやらねば、まとまらん。見ろ、この有様だ」

 

 箒は、騒然とした教室を、ぐるりと指し示した。

 

 確かに、一組の教室は、混沌としていた。波を模した青い布を張ろうとする者、その下で配線を這わせる者、看板に色を塗る者——それぞれが、それぞれの判断で動いている。セシリアの指揮系統は、残念ながらあってないようなものだった。

 

 結局、皆、楽しみたい気持ちが前に出ていた。

 

 この半年で、五人の距離も、ずいぶん変わった。出会った頃の、互いを値踏みするような剣呑さは、もうない。喧嘩のようなやり取りの底に、確かな信頼が透けている。一夏には、いまだに女子の機微はよく分からないが、それでも、この騒がしさが、嫌いではなかった。

 

「あっ」

 

 その時だった。

 

 天井近くで作業していた誰かの手が滑ったのか、張りかけていた青い布の一端が、はらりと外れた。

 

 布は、波のようにたわみながら、ゆっくりと落ちてくる。その真下にいたのは、塗料の缶を抱えたシャルロットだった。

 

「シャル!」

 

 一夏は、とっさに段ボールを放り出して、駆け寄った。

 

 布が、シャルロットの頭から、すっぽりと被さる。

 

「わ、わわっ」

 

「大丈夫か?!」

 

 一夏が布をめくると、中から、塗料の缶を必死に守る姿勢のシャルロットが現れた。布は被ったが、缶はこぼれていない。とっさに、自分よりペンキを庇ったらしい。

 

「……ペンキ、無事」

 

 シャルロットが、ほっとしたように言った。

 

 その間の抜けた顔つきに、誰からともなく、笑いが漏れた。

 

「シャル、自分より塗料かよ」

 

「だ、だって、こぼしたら、床も汚れるし、塗り直しになるし……」

 

「もう、相変わらず律儀ねえ」

 

 鈴が、脚立の上から、けらけらと笑う。

 

「布、ちゃんと留めなさいよ! 誰よ、手ぇ滑らせたの!」

 

「す、すみませーん」

 

 申し訳なさそうな声が返ってきた。

 

 一夏は、被さった布を引き取って、丁寧に畳み直した。青い、薄い布。光に透かすと、向こうが淡く透けて見える。

 

「これ、なんの布だ?」

 

「海ですわ」

 

 セシリアが、当然のように言った。

 

「海?」

 

「ええ。窓という窓に、これを張りますの。陽の光が透けて、教室の中が、ちょうど海の底のように染まりますのよ。わたくしの、自信作の演出ですわ」

 

 一夏は、布越しに、窓の外を見た。

 

 九月の、まだ夏の色を残した空が、青い布を通して、いっそう深い青に染まって見えた。

 

「……へえ」

 

 思わず、感心した声が漏れる。

 

「だろう、ですわ」

 

 セシリアが、得意げに胸を反らした。

 

「ねえ、聞いてよ一夏」

 

 布を留め直すのを手伝いながら、鈴が、ふと口を尖らせた。

 

「うちのクラス、結局この『海の家』になったんだけどさ。本当はね、肝試しがやりたかったの。海でやる、本格的なやつ。砂浜で、夜に」

 

「肝試し?」

 

「臨海学校で、やる予定だったんだ。実行委員が、もう計画まで立ててたんだから。なのに——」

 

 鈴は、肩をすくめた。

 

「流れちゃったでしょ、こないだの。臨海学校」

 

 一夏の手が、布の端で、ほんのわずかに、止まった。

 

「……ああ」

 

「だからさ、その分も、ここで取り返すんだって、みんな張り切っちゃって。装飾、かなり気合い入ってるでしょ。よその一年のクラスも、似たようなもんだって」

 

 鈴は、それきり、また別の話題へ移っていった。布の留め方が甘いの、次はどの飾りを吊るすの、と、もう、流れた臨海学校のことなど、すっかり頭の隅に追いやられている。

 

 惜しんでいない。

 

 惜しむより、目の前の祭りの方が、ずっと楽しい。

 

 当然のことだった。

 

 一夏は、何も言わずに、布を留め終えた。それから、放り出した段ボールを拾いに、人混みの中へ戻る。

 

 臨海学校は、中止になった。

 

 一年生の多くにとって、それは「残念だったけれど、仕方のないこと」だ。事故か、天候か、何かのトラブルがあって、実習は途中で打ち切られた——その程度の理解で、誰も深くは追わない。追う理由が、ない。学園からは、それ以上のことは、何も知らされていないのだから。

 

 だが、一夏は、知っている。

 

 あの海で、何があったか。

 

 姉が、どうなったか。

 

 横島という男が、何をしたか。

 

 銀の福音のことも。八咫烏のことも。あの日、海の上に張られた、見えない檻のことも。海面ぎりぎりで止まった、巨大な機体のことも。全部、一夏は、知っている。

 

 知っているのは、一夏だけだ。

 

 級友たちは、流れた臨海学校の「分」を取り返そうと、無邪気に笑っている。海を持ってこようと、紙の魚を吊るし、青い布を張り、はしゃいでいる。

 

 その明るさが、まぶしくて、少しだけ、遠かった。

 

「織斑くん、こっちの脚立、押さえてもらえる?」

 

「ああ、いま行く」

 

 一夏は、声のした方へ向かう。

 

 考えても、仕方がない。今、自分にできるのは、目の前の脚立を押さえることだ。姉のことも、地下のことも、ここで口にできることではない。

 

「そういえば」

 

 ふと、シャルロットが、ハケを止めて、首を傾げた。

 

「織斑先生、最近見ないね。ホームルームも、代わりの先生が入れ替わりだし。クラス対抗戦のときは、あんなにびしばし仕切ってたのに」

 

 一夏の肩が、わずかに、強張った。

 

「出張か、少し体調がお悪いのではなくて?」

 

 セシリアが、振り返りながら言う。

 

「横島先生も、このところ、お姿を見ませんわね。あの方は元々、ふらりといなくなる方ですけれど。最近は、輪をかけて」

 

「あー、確かに」

 

 鈴が、脚立の上で頷いた。

 

「あのセクハラ教師もいないわよね。朝の挨拶代わりのナンパもなくて助かるから、誰かがきっちり締めてくれたんだったら、ありがたいけど」

 

 軽い、雑談だった。

 

 誰も、深い意味を込めてはいない。先生の一人や二人、少々姿を見ない日があっても、この学園では珍しくない。出張も多いし、研究にこもることもある。それだけのことだ。

 

 ただ、一夏だけが、その言葉の重さを、知っていた。

 

 千冬は、地下にいる。

 

 横島も、地下にいる。

 

 二人が、どこで、何をしているのか。なぜ、表に出てこられないのか。その理由を、一夏は、知っている。知っていて、何も、言えない。

 

「……忙しいんじゃないか、二人とも」

 

 ようやく、それだけ返した。

 

 嘘では、ない。

 

 けれど、本当でも、なかった。

 

「だよねえ」

 

 シャルロットは、あっさりと頷いて、またハケを動かし始めた。

 

「先生たちも、祭りの準備、大変なのかもね」

 

 それでよかった。

 

 それでいい。

 

 誰も、あの海のことを知らないままでいい。流れた臨海学校を、ただ「残念だった」と惜しむだけで、その先を、知らないままでいい。

 

 それを守るために、姉も、横島も、表に出てこないでいるのだから。

 

 一夏は、次の段ボールを取りに、人混みの中へ、戻っていく。

 

 午前の中庭は、笑い声で満ちている。

 

 紙の魚が、糸に揺れている。青い布が、窓を染めかけている。脚立の上で、誰かが何かを叫び、別の誰かが、それに笑い返している。

 

 その笑い声の届かない場所が、この学園には、ある。

 

 何層もの隔壁を隔てた、地下の、いちばん静かなところに。

 

 一夏は、ふと、足を止めて、廊下の床へ目を落とした。

 

 その下に、姉がいる。

 

 そう思うと、足の裏が、急に、ひどく遠く感じられた。

 

「一夏ー! 何ぼーっとしてんの! 早くー!」

 

 鈴の声に、一夏は、はっと顔を上げた。

 

「あ、ああ。悪い、いま行く」

 

 段ボールを抱え直して、一夏は、また、明るい喧騒の中へ、駆け戻っていった。

 

     ◇

 

 

 学園長室は、本館の最上階にあった。

 

 中庭の喧騒は、ここまでは届かない。分厚い扉と、二重の窓ガラスが、祭りの準備のざわめきを、遠い潮騒のように薄めている。聞こえるのは、古い柱時計の、規則正しい振り子の音だけだった。

 

 広い執務机の向こうに、轡木夫人——表向き、IS学園の学園長は座っていた。

 

 老いてなお、背筋の伸びた人だった。白髪をきちんと結い上げ、地味だが、仕立ての良い灰青の服を着ている。その佇まいには、長く人の上に立ってきた者の、隙のない気品があった。机の上には、各国の紋章をあしらった書状が、定規で測ったように、几帳面に揃えて積まれている。

 

 その書状の束は、しかし、ただ積まれているのではなかった。一通一通に、付箋が貼られ、余白には、細かな書き込みがある。反論の草案。代替案。条件付き受諾の線引き。——この一月あまり、夫人が、相手とやり合ってきた、その痕跡だった。

 

「結局、ここまで、ですか」

 

 夫人は、いちばん上の書状を、指先で、軽く弾いた。

 

 声に、隠しきれない、疲労が滲んでいた。

 

「二十一カ国会議からの、最終通告です。学園祭の、一般公開。各国視察団の受け入れ。報道各社への、会場開放。——三件、まとめて」

 

 部屋の隅で、轡木が、茶を淹れていた。

 

 学園長室にいてなお、彼は、用務員の上着のままだった。袖口は、わずかにほつれている。湯気の立つ茶碗を二つ、古びた盆に載せて、ゆっくりと運んでくる。

 

「ふむ」

 

 夫人の前に、茶碗を一つ置き、来客用の椅子に、どっかりと腰を下ろす。

 

「ずいぶん、粘ったがの」

 

「粘りました」

 

 夫人は、書状の束へ、目を落とした。

 

「まず、開催そのものを、見送れないかと。この時期の祭りは、生徒の安全に懸念がある、と。——一蹴されました。安定を、内外に示す好機を、なぜ逃すのか、と」

 

 付箋の一枚を、指でなぞる。

 

「ならば、せめて、非公開で。生徒だけの、内輪の催しに、と。——これも。それでは、意味がない、と。連中が見たいのは、祭りそのものではなく、祭りに、外を、入れることですから。開かれた学園を、世界に見せること。学園を『開かせること』。それが、向こうの狙いですからね」

 

「規模は」

 

「絞ろうとしました。視察団の人数。報道の立ち入り範囲。動線の限定。……いくつかは、通しました。報道は、指定区画のみ。視察団も、人数に、上限を設けさせた。譲れる線は、譲らせた、つもりです」

 

 夫人は、茶に、手を伸ばした。

 

「ですが、根本は——外を、入れる。それだけは、どうしても、覆せませんでした」

 

「覆せんよ」

 

 轡木は、茶をすすった。

 

「断る余地のない書き方を、向こうも、してきておる。要請、という体裁を取って、その実、命令じゃ。中立を、建前にしておる学園が、各国の総意を、真正面から撥ねつければ——それこそ、この島の立場が、危うくなる」

 

「分かっています。分かった上で、それでも、粘ったのです」

 

 夫人の声に、わずかな、苛立ちがあった。それは、相手にではなく、覆せなかった自分への、ものだった。

 

「一月、やり合って。譲れる端は、譲らせて。けれど、いちばん譲りたくなかった一点だけは、押し切られました。——外を、入れる。よりにもよって、この時期に」

 

 二人は、しばらく、黙った。

 

 柱時計の振り子が、ことり、ことりと、時を刻む。

 

「……あれを、抱えてからは」

 

 やがて、轡木が、低く言った。

 

「出来るだけ閉ざして、守ってきた。地下の存在を知る者を、絞り。世話をする人間すら、限り。横島さんを、その奥に、据えてな。——平時であれば、それで、十分じゃった。誰にも知られず、誰にも手出しさせず、守り続けて、こられた」

 

「ええ」

 

「その、閉ざしてきた扉を。今度ばかりは、こちらから、開けねばならん。……皮肉な話よ」

 

 轡木は、茶碗を置いた。

 

 そして、机の引き出しから、小さな桐の箱を取り出す。蓋を開けると、中には、使い込まれた将棋の駒が、整然と並んでいた。

 

 考え事をするとき、この夫婦は、駒を並べる。何十年と続いた、二人の癖だった。

 

 だが、今夜、並べようとしているのは、勝ち負けを競う将棋では、なかった。

 

 ある、一つの局面——迫った祭りの日に、外から、何が、どう攻めてくるか。そして、それを、学園は、受けきれるのか。その想定を、二人で、盤上に、組み立ててみる。轡木が、攻める側を持つ。来るべき脅威の手を読み、容赦なく突く側を。夫人が、受ける側を持つ。学園という陣を、どう守りきるかを、苦慮する側を。

 

「まずは、外じゃな」

 

 轡木は、攻め方の歩を、一つ、進めた。

 

「銀の福音の暴走。あの一件以来、連中は、その先を知りたがっておる。暴走した機体は、どこへ消えたのか。搭乗者は、どうなったのか。この学園が、それを抱え込んでいるのではないのか。——藪を、突きに来ておるわけじゃ。祭りという、上品な口実を、ぶら下げてな」

 

 歩が、じり、と、夫人の陣へ、近づく。

 

「ええ。問題は——どこから、突かれるか、ですわね」

 

「どこから、ということも、あるまい」

 

 轡木は、攻め方の駒を、また一つ、進めた。

 

「この学園に、純粋な日本人だけが、おると思うか。教師も、職員も、通信員も——皆、もとを正せば、どこかの国の人間じゃ。建前は、どこにも属さん。じゃが、生まれた国は、消えん。育った土地への義理も、本国に残した家族も、世話になった軍の縁も、消えはせん」

 

 夫人は、黙って、盤を見ている。

 

「あの夏、海の上で、何が起きたか。それを、間近で見た者が、何人もおる。管制で、通信を捌いた者。現場で、機体を回した者。負傷者を、運んだ者。——その一人一人に、それぞれの、国がある。立場がある。断れぬ、縁がある。本国から、問われれば。世話になった誰かに、頼まれれば。悪気の一つもなく、ほんの一言、漏らすことも、あろう。それが、いくつも重なれば、絵になる。攻め手は、その絵を頼りに、ここまで、踏み込んでくる」

 

「……責められませんね」

 

 夫人は、ため息をついた。

 

 駒を持つ手が、ふと、止まる。

 

「あの子たちは、ただ、必死だったでしょうに。千冬さんと共に、あの海で。誰一人、学園を売ろうなどとは、思っていません。それでも——人は、自分の生まれた土地と、無縁では、いられない」

 

「責められん」

 

 轡木も、静かに、息を吐いた。

 

「忠義の問題では、ないのじゃ。人が、組織で生きる、ということの。その、ほんの少しの、緩さよ。完全に塞ぐことなど、はなから、できはせん。それを承知で、わしらは、多くの国の子らを、預かってきた」

 

 二人は、しばらく、何も言わなかった。

 

 盤の上で、轡木の攻め駒だけが、じりじりと、夫人の陣へ、迫っている。

 

「……DDは」

 

 夫人が、ぽつりと言った。

 

「嘘も、漏れも、ありませんものね」

 

「そうじゃな」

 

 轡木は、苦く笑った。

 

「あれは、ただ、来る。腹の内も、生まれた国も、義理もない。——人間ばかりが、こうも、ややこしい。守るべき者の中にこそ、塞ぎようのない隙が、空いておる」

 

 轡木は、攻め方の角を、すっと、開いた。

 

 その筋は、まっすぐ、夫人の玉を、睨んでいた。

 

「だからこそ、わしが攻め手なら——こう、考える。祭りの日。表に、大きく、暴れてみせる。学園の目を、そちらへ、根こそぎ、引きつける。そうして、手薄になった、いちばん奥を——突く」

 

「……本来なら」

 

 夫人は、低く、言った。

 

「こんな局面、迎える前に。盤を、畳むべきでした」

 

 夫人は、受けの駒に、手をかけた。だが、すぐには、打たない。

 

「閉ざしてしまえば。外を、入れさえしなければ。この攻めは、そもそも、成立しなかった」

 

「閉ざせば、安全じゃ。門を開け放つよりは、よほどな。盤を、ひっくり返してしまえば、攻め手も、何もできん。じゃが——」

 

 轡木は、攻め方の駒を、もう一つ、進めた。

 

「閉ざせば、疑われる。何も無いなら、なぜ、閉ざす。やましいことが、あるから、人を入れたくないのではないか。……連中は、そう考える。閉ざすという、その一手そのものが、攻め手にとっては、『この陣の奥に、何かある』という、何よりの答えに、なってしまう…事実として、そうじゃしの」

 

 夫人は、かけていた手を、引いた。

 

 盤を畳む、という受けは——打てない。

 

 それは、二人が、この一月、やり合った末に、突き当たった結論だった。閉ざしたかった。誰よりも、閉ざしたかった。だが、閉ざせば、疑われる。隠していないふりをするために、最も危険なものを抱えたまま、最も無防備な一日を、自らの手で、設えるしか、ない。

 

「皮肉なものですね」

 

 夫人が、静かに言った。

 

「学園を守りたい、その一心で、一月も粘って。挙句が、学園を、最も危うくする一日を、こちらから、こしらえる、ですもの」

 

「だが、受けぬわけには、いかん」

 

 轡木は、攻め方を持ったまま、声の調子を、変えた。

 

「呑むと、決めた以上はな。お前は、どう、受ける」

 

 問われて、夫人は、盤に、向き直った。

 

 受け方の、顔に、なる。

 

「まず、表」

 

 夫人は、玉の前に、駒を、厚く、置いた。

 

「当日の警備は、最高度に。要人警護も、会場の警戒も、いつもの、何倍もの人員を、割きます。正面から来る攻めには——この厚みで、隙を見せません」

 

「ほう。正面は、固いの」

 

 轡木は、攻め方の角の筋を、つ、と、ずらした。

 

「では、正面からは、行かん。表で、派手に暴れて、お前の目を、引きつけて——裏へ、回る。正規の手続きで、招いた客の中に、紛れてな。表の駒を、いくら厚くしても、招いた客の顔をした攻め手は、その網を、すり抜ける」

 

「ええ。表だけでは、そこは、拾いきれません。だから——」

 

 夫人は、玉の、もう一方の脇へ、一枚、駒を、利かせた。

 

 迂回してきた攻め駒の、進路を、断つ位置に。

 

「その手の、裏から忍び込む類いの相手は。更識家の、お嬢さんに、お願いしてあります」

 

「楯無くん、か」

 

「ええ。あの子の、目と、伝手があれば。正規の客に紛れた、不審な気配も、見つけ出せましょう。表の警備網には、決して引っかからない類いの相手をね」

 

「二つ返事で、引き受けたか」

 

「『面白そう』と。……まったく、肝の据わった子ですこと」

 

「ふむ」

 

 轡木は、攻め方の駒を、止めた。

 

 夫人の受けは、通っていた。表を厚く固め、裏は楯無の駒で、迂回路を断つ。

 

「表は、警備で固める。裏は、楯無くんの目が、見張る。……これも、今日、思いついた手では、ない。あれを抱えてから、ずっと布いてきた守りに——祭りのぶんの、上積みをした。打てる手は、打ってある」

 

 二人は、しばらく、その盤面を、見つめた。

 

 受けの陣形は、できている。攻めが表から来ても、裏から来ても、受け止められる、はずだった。

 

 だが——盤を見つめる夫人の顔は、晴れなかった。

 

「それでも、ですか」

 

「ええ。それでも、です」

 

 夫人は、盤の、一点を、見つめていた。

 

 玉の、すぐ後ろ。いちばん、奥。

 

 そこには、本来、置かれているべき駒が——なかった。

 

「表も、裏も、固めました。けれど、もし。その二段を、すり抜けられたら。いちばん奥の、玉の喉元まで、攻め手が、届いてしまったら。——そこを、受ける駒が、足りません」

 

「篠ノ之の小娘がおらん。織斑先生は、まだ、動けん。山田くんは、地下の管制と、織斑先生の世話で、手一杯じゃ」

 

 轡木は、攻め方の手を止め、指を、一本ずつ、折るように、数えた。

 

「本来なら、玉の奥を固めるべき、要の駒が。ことごとく、動けん位置に、ある。あるいは、そもそも、盤上に、おらん」

 

「篠ノ之博士さえ、いてくだされば」

 

 夫人の声に、苛立ちに近いものが、混じった。

 

 すぐに、自分で、苦笑する。

 

「……いえ。あの方を、当てにするほうが、どうかしていますね。気まぐれに現れて、気まぐれに消える。そういう方だと、はじめから、分かっているのに」

 

「分かっておるよ」

 

 轡木も、苦く笑った。

 

「あの御仁を、守りの勘定に入れた者は、おらん。入れられるものか。——じゃが、な」

 

 轡木は、茶碗を、置いた。

 

「これだけの、際どい盤面じゃ。当てにしてはならん、と分かっておってなお。……ふらりとでも、現れてくれんものかと。つい、虫のいいことを、思うてしまう」

 

「ええ。……我ながら、情けない話ですけれど」

 

 夫人は、ため息をついた。

 

「つかんのじゃろう。連絡が」

 

「ええ。銀の福音の件で、何か、引っかかることがあるらしいと。横島さんが、それとなく。……肝心なとき、というより。あの方は、もともと、肝心なときに、いる方では、ありませんものね」

 

 二人は、また、黙った。

 

 盤の上。

 

 表は、固い。裏も、見張りがいる。だが、玉の、すぐ後ろ。最奥の、その一点だけが、ぽっかりと、空いている。

 

「……一つだけ、ある」

 

 やがて、轡木が、言った。

 

 彼の視線は、盤の脇に、ぽつんと、置かれた、一枚の駒に、向いていた。

 

 まだ、どの筋にも、組み込まれていない。持ち駒とも、捨て駒とも、つかぬ。異質な、一枚。

 

「あの男が、おる」

 

 轡木の声には、迷いが、なかった。

 

 彼は、その一枚を、つまみ上げた。そして、夫人の玉の、すぐ後ろ。あの、空いていた、最奥の一点へ、ことり、と、置いた。

 

「表を、すり抜けられても。裏を、抜かれても。最後に、この一枚が、玉の前に、立っておる。攻め手が、どれだけ、深く踏み込もうと。この一枚が、おる限りは。地下は、守られる」

 

「……あなたは、彼を、買いすぎです」

 

「買うておるさ」

 

 轡木は、穏やかに笑った。

 

「あれは、買うだけの、値打ちがある男じゃ」

 

 その軽口に、夫人は、笑わなかった。

 

 ただ、盤上の、その一枚を——玉の、すぐ後ろに、たった一つ、置かれた、異質な駒を、見つめていた。

 

 長く連れ添えば、分かる。

 

 夫がこのような物言いをする時、それは、半分、自分に、言い聞かせている。

 

 なぜなら、それは、裏を返せば——いちばん奥の、最後の一点を、あの、たった一枚に、すべて、託している、ということだからだ。

 

「彼に、もしものことが、あれば」

 

 夫人は、言いかけて、やめた。

 

「ならんよ」

 

 轡木は、静かに言った。

 

「あの男は、しぶとい。どこから落としても、起き上がってくる。地獄の底からでも、軽口を叩きながら、這い上がってくる。そういう男じゃ」

 

 それは、屋上から叩き落とされても、血だらけで立ち上がった、あの日のことを言っているようでもあり——もっと別の、もっと重い何かを、言っているようでもあった。

 

 夫人は、それ以上は、問わなかった。

 

 茶は、もう、冷めかけていた。

 

「……盤は、このままに、しておきましょう」

 

 夫人は、駒を、片づけずに、言った。

 

 玉の後ろに、ただ一枚、置かれた横島の駒。それを、崩さずに。

 

「続きは、祭りが、無事に終わってから。あの駒が、ちゃんと、役目を果たして。それから、片づけます」

 

「ああ」

 

 轡木は、頷いた。

 

「無事に、終わってから、な」

 

 二人とも、その「無事に」という言葉に、どれほどの願いを込めたか——口には、出さなかった。

 

 柱時計の振り子が、変わらぬ速さで、時を刻んでいる。

 

 盤の上では、たった一枚の駒が、玉の後ろで、来るべき攻めを、ただ一人、待ち受けていた。

 

 窓の外では、祭りの準備が、いよいよ、佳境に入っていた。

 

 

 

     ◇

 

 

 

昼を過ぎると、準備の喧騒は、一段落した。

 

昼食と休憩のためだ。午前中ずっと動きづめだった生徒たちは、塗料のついた手を洗い、思い思いに散っていく。中庭に残されたのは、組み上がりかけの櫓と、ブルーシートをかけられた資材の山。それから、まだ乾ききらないペンキの、つんとする匂いだけだった。

 

 一夏は、購買で買ったパンを片手に、武道場の裏手へ回った。

 

 人気のない場所だった。

 

 校舎と校舎の隙間。建物の影が、午後の陽射しを、斜めに鋭く切り取っている。日向と日陰の境目が、コンクリートの上に、くっきりとした線を引いていた。その線の、日陰の側に、一夏は腰を下ろす。コンクリートの段差は、まだ昼の熱を残していて、座ると、じんわりと温かかった。

 

 壁の向こうから、剣道の打ち込み稽古の音が、くぐもって聞こえてくる。

 

 竹刀が、面を打つ。

 

 一拍おいて、踏み込みの、床を蹴る音。

 

 また、竹刀が鳴る。

 

 一定の、揺るぎない間隔だった。聞いているだけで、打っている者の集中の深さが、伝わってくる。

 

 一夏は、パンの袋を開けないまま、しばらく、その音を聞いていた。

 

 学園祭は、楽しい。

 

 楽しいはずだった。

 

 級友たちと、飾りつけをして、出し物を考えて、当日を待つ。去年まで、ごく普通の学生だった一夏にとって、それは本来、心の躍る時間のはずだ。

 

 紙の魚を吊るす鈴の、得意げな顔。

 

 塗料を庇って布を被った、シャルロットの、間の抜けた顔。

 

 ハケを狙撃銃みたいに構える、ラウラの、真剣な顔。

 

 どれも、楽しかった。本当に。

 

 なのに、笑い声の輪の中にいると、ときどき、自分だけが、薄いガラスの向こうにいるような気がする。みんなと同じ場所で、同じものを見て、同じように笑っているのに。胸の真ん中だけが、その輪から、半歩、退いている。

 

 それが、後ろめたかった。

 

 みんなが、何も知らずに笑っているのに。

 

 自分だけが、知っているから。

 

「こんなところに、いたか」

 

 声に、顔を上げる。

 

 篠ノ之箒が、稽古着のまま、立っていた。手ぬぐいを首にかけ、額には、まだ汗が浮いている。打ち込みの音は、彼女のものだったらしい。胴着の胸元が、呼吸に合わせて、わずかに上下していた。

 

「ちょうど、休憩だ。隣、いいか」

 

「ああ」

 

 箒は、一夏から少し離れて、同じ段差に腰を下ろした。竹刀を、膝に立てかける。ペットボトルの水を、喉を鳴らして、一口飲んだ。

 

 しばらく、二人とも、何も言わなかった。

 

 壁の向こうから、別の生徒の打ち込みの音が、続いている。一定の間隔で、竹刀が面を打つ、乾いた音。

 

「準備、抜けてきたのか」

 

 箒が、前を向いたまま、言った。

 

「いや。準備の再開前に、ちょっと、一人になりたくて」

 

「珍しいな。お前が、騒ぎの輪から、自分で外れるとは」

 

「……そうか?」

 

「そうだ」

 

 箒は、ペットボトルの蓋を、きゅっと閉めた。

 

「お前は、放っておけば、いつでも誰かの真ん中にいる。本人は、気づいていないようだがな。集まってくるのだ、お前のところには。人が」

 

 一夏は、苦笑した。

 

「買いかぶりだよ」

 

「買いかぶっては、いない」

 

 箒は、まっすぐ前を見ている。日向と日陰の、その境目あたりを。

 

「だからこそ、分かる。今日のお前は、おかしい。いや、今日も、か」

 

 一夏は、答えなかった。

 

 否定しようとして、できなかった。

 

 箒には、嘘がつけない。子供のころから、ずっと、そうだった。竹刀を交えれば、こちらの迷いも、気の乱れも、すべて、見抜かれてしまう。剣の上で嘘をつけない相手に、言葉で嘘をつけるはずが、なかった。

 

「実習が、流れたころからだ」

 

 箒は、続けた。

 

「あの臨海学校が中止になってから、ずっと。お前は、努めて、いつも通りにしていた。笑って、馬鹿を言って、稽古にも出て。傍目には、何も変わらん。——だが、変わった」

 

 一夏は、答えない。

 

「今朝も、そうだ。飾りつけのとき、織斑先生の話が出た。横島先生の話も。あのとき、お前は——一瞬だけ、手が、止まった。布を留める手が、な。お前は、隠したつもりでいるのだろう。だが、私は、ずっと、見ていた」

 

「……気づいてたのか」

 

「気づいていた。お前が、隠そうとしていることも、含めてな」

 

 箒は、まっすぐ前を見たまま、言った。

 

「お前は、努力家だが、不器用だ。顔に出すまいとすればするほど、剣先に出る。竹刀を合わせれば、すぐに分かる。この、ひと月あまり。お前の打ち込みは、ずっと、どこか、上の空だった」

 

 一夏は、長く、息を吐いた。

 

 それから、ようやく、パンの袋を開けた。けれど、すぐには、食べなかった。

 

「言えないんだ」

 

 ぽつりと、そう言った。

 

「言いたくないんじゃない。言えないんだ。これは、俺が、勝手に話していいことじゃない。たくさんの人が、必死で隠してることで……それを守るために、姉さんも、あの先生も、表に出てこないでいる。俺が軽い口で漏らしたら、その人たちの努力が、全部、無駄になる」

 

「うむ」

 

「だから、聞かないでくれ、とは言わない。けど、俺からは、言えない。……ごめん」

 

 箒は、しばらく、黙っていた。

 

 それから、ふっと、肩の力を抜くように、息をついた。

 

「謝るな」

 

「箒……」

 

「言えんことの、一つや二つ。誰にでも、ある」

 

 箒は、竹刀を、握り直した。

 

「私が、知りたいのは。お前が、何を抱えているか、その中身では、ない。お前が、それを、一人で抱えて、潰れかけて、いないか——それだけだ」

 

 一夏は、目を、見開いた。

 

 それから、少し、笑った。

 

 今日、初めて、心から笑えた気がした。

 

「……潰れてないよ。たぶん」

 

「たぶん、か」

 

「うん。たぶん」

 

「ならば、よし、とは言えんな」

 

 箒は、すっと、立ち上がった。

 

 膝に立てかけていた竹刀を、手に取る。そして、もう一本、稽古着の帯に差していた予備の竹刀を抜いて、一夏へ、放った。

 

 一夏は、慌てて、それを受け取る。

 

「箒?」

 

「立て」

 

 箒は、竹刀の先を、一夏へ向けた。

 

「『たぶん』などという、あやふやな返事をする奴は、信用ならん。本当に潰れていないか、確かめてやる。一本、付き合え」

 

「えっ、今から?! 服、制服だぞ」

 

「面も胴も、つけんでいい。寸止めだ。——お前の剣を見れば、お前が、今、どういう状態か、分かる。言葉より、よほど正直だからな、剣は」

 

 一夏は、ため息をついた。

 

 だが、その口元は、わずかに、ゆるんでいた。

 

「……勝てないって、分かってるんだけどな」

 

「当たり前だ」

 

 箒は、薄く笑った。

 

 一夏は、立ち上がって、竹刀を構えた。

 

 日陰のコンクリートの上で、二人は、向かい合う。

 

 箒の構えは、ぴたりと、静かだった。竹刀の先が、わずかにも、揺れない。長年、剣に打ち込んできた者の、芯の通った構えだった。

 

 一夏も、構える。

 

 だが、自分でも、分かった。

 

 剣先が、わずかに、泳いでいる。

 

「——来い」

 

 箒の、短い声。

 

 一夏は、踏み込んだ。

 

 面を、狙う。

 

 だが、その一打は、箒の竹刀に、軽く、いなされた。受け止めるのですらない。流す。一夏の打ち込みの力が、するりと、横へ、逸らされる。体勢を崩しかけた一夏の小手を、箒の竹刀の先が、ぴたり、と、寸前で止めた。

 

「一本」

 

「……速い」

 

「速いのではない。お前が、遅いのだ」

 

 箒は、竹刀を引いて、また構えた。

 

「迷いが、剣先に出ている。踏み込む前に、心が、半歩、退いている。——もう一本」

 

 一夏は、奥歯を噛んで、また踏み込んだ。

 

 今度は、二の太刀まで、続けた。面、そして、流された勢いのまま、胴。

 

 箒は、その両方を、危なげなく、捌いた。

 

 そして、三たび、一夏の胴の寸前で、竹刀を止める。

 

「一本」

 

 息が、上がってきた。

 

 汗が、額を伝う。

 

 それでも、一夏は、竹刀を下ろさなかった。何度も、踏み込み、打ち込み、そのたびに、いなされ、止められる。

 

 何本目かの打ち込みのあと。

 

 ふと、一夏の頭に、いつかの姉の言葉が、よぎった。

 

 ——分をわきまえない優しさは、優しさとは言わん。ISに乗る限り、ただ甘いだけの優しさはいずれ、お前自身を殺すことになる。

 

 あの時は、ピンと、こなかった。

 

 だが、今は。

 

 痛いほど、ピンとくる。

 

 来るな、と、姉は言った。

 

 来ました、と、自分は、答えた。

 

「——っ!」

 

 一夏は、これまでで一番、深く、踏み込んだ。

 

 迷いを、振り切るように。

 

 その一打を、箒は、やはり捌いた。だが、今度は、いなしきれなかった。受け止めた竹刀が、わずかに、押される。箒の足が、半歩、下がった。

 

「……ほう」

 

 箒の目が、わずかに、見開かれた。

 

 二人は、竹刀を合わせたまま、束の間、にらみ合う。

 

 それから、箒は、すっと、力を抜いた。竹刀を、引く。

 

「そこだ」

 

「え?」

 

「今の一打。それが、お前の、本当の力だ」

 

 箒は、竹刀を肩に担いだ。

 

「迷っていない剣だった。心が、退いていなかった。——なるほど。お前は、潰れては、いないな。むしろ、何かを、決めた顔をしている」

 

 一夏は、肩で息をしながら、自分の竹刀を、見下ろした。

 

「……決めた、のかな」

 

「自分で、分からんのか」

 

「分からない。けど」

 

 一夏は、空を見上げた。

 

 日陰から見上げる九月の空に、トンビが一羽、ゆっくりと、輪を描いている。

 

「俺さ、あの……流れた実習で、ちょっとだけ、わかったことがあるんだ」

 

「ほう」

 

「自分が、どれだけ、無力かってこと」

 

 一夏の声は、自嘲では、なかった。もっと静かな、何かを、確かめるような響きだった。

 

「守りたい人がいて。その人が、危なくても。俺には、できることが、ほとんどなかった。本当に、ぎりぎりの、ほんの一握りのことしか。あとは全部、誰かに——もっと強い、もっと覚悟のある誰かに、背負ってもらった。俺は、運ばれただけだ。背負われて、連れていかれただけ」

 

 箒は、黙って、聞いている。

 

「だから、強くなりたい。次は、背負う側に、なれるように」

 

 一夏は、竹刀を、握り直した。

 

「……なんてな。柄じゃないこと、言った」

 

「いや」

 

 箒は、首を振った。

 

 その横顔は、いつになく、真剣だった。

 

「悪くない。お前らしくは、ないが。悪くない」

 

「どっちだよ」

 

「両方だ」

 

 箒は、汗を、手ぬぐいで拭った。

 

「強くなりたいなら、付き合ってやる。今夜も、道場へ来い。準備で鈍った体を、叩き直してやる」

 

「えー、祭りの前だぞ?」

 

「祭りの前だからだ。浮ついた体のままでは、いざというとき、動けん」

 

 いざというとき。

 

 箒は、何気なく、言ったのだろう。

 

 だが、その言葉は、一夏の胸に、思いがけず、深く落ちた。

 

 いざというときは、来る。

 

 近いうちに、必ず。

 

 それを、一夏だけが、漠然と——けれど、確かに、予感していた。あの海で一度、味わったものが、もう一度、形を変えて、近づいてきている。そんな、説明のつかない予感が。

 

「……ああ。行くよ」

 

 一夏は、竹刀を下ろした。

 

 そして、残りのパンを、口に押し込み、ぐっと、伸びをする。

 

 午後の陽射しは、まだ、暖かい。

 

 壁の向こうの打ち込みの音は、いつのまにか、止んでいた。

 

「行くか。遅れる」

 

「うむ」

 

 箒は、予備の竹刀を、一夏の手から受け取った。

 

 二人は、並んで、歩き出した。

 

 その背に、祭りの準備の喧騒が、また少しずつ、戻り始めている。

 

 一夏は、歩きながら、もう一度だけ、足元へ、目を落とした。

 

 この、コンクリートの、ずっと下に。

 

 姉が、いる。

 

 立てない脚で、薄暗い部屋に、横たわっている。

 

 待っていろ、と、一夏は、胸の中で、思った。

 

 次は、俺が、背負えるように、なるから。

 

 その思いを、口には、出さなかった。

 

 ただ、握った竹刀の、その柄の感触だけが、いつもより、少しだけ、確かに感じられた。

 

 

 

 

     




ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
少しでも「続きが気になる」と思っていただけましたら、お気に入り登録や評価、感想などをいただけると嬉しいです。




余談ですが、別ジャンルで完結済みのウマ娘二次創作も投稿しています。
かなり作風は違いますが、静かな文芸寄りの話がお好きな方は、よろしければどうぞ。
https://syosetu.org/novel/411571/
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